合掌集落の様子

合掌集落の様子

白川郷・五箇山の合掌造り集落(しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく)は、飛越地方[注釈 2]の白川郷と五箇山にある合掌造りの集落群である。1995年(平成7年)12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、日本では6件目の世界遺産となった。
白川郷(岐阜県大野郡白川村)と五箇山(富山県南砺市)は、いずれも飛越地方庄川流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は中流域である。白川郷は荘白川(しょうしらかわ)ともいい、現在は岐阜県大野郡白川村と高山市荘川町に分かれている。五箇山は富山県の旧東礪波郡平村、上平村、利賀村の3村に含まれていたが、現在はいずれも南砺市に属する。
この地域は、白山信仰の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深い。地名としての白川郷は12世紀半ば、五箇山は16世紀にそれぞれ確認できるが、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている。
江戸時代の白川郷は高山藩領と浄土真宗照蓮寺領となり、前者はのちに天領となった。一方の五箇山は加賀藩領となり、塩硝生産が保護されていた。塩硝は火薬の原料となる硝酸カリウムで、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山は流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった。一帯では現在は水田が見られるが、それらのうち少なからぬ部分が戦後に転作されたものであり、もともとの農業の中心は、焼畑によるヒエ、アワ、ソバ、および養蚕のための桑である。ヒエやアワの収穫は自給分が精一杯であったから、その分家内工業の存在が大きくなった。
合掌造りは、そうした家内工業の発展にあわせて、大型化、多層化していったと考えられている[11]。なお、合掌造りが普及する以前の住居形式については、まだはっきりしていない。
合掌造りの発達
「合掌造り」はそれほど古い用語ではなく、1930年(昭和5年)頃にフィールドワークを行なった研究者らによって使われはじめたと推測されている。その定義は一様ではないが、日本政府が世界遺産に推薦した際には、「小屋内を積極的に利用するために、叉首(さす)構造の切妻造り屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけた[13]。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。
日本政府の定義では、屋根の急勾配に触れられていないが、実際のところ、合掌造りの屋根はおよそ45度から60度まで幅があり、初期のものほど傾斜がゆるい傾向にある。この傾斜は、豪雪による雪下ろしの作業軽減や多雨地帯でもあることによる水はけを考慮したものと考えられている。合掌造り家屋の中では、家内工業として和紙漉き、塩硝作り、養蚕が行なわれていたが、このうち明治時代以降も継続され、家屋の大型化にも大きく寄与したのは養蚕業であった。
養蚕は地域によっては住居と別棟を作って行うこともあったが、山間にあった集落では少しでも農地を確保するために、住居の屋根裏を活用する必要があったと考えられている。合掌造りが切妻屋根を採用したのも、入母屋造や寄棟造に比べて屋根裏の容積を大きく取れるからであると指摘されている[17]。また、屋根の勾配を急にしたことは、屋根裏に二層もしくは三層の空間を確保することにつながり、豪雪への対策以外に養蚕業にとっても都合が良いものであった。ことに、気候によって普通ならば他の地域のように年に2回蚕を育てることが難しい白川郷や五箇山では、春の遅れを生活で出る暖気によって補うためにも、屋根裏を有効活用する必要があったのである[18]。屋根裏の床材には竹簀が利用され、煙などが屋根裏に抜けやすいようになっている。
また、白川郷の合掌造り屋根はいずれも妻を南北に向けているが、これは以下の3つの効果を期待してのものとされる。
屋根に満遍なく日が当たるようにし、冬場の融雪と茅葺き屋根の乾燥を促進させるため。
集落は南北に細長い谷にあり、それぞれの方向より強い風が吹くことから、風を受ける面積を少なくするため。
夏場は逆に屋根裏部屋の窓を開放し、南北の風を吹き抜けさせることで夏蚕が暑さにやられないようにするため。
合掌造りの床面積の広さや多層化は、集落の大家族制とも結びついている。かつての白川郷や五箇山では、せまい耕作地が相続によって細分化されることなどを防ぐために、結婚できるのは長男だけだった。その結果として、一つの住居に家長とその嫡流だけでなく、傍系に当たる親族や使用人たちも多数暮らす形となり、力をあわせて農業や家内工業に精を出したのである。ただし、屋根裏のうち上層部はせますぎて居住には適さず、あくまでも養蚕などの産業用に使用される空間であった。
屋根組みには釘を1本も使わず、丈夫な縄で固定する。これは、雪の重さや風の強さに対する柔軟性を生み、家の耐久性を増す工夫とされている。なお、建物そのものに釘を一切使わないわけではなく、床板などの打ち付けには使われている。この釘が和釘(角釘)なのか洋釘(丸釘)なのかは、築造年代を判断する手がかりにもなる。
合掌造りはその保全のために、30年から40年に一度のピッチで大規模な補修や屋根の葺き替えを行う必要がある。これは多くの人手と時間を要する大掛かりなものであり、住民総出で行われた。住民たちは近隣で「組」(くみ)と呼ばれる互助の組織を形成し、その単位を土台として「結」(ゆい)を行う。屋根の葺き替えにおいて重要な「結」は、鎌倉時代にこの地に根付いたとされる浄土真宗の信仰に起源を持つ。屋根は原則として一日のうちに葺き替えを終わらせた。これは降雨を警戒したからとか、春先に行なわれることが多く、農作業との兼ね合いで複数日にわたって村人達の協力を仰ぐことが難しかったからなどと説明される。ただし、加須良集落[注釈 5]などは住民が少なかったため、複数日に分けざるをえなかったという。
なお、小規模な補修は毎年のように行なわれる。これは大雪が降った後に、屋根に積もった雪が滑り落ちるとき、茅が巻き込まれて抜け落ちることがあるためである。そうした小規模な補修を「差茅」(さしがや)と呼ぶ。
明治時代中期に当たる19世紀末頃が最も合掌造り集落が多かった時期と考えられており、一帯にはおよそ1850棟が存在していたとされる。ただし、この時でさえも、当時の日本全体の農家(約550万戸)の0.03パーセントほどを占める例外的存在に過ぎなかった。

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