天領時代-2 三町用水、神明用水

天領時代-2 三町用水、神明用水

高山城下町をつくるとき、国主となった金森長近は南北に長い通りの商人町を3本つくった。長近は城下町全体の都市計画をする中で、商人町は東側から一、二、三番町の順に整備を進め、三番町は最後の方になっている。
上三之町(三番町)の道路幅は430年前の道路幅がそのまま現在に至っていると思われる。今は、側溝が切石積みになっているが、江戸時代の水路は、道路側は厚い板であった。40年くらい前に上二之町の側溝工事の際、コンクリート側溝を掘削すると木製板の水路壁が発見されたことがある。板は水にひたっていると腐らず、ずいぶん前の木製板の水路が残っていた。
上一~上三之町の側溝の水は片野町(対岸は千島町)の五ヶ村用水堰堤で取水して流れてくる。宮川の右岸は神明用水に、左岸は五ヶ村用水として流れてゆく。神明用水は江戸時代の中頃に、「三町用水」として商人たちが商人町に防火用水を引こうと片野町に取水口を設けたのが始まりである。享保8年(1723)、町年寄の矢島氏が発起人となり、名工松田太右衛門が工事の世話人となった。
三町用水は神明用水と呼ばれるようになり、市政記念館の場所で一之町、二之町、三之町へと分配されている。昔、故八野忠次郎さんは、三町用水は①防火、②菜洗い、③消雪溝や水まきの用途であったという。
水の流れは100ⅿで1ⅿ下がる勾配で、高山盆地の地形傾斜がそうなっているので地形に沿った水路である。


資料

②天領時代-2 三町用水、神明用水