史跡-10 吉野朝時代の伝説地岐阜県私立大学地方創生推進事業, 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ史跡-10 吉野朝時代の伝説地 高山市滝町集落の中程に小さな丘があり、その頂上に古い4基の五輪塔(写真)が残っている。ここには昔、遍照寺(へんしょうじ)という寺があり、その寺は滝町に住みついていた和田氏の菩提所であった。五輪塔は和田氏累代の墓と伝わっている。 そばには「大楠公師瀧覚御坊遺跡地」と刻まれた石柱があり、京都・真言宗総本山東寺の管長であった松永昇道(丹生川町町方出身)が書を書いている。そのほか、周辺には和田屋敷、西南に離れて塔洞屋敷跡など、ゆかりの地がある。 和田氏は先祖に和田義盛という武将がいて、鎌倉幕府侍所の重要な別当職にあった。北条義時の謀略にかかって北条氏を襲撃(和田氏の乱)してしまい、敗れて和田氏は滅亡した。和田氏の一族は各地に流れて高山の滝町や朝日町上ヶ見(あげみ)に移り住んだと伝わっている。 和田義盛の孫で、和田氏の乱でも活躍した和田朝盛の四男に朝正という人がいた。幼少の頃、滝町の遍照寺で修行をしている。後に瀧覚坊(ろうかくぼう)と名を変え、京都に上って後宇陀院に仕え、河内国観心寺中院の総務となった。その時に瀧覚坊と少年時代の楠正成(幼少の時は多聞丸といった)との歴史的な出会いがあった。正成は8から15歳まで観心寺中院で学んだ。 瀧覚坊は正成に弘法大師の『心地観経(しんじかんぎょう)』の中にある四恩(しおん)の教えなど四書五経、宋学、国史を教えた。 四恩とは、父母、衆生(しゅじょう・多くの人々)、国王、三宝(仏、教典、僧)のことで、天皇のために一命を捧げて忠誠を尽くした正成の生き方は、この四恩の教えによるといわれている。正成の生き方は、後に、「忠孝」の祖として坂本龍馬ら明治維新の志士たちの拠りどころとなってゆく。 瀧覚坊は高山ではあまり知られていないが、観心寺では非常に重要な高僧として扱われ、墓も楠正成の首塚のそばにつくられている。昭和12年、大阪の「大日本楠公会」冨賀鹿蔵らが、観心寺の瀧覚坊は高山市滝町の出身だと研究成果を発表し、地元滝町の人々に教えてくれた。滝町の人たちは、和田氏の伝承地と瀧覚坊がつながったことに大変驚いた。 〈和田氏の乱〉 和田義盛は鎌倉幕府の創設以来、重要な職にあった。源頼朝の死後、執権となった北条義時の計略にはまって、建保元年(1213)に北条氏打倒の兵を挙げたが、敗死し、以後義時は幕府の中で最高の地位をかためていった。 資料 ④史跡-10 吉野朝時代の伝説地 2023年1月27日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/01/DSC_6194_R.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2023-01-27 13:14:522023-01-27 13:14:52史跡-10 吉野朝時代の伝説地