史跡-8 上木甚兵衛が流された新島(東京都)岐阜県私立大学地方創生推進事業, 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ史跡-8 上木甚兵衛が流された新島(東京都) 〈 甚兵衛流罪の年譜〉 江戸永代橋(通常、帆船で10日)→ 品川沖 → 浦賀(神奈川)→伊豆下田 → 新島 → 前浜に上陸 → 島役人の改め → 7日間の寺入り(長栄寺の下寺東要坊)→ 年寄又右衛門の組下彦三郎組へ預け → 名主青沼元右衛門の隠居所預け → 2間9尺の小屋 当時 新島には360戸、1800人の島民が居住。 甚兵衛流罪(1775) 15年 中風(1790) 8年 死亡(1798) 勘左衛門渡島(1791) 8年 離島(1799) 安永2年(1773) 6月 甚兵衛(60) 江戸へ呼び出され手錠宿預け 安永3年(1774) 2月 甚兵衛(61) 江戸より高山に移され入牢 安永3年(1774)12月27日 甚兵衛(61) 江戸へ護送 安永4年(1775) 3月22日 甚兵衛(62) 新島へ 寛政2年(1790) 4月 甚兵衛(77) 中風で倒れる 寛政2年(1790)12月 勘左衛門(42)江戸へ向かう 寛政3年(1791) 4月 勘左衛門(43)新島で父と再会 寛政10年(1798) 8月19日 甚兵衛(85) 生涯を閉じる 寛政11年(1799) 8月19日 勘左衛門(51)は父の一周忌法要 寛政11年(1799) 9月22日 勘左衛門(51)は新島を離れる 寛政11年(1799)10月20日 勘左衛門(51)江戸に着 寛政11年(1799)11月10日 勘左衛門(51)流人の身分を解かれる 寛政12年(1800) 1月26日 勘左衛門(52)高山に帰り歯骨で葬儀 寛政12年(1800) 3月 8日 勘左衛門(52)荘川一色村に帰る 天保 3年(1832)12月28日 勘左衛門(84)死す 〈 流人船〉 安永4年(1775)(新島送り) 上木屋甚兵衛 宮村・治八 宇津江村・三郎右衛門(船牢で死亡) 〈新島の史跡、記録〉 史跡 ・長栄寺 開祖日英上人は日蓮宗を布教、長栄寺を建立。日英は飛騨国の海老島で亡 くなったと歴祖次第に書かれている。現 海元上人。甚兵衛の位牌がある。 ・甚兵衛の墓 文字は長栄寺日養上人 ・勘左衛門自刻像 石工石松の助けで完成した。 ・治八の墓 宮村往還寺に生まれ、内木家を継ぐ。大工の心得あり。 ・十三神社の門 寛政7年の棟札に治八の名がある。 ・前田長八胸像 ・旧郷土館 ・句碑 ・天佑法印墓 記録 ・新島流人帳 ・『三松山長栄寺歴祖次第』東京都重文 流人の身で 次第に名が載るのは天佑法印と甚兵衛のみ ・長栄寺過去帳 甚兵衛の名がある。 ・深山世婦子鳥 船を待つ間、和歌48首を集めたものに、挿絵を描いた。 「さくらばな つらなる枝も散りぢりに 風はいずこの土と消ゆらん」などがある。 ・『天明水滸伝』 75巻にわたる長編小説 ・「くもの巣にかかりて二度の落葉かな」 甚兵衛 ・「こればかり残る涙や石の露」 勘左衛門 ・他の流人 折敷地村・喜平次、宇津江村・三郎右衛門、中ノ宿村・十右衛門 ・『新島追慕編』『伊豆七島風土細覧』『白川年代記』『飛騨白川記』『白川奇談』『新島和歌だより』 ・「新島見聞記」『飛騨春秋』昭和43年 ・「新島紀行-義民配流の島へ」丹生川町正宗寺原田道一師手記、昭和48年。打江村三郎右衛門の子孫 ・「新島墓参紀行-先人のふところの温み」上木礼子、昭和53年 ・児童向け小説『新島の飛騨んじい』赤座憲久、昭和51年 ・版画集『わたしたちの飛騨んじい』新島小学校卒業記念、昭和52,53年 ・『流人』江馬修 ・『海鳴り』高山市民劇場が平成5年に上演 〈参考文献〉 林格男執筆 荘川村教育委員会編集 『義民甚兵衛と孝子勘左衛門』大野郡荘川村発行 平成7年 資料 ④史跡-8 上木甚兵衛が流された新島(東京都) 2023年1月27日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/01/DSCN2194_R.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2023-01-27 12:44:232023-01-27 12:44:23史跡-8 上木甚兵衛が流された新島(東京都)