城郭-1 三仏寺城 さんぶつじじょう岐阜県私立大学地方創生推進事業, 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ城郭-1 三仏寺城 さんぶつじじょう 〈時代〉平安~戦国時代(12~16世紀)〈県指定〉昭和46年9月14日 〈員数〉城郭全体32,870㎡ 〈所在地〉三福寺町井之上他 〈所有者〉三福寺共有他 管理者・三福寺文化遺産保存会 三福寺集落の背後に位置し、北に向かって延びる城山(標高660メートル)の山頂に築かれた山城で、尾根に設けられた4ヵ所の平地が主要な遺構である。三福(みさき)神社のかなり東方から登る道が大手で、尾根に出てから右に登りつめた奥の平地が本丸跡であろう。平安時代の末に築かれ、飛騨では最も古い城跡である。保延、永治(1135~1142)の頃には●平時輔が飛騨の守としてこの城に在城した。●3代目の景則の頃から飛騨は平家の領国となった。●4代目景家は4人の子息と共に京へ上っていたが、治承五年(1181)、源義仲の軍に攻められ落城し、景家の室●阿紀伊の方と二子で城主景綱の●息女鶴の前は行方知れずとなった。義仲勢は飛騨の良馬を求めたといわれる。 弘安(1278~1288)のころには、地頭の左衛門尉●藤原朝高が、続いて畑六郎左衛門尉●藤原安高が在城したと伝える。 大永元年(1521)には、●三木直頼が在城し、天文16年(1547)、三木家臣●平野右衛門尉が入城したが、その子、安室(やすむろ)のとき鍋山城に転じ、直頼の男●三木直弘が入城した。永禄7年(1564)武田の武将山県三郎兵衛が飛騨へ討ち入り、直弘は城に火をかけ、桜洞の本城へ退いた。以後、三仏寺城は廃城になった。 飛騨守 1平時輔 ― 2時景 ― 3景則 ― 4景家 景高 ― 景綱 *1時輔の代から在城 ― 景経 *3景則の頃飛騨は平家の領国 ― 景俊 *4景家京都に出ているとき、木曽義仲に攻められ落城 三仏寺城の下にある歓喜寺は、金森4代頼直が照蓮寺13世宣明の子治部卿(じぶきょう)のために建てた寺である。裏山に珍しい木地師の集団墓地がある。木地師の集団墓地は、ここと東山の宗猷寺の2ヶ所だけである。 資料 ⑦城郭-1 三仏寺城 2023年1月27日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/01/DSC_7274_R-1.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2023-01-27 14:46:262023-01-27 14:46:26城郭-1 三仏寺城 さんぶつじじょう