城郭-5 鍋山城
城郭-5 鍋山城
<県指定>昭和31年(1956)11月14日 <管理者>鍋山城跡史跡保存会
<員 数>城郭全体26.937ha <時 代>室町時代(16世紀)
鍋山の名称は、その山の形から起こった。城は三つの山にわたって構築され、大鍋山に主郭、小鍋山に二之郭、下鍋山に出郭があった。
<大鍋山>主郭 標高759mで、麓からの比高173m。中央に「奉敬鍋山権現」と刻んだ石碑があり、ここが本丸とされる。東側と北側に石垣が現存する。
<小鍋山>二之郭 標高746m。巨岩のそびえ立つ自然の要塞で、西南隅に石垣が現存する。この区域は、3段構成になっている。史跡指定の申請時には二之丸とされていた。現地の石柱は出丸の表示。
<下鍋山>出郭 標高720m。七夕岩に続く尾根の頂上に縦75m、横20mの長方形の平地がある。史跡指定の申請時には出丸とされていた。
鍋山城の築城については、室町時代の初頃とする説と、戦国時代すなわち天文年間(1532~1555)とする二つの考え方があるが、前の説を裏付ける証拠がないため、天文年間に三仏寺城から移った鍋山豊後守安室が築城したと一般に考えられている。安室は大八賀郷を領有していた小領主の1人で、鍋山へ移ってから山の名をとって、鍋山氏と称した。
ところが、安室が鍋山城を築いた頃、益田で強大になった三木氏が大野郡にも進出していた。畑佐城の山田氏、天神山城の高山外記は三木自綱に滅ぼされ、安室も三木氏に降り、自綱の弟顕綱を保身のために養子に迎えている。後に安室は顕綱に鍋山城を追い出され、鍋山城は三木氏の城になってしまった。
一方三木自綱は、さらに勢力を増して松倉城を築き、八日町(国府町)の合戦で北飛騨の江馬氏を滅ぼした。天正10年(1582)甲斐の武田氏と通謀したとして、鍋山城の顕綱を殺し、自分の次男秀綱を入れて、天正12年(1584)ほぼ飛騨全体を掌握した。
その頃の政局は、本能寺の変を経て、豊臣秀吉が天下を握ろうとしていたが、三木自綱は佐々氏と組んでこれに従わなかったため、秀吉の命を受けた金森氏の攻撃を受け、天正13年(1585)には滅びてしまった。
飛騨を与えられた金森氏は最初、鍋山城を居城とし、城下の建設にも着手したが、広い土地がなく、交通の便も悪くて城下町を営むのに向かないとして、数年で高山城を建設し、鍋山城は廃城になってしまった。
資料
⑦城郭-5 鍋山城