安楽寺
安楽寺
■第十一番岩殿山安楽寺(吉見観音)
■埼玉県比企郡吉見町御所374
■宗派=真言宗智山派
■札所本尊=聖観音
■開山=坂上田村麻呂
■開創年代=大同元年(806)
昔、当地の領主だった吉見兵庫介が北国に移ることになり、行基菩薩から授かった観音像も持っていこうとしたが、石のように動かなくなった。そのため、石櫃(いしびつ)に入れて岩窟のなかに納めた。
時を経て、奥州平定の任についた坂上田村麻呂は、その途中、観音が安置されているところでは必ず参拝し、戦勝を祈願していた。比企から吉見に至る夜のこと、夢に老僧が現れて、「汝、夷賊退治の大義にあづかり、我を念ずることの切なれば、我、軍営を衛り大功を立てしめん」と語った。さらに同じ夜、吉見の里人の夢にも老僧が現れ、「我、当地の岩窟に在って、久しく汝らを守護すれども、深くいばらにふさがり、鳥獣のすみかとなれば、汝ら我かたちを見る者なし。今や開縁の時至れり。このこと東征将軍に披露せよ」と告げた。さっそく、田村麻呂が山に分け入ると、石で閉ざされた岩窟があったので、一心に祈ったところ、扉が開いて聖観音が光明を放ちながら立っていたと伝えられる。
鎌倉時代になると、源頼朝の乳母だった比企禅尼が、当地を住まいとした。頼朝の異母弟範頼は、平治の乱の後、比企禅尼を頼って、安楽寺の稚児僧となった。鎌倉幕府成立後は当地の領主となり、吉見御所と呼ばれたという。範頼は、安楽寺に所領の半分を寄進し、三重塔や大講堂などを建立したが、兄頼朝との争いに敗れ、当寺も戦火のため焼失した。
多くは江戸時代以降の建築だが、本堂や県指定文化財の三重塔など、寺観は整っている。本堂欄間には左甚五郎作と伝えられる野荒らしの虎の彫刻があり、夜になると抜け出して、一帯の田畑を荒らしたという。
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