宮古神社
宮古神社
由来記等によると「昔、宮古島志里満の里の首里大屋子、平良が、首里へ貢納品を納めての帰路、遭難。八年後に帰国することができた。 故国の神に感謝し、波上宮の神を宮古へ勧請して祀った(1590年)。」と記されている。慶長十八年(1611年)の先島検地の折、 薩摩藩の進言により琉球王府は瓦葺の社を造営し「宮古熊野三所大権現」と称した。
大正十四年、平良町では西里一番地に町社・宮古神社を創建。与那覇恵源、仲宗根玄雅を祀ると共に公認の神社を目指していた。 しかし、昭和に入っても長らく認可が下りないまま白蟻や台風の被害を受け、宮古権現堂と共に修繕が望まれるに至る。
昭和十五年、二つの神社を合わせた新・宮古神社 の建立が決定し、奉賛会を組織。同年、すでに神社明細帳に登録されていた権現堂を 「宮古神社」へ改称し、旧宮古神社の豊見親二柱を増祀。昭和十八年、西里五番地に新社殿が竣工し、翌十九年本殿遷座祭を斎行するが、 戦禍に遭い終戦を迎える。やむなく御祭神は張水御嶽に一時遷祀することとなった。
昭和二十四年「宮古神社復興期成会」が組織される。昭和三十一年に目黒盛定政を増祀。本土復帰の昭和四十七年、西里一番地に仮社殿を建立し、 宗教法人格を取得。その後も神社復興が進められ、昭和五十五年に社殿が竣工。同年、遷座祭を斎行した。
平成に入り、宮古神社は社殿の老朽化が顕著であり、また宮古島市誕生といった歴史的節目を迎え、「宮古神社を発祥の地へと移転し、 我が国最南端の神社に相応しい社殿を復興すべし」との気運が高まっていた。平成十八年「宮古神社御造営奉賛会」が組織され、奉賛活動を開始。 平成二十二年六月二十五日、西里五番地の新社殿にて新殿祭・正遷座祭が斎行され、平成の御造営が完遂した。