法界寺
法界寺
【寺 歴】
伝えによると法界寺は現在の南箕輪村久保にある西念寺(文亀元年<1501>飯田 西教寺末寺として開山)が前身であり、江戸時代の寛永16年(1639)に時の飯田城主脇坂淡路守の知行地であった木下村の陣屋に勤めていた家臣達の関わりで、もともとあった御堂「法界堂」と合寺して「法界寺」になったといわれています。(西念寺は合寺の後、一時廃寺となったが天保2年<1831>に再建され、以降、法界寺の末寺となる) 中興察誉上人代の時、文政元年(1818)に浄土宗総本山「知恩院」の直末寺院となったほか、表門、鐘楼の建立・高遠の石工、守屋貞治作「佉羅陀山地蔵菩薩」の石仏建立がされるなどお寺の整備がすすみましたが、安政7年(1860)の火災により本堂、庫裡、庚申堂など境内の建物の多くを焼失してしまいました。その後、近代になった大正9年(1920)になって現在の本堂が建てられました。
本堂は過去の教訓から防火対策として同宗の満光寺(伊那市高遠町)の本堂を範とした土蔵造りになっています。
【法界寺の地蔵尊】
○箕輪町指定有形文化財
○指定年月日 昭和53年 1月23日 文政12年(1829)、高遠の名工、守屋貞治の晩年の作で、石材は、すべて大泉所の ものを用いている。貞治は、信仰心が厚く制作に当たっては常に念仏を唱えながらノミを振るったと言われる。右手をほほにあて、いかにして迷える衆生を救おうと物思いに耽っているかのような地蔵尊の姿に、仏にこめた貞治の心が感じられる。面長で、端正 な顔や流れるように淀みない衣のひだ、など円熟した作者の手わんがうかがわれる。 貞治は生涯に336体の石仏を造ったといわれ、3年後の天保3年に行年67才で没した。尚、祭典は毎年4月23日~24日に行われる。 (箕輪町教育員会資料より)
住 所:〒399-4601 長野県上伊那郡箕輪町大字中箕輪11986