白鳥神社
白鳥神社
白鳥神社(しろとりじんじゃ)は、岐阜県郡上市に鎮座する、地名「白鳥」の由来となった神社である。社格は旧郷社。
社伝によると、仲哀天皇の時代に、この地に1羽の巨大な白鳥が数日間にわたり上空を舞っていた。ある日、森(現在の古木の森)の梢にとまり休んだ後に、1枚の羽根を残して飛び去り、村人がこの白鳥を日本武尊ではないかと考えてこの羽根を祀ったのが起源であるという。また、養老6年(722年)、泰澄が都から美濃国へ入り、白山に帰る途中、現在の郡上市白鳥町中津屋付近で天空を舞っていた白い鳥がにわかに降りてきて神女となり、「これより北50町に霊地あり、必ず伽藍を建つべし」と告げ去っていった。泰澄はこの地を霊地として白鳥寺を建立、その境内に白山頂上に祀る伊弉冉尊を勧請して白鳥社を創祀したのに始まるともいい、時期は不明だが、後に日本武尊と伊弉冉尊が合祀されたものともいう。『美濃国神名記』に載せる郡上郡7社の中の「正六位上 白鳥明神」ではないかとされている[1]。
室町時代の将軍足利義政の時(15世紀中頃)、当神社永久保存のために、当地の地頭遠江佐倉によって字外田の田7段が奉納された[2]。慶長年間(1596 – 1615年)に白鳥寺は廃寺となるが、白鳥社は存続し、嘉永5年(1852年)には越前志比の名匠大久保吉郎右衛門の手により現在の本殿が建立された。言い伝えによれば現在の本殿のすぐ裏に育成していたケヤキの巨木唯一本を用いて作られたとされている。彫刻は、尾張の名人瀬川治助重光の作品である。
明治4年(1871年)郷社に列し、同40年(1907年)には境内社として稲荷神社が創建された。明治40年(1907年)の白鳥大火は白鳥神社まで襲い、拝殿は焼失したが、本殿は白鳥町二日町の人々の必死の努力と、宿泊中の狩り子の活躍によって危うく類焼を免れた。拝殿は越前志比の大工大久保作左右衛門が明治末年に再建したものである。
かつては神木として、樹齢1300年と推測される欅が存在したが、平成10年(1998年)に枯死してしまい伐採。現在は切り株のみあるが後世に伝承するため寄進された浄財で建立された鞘堂に祀られている。