水無神社・臥龍桜
臥龍桜
臥龍桜最古の歴史
1100年もの間、臥龍桜はいろいろな世の中の移り変わりを見てきました。
天正年間(1573年~1592年)には、この地を治めていた、三木國綱三澤が、金森長近との戦いに敗れ大桜の根元に葬られたと伝えられています。
今日も根元に五輪塔が、柵の外右側に三木家の祖霊社が祀られています。
また毎年秋には、飛騨一宮水無神社の神主さんと大幢寺の和尚さん、三木家縁の人たちが30人ほど集まり、「三木祭り」といって祖先を供養しています。
この桜が初めてこの地に根付き、どのようにして育ってきたかを裏付ける資料は残っていませんが、江戸時代(元禄年間1680年)には、全国を行脚した旅の僧「円空」が、この桜を見て詠んだとされる歌が残されています。
※円空さんの歌「一の宮 神の御舟は はるはると 花の盛りも 長くさくらん」
「音に聞く 位の山の 榊はハ 手にとる度に 花かとぞ思ふ」
水無神社
創立鎮座の年代は神代にありと伝わりますが、古伝旧記が散逸して詳しい事は定かではありません。
歴史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)に従五位上の神位を授けられた記事にはじまります。
元慶5年(881年)には従四位上に昇叙され神位も累進し、中世の鎌倉時代以降には神仏習合が進み、神仏一体の両部神道として社僧を置き本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し、水無(みなし)大菩薩を称するようになりました。
文明年間(1469年~1486年)の頃には当社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村の3700余石に達して、後にその各ヶが武士化して一宮党として隆盛となりました。
また、この頃には室町幕府へたびたび神や御巻数の進上があったり、大永元年(1521年)出羽国に住む治部宥範が本願のもと、神主藤原氏部少輔政治は所々を勧進して水無神社を造営上葺し、高原城の江馬時経、三仏寺万春後室の妙泉、一宮少納言、渚南兵衛、久々野田中左衛門太郎の人達が資金を寄進されたり、国土の安穏を祈願されたりなどと朝野の篤い崇敬をうけていた事が伺えます。
天文~弘治年間(1532年~1558年)の頃には、社家の一宮右衛門大輔国綱が松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結び名を三木三沢と称し山下城主として、神職を家臣の森某に譲り武威を誇りましたが、天正13年(1585年)金森長近に滅ぼされ、これに伴い当社も衰徴しました。
高山藩主となった金森長近は在来からの一宮という神威を崇敬され、慶長12年(1607年)当社社殿の造営をはかり、宮、久々野の百姓を禁足して家並に手伝いを命じるなど厳しい規定を設け再興を進め、江戸時代に入り歴代の領主、代官、郡代の崇敬と一般庶民の篤い信仰に支えられました。
安永2年(1773年)飛騨一円をまきこむ農民一揆「大原騒動」が起き、当社が大集会の地となり、神職の山下和泉、森伊勢の両名が騒動に連座したと処罰され、山下、森両家に代わり安永7年(1778年)信州より梶原伊豆守家熊が招かれて、従来の両部神道を唯一神道に改めて阿弥陀堂、鐘堂、仁王門を撤去して社殿の大改修を行い、祝、社人、社司などと称した職名を宮司(大宮司)制に改め、安永8年(1778年)8月13日から15日までの3日間、飛騨国中の神々を招請して太々神楽を執行し神社の面目を一新しました。
これが現在まで続く「飛騨の大祭」の元であると云われています。
明治時代に入り明治元年(1868年)政府の発布した神仏判然令に基づき、神仏分離を進め社内にある仏像や仏教関係の古文書等多くを撤去し、明治4年(1871年)5月14日国幣小社に列格し、明治5年(1872年)6月太政官布告をもって世襲神主である社家を廃し、山崎弓雄を当神社権宮司に、市村成章を祢宜に任じて以降、戦後の神社制度の改正まで歴代官選の宮司が任命され、島崎藤村の父であった島崎正樹が明治7年(1874年)11月13日から明治10年(1877年)12月8日までの3年間ほどを宮司として在職しています。
昭和3年(1928年)9月20日には当神社より古例によって御即位禮用御笏を献上、昭和7年(1932年)11月1日には当神社濁酒(どぶろく)を例祭に使用することが公認されました。
昭和12年(1937年)神衹院の国営工事として前社殿の大造営がはじまり、御内帑金の御下賜があり国費20万円、県費5千円、飛騨三郡市町村負担2万5千円宮村負担3万円が計上され、昭和14年(1939年)に第一期工事が完了して11月18日に正遷座祭が行われました。
昭和20年(1945年)8月15日敗戦により御造営途中で国家管理を離れましたが、戦後の困難を克服し昭和24年(1949年)にほぼ完成にいたりました。
昭和21年(1946年)2月の官制廃止後は、宗教法人の飛驒一宮水無神社(みなしじんじゃ)として神社本庁に所属して現在に及びます。
①神馬
稲喰(いなはみ)の馬という木造の神馬2頭が神馬舎に安置されています。古くから神馬の伝説、「稲喰神馬(いなはみしんめ)」が語り継がれています。
稲喰神馬(黒駒)
作者は不詳、古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
昔々に毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられます。
此の神馬は極めて素朴な作りだが、解体は至難の業と言われる。
祈晴の神馬(白駒)
元は黒駒で作者は飛騨の工匠の武田万匠とされます。明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換えました。その時に腹に武田の銘が入っていたといわれます。
古来祈晴れの神馬として連日の降雨、毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行する古例があります。
明治36年に行われた大祭では、飛騨一円の博労衆が醵金(きょきん)して、再び黒馬に塗りかえ、その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。
これらの神馬は一宮の神馬として牛馬安全の信仰が極めて篤く、神札絵馬等にして授与しています。
神馬にまつわる伝承
「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子をうかがうと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々ありました。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。
「稲喰神馬」
江戸時代の初期、番場ガイドの神田が毎夜田の稲を食べている馬がいる。
その馬が神社の黒馬に似ているので追っていくと走り出し、番場の納屋までいくと姿が消えてしまいました。
そしてそこの一間戸の板戸に浮彫の形で貼り付いてしまいました。これは神馬のいたずらであると考え、眼球をくり抜いたといわれます。
その戸板は拝殿に奉納され、明治初年に拝殿が破却されるまで掲げられていたと言われます。