行事-3 飛騨の塩ぶり市岐阜県私立大学地方創生推進事業, 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ行事-3 飛騨の塩ぶり市 <塩ぶり市> 公設市場で毎年12月24日(土日祭日の関係でずれることもある)に、飛騨の塩ぶり市が行われる。氷見や青森、北海道でとれて塩漬けにされた塩ブリの競り売りが行われ、年末の高山の風物詩になっている。 競りは1㎏あたりの単価で競られる。例えば1万貫は現在の1,000円(1㎏の単価)、 3万貫は3,000円(1㎏の単価)で、10㎏のぶりを3万貫で落札すると3万円の買値になる。ぶりの重さは、塩漬けする前の重さで、骨を含めた3枚セットになっている。 <江戸時代の肴問屋「川上氏」> 富山県の氷見港などでとれたブリは、「佐平鰤」、「かね松鰤」などと網持ち荷主の名で呼ばれ、越中街道を通って飛騨の川上肴問屋に入った。高山の問屋から、改めて出荷するときには「飛騨鰤」という名前に変わり、野麦峠を越えて信州へと旅をしていった。信州の人は、鰤が飛騨で獲れるものと思っている人もいたほどである。 信州から飛騨鰤の買い付けに商人が来ている。直接市場で買うことができないので仲介を通したが、よい鰤が出るまで高山の宿に泊まり、それを松本、高遠へと運送した。宿帳に名前が記録されている。 氷見では米1斗⇒ブリ1匹、信州では米1俵⇒ブリ1匹というほど、遠隔地では高価になり、金持ちでないとなかなか食すことができない高級魚であった。 <越中街道の道筋> 江戸時代の越中街道は富山の太田口から上二之町の川上魚問屋までをいう。延長20里余で、1日8里を歩くとすると、2日半の行程となる。尾張方面と比べて越中へは近い。 里数(高山~富山まで) 東街道 → 20里27町 中街道 → 22里25町 西街道 → 24里23町 <出世魚 氷見のブリ> 「鰤」日本で作られた漢字。中国では「魚師」と書いて「大きな魚」を意味する。 モジャコ (小さいとき) →ツバイソ(体長10㎝程の1才魚)、 →大きくなるにつれてコズクラ(15㎝程) →フクラギ(30㎝程の2才魚) →ガンド (50~60㎝程の3才魚) →コブリ (65㎝以上の4才魚、体重4㎏以上) →オオブリ(体長1m以上、体重10㎏以上) 産卵は3~5月に九州辺りで行なわれ、稚魚(モジャコ)は流れ藻とともに北上する。8月頃ツバイソになり、その後成長を続け、潮の流れに乗ってカムチャッカ半島から台湾までの海を回遊しながら成長し、北の荒海でもまれて成長して、11月から12月にかけて富山湾に入ってくる。ブリは富山湾を回遊し、定置網で漁がされる。 <「年取り」のぶり> 年取りは、飛騨で12月31日に家族水いらずで行う、神聖な行事である。夕方、皆、風呂に入り、仏壇にまいる。そして、御馳走が並んだ食卓につき、今年1年を振り返り、来年の幸を祈るのである。12月31日の日の夜に祝うのは、1日の始まりは夜からという、日本古来の民俗の考えが踏襲されていると思われる。 旅(よそ)の大学や、勤めに行っている子供たちも戻ってきて、親たちにとって誠にうれしい日でもある。 この年取りの食卓には、ブリが乗っていて、これがまたすごくおいしい。11月頃から富山湾に回遊してくる油の乗りきったおいしいブリを、江戸時代から年取りに食べていた。 ブリが買えないときは、煮イカを代用したが、これもまた年取りのときの、おいしい食彩でもあった。正月、元旦は豆、栗、干し柿、スマシ汁の雑煮ぐらいで、大晦日の年取りに力が置かれている。 元旦は、何もしないのが原則で、元旦にやったことは1年続くといい、何か仕事をすると1年忙しい目に合わなければならないという。元旦は、ゾウニを煮るためのカマドの火をつけたり、雨戸を開けたりするのは男の役目であった。儒教の国、韓国でもそういう風習があり、正月3ケ日の行事は、儒教の影響もあろう。仕事初め、事初めは2日からであった。 飛騨以外で12月31日の年取り(歳取りとも書く)行事を行なっているところがまだ残っている。特に魚が取れるところは、残存が顕著と思われる。長野県松本市の年取り魚には、サケ、ブリ、イワシ、サンマ、コイ、マスなど10種類以上があった。 資料 ⑤行事-3 飛騨の塩ぶり市 2023年1月27日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/01/DSCN6304_R.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2023-01-27 13:29:532023-01-27 13:29:53行事-3 飛騨の塩ぶり市