高山の近郊低山と高山の雪 ~ 高山の町並みの雪 ~
高山の近郊低山と高山の雪 ~ 高山の町並みの雪 ~
高山の古い町並みには、道路の両側を流れる側溝がある。江戸時代に宮川上流から引かれている。側溝に雪を詰め込んで雪を解かす消雪溝の役割を果たしてきた。現在も雪が降った朝は早朝から住民が雪かきをする。いっぺんにたくさんの雪を側溝に詰め込むと下流に一気に雪が流れてしまい、下流では押し寄せた雪でダムが出来てしまい、道路に側溝の水があふれだしてしまうことになる。少しずつ、下流の様子に配慮しながら雪を流すのがマナーになっている。
高山の雪は盆地型気候なのでサラサラ雪である。新雪はホーキで掃いて除雪をする。一晩に30㎝余が降って3日続くと1mの積雪となってしまう。1、2月は昼間も寒いので、たくさん降り積もった雪は消えずに圧雪となる。圧雪は最終的には氷の盤となり、住民はツルハシで道路の氷を割らなければならない。
<56豪雪>
高山市で、市民の誰もが自家用車を持つようになったのは、昭和40年(1965)頃からである。昔は雪が多くても、さほど生活に影響はなかった。しかし、車に依存する生活習慣ができると、冬期の交通において雪はどうしても乗り越えなければならない大きな課題となっていった。
昭和55年(1980)12月28日から降り始めた雪は毎日のように20~30㎝降り続け、明治32年(1899)の測候所始まって以来、最高の積雪115㎝を記録し、豪雪になった。岐阜県岐阜市でも21㎝積もっている。1月になってもほとんどの日に雪が降り、一冬の積雪累計は7.19mを超えた。市内の道路は、車がわだちや「グレーチング」の段差場所で落ち込んで大渋滞、屋根の雪降ろしや道路の除雪で大変なことになった。高山の町並みでは、道路を通行止めにして地区民が一斉に雪下ろしをしてまとめて除雪運搬をする事態になった。
道路は官公庁で除雪をしたが、道路脇へ寄せた雪は人力で片付けなければならなかった。屋根から降ろした雪を川へ捨てたり、市民は朝から夜まで「雪またじ(除雪)」に追われた。慣れない作業で、腱鞘炎(けんしょうえん)にかかる人がたくさん出ている。市民憲章推進協議会では、町内会と協力して「雪またじ運動」を展開した。車がなかった時代には、こんな豪雪があってもニュースになっていない。橋の下の残雪は、5月まで残っていた。