高遠城址公園
高遠城址公園
武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信長の長男信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城は、明治4年(1871年)の廃藩置県で、城が取り壊され、明治8年(1875年)に公園となりました。高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植したことにより、今では全国でも有数の桜の名所となりました。本丸の老木はこの時植えられたもので、4月には、130年生以上の古木20本、50年生以上のもの500本などに若木を加えた約1,500本のタカトオコヒガンザクラが、淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。
また、秋にはタカトオコヒガンザクラ独特のほとんど紅葉せずに落葉した公園に、およそ250本のカエデがきれいに色づき紅葉が楽しめます。
公園内には、国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社のほか、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑などの碑文等、古きを偲ぶ歴史的資料がたくさんあります。
春の桜のほかに、夏の新緑、秋の紅葉など年間を通じて多くの観光客がこの城址公園を訪れています。
(伊那市役所 商工観光部 高遠商工観光課Webより引用)
①法幢院曲輪
笹曲輪は本丸の南に隣接する曲輪で、一段低い位置にあります。周囲に笹が多く生育していることから、この名前になったと言われています。
法幢院曲輪は、城内の南の端はしにある曲輪です。戦国時代、ここには「法幢院」というお寺がありました。高遠城の戦いの後も戦死者を弔とむらう法要ほうようが行われました。寺は文禄元年(1592)に城外へ移りましたが(現在の桂泉院)、その後も法幢院曲輪と呼ばれ続けました。
②問屋門(本丸跡)
現在本丸の入口にある門は、元々、城にあった門ではなく、高遠城下の本町の問屋役所にあった門です。昭和20年代、問屋役所の建物を取り壊す際、歴史ある門が高遠から失われることを惜おしんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて城跡に移築したものです。
現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっています。
③太鼓櫓(本丸跡)
明治時代に建てられた櫓で、時を告げる太鼓がおかれました。
江戸時代、時の太鼓は城内の搦手門の中にありましたが、明治に入り搦手門が取り壊されると、太鼓を置くための櫓が城の対岸の白山に建てられました。この太鼓櫓は明治10年(1877)頃に現在の位置に移され、昭和18年(1943)まで朝6時から夕方6時まで偶数時に太鼓が打ち鳴らされ、時を告げました。
④新城神社と藤原神社(本丸跡)
「新城神社」と「藤原神社」の2つの神社が1つの社の中に祀まつられています。新城神社の祭神は仁科五郎盛信で、藤原神社の祭神は高遠藩主内藤家の祖先にあたる藤原鎌足や代々の内藤家当主です。どちらも江戸時代から城内にあった神社ですが、明治12年(1879)に現在の場所にまとめて祀れるようになりました。
⑤高遠閣(二ノ丸跡)
昭和11年(1936)に高遠町出身の有志らの寄付で建てられました。
木造総2階建だて、入母屋造り、2階には200畳敷の大広間があります。昭和初期の大規模和風建築としては稀有建物であるとして、国の登録有形文化財になっています。遠くからもよく見える赤い屋根の建物は、城跡のランドマークとして親しまれています。
⑥伊那市立高遠町歴史博物館
高遠町歴史博物館は高遠湖畔にあり、原始時代から現代に至る高遠城と城下町高遠の歴史、文化、人物、民俗などをテーマごとにスポットをあてた展示構成になっています。
敷地内には、徳川6代将軍家宣の側室に仕えた大奥女中頭の「絵島」が、絵島生島事件で高遠に流刑とされ、61歳で生涯を閉じるまでの27年余を過ごした「絵島囲み屋敷」も復元されています。
また、開花期の高遠城址公園の映像や、展示解説の映像などを鑑賞することができる「桜シアター」も備えています。
⑦高遠石工
江戸時代、信州高遠は石工の里として全国的に知られていました。
石工(いしく)とは石材加工を行う職人のことで、石切(いしきり)とも呼ばれました。
高遠藩領内出身の石工は「高遠石工(たかとおいしく)」と呼ばれ、優れた腕を持っていました。彼らは全国各地に出向き、出張先で石仏や石塔、石橋、鳥居、石垣など様々な石造物を造りました。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。