七里壁と旧勝山三町の景観
七里壁と旧勝山三町の景観
七里壁は大野市の西勝原から永平寺町鳴鹿まで続く河岸段丘で、九頭龍川に沿って七里(28キロ)にわたっている。最も顕著なかたちで出現しているのが勝山町で、近世城下町を描いた絵図には七里壁上部には家臣の下部には町人の家が描かれ境は崖となっている。そのため町屋・町方(勝山三町)と家中・武家地を結ぶ坂が発達し、南から「こんば坂」「神明坂」「大手坂」「お種坂」でつながっていた。当時の石垣は見られないが市街の至る所にその痕跡が残る。七里壁の名称は18世紀中頃の絵図にその名が見られるものの、崖は通常は「岸の下」の名称で示された。
現在は舗装され川はマンホールの蓋でおおわれて見られないが、絵葉書・古写真には町の東西に用水が流れ石組の用水路が通じていたことが窺える。昭和の初め頃までは町屋の家の屋根は三谷区で採掘された角間石で葺かれていた。まさに石の町にふさわしい景観をなしていた。また現在は大清水のみが残るがかつては岸の下(七里壁)の際には清水(しょうず)が至るところに湧き出していた。
三町は郡町・袋田町・後町から成っていた。郡町は村岡山城の麓を郡村と言い城館も建てられていたが城が袋田村に移転したため、多くの人が袋田に移住し出来た町である。袋田町は元の袋田村が発展した町である。後町は寺町とも言われ郡村にあった尊光寺や浄願寺などの寺が移転して出来た。袋田村(後の勝山町)に勝山城が建設されたのは天正8年(1578)で、その後福井藩、松平勝山藩の支配を受け、福井藩預かりの時代を経て元禄4年(1691)に小笠原氏が入部し城下町となった。勝山町は大野・福井・白山麓村々の3地域を結ぶ結節点にあり交通の要の位置を占めた。そのため大野郡北部(北袋)の経済の中心地としての機能も果たした。
昔の勝山町
町絵図
関連資料
七里壁と旧勝山三町の景観解題