平湯温泉
平湯温泉
平湯温泉は、日本列島のほぼ中央、飛騨山脈にある乗鞍岳の北麓、岐阜県と長野県を結ぶ安房トンネルの岐阜県側の玄関口に位置し、関東方面からのアクセスも大変便利になりました。また平湯温泉は奥飛騨温泉郷のひとつで他に福地温泉、新平湯温泉、栃尾温泉、新穂高温泉があります。
近くには飛騨高山、乗鞍岳、上高地などの有名観光地が数多くあります。温泉内には大規模なバスターミナルがあり、周辺には飲食店や土産物屋も。現在では乗鞍や上高地、新穂高、高山などの観光地を結ぶ交通の要所として賑わっています。
平湯温泉は、乗鞍岳のふもと、海抜1,250mにある平湯温泉は、奥飛騨の中でも最も古く、歴史ある温泉とされています。江戸時代末期、飛騨についてに書かれた「飛州志」にも平湯温泉についてまとめた「平湯温泉記」があり
「中世の頃、甲州の武田家臣が攻め入ったとき、士卒が毒霧にやられ動けなくなった。そのとき白い老猿が温泉に入り悪い足を治して跳び去った。これを見た者は競って霊泉に浴し、すっかり元気を取り戻した。この時以来、様々な病を持った多くの人が盛んに訪ねるようになった。云々」と書かれています。北陸の大名も参勤交代の道中で疲れをとり、湯治場として栄えました。また、明治初期に書かれた「斐太後風土記」にも、多くの人が平湯温泉を利用している図などが描かれており、古くから多くの人々に愛された温泉であることが伺えます。
平湯温泉には、平湯温泉発見の由来の「白猿伝説」、「山伏の湯」など色々な伝説や民話が残されております。
平湯の湯
そのむかし、信濃の国で上杉謙信とひどい戦いを続けていた武田信玄は、越中を手に入れようと考え、飛騨を攻め入ることにしました。大将山県昌景は、沢山の軍勢を引き連れて峠越えをしようとしたのですが
頂上を超えるころには皆疲れきっており、その上硫黄岳の毒霧が出て倒れるものが続出しました。やっとのことで平湯あたりにたどり着いた時、老いた白猿が皆の前を
歩いて道端の湯に導いてくれました。そこで皆、我先にと猿が教えてくれた湯に入って疲れを癒し、みるみる内に元気を取り戻しました。この話があちこちに広がり遠くからも平湯を訪れる人が多くなったそうです。
山伏の湯
むかし山伏が平湯に現れて、重々しい呪文を唱え重い病気を治したり、湯をグラグラと煮えたぎらせ村人たちにその湯をふりかけたが、まったく熱くは感じず、大評判となりました。山伏は得意になって、次から次へと自慢話を始めましたがある村人が「村はずれにある、地獄へと続いているといわれるお湯には入れまいて」というと、むっとした山伏は「おれの呪文にかかれば、この村の湯はただの水同然だ」と豪語しました。村人たちが見守る中、山伏が呪文を唱えながらお湯に飛び込むと、次々と湧き出てくる熱い湯に耐え切れなくなり逃げ出そうとしましたが、湯垢で滑って上がる事が出来ず、とうとう茹で蛸のようになって死んでしまいました。その湯をいつしか「山伏の湯」と呼ぶようになったそうです。
平湯大滝
落差64メートル、幅6メートルを誇るその姿は、白水(はくすい)の滝・男女滝(めおとたき)と並び飛騨三大名瀑に数えられ、日本の滝百選にも選ばれた名瀑です。駐車場から滝へと続く遊歩道では、季節ごとの野草や木々のささやきに耳を澄ませてみてください。春の雪解けの季節は、轟音とともに豊かな水が流れ落ち、5月に入るころには鮮やかな新緑が滝を瑞々しく包みこみます。夏には天然のミストを湛えた風がひとときの涼を運び、10月にはカエデやブナ、シラカバが断崖を鮮やかな赤や黄色に染め上げます。冬には零下にもなる静寂の中、豪快に流れ落ちていた水は一転、巨大な「氷の彫刻」へと姿を変え、暗闇に浮かび上がる青白い氷瀑が、幻想的な世界を創り出します。わずか10日間ほど開催される「結氷まつり」では、夜空を彩る打上花火と氷の壁が織りなすコントラストをご覧いただけます。平湯大滝の力強さに触れたあとは、歴史ある名湯にゆっくりと浸かり、心身を癒やしてください。自然が織りなす景色は、訪れるたびに新しい感動があり、どの季節に訪れても、そこには本物の「自然」が待っています。
篠原無然記念館
篠原無然(しのはらむぜん、本名:篠原禄次。1889年(明治22年)3月7日 – 1924年(大正13年)11月14日)[1]は、飛騨地方で活動した教育者である。
兵庫県二方郡西浜村(現 美方郡新温泉町)諸寄(もろよせ)出身。早稲田大学中退。社会教育の先駆者。1914年(大正3年)11月、岐阜県飛騨地方の吉城郡上宝村(現 高山市)にあった上宝村第一小学校(現 高山市立本郷小学校)の代用教員となり、以降飛騨を中心に青年の教育や工女の待遇改善などに尽力。地元の青年たちと乗鞍岳登山道を整備した。乗鞍岳の姫ケ原・土俵ケ原や桔梗ケ原などの命名者としても知られる。雪の安房峠で遭難し、36年の生涯を閉じた。
経歴
1889年(明治22年)兵庫県二方郡西浜村(現 美方郡新温泉町)諸寄に生まれる。父・六一、母・つる。
1903年(明治36年)高等小学校を卒業し神戸の野口貿易商会へ見習社員として入社。
1904年(明治37年)4月、神戸商業学校( 現 兵庫県立神戸商業高等学校)入学。
1907年(明治40年)9月、神戸で後藤新平の知遇を得る。この後、健康を害し神戸商業を中退する。
1909年(明治42年)春、兵庫県美方郡小代村(現 香美町)の小学校へ代用教員として赴任。
1910年(明治43年)11月『青年団の組織と事業』発行。二学期末に学校を辞任。
1911年(明治44年)4月、上京する。早稲田大学文科に入学。
1913年(大正2年)修養団機関雑誌『向上』の編集責任者となる。このころ新井奥邃の知遇を得る。山にこもり修養したいとの思いを募らせる。
1914年(大正3年)冬、上宝村本郷第一小学校(現 高山市立本郷小学校)の代用教員として奉職。
1915年(大正4年)4月、平湯分校へ転任。この後、飛騨地区の青年教育に熱心に取り組む。社会教育家として飛騨の工女たちの教育指導にも取り組む。
1923年(大正12年)3月、指導下にあった工女が入水し死亡。これを無然と結びつける排斥運動が活発化する。9月、関東大震災の救援活動のため上京。いったん平湯に帰った後の12月、大阪府住吉村帝塚山にある芸娼妓専門の難波病院に、大阪府の嘱託として勤務。
1924年(大正13年)10月大阪府を去り上京。その後平湯に帰ろうとして11月14日、雪の安房峠で遭難死。36歳。
資料数:428点



















































































