春祭り屋台
春祭り屋台(4月14、15日)
高山祭屋台
〈国指定〉昭和35年6月9日
〈所有者〉各屋台組 管理団体高山市
〈所在地〉各屋台蔵
〈時代〉江戸時代(18世紀)
〈員数〉23基
日枝神社例祭(4月14・15日、春の高山祭)に12基、桜山八幡宮例祭(10月9・10日、秋の高山祭)に11基の屋台が曳き出される。祭礼行事は、国の無形民俗文化財に指定されている。
春祭の屋台(日枝神社)
神楽台(上一之町)屋台行列の先頭で囃子を奏 す
三番叟(上一之町)三番叟のからくり
麒麟台(上一之町)谷口与(よ)鹿(ろく)の彫刻など、絢爛豪華
石橋台(上二、神明町)美女が獅子に変化するからくり
五台山(上二之町)彫刻、刺繍幕、見送幕などが見事
鳳凰台(上二之町)3色の胴幕。堅牢で技巧的
恵比須台(上三之町)純金鍍金の金具、与鹿の彫刻
龍神台(上三之町)竹(ちく)生(ぶ)島(じま)龍神のからくり
崑崗台(片原町)台名は中国の金の産地にちなむ
琴高台(本町1)鯉づくしの意匠
大国台(上川原町)屋根柱に鴬(うぐいす)張りの工夫をする
青龍台(川原町)天守閣風の屋根、3層の台形
神楽 上一之町上組
沿革 古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木の枠に太鼓をつって2人で担いだものであった。文化年間(1804~1818)、4輪の屋台形にし、嘉永7年(1854)大改修により現台形となった。明治26年(1893)改修。その後数度の改修をする。
嘉永改修 工匠 谷口延儔(のぶとし)
彫刻 谷口与(よ)鹿(ろく)
明治改修 工匠 村山民次郎
塗師 田近宇(う)之(の)助(すけ)
金具 井上芳之助
構造 屋根無 太鼓昇降 4輪外御所車
特色 祭礼に際しては、侍(さむらい)烏(え)帽(ぼ)子(し)、素(す)襖(おう)姿の5人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行する。曲は「場ならし」「高い山」など多数あり、場所により使い分ける。嘉永の改修の時、金具に1坪(3.3㎠)あたり1匁(もんめ)(4g)の純金が使用された。
三番叟 上一之町中組
沿革 宝暦年間(1751~1764)の創建で、台名は「恩(おん)雀(じゃく)」、天明年間(1781~1789)に翁操(あやつ)りを取り入れ「翁(おきな)台」と改名、文化3年(1806)に雛鶴(ひなづる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台名も三番叟となる。天保8年(1837)、現在の台形に改造され、大正7年と昭和41年に大修理を行なう。
天保改造 工匠 牧野屋忠三郎 彦三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 25条の細綱で操るからくりがある。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲「浦島(うらしま)」に和して仕舞を演ずるという構成である。屋台曳行順のくじは、必ず「1番」を引くことになっていて、神楽台に次いで他の屋台に先行する慣例となっている。
麒麟台 上一之町下組
沿革 創建年代未詳。天明4年(1784)の火災に焼失し、再建されたものが文化3年(1806)の記録に「鉄輪(かんなわ)」の名で見える。翌文化4年「よしの静(しずか)」と改名し、文化10年(1813)、以前から組内に金森家から拝領した麒麟の香炉を保管していたことにより、「麒麟台」と改名した。弘化2年(1845)大改修、大正10年改修。昭和46年修理。
弘化改修 工匠 中川吉兵衛
彫刻 下段唐子 谷口与(よ)鹿(ろく)
牡丹 中川吉兵衛
塗師 輪島屋藤兵衛
大正改修 工匠 彫刻 村山群鳳(ぐんぽう)
塗師 田近卯(う)之(の)助(すけ)
構造 切破風屋根 4輪外御所車
特色 台名の示す通り、屋根飾りとして1対の麒麟を載せ、中段、上段の上部の木(き)鼻(ばな)の彫刻も麒麟の意匠となっている。下段の唐子群遊彫刻は谷口与鹿の作で神技といわれ、屋台彫刻中の逸品である。豪華絢爛(けんらん)の屋台である。
石橋台 上二之町上組、下神明町西組
沿革 宝暦創建説と天明創建説がある。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来する。弘化~嘉永年間(1844~1854)に改修。文久3年(1863)大改修し、旧台を古川町に譲った。
文久改修 設計 村山勘四郎
工匠 畠中久造
彫刻 下段獅子 村山勘四郎
中段彫り龍 浅井一之(かずゆき)
牡丹 中川吉兵衛
見送り 朝鮮の段通(だんつう)
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 からくり人形は長唄石(しゃっ)橋(きょう)物(もの)のうち、「英(はなぶさ)執(しゅう)着(ちゃく)獅(じ)子(し)」を取り入れたものである。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千(せん)秋(しゅう)万(ばん)歳(ぜい)と舞い納める構成である。明治25年(1892)に風紀上よくないと中止にされたが、昭和59年に復活された。重厚で調和のとれた屋台である。
五台山 上二之町中組
沿革 創建年代未詳。寛政年間(1789~1801)には「盧(ろ)生(せい)」の台名で操り人形があった。文化年間(1804~1818)に改修。中国名山の「五台山」と名を改めた。天保3年(1832)の火災に焼失の後、天保8年(1837)再建。明治20~23年改修。昭和48年修理。
天保再建 工匠 谷口延恭(のぶやす)
飛獅子彫刻 立(たて)川(かわ)和(わ)四(し)郎(ろう)
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪内御所車
特色 朱塗り格子を透かして、回転する御所車が見える。車は京都御所御用車師中川万吉の作。獅子牡丹の刺(し)繍(しゅう)幕は円山応挙が下絵を描き、下段の飛獅子彫刻は幕末の左甚五郎といわれた諏訪の立川和四郎作。見送り幕の雲龍昇天図は明治の帝室技芸員幸(こう)野(の)楳(ばい)嶺(れい)の原作で、京都西陣で製作に半年を要した綴錦織の大作であり、各所に由緒を誇る屋台である。
鳳凰台 上二之町下組
沿革 創建年代未詳。寛政11年(1799)、大黒天のからくり人形を大国台に譲り、その後文化4年(1807)には「迦(か)陵(りょう)頻(びん)」の名で曳行している。またその当時、「鹿(か)島(しま)」と呼ばれていたこともあるが、文政5年(1822)に「鳳凰台」と改称した。天保元年(1830)から改修を行なったが、天保3年の火災で焼失、天保6~8年に再建された。明治8年(1875)、大正年間に小修理。昭和37~39年に大修理。
天保再建 工匠 原屋喜助
牧野屋忠三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 屋根中央部に赤木白毛の長い鉾(ほこ)を立て、根部に緋(ひ)羅(ら)紗(しゃ)の屋根覆いをまとっている。赤黒黄3色の大幕はオランダ古渡りの珍しい毛織りといわれる。全体に堅牢で、金具も目立たなくして木材の美しさを強調している。狭い道路の通行に備え、上段蛇(じゃ)腹(ばら)形支(し)輪(りん)が伸縮するようになっている。
恵比須台 上三之町上組
沿革 創建年代未詳。明和年間(1764~1772)、越前宰(さい)相(しょう)より大幕等が下付されたことは、高山富裕町人の大名貸を想起させ、当時すでに屋台があったことがわかる。初めは「花(はな)子(こ)」と呼び文化7年(1810)に殺(せっ)生(しょう)石(せき)の操り人形に替えて「殺生石」と改名。祭神に恵比須神を祀ることから「蛭子(えびす)」と呼ばれることもあったが、天保年間(1830~1844)頃から「恵比須台」となった。弘化3年(1846)から3年間かけて大改造。明治18年、昭和43年修理。
弘化改造 工匠 谷口延恭(のぶやす) 谷口与(よ)鹿(ろく)
彫刻 谷口与鹿
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段の龍、中段の獅子、手(て)長(なが)足(あし)長(なが)像の彫刻はいずれも名工谷口与鹿が情熱を傾けた会心の作。金具の鍍(と)金(きん)には14㎏の純金が使用される。見送りは幡(はた)見送りといわれる形式で、西欧の風俗を画材とした綴(つづれ)錦(にしき)織(おり)。鯉の伊(だ)達(て)柱(ばしら)は藤原家孝卿の牛車に使用されたものである。
龍神台 上三之町中組
沿革 創建年代未詳。安永4年(1775)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807)の屋台曳順に「龍神」の台名が見える。またこの頃、竹(ちく)生(ぶ)島(しま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれた。文化12年(1815)に改造し、弘化3年(1846)に修理。明治13年(1880)から3年がかりで再改造し唐破風屋根を現在の切破風に替えた。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻を取りつける。
文化改造 工匠 谷口紹芳
明治改修 工匠 彫刻 谷口宗之
塗師 小谷屋正三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じられる。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現われ、荒々しく怒り舞うという構成である。見送りは試楽祭には望(もち)月(づき)玉(ぎょく)泉(せん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇(くにの)宮(みや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表装されたものを用いる。
崑崗台 片原町
沿革 創建年代未詳。安永3年(1774)の組内古記録があるが、文化4年(1807)には「花(はな)手(て)まり」の名で曳行をしている。その後、「林(りん)和(な)靖(せい)」と改称、中国にある金銀の産地「崑崗(こんこう)」にちなみ、「崑崗台」と改称した。嘉永2年(1849)に大改造。昭和9~11年、昭和41年修理。
嘉永改修 工匠 上野屋宗次
塗師 島田屋小三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 天保年間頃(1830~1844)までは、中国の故事により、林和靖と唐子のからくり人形があった。棟両端の金幣、屋根上の宝珠は「崑崗」が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊を表わしている。見送りは中国産の刺繍、寿老と鹿の図である。
琴高台 本町1丁目
沿革 創建年代未詳。文化4年(1807)に「布袋(ほてい)」の名で曳行した記録がある。文化12年(1815)には飛騨の漢学者赤田臥(が)牛(ぎゅう)が「支(し)那(な)列(れっ)仙(せん)伝(でん)」から「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を引いて現台名に改めた。天保9年(1838)に、組内に居住していた谷口与鹿が中心となり大改造。明治26年(1893)、昭和32年、昭和41年修理。
天保改造 工匠 彫刻 谷口与鹿
金具 伊勢屋治左衛門
塗師 輪島屋儀兵衛
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 鯉魚と波浪を刺繍した大幕を用い、伊(だ)達(て)柱(ばしら)は黒塗地に鯉の滝昇りの大金具を打つ。欄間にも与鹿の鯉魚遊泳の彫刻があるなど、鯉づくしの意匠となっている。本見送りは徳川家16代家達書の琴高仙人の詩、替見送りは垣内雲嶙(かいとううんりん)の琴高仙人図である。
大国台 上川原町
沿革 寛政8年(1796)に創建され、日枝神社の宮寺松樹院にちなみ、「松(しょう)樹(じゅ)台」の名で曳行(えいこう)していた記録がある。寛政11年(1799)、上二之町の現在の鳳凰台組から大黒天像を譲り受けて「大国台」と改称した。弘化4年(1847)に大改修。明治16年(1883)、大正13年、昭和39年に修理。
弘化改修 工匠 石田春(しゅん)皐(こう)
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 構造上に工夫がこらされ、屋根棟と上段の縁(ふち)が違う動きをして、しなう美しさを出している。祭神となっている大国天の人形はもとは腹中から七福神が舞い出るからくり人形であったという。毎年、くじによって決められる屋台曳行順で、この屋台の順位が若ければその年は米価が高く、その反対であれば安いという伝承がある。中段欄間の石田春皐作飛龍、下絵の土(ど)村(むら)英(えい)斎(さい)作獅子の彫刻が引き立っている。
青龍台 川原町
沿革 創建年代未詳。明和3年(1766)に存在した記録がある。文化4年(1807)には、「道(どう)成(じょう)寺(じ)」の名で曳行(えいこう)しており、娘道成寺のからくりを演じたという。文化12年(1815)に改修。天保3年(1832)、火災により焼失し、嘉永4年(1851)に再建した。この頃、台名も「青龍台」と改めた。明治23年(1890)大改修。明治40年、昭和30年修理。
明治改修 工匠 船坂栄蔵ほか
構造 入(いり)母(も)屋(や)造(づくり)屋根 4輪内板車
特色 国主金森氏が、特に日枝神社を崇敬すること篤(あつ)く、この屋台組が神社膝元(ひざもと)の重要地区にあったことなどから、金森氏の代行として宮本(みやもと)と呼ばれて、家紋梅鉢を使用し祭事を主宰する特権を持っていた。これは明治24年(1891)に宮本が輪番制になるまで続いた。台形も3層で、天守閣型の屋根(入母屋造)となっており、他の屋台と趣を異にしている。
高山祭り 春12基、秋11基
高山祭りは、春の山王祭りと秋の八幡祭りを言う。春祭りは、高山市城山に鎮座する日枝神社の例祭で、安川通りを境にして南側が祭礼の区域、現在屋台は12基ある。また、秋祭りは、高山市桜町に鎮座する桜山八幡宮の例祭で、安川通りを境にして北側が祭礼の区域、屋台は11基ある。
屋台の古記録をみると、「享保元年(1716)、山王祭り(春)と八幡祭り(秋)に、代官所の前で行列を披露し」とあり、また、享保3年の記録には「高山八幡祭礼行列」というのがある。その後、江戸では享保6年に屋台が厳しい倹約令によって禁止され、なくなってしまったが、高山では残り続けた。
屋台を飾る織物は、江戸時代、京都から購入しているため、屋台の祖形は京都方面から伝わったと考えられていた。しかし、屋台の屋根高さが伸び縮みする構造、江戸文化を直接移入している状況、屋台を曳き出すときに「ヤタイ、ヤタイ」と言わずに、江戸ことばで「ヤティ、ヤティ」と言う状況などから、江戸形を祖形としていると考えられている。この、屋根が伸縮する機構は、江戸城の城門をくぐるときに使われた江戸形の屋台古形式を受け入れているもので、名古屋形や他地区のダシには類例が見られない。
江戸時代の屋台は華麗になり、その重量も増えていった。乱暴には扱えなくなり、戻し車という第5番目の車輪が考案されている。通常、一つの屋台には四つの車があるが、曲り角にさしかかると、90度向きの違うこの戻し車を下へ降ろして重い屋台を浮かせ、3輪になって回転する。これは全国に類例がない回転構造であろう。
全体構造は、上、中、下段の3段からなり、上段は中段の下底まで4本柱が下がり、シャチ巻という巻き上げ装置で、屋根と4本柱からなる上段を引っ張り上げる。構造体は全体的にしなやかで、曳行のときにユラユラとしなやかに小さく揺れて振動を吸収する。
各屋台組には、それぞれ屋台について非常に熱心な人が何人かいる。屋台組というのは、区域が決まっていて、その組内に入れば屋台組の権利が得られるが、いったん組の外へ出ると、どんな功労者でも屋台に乗ったり、曳いたりする権利を失うところになる。
熱心な人
各屋台組には、それぞれ屋台について非常に熱心な人が何人かいる。屋台が第一の人たちで、祭りの時に、ほかの組の屋台に少しでもケチをつけたり、差し出がましいことを言ったりすると、こうした屋台好き同士でけんかとなってしまう。屋台組というのは、区域が決まっていて、その組内に入れば屋台組の権利が得られるが、いったん組の外へ出ると、どんな功労者でも屋台に乗ったり、曳いたりする権利を失うころになる。屋台組では、自分の組の屋台が一番いいと自慢しあい、「オゾクタイ(立派でない、だめな意)屋台」と笑われることが何よりも腹立たしいことである。
高山祭の文献上の初見は元禄5年(1692)、40年前の山王祭について記している。
屋台絵巻
屋台は、享保3年(1718)に曳かれた記録があり、300年以上前から屋台が既にあったことが知られる。当初の形は赤坂山王、神田明神祭を模したもので文献に姿の記載がないため形態はわからない(第Ⅰ期)。
その後、文化年間の形態がわかる古い絵巻が存在する。それは春祭の絵巻で、文化八・九年頃の年代が与えられ、彫刻が取り付けられる前の高山祭屋台形態(第Ⅱ期)がよくわかる。
第Ⅱ期の後、屋台は第Ⅲ期形態への大改造期に入り、諏訪の立川和四郎による五台山の彫刻に刺激され、谷口一門の彫刻作品が取り付けられることになる。この時期、各戸に分解し、格納されていた屋台は、屋台藏が建造されて、重厚な懸装品を損傷することなく納められるようになった。第Ⅲ期の改造は、彫刻の取り付けが中心になって、屋台修理・改造の隆盛期となっている。工種をみると、工匠・彫刻・塗師・箔師・金具・御所車・人形・大幕・天幕・図画など、だいたい現在の屋台修理職人の職種分類と比べてだいたい同じである。
文化・文政・天保・弘化にかけての大改造期を終えた後は、第Ⅳ期、明治・大正期の大修理時期を迎える。多少の改造を加えて漆塗・箔・金具を中心とした修理を進めた。
修理面での分類は、第Ⅰ期・初期、第Ⅱ期・能の人形を中心とした時期、第Ⅲ期・彫刻採用、大改造期、第Ⅳ期・明治の修理、改造期に分けられる。このような修理の経緯を見ると、それぞれの工種分業、各職種の頂点技術を駆使し、またそれが絶妙にバランスよく総合されて、優れた工芸品として完成された。
「御巡幸」
近年、高山祭を見る人たちは豪華な屋台の方に目を向け、祭りの本来の目的や神事の式次第にはあまり注目していないようである。「御巡幸」は神様が一泊二日の旅に出る神事で、行列中程の神様が乗られる「神輿」が行列の中心であるにもかかわらず、神輿を拝する姿を見かけなくなった。伝統的な町家に御簾を掛け、貴い神様を直接見ないという風習も、その意味が外部の人たちには理解されていない。豪華な屋台各部や、荘厳な行列など、見所が極めて多く、しかも神事は複雑なので、あまり深く考えずに祭りを楽しもうという雰囲気が地元にも、観光客にもある。高山祭には長きにわたって積み重ねられた構成要素がたくさん含まれていて、全容を理解するのは並大抵のことではない。
高山祭の御巡幸はいつから始まったのであろうか。神輿を高山城内に担ぎ込んだのは四百年前の金森氏三代の時代、神輿と神楽が中心であった。その百年程後には屋台が出来て、神輿の行列に参加するようになった。この神輿行列と屋台という二つの要素は、発生した母体が違い、そこのところを良く知らないと高山祭が理解できない。神輿組十一組と屋台組十六組という二つのまとまりが御巡幸の中にあった。
高山には「家押し(やおし)」という制度がある。これは家の並び順に役を廻してゆくもので、役が廻ってきた時は嫌々担当をするが、一年もすると伝統の重みと責任を強く感ずるようになり、うるさ型の地域リーダーに育ってゆく。協力的に変化し、地域コミュニテイをしっかりと支える人が毎年増えてゆくことになる。春の高山祭には「宮本」制度があって、明治二十三年までは青竜台と神楽台が宮本を務めていたが、翌年から順送りになっている。御巡幸と屋台の曳行、祭礼関連必要設備の準備など、順送りに役を担当してゆき、全員が難しい高山祭の祭事取り仕切りを理解してゆくのである。これも、担い手育成、良き協力者の輩出のために先人が熟慮した結果てある。
江戸時代、代官、郡代所には「祭り奉行」が置かれ、宮本はいちいち奉行に伺い、祭事を執行してきた。今も、宮本は一年も前から市役所、警察署、電力会社、道路管理者などに協議を開始し、それは江戸時代とほとんど同じだといえよう。宮本を担当している年の組は、商売もそっちのけで祭礼の対応をしなければならない。
このように複雑で手間暇のかかる高山祭りの仕組みを、継承する住民は、大変なことと思いながらも地域の義務として受け入れている。今後も、高山祭りは伝統と自主的規定を守る住民の心に支えられ、商人町の町並み保存や城下町高山の活性化などに好影響をもたらしながら発達して行くことであろう。祭礼に関わる人々は、祖先の祭礼に対する想いと足跡を、心地よい束縛と感じている。温かい目で見守ってほしい。
ちなみに、秋祭りは総指揮をするのが「年行事」の制度になる。
参考文献
『高山の文化財』、田中彰講演資料
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