田中大秀翁
田中大秀翁
田中大秀翁は、安永6年(1777)8月、高山一之町の薬種商に生まれた。現在、下一之町鍋島茶舗になっている場所である。
幼少より学問に長じ、25歳の時、伊勢松阪の本居宣長に入門し国学を研究した。国学とは、江戸中期に興った復古主義的文学運動で、我国の民族精神の根元である古道を「古典」の中に追求しようとしたものである。大秀翁はたくさんの研究書を著し、当時の国学者番付では、最高位に位置付けられるほどの評価を得ている。代表著書は『竹取翁物語解』で、現在でもレベルの高い注釈書として学会に通用している。当時、大秀翁を慕って全国各地から入門者があり、多くの門弟を育てて郷土の教育文化に大きく貢献をした。
大秀翁の著述本や、手択本、古今珍籍名著本など1,516冊は、「荏野文庫」として岐阜県の文化財に指定されている。
リーフレットより
田中大秀の住居(生家)
<香木園跡>
叢桂園(そうけいえん)扁額は、2面とも江戸中期の著名な南画家池大雅の書。楷書額41.1×197.0㎝、行書額42.9×130.0㎝。
叢桂園はかつて高山下一之町田中家の家名とされた。伴蒿蹊宛書状のなかで大秀翁は次のように述べている。
いまカツラといえば楓(オカツラ)のことで、桂(メカツラ)ではない。タブ(クスノキ科)は寒国には育たないので、薮肉桂同類の俗称キョウの木を庭に植えたい。キョウは桂の訛(なまり)か、又は楿(国字)の音読か。古事記に湯津香木(ゆつかつら)とある。「叢桂園」をユツカツラゾノと読むか、「香木園」と書いてカツラゾノと読むことにしたい。
樹皮を乾燥させた肉桂(ニッキ)は健胃剤に、肉桂油は香料や医薬用に使用される。生薬屋にふさわしい家名と言えようか。
薬種商田中家は、高山でも有数の資産家であった。座敷も立派であったに違いない。寛政元年(1789)には巡見使比留間助左衛門、文政11年(1828)には代検見勘定方武島菅右衛門の宿所を引き受けている。
香木園跡は現在鍋島茶舗になっている。
<八幡宮桜山庭碑>
高山桜山八幡宮の社務所前にいまもささやかな庭園を眺めることができ、池畔に西面して小さな石碑が立っている。翁の父博道が当神社の神官として在職中、境内に造庭したその由来を大秀が記したもの。碑面高さ91.2㎝。
桜山は大町(下一之町)の田中家に程近く、鎮守の森でもあった。庭造りが趣味であった大秀翁実父博道は、八幡社境内に庭が欲しいと考え、しばしばここを訪れては独り酒を酌みながら、あれこれと工事を指図した。急ぐことでもなかったので、10余年をかけて享和2年(1802)秋ようやく小園が完成した。
翌3年夏杖を曳いてここに遊んだ父翁は、上機嫌で供の家僕に「手入れを怠らず、冬に備えよ」と命じた。その日を最後に翌日から父翁は病の床に伏し、6月18日、ついに帰らぬ人となった。71歳であった。大秀翁は時に27歳。
リーフレットより
田中大秀の住居
錦山神社の前を通って旧街道を進むと、やがて荏名(えな)神社がある。飛騨を代表する国学者・田中大秀が再興したといわれるこの地は、また大秀の住居でもあった。
大秀の功績はその代表的労作としての『竹取翁物語解』をはじめ『蜻蛉日記紀行解』、『土佐日記解』など多くの古典の注解を果たし、特に竹取は、今日でもその研究の基本となっていて高く評価されている。一方、富田礼彦(いやひこ)、山崎弘泰など多くの門弟を育て、維新前後の飛騨の文化的・精神的中心人物を生み出した。
『広辞苑』の中で、飛騨出身の人名を拾って目にとまるのは、この大秀と金森宗和の二人しかない。そのことをもって大秀の業績をはかるわけではないが、飛騨の歴史の中で全国に通用する第一級の文化人であったことは間違いない。
大秀は、本居宣長(もとおりのりなが)が死ぬ半年前に入門し、宣長の死後は、養子の本居大平(おおひら)について学んだ。紀文から大秀と改名したのもこの年で、盲目の長子・本居春庭(はるにわ)と二派に分かれた鈴門の中で、大平を師と選んだことになり、大平への傾斜の過程がうかがえる。松阪市の本居宣長記念館の加藤清太郎さんが「宣長に五百人以上の門弟があっても、その多くは和歌が上手になりたくて入った人で、国学をやろうとした弟子はきわめて少なかった」と語られるが、大秀は、そのきわめて少ない弟子の中に入るのであろう。同館には、大秀の『住吉物語校異』の稿本がある。
飛騨における大秀の活躍には目ざましいものがあったが、その業績の中には、時として正鵠(せいこう)を欠くのではと思われるものもある。たとえば荏名神社の再興について『紙魚(しみ)のやとり』で加藤歩蕭(かとうほしょう)は、
「延喜式(えんぎしき)飛騨八神の内、荏奈明神の社地むかしよりしる人なし、しかるを田中屋弥兵衛(おおひで)という人、江名子村いな桶といへるちいさき祠を荏奈明神なりとて、文化十一年(1814)新たに荏奈の神名を鋳たる神鏡を納め、文化十二年八月初て神事を行いける、古来より社地の詮議文明ならざるをいかなる証拠を見出したるや、もしくはおしはかりにて荏奈の社地なりといふにやしられず、御検地帳にもなければ宮地とは仕(つかまつり)がたき所なり・・・いな桶とはえな桶の転語なり、大むかしは胞(えな)を納る地にして所々にあり」
と記して、胞、つまり後産(あとざん)を捨てるところだったと言っている。このような敷衍(ふえん)の強引さは飛騨総社の再興にもとかくの論議を呼び、萩原町の浅水橋(あさんずばし)の地名考についても平瀬担斎と争っているし、車田の碑文の馬篭野(まこもの)の解釈にも無理が見られる。
偉大な郷土の先覚に何をつける気は毛頭ないが、学問上の功績とは別に、大秀の人間像には、ところどころ衒(てら)いがみえる。
大秀の歌の心に、宣長のめざした「もののあはれ」「歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也」という境地はやや乏しい。
小鳥幸夫『飛騨百景』市民時報社 昭和58年発行より
関連資料
6-2-1 田中大秀翁という人
6-2-2 田中大秀の住居 その1 (生家)
6-2-3 田中大秀の住居 その2
資料集
118_327_田中大秀の生家