白山禅定道と河上御前の御開帳お知らせ, 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ白山禅定道と河上御前の御開帳 白山と泰澄 泰澄の一生を記したものに『泰澄和尚伝記』がある。これは天徳元年(957)ころ、天台宗の僧淨蔵が語った泰澄についての事項を、その弟子神興が書き留めたものといわれている。それによると、泰澄は浅水(現在の福井市)に生まれ、父は三神安角で母は伊野氏の出身であるとされている。泰澄は養老元年(717)に越智山を下り、伊野氏出身とされる母の故郷に向かう。伊野は現在の猪野で伊野原を経てその東の林泉で泰澄は白山大神に出会う。この林泉は現在の白山神社境内にある御手洗池と考えられる。 この神(貴女)に導かれ初めて聖域白山に分け入り山頂の翠ケ池で龍神を示現させた。龍神は泰澄によって十一面観音に変わった。大汝峰や別山でも神々の本当の姿を出現させた。泰澄はその後都に登り元正天皇の病気を平癒させ疱瘡も終息させた。これにより神融禅師の称号を与えられまた越の大徳と呼ばれるようになる。こうして泰澄と白山の霊験は全国的に広まり白山信仰として確立されていく。 白山比咩神社蔵の『白山之記』は、白山信仰の成立過程を知る基本資料であり国の重要文化財に指定されている。それによると、天長9年(832)、白山への登拝拠点である馬場が、加賀、美濃、越前の三方に開かれたとされている。白山にいたる禅定道の起点は、越前側は平泉寺である。 修業者たちは神仏が住むとされる山頂を目指して険しい登拝道を登り、途中の行場で修業を積み重ね神と一体になろうとした。そして次第に修業の極みに達する山頂そのものが「禅定」(「禅頂」)と名付けられ、山頂にいたる修業者たちの道を「禅定道」と呼ぶようになった。「禅定道」そのものを描く絵図として、「北国白山天嶺御絵図」「北国白山天嶺之図」がある。近世の絵図には「白山道」などとも記される。 中世における白山登拝の記録は残念ながら残されていない。しかし経ケ岳で発見された回国聖の経筒などから、中世においては依然禅定道が利用されていたことがわかる。近世に入ると「白山道記」を始めとして、「白山紀行」「白山全上記」「白山行程記」「続白山紀行」など次々と著される。その行程は小舟渡の渡しから現在の勝山市荒土・野向・北谷町を通り白山に向かう。帰りは北谷から勝山町を通り平泉寺に寄り、泰澄も通ったとされる箱の渡しから大野に向かう。まれに帰路は禅定道を利用し平泉寺に降りることもあった。 平泉寺での河上御前を中心とした御開帳について お開帳とは普段は秘仏になっている仏像などを公開することである。最近あきらかにされた称名寺「上素帖」に見る、承安2年(1172)の大講堂落慶法要などはお開帳のさきがけとされよう。平泉寺では33年に一度行われる河上御前のお開帳が代表的なものである。確認できる史料では宝永7年(1710)にまで遡ることができ、33年の周期は必ずしも守られていないものの、寛政3年(1796)以降はこの周期で行われてきたようである。近代に近づくにつれ興行的な要素が強くなる。勝山町に幟を立て境内では露店が立ち並び見世物も行われた。 天嶺での三所の社殿の再建あるいは本尊の鋳立を終えると、遷宮式とともに平泉寺でお開帳が行われた。安永2年(1773)には福井で出開帳まで行われている。前回の平成4年(1992)のお開帳は、白山国立公園昇格30周年記念式典と併せて行われた。5月15日から4日間の人出は14万8千人であった。(表5参照) 白山伏拝の碑 はるか白山を遥拝する白山伏拜と言われる場所はいくつか知られている。しかしながら文字を刻んだ石碑が建てられている場所となると数は少ない。ここに紹介するのは鹿谷町矢戸口区背後の622mの山頂附近に置かれている3基の石碑である。薄墨桜群生地に至るルートの少し先の白山伏拝の地点に建つ。山頂に至る道はかなり険しく途中で大野からの道と出会い、かつては大野と鹿谷地区を結ぶ山越えの道路であったと思われる。3基とも破損が激しく文字も一部が残るにすぎない。 真中の石碑に太田村と読める文字が見える。太田村は大野市下庄地区にあり、宝永7年(1719)の「大矢戸村明細帳写」(『大野市史』土蔵市右衛門家文書)に次のように記されている。「大光寺白山香岩太田村持山の内に御座候、是は先年大光寺と云御寺有り。此御寺より白山権現を殊の外御帰依なされ候…」。同じ大野市史の『地区編』大字太田の項に、「…今も大光寺跡と云われる平坦地が残り…背後に白山に向いて大きな岸壁があり…この岸壁の尾根にも平坦地があり、その桧の大木の根元に三基の石碑が置かれている。」 右 明(和五年カ) 白山 戊子三月 大田村 甚右衛門 真中 天保十一戌年(ママ) 三月 左 白山伏拜(拝) 少なくとも1基は太田村の甚右衛門が明和期(1764~72)に寄進したものである。他は「白山伏拝」と読める1基と、「天保十一(1840)」の年号のみが記される1基である。破損した一部分でさえかなりの重量があり山頂に運ぶのは容易ではなかったと思われる。江戸時代の人たちの白山への厚い信仰心が偲ばれる。伏拜の碑は永平寺町藤巻と片瀬区の大師山山頂にも建つ。前者はえち鉄小舟渡駅近くの「架橋記念碑」と並んで建てられている。 大師山からは白山がかすかに望むことができ大師堂の建物も今に残る。堂には泰澄自作と伝えられる像もかつては祀られていた。伏拜の碑は八角塔でそこには「寶前 奉寄進 泰澄大師 願主辻武左衛門尉良起」とあり、延宝8年(1680)に武左衛門が寄進したことがわかる。 関連資料 白山禅定道と河上御前の御開帳解 白山伏拝 開帳年表 2020年7月30日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2020/07/80110020_R.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2020-07-30 18:15:102021-03-13 14:25:03白山禅定道と河上御前の御開帳