九頭龍川
九頭龍川
源は油坂峠あたりで大野市を流れ勝山市下荒井附近で真名川と合流し下流の三国で日本海に注ぐ。ここでは勝山市域内を流れる九頭龍川を紹介する。平泉寺町壁倉区・大渡区・遅羽町下荒井当たりを上流、勝山橋附近を中流、荒鹿橋・市荒川橋附近を下流とした。
勝山橋の東の弁天堤には桜が植えられており、越前兜・法恩寺山・経ヶ岳をバックにした景色は絶景である。河畔では夏の花火大会、奥越に春を告げる勝山左義長のどんど焼は行われる。かつては鮎・鮭などの漁獲資源に恵まれていたが、最近は鮎釣りの人も少なくなった。国の天然記念物のアラレガコもほとんど見かけなくなった。九頭龍川にかかる橋や渡しについては各項目の解題を参照のこと。
上流
中流
下流
九頭龍川にかかわる絵図
九頭龍川にかかるはし
大野方面・福井方面から勝山に入るために九頭龍川を越える必要があり渡舟が利用された。渡場として大野方面からは箱の渡が、福井方面からは小舟渡の渡が利用された。遅羽・鹿谷から勝山町へは中島(鵜の島)渡や比島の渡が利用された。
近代に入ると渡舟を並べた舟橋も利用され小舟渡や下荒井が知られている。越前電鉄が開通すると九頭龍川左岸と右岸を結ぶ橋が相次いで架設された。大正元年(1912)下荒井橋が同4年勝山橋が、同12年小舟渡橋が完成した。平成に入り勝山南大橋が、28年には勝山恐竜橋が完成した
小舟渡(昔)
(現在)
勝山橋(昔)
(現在)
下荒井舟橋(昔
(現在)
大用水
立会用水とも言われる。九頭龍川から大渡区で取水し勝山町と猪瀬地区の7ケ村の田地を潤した。勝山(袋田)城の濠水をまかなうためもあり恐らく慶長年間(1596~1615)には完成していたものと思われる。田畑を潤すだけでなく勝山三町の生活用水としても利用された様子は、元禄勝山町図に町中に張り巡らされた用水網からうかがえる。
「筥(箱)ノ渡」と3つの渡し場
「筥ノ渡」は「鵜ノ島渡」「小舟渡渡」「比島渡」とともに、記念物として市の文化財に指定されている。この渡は平泉寺町大渡と九頭竜をはさんで遅羽町下荒井とを結んでいた。『霊応山平泉寺縁起』に「養老元年(717)四月朔日当山麓、大野隅筥川東来伊野原」とあるように、泰澄大師が白山禅定のため渡ったとされる。『太平記』の「牛原地頭自害事」には「平泉寺衆徒箱の渡を打越」と見られ、古代・中世にかけて渡し場として重要な位置を占めていた。
大永4年(1524)の「臨時祭礼入用帳」に「渡守 大わたり こふなと なるか」とあり、箱の渡は大渡とも呼ばれ九頭竜川の3大渡として知られていた。近世の資料である『越前国名蹟考』には以下のように記されている。筥渡旧跡「大渡は昔泰澄白山禅定の時、此川を助清と云う百姓筥の蓋に乗せ渡したるに依り筥の渡と云」「此村の西方黒竜川の流を筥渡と云」。とある。
近世においては「箱渡船組」として九頭竜川両岸の、幕府領・郡上領・小笠原藩領・大野藩領の村々百余か村が船組を結成。船米を出し合い、新艘を仕立てる場合も村高に応じ負担して運営されていた。近代に入り架橋計画があったが明治29年(1896)の大洪水で流れ、同35年橋長約95m、幅3mの舟橋が完成した。その後、大正元年(1912)に木造の吊橋が架設された。以後洪水の度に流失を繰り返した。
昭和14年(1939)、下荒井で九頭竜川の水を取水する発電所計画が具体化し、あわせて下荒井橋も改修された。戦後になり橋の鉄骨化が図られたが大野勝山間の交通量の増加、車両の大型化に対処するため、橋の架け替えと下荒井トンネルの掘削が認められ、同44年工事が完成した。筥ノ渡の碑は2つあり文化財碑は下荒井の「線刻大日如来像」の近くに、平泉寺町づくり推進協議会の碑は大渡の大用水の水門近くに建てられている。
なお、『朝倉始末記』には、朝倉景鏡が「壁倉ノ渡」を通り平泉寺の逃げ込んだことが記されている。