平泉寺にかかわる堂舎・石碑・史資料
平泉寺にかかわる堂舎・石碑・史資料
平泉寺にかかわる諸史資料は町内・町外を問わず非常に恵まれている。町内には関連する堂舎や石碑が多く平泉寺町町づくり委員会により建てられた59の石碑は、余すところなく平泉寺の名所・旧跡地を紹介している。詳細は各項目の解説に譲る。
町外では猪野瀬区を中心に泰澄・白山信仰にかかわる遺蹟・遺物に恵まれている。詳細は各項目に譲る。
「白山平泉寺境内絵図」
それぞれ南東、北東、南西、北西方向に「四天之内」と記し、北西の「比島観音」を除き守護神が記されている。禅師王子の眼下に「箱ノ渡」が、西には「大師母君御廟」も記す。「下馬大橋」から菩提林を通り境内へ抜け東の一番奥には「釼宮」が描かれている。境内で一番大きな建物は「三十三間拝殿」で、前面には「大御前」以下の五社が」、「三宮」前にも「拝殿」を描く。比較的大きな建物として「大講堂」「南大門」「大師堂」も描く、2つの「大師堂」のうち北側のものは後の玄成院であろうか。境内の両脇に六千の坊院も稠密に描く。16世紀の景観を描くと思われるが、右隅に信武筆と記されていて作成されたのは17世紀である。
麻結地蔵
平泉寺町平泉寺地区では屋敷の石垣に石像の地蔵尊を祭る家が多い。麻結地蔵は木像である。梅田治右衛門家の屋敷地に隣接する共有地内に祀られている。由来について「麻結地蔵」碑には次のように記されている。「老婆がお堂の前に麻を干し柴刈に出たところ俄雨が降り慌てて帰ると麻にきれいに結んでお堂の中に入れてあった」。
『平泉寺史要』の明治12年(1879)の社寺明細帳はより詳しくその由来を記している。「村に貧しいながらも正直な媼がいて、夜は紡績を日中は耕作に励んでいた。草庵の南に小さな祠があり木像の地蔵尊(36堂の1つ)が安置されていた。媼は日頃からこのお地蔵様を信仰しており、麻を干して柴刈に出たおり、もし雨が降ったら自分に代わって仕舞って欲しいと独りごとを言った。」に付け加えて「お地蔵様の両手には一條の草縄が巻き付いていた。媼は涙を流して喜びこの事実を人々に言い伝え、その後、麻結の地蔵として崇められるようになった。」
続いて「本尊 地蔵尊 泰澄大師直作木像、堂宇間数 2間に2間半(昭和改築後) 境内97坪 持主梅田治右衛門外6名 信徒人員37人 永続方法 田5畝29歩 梅田さみ以下7人共有 山林(反別不詳)卸米1斗5升 梅田捻所有地内 右土地の所得を以て祭典及営繕費に充つ」。
梅田家には麻結地蔵関係の史料が数冊残されており、そこには、「卸山を持つようになったのは寛政8年(1796)以降で、山手米は1斗3升であったこと。祭礼は7月24日(現在は8月の地蔵盆の日)に行われ、氏子は梅田治右衛門・中村八右衛門など9人(後7人、現在は4人)であったこと。顕海寺を招いて祭礼が行われ、その布施や御神酒代なども含め銀4~5匁の費用がかかったこと」などを知ることができる。
文政13年(1830)の「麻結地蔵惣氏子一統連印定書 当番記」には、15か条の取決めが記されている。いくつかを例示すると、氏子当番は2人ずつで1人は拝殿で待機する。氏子全員が祭礼に参加する。御講の際は打入銭(不明)として1人前3文を、ただし今後は10文を出す、などと定めている。像の作成年は不明で台座下の箱書きに元文4年(1739)、大工伊…などの文字が記されている。天保14年(1843)には玄成院も参詣している。
延命地蔵
仏母寺には延命地蔵の由来を記した縁起が残されている。この縁起は大正15年(1926)に宝慶寺50世の天山和尚により書き記されたものである。近代に入り作られたものであるのでその内容がすべて真実であるとは言い難い。木箱には「縁起大師山仏母寺」とあり、巻物の表題は「延命地蔵尊縁起」とある。その詳細な内容は省略するが興味深い記述として「行基菩薩ガ衆生済度乃大願を以て一刀三禮の敬虔を捧げ彫刻し玉ふ」とある。
仏母寺は宝慶寺の末で宝永2年(1705)に片瀬村に設立された。『片瀬誌』の記述からは仏母寺が建立された本来の目的は、大師山の中腹の大師堂に安置されていた泰澄自作の像の管理のためと読み取れる。このように考えるとこの像が地蔵尊だったとは考えられない。あまり知られていないが仏母寺には安永7年(1778)の史料とともに十数センチの木仏も残されている。史料には泰澄自作とありこの像が本来大師堂にあった可能性が高い。
仏像の製作年代や作風については専門家に任せるとして、地蔵尊は33年に1度開帳されこれは平泉寺の河上御前の開帳と同時である。行基自作といい、平泉寺との関係といい禅宗寺院の仏母寺の成り立ちと矛盾する。
むしろ先に紹介した泰澄自作と伝えられ大師堂に安置されていたと考えられる像が、より平泉寺との関係が深いと思われる。元来片瀬村は平泉寺とのつながりが強かったこともあり、おそらくいつの頃からか両像の成り立ちが混同され形態的も大きい地蔵尊と平泉寺が結びついてしまったのではなかろうか。
仏母寺
仏母寺の名前が初めて見られるのは永禄12年(1569)で、大野市の宝慶寺文書の「仏母寺納帳」に、横枕・御給村に8.56(実際は6.66)石の院領を所持していることが記されている。しかしその所在地は明確ではない。『片瀬誌』には小山村下舌に創建とあるが、諸種の史料から総合的に判断すると、宝慶寺から離れ下舌村に仏母院として独立したのは元禄9年(1696)で、その開山は宝慶寺28世雲波和尚である。
片瀬村に移った経緯は以下のようであった。大師山の中腹に大師堂があり泰澄自作の像も安置されていた。しかし村から離れており治安もよくなかったため、宝永2年(1705)村では藩に願い出て庵を建てる許可を得た。下舌村から片瀬に移された史料そのものは残っていないが、この庵が仏母院で庵主を来雄和尚に依頼する史料が残る。
当寺の本尊延命地蔵については地蔵を納めた厨子に享保12年(1727)と記されている。正式な寺号を得たわけではないが18世紀初期には寺としてしての体裁が整い、中期には8石近い寺領や山林も所持するにいたる。かつては百数十点の仏母寺文書が残されており、その一つに宝暦4年(1754)の「太子堂再建奉加帳」があった。この年の7月16日に供養を行うので参詣をと呼びかけている。その後、天明年間(1781~89)に35世恵珍和尚の代に本堂が再建され五百羅漢も安置された。
正式に寺号を得るのは明治39年(1906)で、宝慶寺を本山とするとの条件で仏母寺の寺号を獲得した。境内には勝山を代表する俳人の素史とその師匠青々の句碑も残されている。
禅宗寺院としての宝慶寺との関係、白山信仰の拠点としての平泉寺との関係がどうであったのか、仏母寺にはわからない点があまりにも多く残されている。
四 至
南東の「荒神岩(石)」、南西の「禅師王子」、北西の「比島観音」、北東の「虚空蔵」に囲まれた地域で、平泉寺の境内を広義にとらえたものである。中世以来平泉寺の影響力の最も強い地域で、「四至内七ケ村」あるいは「四寺内十カ所」と称される。猪野瀬地域に該当する。
瀧の堂
瀧の堂は平泉寺区から女神川に沿い経ケ岳に至る道の傍にあり、以前は瀧が三筋に分かれて落下していたため三社の瀧とも称せられた。「霊王山平泉寺縁起」に、顕海の命を受けた専海が白山禅定に赴く際にこの瀧に三日間籠って身を清めたとある。瀧の上に社があり顕海自作の聖観音が安置されていた。境内には8本の老杉がありなかでも2本は幹回り4,8m、3、3mもあった。その後次々に伐採され万延元年(1860)には長兵衛と八兵衛により神木は伐採された。
平泉寺町町づくり碑
記号 |
番号 |
分類 |
名称 |
文章 |
場所 |
設置年月日 |
備考 |
A |
68 |
文化財 |
勝山市指定文化財 聖観音菩薩立像 |
勝山市指定文化財 聖観音菩薩立像 (裏)昭和六十三年二月十日指定 勝山市教育委員 |
平泉寺 |
昭和63.2 |
|
a |
1 |
エコ町 |
安ケ市跡 |
平泉寺全盛の頃構口門を出たところにあったとされる市の跡 |
平泉寺 |
平成16.6 |
|
a |
2 |
エコ町 |
平泉寺村役場跡 |
昭和二十九年九月に勝山市が誕生するまで村役場があった場所 |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
3 |
エコ町 |
天神堂 |
平泉寺四十八社三十六堂のひとつ御神体は菅原道真この辺の字名は天神堂という |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
4 |
エコ町 |
小豆かしき |
昔は2枚の大きな平たい石が掛けてあった。その橋下を流れる水の音がシャリシャリと小豆をかしく音に聞こえたという |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
5 |
エコ町 |
源如坊清水 |
このあたりは源如坊という坊院があったことからこの名がついたという |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
6 |
エコ町 |
北谷六地蔵 |
大正三年に北中尾の墓地が向三昧に 統合されたとき この地に移された |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
7 |
エコ町 |
東尋坊跡 |
東尋坊は力が強く乱暴な僧であったの で 一山衆徒の恨みをかい 三国の絶壁 から突き落とされた すると東尋坊の 井戸は血の色に染まったという |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
8 |
エコ町 |
常夜灯 |
昔は毎夜灯りがともされた 村の 若者がよい嫁欲しさに灯の傘に 石を投げ乗ると願いが叶うと喜んだ |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
9 |
エコ町 |
木船神社跡 |
中世に平泉寺の安全祈願のため建立された社 御神体は船に乗った神様で今は白山神社境内に安置されている |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
10 |
エコ町 |
構口跡 |
中世の平泉寺の正面を守っていた門この下に大きな堀があった |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
11 |
エコ町 |
千日坂道場跡 |
本覚寺の末寺で 後に 池端道場へ合流する |
平泉寺 |
平成18.3 |
○ |
a |
12 |
エコ町 |
義兵衛清水 |
弘法大師が来られたときここに住む義兵衛がきれいな 水を差し上げたことからこの名がついたという |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
13 |
エコ町 |
いぼ岩 |
-13 いぼ岩 大岩の中ほどに 五センチくらいの くぼみがあり中の水を いぼにつけると何時の間にか治る |
平泉寺 |
平成15.7 |
○ |
a |
14 |
エコ町 |
金札 |
平泉寺全盛の頃 富くじや博打場として金のお札が舞った盛り場であったと伝えられる |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
15 |
エコ町 |
梶の宮跡 |
平泉寺四十八社三十六堂のひとつ 根の宮ともいうこの辺の字名は 梶の宮という |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
16 |
エコ町 |
みろく堂跡 |
平泉寺三十六堂の一つ 現在 木村家に伝わるみろく菩薩がまつられていた |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
17 |
エコ町 |
南大門跡 |
中世(戦国時代)平泉寺の仏教伽藍の正面に建っていた門 |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
18 |
エコ町 |
大地蔵跡 |
現在、顕海寺に安置されている大地蔵は、この地にあったといわれている |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
19 |
エコ町 |
むじな道(上) |
平泉寺の最も古い道といわれ今も村の中心部を縦断している |
平泉寺 |
平成18.3 |
○ |
a |
20 |
エコ町 |
竜池小学校跡 |
平泉寺地区にあった小学校統合されて平泉寺小学校になった |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
21 |
エコ町 |
むじな道(下) |
平泉寺に伝わる古道 |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
22 |
エコ町 |
池端道場跡 |
昭和三十六年頃までここに浄土真宗の道場があった |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
23 |
エコ町 |
合坂 |
文章なし |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
24 |
エコ町 |
紺屋坂 |
平泉寺全盛の頃このあたりに紺屋があったという |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
25 |
エコ町 |
城山 |
城山道場この一角に平泉寺いくさ奉行の朝倉景鏡の墓がある |
平泉寺 |
平成15・7 |
|
a |
26 |
エコ町 |
下馬大橋 |
菩提林の入口 浄川にかかる橋ここで馬を下り身を清めてからお参りした |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
27 |
エコ町 |
むじな道(中) |
平泉寺に伝わる古道 |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
28 |
エコ町 |
大六坂 |
昔から伝わる坂道の名前 |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
29 |
エコ町 |
千日坂 |
昔から伝わる坂道の名前 |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
30 |
エコ町 |
若宮神社 |
平泉寺四十八社三十六堂のひとつこの辺の字名は 若宮という |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
31 |
エコ町 |
堀跡 |
ここに堀があり上を土井の上下を土井の下と言った |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
32 |
エコ町 |
宮道場跡 |
本覚寺の末寺で火災の後池端道場へ合流する |
平泉寺 |
平成18.3 |
|
a |
33 |
エコ町 |
鳥吠小路 |
兄に追われていた義経主従が観音堂に宿を取った時、夜中に一番鶏が鳴いて時を告げ、一行を追手から助けた |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
34 |
エコ町 |
蓮如腰掛石 |
蓮如上人がこの石に腰掛けて親鸞上人の説えを説いた松尾の山中よりここに移動した |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
35 |
エコ町 |
弁慶岩 |
昔から 弁慶岩といわれているこの辺の 字名は 弁慶岩という |
平泉寺 |
平成18.3 |
○ |
a |
36 |
エコ町 |
北釈迦堂跡 |
その昔 釈迦堂があったところ |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
37 |
エコ町 |
九十九坂 |
文章なし |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
38 |
エコ町 |
狼清水 |
昔狼が時々来て水を飲んだことからこの名がついたという |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
39 |
エコ町 |
麻結地蔵 |
老婆が お堂の前に麻を干し 柴刈に出たところ 俄雨が降り慌てて帰ると 麻にきれいに結んでお堂の中に入れてあった |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
40 |
エコ町 |
鬼ケ市跡 |
平泉寺全盛の頃ここに市があったとされる平泉寺にこのような市が三ケ所あった |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
41 |
エコ町 |
正光山普門寺妙覚院跡の碑 |
一般碑参照 |
赤尾 |
平成17.3 |
○ |
a |
42 |
エコ町 |
正光山空心房跡 |
玄成院第九世慈観は赤尾へ隠棲 し 正光山普門寺妙覚院を開山 空心房は普門寺の一坊である これより約五十米先 南東山中 |
赤尾 |
平成15.7 |
○ |
a |
43 |
エコ町 |
深達院権僧正覚諄誕生の地 |
一七五三年赤尾上山家に生まれ八才で平泉寺に入山 のち上野輪王寺宮 日光医王院を経て 山形県羽黒山別当第七十五世となる |
赤尾 |
平成18.3 |
○ |
a |
44 |
エコ町 |
槍形尖頭器発見の池 |
昭和六十三年この池の岸辺から先のとがった石器が見つかった これは一万二千年前縄文時代草創期に鳥や獣の狩猟用として石で作った槍で福井県で初めての発見である |
赤尾 |
平成19.3 |
○ |
a |
45 |
エコ町 |
下野白山神社跡 |
明治十九年まで赤尾四社の内の一つがここにあった平泉寺の境外末社で赤尾小白山と称された |
赤尾 |
平成16.3 |
○ |
a |
46 |
エコ町 |
寺野白山神社 |
明治十九年の統一までは 赤尾に四つの神社があり この神社もその内の一つであった合併後も昭和二十四年頃まで観音堂が建つていたが現在は神野の氏神となっている |
赤尾 |
平成19.3 |
○ |
a |
47 |
エコ町 |
筥ノ渡し |
泰澄大師が白山への途中九頭竜川を渡りたかったが 舟がなく百姓に箱のふたで渡してもらった |
大渡 |
平成15.7 |
○ |
a |
48 |
エコ町 |
幕根遺蹟御所五郎丸屋敷跡 |
九頭竜川右岸で河岸段丘上に立地する古い遺蹟 御所五郎丸が恩賞として壁倉周辺を拝領し社を建立 |
壁倉 |
平成16.3 |
○ |
a |
49 |
エコ町 |
壁倉の渡し |
大野にいた朝倉景鏡は朝倉義景を自害させた ので 一向一揆勢に恨まれ逃げる途中 壁倉 の渡しを渡り平泉寺の宝光院を頼ったことで 一揆が平泉寺を攻め滅ぼすとの噂がたった |
壁倉 |
平成18.3 |
○ |
a |
50 |
エコ町 |
筐野小学校跡 |
岩ヶ野小学校は明治二十五年廃校となり筐野小学校と合併した 筐野小は大正十四年平泉寺尋常高等小学校ができるまで 長坊山の地に学舎があった |
笹尾 |
平成18.3 |
○ |
a |
51 |
エコ町 |
長坊山東海和尚墓 |
笹尾に疫病が流行った為東海和尚が穴の中で疫病払いの念仏を唱え続け人柱となって死んだ |
笹尾 |
平成15.7 |
○ |
a |
52 |
エコ町 |
弁財天堂跡 |
白山六千坊の一つ 弁財天堂は人のけがれを払い天地(災)地変を排し人の福徳財宝を与える神 |
岩ケ野 |
平成15.7 |
○ |
a |
53 |
エコ町 |
泰澄大師宿泊大岩窟 |
教ケ岳噴火の際 生じた大岩窟は 岩影で泰澄大師が泊った「一の宿」とされる |
大矢谷 |
平成15.7 |
|
a |
54 |
エコ町 |
金坂 |
文章なし |
平泉寺 |
平成16.6 |
|
a |
55 |
エコ町 |
碁盤石 |
平泉寺六千坊時代、囲碁の得意な お坊さん連中が、この碁盤石に より碁を打ったといわれている |
平泉寺 |
平成20.8 |
|
a |
56 |
エコ町 |
弁財天堂跡 |
平泉寺四十八社三十六堂のひとつこの辺の字名は弁財天堂という |
平泉寺 |
平成18.3 |
関連資料
平泉寺にかかわる堂舎・石碑・史資料
平泉寺白山神社境内図
麻結地蔵
表6平泉寺町づくり碑
仏母寺
瀧の堂例祭
四至
延命地蔵