豊浦宮
1 豊浦宮(とゆらのみや)
小墾田宮おはりだのみや遷都前の推古天皇の皇居。奈良県明日香村豊浦にあったと推定される。593年、推古天皇豊浦宮にて即位する。以来約100年間、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中した。飛鳥は政治の中心地となり、大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。603年、北に小墾田宮(おはりだのみや)をつくり、豊浦宮は蘇我氏に賜って豊浦寺になったと伝えられる。
明日香村豊浦の向原寺一帯には往時の礎石が残っており、また、1957年以来数度におよぶ発掘調査により、豊浦寺の遺構が確かめられ、遺跡の保存がはかられてきた。1985年、向原寺庫裡の改築に伴い発掘調査を実施したところ、7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と推定される立派な瓦葺き礎石建物跡が見つかった。さらに、その下層からは石敷を伴う掘立柱建物跡が掘り出された。建物は南北3間(5.5m)以上、東西3間(5.5m)の高い床張りである。飛鳥の宮殿は建物のまわりに河原石を敷いて舗装するのが特徴であり、ここ豊浦にあった推定「豊浦宮建物跡」は、飛鳥における最初の宮殿遺構として価値が高い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
2 豊浦寺跡
603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。552年(欽明天皇13年)百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦佛(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目がたまわり、向原の家を浄めて寺としたのが始まりで日本初の寺とされている。しかし、その後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたという。
*説明版より
3 伎楽伝来の地 豊浦寺境内
『日本書記』612年に、百済の味摩之が歌舞劇の伎楽を日本に伝えるや、聖徳太子が桜井に学校を設け、それを伝授させた旨がみえる。その『桜井』が、韓国の李應壽の調査研究(日本演劇学会紀要47)により、新たにこの付近に比定されたので、碑を建て、韓国と日本の演劇交流の始原を記憶するものとする。
*説明版より
4「盟神探湯 (くがたち)」 豊浦寺境内
盟神探湯は裁判の一種として考えられ、煮え湯の入った釜に手を入れ「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」という極めて荒い裁判の方法である。「日本書紀」によれば允恭天皇4年(415)氏姓制度の混乱を正すため、甘橿の神の前に諸氏を会して盟神探湯を行なったと伝えている。
現在では毎年4月、境内にある「立石」の前に釜を据え、嘘・偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷大字が氏子となって「盟神探湯神事」としてその形を保存・継承している。「立石」と呼ばれる謎の石はこの豊浦のほか、村内の岡・上居・立部・小原などにも残っている。
*説明版より