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袋中寺
琉球に浄土宗が伝来したのは、1603年(万暦31年・慶長8年)に袋中が来琉したことをもって嚆矢とする。袋中は陸奥国石城郡(現・福島県いわき市)の出身の僧侶で、仏法を学ぶため明国渡航を志し、中継地の琉球王国に渡ったのである。琉球では尚寧王や儀間真常の帰依を受け、那覇に桂林寺を創建した。しかし明への渡航が不可能なことを悟り、1606年(万暦34年・慶長11年)に帰国した。
袋中帰国後の琉球浄土宗は、直後に勃発した薩摩藩による琉球侵攻の混乱もあって教勢が振るわず、桂林寺もいつしか廃寺となってしまった。浄土宗そのものは根付かなかったが、やがて「ニンブチャー」という念仏を唱える集団が登場し、今日のエイサーの起源になったといわれている。
壷屋焼
壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋で主に生産されている陶器です。焼物(やちむん)とも呼ばれ、沖縄を代表する陶器の一つとなっています。
壺屋焼の特徴は、沖縄特有の釉薬を用いた色とりどりの力強い絵付けです。庶民が用いる器でありながら装飾性に豊み、様々な技法を駆使した意匠は、大正時代の民芸運動家である柳宗悦(やなぎむねよし)らによって広く紹介され世に知られるようになりました。
壺屋焼は荒焼(あらやち)、上焼(じょうやち)と呼ばれる2種類に分かれ、主に酒や水の瓶などに使われた簡素な荒焼に比べ、上焼は様々な種類の釉薬を使い分け1200度の高温で焼締めます。こうして焼かれた壺屋焼はどっしりとした重量感と風格があり、沖縄の豊かな自然風土を写し取った焼物と称されます。
使用される釉薬の中でも特に白釉は、消石灰とモミ灰に沖縄の土である具志頭白土と喜瀬粘土を混ぜた壺屋焼特有のもので、壺屋焼の特徴である温かみの表現に重要な役割を担っています。
沖縄の焼物(やちむん)の起源は、14世紀~16世紀頃に大陸からもたらされた高麗瓦が由来とされています。この頃、琉球王朝は中国や東南アジア諸国と盛んに交易を行っており、壺屋焼の一種である荒焼(あらやち)もこの頃に技術が伝えられたと言われています。
17世紀に入って琉球王朝は江戸幕府薩摩藩の支配下となり、それまで盛んに行われていた外国との貿易も影を潜めるようになりました。そこで当時の琉球王、尚寧王(しょうねいおう)は朝鮮から陶工を呼び寄せ窯を開き、朝鮮の作陶技術を積極的に取り入れた焼物を作るように推奨しました。こうして、壺屋焼の元となる上焼(じょうやち)が沖縄で焼かれるようになりました。
やがて1682年(天和2年)、王府内にあった首里、知花、湧田の窯が、牧志村の隣、現在の壺屋に統合され、これが現在へ続く壺屋焼の始まりとなりました。
明治以降になると、いったん壺屋焼は安価な焼物の大量生産に押されて生産が下火となります。しかし大正時代に入ると民芸運動の高まりとともに注目されるようになり、遂には1985年(昭和60年)、陶芸家の金城次郎が沖縄県で初めて人間国宝に認定され、壺屋焼は沖縄を代表する伝統工芸品として広く知られるようになりました。
沖縄の海洋保全 軽石
【軽石の被害】
気象庁は2021年8月13日に小笠原諸島の付近の海底にある火山「福徳岡ノ場」噴火したと発表(気象庁)。この噴火で生まれた大量の軽石が「黒潮反流」という西向きの海流に乗って1,400キロ離れた沖縄・奄美地方に漂着して深刻な被害が出た。「福徳岡ノ場」は小笠原諸島・硫黄島の南約50キロの海底火山で、噴火は2010年2月以来11年ぶりだった。
海面を埋めた軽石が黒潮反流に乗って西に流れ、10月4日に沖縄県の北大東島と南大東島に漂着。11日に鹿児島県の奄美大島、13~14日には沖縄本島でも確認された。鹿児島県喜界町では10日に東海岸で軽石の漂着を確認。23、24日にはボランティアが一部の海岸で軽石の撤去を始めた。
軽石による被害は、養殖用のいけすで魚がエサと間違えて軽石を摂取したことで大量死する被害や、船舶のエンジンの故障の恐れから漁業者やフェリーの運航ができない日が何日も続く被害、リゾートホテルのビーチが一面軽石に覆われるなどの被害が連日報じられた。
【沖縄県読谷村長浜の養殖場付近の被害】
撮影場所は沖縄県読谷村長浜の養殖場付近で、海水面は軽石で茶色く濁り、砂浜にも軽石が堆積し、軽石が養殖の現場まで広がっている様子が見られた。
資料(メタデータ)
沖縄の海洋保全_軽石
加賀禅定道
山岳信仰の山、白山の山頂へ至る道のことを「禅定道」といいました。832(天長9)年に開かれた、白山本宮から御前峰へと続く登山道は信仰の道です。
1934(昭和9)年の大洪水以降、廃道になっていましたが、1987(昭和62)年8月に復元、完成しました。
白山一里野温泉スキー場を登山口として、しかり場、長倉山、美女坂、加賀室跡、四塚山を経て白山山頂に至る全長18.2キロの稜線を主体とした道で、周辺には豊富な花畑があり、特に禅定道付近にしか見られないタカネバラや荘厳な百四丈の滝など見所も多くあります。
加賀禅定道の登山口とコースポイントおよび山小屋
1. 白山一里野温泉:四等三角点「一里野」、標高 551.4m
2. ハライ谷登山口
3. ハライ谷
4. 檜新宮:標高 1,495m
5. しかり場分岐:標高 1,549m
6. 長倉山:標高 1,640m
7. 口長倉:三等三角点「長倉」、標高 1,660.5m
8. 奥長倉避難小屋(トイレあり):標高 1,730m、登山道を南へ150m進むと奥長倉山(標高 1,771m)
9. 美女坂の頭:標高 1,968m
10. 百四丈滝展望台:標高 2,030m
11. 百四丈滝
12. 尾添尾根2047m地点:二等三角点「尾添」、標高 2,047.0m
13. 天池室跡(加賀室跡):尾添尾根2138mピーク、標高 2,138m
14. 天池:標高 2,125m、水場(煮沸必要)
15. 油池:標高 2,080m
16. 瓶割坂:標高 2,185m
17. 長坂:標高 2,395m
18. 四塚山:標高 2,521m、山頂から北西へ90mの場所に三等三角点「竜ヶ馬場(標高 2,519.4m)」があります。
19. 七倉山分岐(七倉の辻):標高 2,505m
20. 七倉山:標高 2,557m
21. 御手水鉢:標高 2,450m、水場
22. 巻き道の合流点:標高 2,580m
23. 大汝峰:標高 2,684m、大汝神社(祠)があります。
24. 大汝峰南の分岐:標高 2,580m、加賀禅定道と中宮道の分岐
25. お池めぐり分岐:標高 2,580m
26. 血の池
27. 五色池
28. 百姓池
29. 千蛇ヶ池分岐:標高 2,575m
30. 千蛇ヶ池
31. 御前峰・千蛇ヶ池分岐(白山室堂北分岐):標高 2,460m
32. 白山室堂:標高 2,450m、室堂センターと白山奥宮祈祷殿
33. 白山・御前峰:一等三角点「白山」、標高 2,702.14m、白山奥宮
白山一里野から加賀禅定道を登って白山室堂までの標準コースタイム:12時間30分(休憩時間含まず)、奥長倉避難小屋に泊る1泊2日の行程
1日目:一里野~(やや登り 40分)~ハライ谷登山口~(檜新宮参道を登り 2時間45分)~檜新宮~(登り 15分)~しかり場分岐~(登り 40分)~長倉山~(登り 1時間20分)~奥長倉避難小屋(山小屋泊り)
2日目:奥長倉避難小屋~(登り 1時間10分)~美女坂の頭~(登り 50分)~天池~(稜線 50分)~油池~(登り 1時間30分)~四塚山~(稜線 15分)~七倉山分岐(七倉の辻)~(登り 1時間)~巻き道の合流点~(登り 25分)~大汝峰~(下り 10分)~大汝峰南の分岐~(稜線 5分)~お池めぐり分岐~(下り 35分)~白山室堂(山小屋泊り)
冨士社社殿
松田太右衞門による神社建築
元々は日枝神社の本殿として、寛延元(1748)年に建てられた、松田太右衞門による現存数が少ない神社建築です。流造りに千鳥破風、軒破風を取り入れた屋根形態で、珍しく極彩色が施されています。
昭和10 (1935)年、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊したため、昭和13(1938)年に新本殿を建てました。旧本殿は破損箇所を修理して、末社殿として移築し、富士社となりました。平成7(1995)年に外観の極彩色の修理が行われ、当初の美しい色彩が蘇りました。「富士社社殿附棟札」として県指定重要文化財になっています。
(引用:https://www.hidatakayama.or.jp/watch/32-%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E7%A4%BE%E7%A4%BE%E6%AE%BF%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%BA%E7%94%A3%E6%A7%8B%E6%88%90%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%EF%BC%89/)
富士社は、元々は日枝神社の本殿として1748年(寛延元年)10月に飛騨の名工と誉れ高かった松田太右衛門以治が棟梁となって建立されました。屋根は、流造りに千鳥破風と軒唐破風を取り入れた構造となっています。1935年(昭和10年)の豪雨で裏山が崩れ、倒壊しましたがその後修理され、現在の場所に移築され、富士社となりました。なお現在の日枝神社の本殿は、1938年(昭和13年)に再建されたものです。富士社は平成7年の補修が行われ、極彩色の美しい姿になっています。「富士社社殿 附棟札」として県指定重要文化財になっています。
この富士社には、富士神社(祭神:木花之佐久夜毘売命 = コノハナノサクヤビメ、妻の守護神、安産の神、子育ての神)、金刀比羅神社(祭神:大物主命と崇徳天皇)、恵比須神社(祭神:八重事代主神)が合祭されています。
沖縄の生活文化 備瀬のフクギ並木
沖縄では年中海からの風が吹いている。特に、古くからの住まい(古民家)に台風等の強風が直接あたることを防ぐための工夫として、「建物をサンゴ石灰岩の石垣で囲む」と「防風林を植える」が挙げられる。
防風林には沖縄独特のフクギという木がよく使われてきた。フクギは根を深く張り、幹も丈夫で、台風などの大風が吹いても倒れにくい。また、分厚い葉が密に付くことから風害や塩害にも強い。
沖縄県北部地区の国頭郡本部町備瀬には、数百年のフクギの木々が立ち並ぶ「備瀬のフクギ並木」がある。この集落には樹齢300年以上の樹木もあり、家々を囲むように植えられ、入り組んだ白砂の道の左右から高く伸びた枝葉は頭上で合わさり、トンネルになっているところもある。フクギ並木は海に隣接しているこの集落を暴風雨や台風から守り続けてきた。
フクギの鮮やかな緑や、この木がつくる木陰は古き良き沖縄らしい町並みの風景ともいえ、観光スポットしても有名である。並木の間をゆっくり徒歩で散策したり、レンタサイクルでサイクリングしたり、牛車乗りも体験できる。
フクギの並木は、シュノーケリングも楽しめる備瀬崎の海までの約1kmにわたって続いていて、ゆったりとした島時間が流れている。
資料(メタデータ)
沖縄の生活文化_備瀬のフクギ
沖縄の歴史上人物 吉屋チルー③御茶屋御殿
吉屋チルーは17世紀頃に存在したといわれている琉歌人で、幼いときに遊廓へ売られ、ある男性と恋仲になるが裂かれ18歳で自死したと伝えられている。
御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)はかつて琉球王府の別邸で、国王が遊覧し冊封使などを歓待した場所であった。御茶屋御殿を主題とした吉屋チルーのものとされる琉歌がある。
(琉歌)拝(う)で拝(うが)んぶしゃ首里天加那志(しゅゆゐてぃんじゃなし)遊(あそん)で浮(う)ちゃがゆる御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)
(意味)拝顔すると去り難いのは首里の国王様であり、宴席で去り難いのでは御茶屋御殿である。
「御茶屋御殿」は1677年に作られ、茶道、生花、武芸などの様々な芸能が行われ、敷地内には望仙閣・能仁堂・茶亭が並び、周辺には築山や池、石造物が配されるなど、独特の意匠を凝らした庭園造りがなされていた。敷地の北側(現在は城南小学校が所在する場所)には菜園が広がり、そこでは様々な薬種の栽殖が行われていた。
御茶屋御殿の建造物は第二次世界大戦で全て破壊され、現在はカトリック首里教会および付属幼稚園、一部城南小学校が建ち、当時の面影を感じることはできない。私有地のため、教会入り口には「御茶屋御殿見学の際は教会事務所へ一声かけるように」との注意書きがある。
2000~2005年度に御茶屋御殿周辺の発掘調査を沖縄県立埋蔵文化財センターが実施し、報告書(沖縄県埋蔵文化センター 2003『御茶屋御殿跡遺構確認調査報告書』)を公開している。
第二次世界大戦によって破壊された「御茶屋御殿」の玄関前約40mの岩陰にあった石獅子は、1979年に戦前の写真をもとに修復され、1986年に那覇市指定文化財(有形民俗文化財)「御茶屋御殿石獅子」として登録されている。その後、石獅子のあった岩陰ががけ崩れの恐れが生じたため、現在は、御茶屋御殿より450m先、徒歩6分程度の「雨乞御嶽」付近に移さえている。石獅子と「雨乞御嶽」周辺は首里が一望できる展望台を備えた「首里崎山公園」として整備されている。
資料(メタデータ)