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城郭-8 広瀬城(国府町)
広瀬城は、北飛騨における三木氏の重要な城であった。山林として長い間保存されてきたので遺構の残りがよい。広瀬城はJR飛騨国府駅の南方約1㎞にあって、山上にある規模の大きな山城である。
『飛州志』によると、「田中城旧称広瀬城」という。天文年間(1532~1555)、広瀬左近将監利治によって築城されたといわれている。広瀬氏歴代の居城であったが、城代に広瀬氏の家臣田中与左衛門(田中筑前守)を置いたので田中城ともいわれている。天正11年(1583)三木氏によって滅ぼされた後は三木氏の居城となる。その後、天正13年(1585)金森氏の攻撃で落城した。
平成12年の縄張調査によると本丸には竪堀、堀切、曲輪、土塁、二の丸には、曲輪、竪堀、三の丸には、竪堀、堀切、南出丸には、曲輪、堀切、北出丸には、大手道、曲輪などが見られる。また調馬場跡といわれるところには、竪堀、横堀、曲輪などが見られる。
『飛州志城図』に示す屋敷は、主郭から瓜巣川に向かう山の突出部を均して居を構えたようで、現在は山林となっている。城関係の小字名を拾うと、「まとば」、「木戸口」、「水番屋敷」などがある。
城主広瀬氏は、もと広瀬郷の豪族で、本姓を藤原氏といったが、その系図は明らかではない。早くから広瀬郷を中心として、古川盆地に勢力を張った。天正11年(1583)広瀬山城守宗域は、松倉城主三木自綱に滅ぼされ、三木氏の配下に帰した。
天正13年(1585)金森長近が飛騨へ侵入するに及び三木氏が居城していたこの広瀬城は落ち、自綱は逃げて京都に赴き、三木氏は、以後廃絶した。現在、城の北方向から登って曲輪下の道沿いに、田中筑前守の墓がある。碑面には、「永正13年(1516)8月13日、田中筑前守御霊神」と刻んである。
所在地 高山市国府町名張字上城山、瓜巣字井口
築城時期 永正年間(1504~1521)頃、天文年間(1532~1555)頃
主な遺構 曲輪 堀切 土塁 竪堀 畝状空堀群
標高 622.3m
資料
⑦城郭-8 広瀬城(国府町)
城郭-7 高堂城(国府町)
『飛州志』に「廣瀬瓜巣村ニ在リ利仁將軍ノ後裔廣瀬左近將監利治築之子孫廣瀬山城守宗城兵庫頭宗直居之天正年中三木大和守自綱ニ戦ヒ負テ宗城終ニ討死ス其子宗直ハ城ヲ落テ行方ヲ知ラズト云フ自是三木持分トナル城地圖地理部ニ載ス」とある。平坦な主郭があり、北側・東側・南側に小さい曲輪がいくつかある。広瀬郷に土着した広瀬氏の居城と考えられている。
その後三木氏に広瀬氏は滅ぼされて、高堂城、広瀬城は三木氏の支配下になった。金森氏による飛騨攻めの際、三木氏は広瀬城で迎え撃ったという。
資料
⑦城郭-7 高堂城(国府町)
城郭-6 向牧戸城(荘川町)向牧戸城の戦い
寛正の初め(1460~)、室町幕府第8代将軍足利義政の命を受けて内ヶ島上野介為氏が信濃国松代から白川郷に入って向牧戸城を築いた。白川郷はもとより川上郷、小鳥郷、さらには越中国砺波までを所領とする勢力の拠点とした。
寛正5年(1464)内ヶ島氏は、保木脇(現・白川村)に帰雲城を築いてこれに移り、向牧戸城は家臣の川尻備中守氏信が城主となり、郡上及び高山方面からの侵入に対して備えていた。その後、川尻氏信と息子勘平は、主家を離れて越前大野の金森氏に投じている。
天正13年(1585)豊臣秀吉は越中国の佐々成政を討つため、自ら軍を率いて同年8月8日京都を発った。
飛騨では三木自綱が飛騨国内を統一していたが、越中の佐々成政と結んで、秀吉の命に従わなかったので、秀吉は越前大野城主金森長近に三木氏を討つよう命令した。
白川郷帰雲城城主内ヶ島氏理は三木自綱の配下であったが、飛騨西半を領し中野御坊照蓮寺と結んで、勢力を持っていた。長近はまず内ヶ島氏を討って三木氏の背後を断つため、越前大野を出発した。このとき内ヶ島氏理は越中の一向一揆討伐のため出陣中であった。金森軍は大野出発に際し、石徹白(郡上市白鳥町)の白山中居神社に参拝して戦勝を祈願した。長近の養子可重は、別動隊としてここより美濃白鳥へ討って出て、本道を北上し、鷲見ヶ上野(郡上市高鷲町)から白川郷野々俣村へ軍を進めた。また長近は本隊を率いて別山の裾の峰を越えて、尾上郷(荘川町)へ討って出た。そこから同郷海上・中野・岩瀬村を攻めて向牧戸城に迫った。岩瀬橋にかかった時、内ヶ島氏の武将「尾神備前守氏綱」の激しい迎撃にあって苦戦した。
これより先、三木自綱は吉城郡広瀬郷高堂城にいたが、金森氏侵入の報に接し、急遽精鋭を選んで向牧戸城に送り、その防御を固めた。
向牧戸城の攻防戦は激しく、金森方の遠藤慶直(金森可重の妻の父・遠藤慶隆の弟)および重臣鷲見弥五右衛門が戦死し、遠藤胤安をはじめ多くの将兵が戦傷を負った。8月10日、金森軍は大野出陣以来9日目にしてようやく向牧戸城を攻略している。帰雲城の出城にすぎない向牧戸城の攻略に手間取ったのは、三木勢の強力な援護があったためであろう。三木軍が向牧戸城に布陣していたのだが、誰が総大将になっていたのかはわからない。その後、金森軍は破竹の勢いで飛騨各地を攻略していった。
川尻備中守氏信
向牧戸城城主川尻備中守氏信は、内ヶ島氏の家臣の中でも武勇の武将であった。先祖は近江国の佐々木京極氏の一族多賀氏といわれている。
備中守氏信の子を勘平といい、金森軍の向牧戸城攻略に戦功があったので、長近から101石6斗余の恩賞を賜わっている。
川尻家の墓は向牧戸城跡の麓に4基あり、年号の読み取れるものの中、最も古いものが正徳5年(1715)である。そのうち無名墓1基があって、先祖墓と考えられている。備中守氏信の子孫は帰農して牧戸村に住し、代々名主等を務めていた。明治37年(1904)8代目久三郎の時、北海道に渡った。
川尻備中守と願生寺
荘川村海上(御母衣ダム建設により水没)は白川郷海塩村と称し、嘉念坊善俊の門弟「浄正」隠棲の地といわれる。浄正は、下総千葉介常胤の孫小太郎成胤の次子で、千葉小二郎成正と称していた。
浄正第9世の孫「願誓」の時、向牧戸城城主川尻備中守氏信は、願誓のために海塩村に1宇を建立しこれを聖殿と称した。天正16年(1588)金森長近が高山城を築くにあたり、城北の地に中野村(高山市荘川町中野)の照蓮寺を移したが、この時願誓の子「善恵坊道智」は父と共に高山へ聖殿を移すことにした。長近より灘郷下岡本村(高山市下岡本町)太子堂旧地を賜わり、同17年(1589)7月下岡本村に移った。これを井端道場と称し、現在の願生寺の始めである(『願生寺由来記』)。
資料
⑦城郭-6 向牧戸城(荘川町)
城郭-5 鍋山城
<県指定>昭和31年(1956)11月14日 <管理者>鍋山城跡史跡保存会
<員 数>城郭全体26.937ha <時 代>室町時代(16世紀)
鍋山の名称は、その山の形から起こった。城は三つの山にわたって構築され、大鍋山に主郭、小鍋山に二之郭、下鍋山に出郭があった。
<大鍋山>主郭 標高759mで、麓からの比高173m。中央に「奉敬鍋山権現」と刻んだ石碑があり、ここが本丸とされる。東側と北側に石垣が現存する。
<小鍋山>二之郭 標高746m。巨岩のそびえ立つ自然の要塞で、西南隅に石垣が現存する。この区域は、3段構成になっている。史跡指定の申請時には二之丸とされていた。現地の石柱は出丸の表示。
<下鍋山>出郭 標高720m。七夕岩に続く尾根の頂上に縦75m、横20mの長方形の平地がある。史跡指定の申請時には出丸とされていた。
鍋山城の築城については、室町時代の初頃とする説と、戦国時代すなわち天文年間(1532~1555)とする二つの考え方があるが、前の説を裏付ける証拠がないため、天文年間に三仏寺城から移った鍋山豊後守安室が築城したと一般に考えられている。安室は大八賀郷を領有していた小領主の1人で、鍋山へ移ってから山の名をとって、鍋山氏と称した。
ところが、安室が鍋山城を築いた頃、益田で強大になった三木氏が大野郡にも進出していた。畑佐城の山田氏、天神山城の高山外記は三木自綱に滅ぼされ、安室も三木氏に降り、自綱の弟顕綱を保身のために養子に迎えている。後に安室は顕綱に鍋山城を追い出され、鍋山城は三木氏の城になってしまった。
一方三木自綱は、さらに勢力を増して松倉城を築き、八日町(国府町)の合戦で北飛騨の江馬氏を滅ぼした。天正10年(1582)甲斐の武田氏と通謀したとして、鍋山城の顕綱を殺し、自分の次男秀綱を入れて、天正12年(1584)ほぼ飛騨全体を掌握した。
その頃の政局は、本能寺の変を経て、豊臣秀吉が天下を握ろうとしていたが、三木自綱は佐々氏と組んでこれに従わなかったため、秀吉の命を受けた金森氏の攻撃を受け、天正13年(1585)には滅びてしまった。
飛騨を与えられた金森氏は最初、鍋山城を居城とし、城下の建設にも着手したが、広い土地がなく、交通の便も悪くて城下町を営むのに向かないとして、数年で高山城を建設し、鍋山城は廃城になってしまった。
資料
⑦城郭-5 鍋山城
城郭-4 山下城(一之宮町)
山下城は天正5年(1577)飛騨一宮水無神社の神官、三木入道三澤が築いたという(『宮村史』)。三木三澤は、一宮坪の内(高山市一之宮町)に館を構えていたが、神社の安泰を図るために松倉城主三木自綱の妹と婚を結び、神職を家臣の森某に譲って自ら武門に入り、山下城に移ったという。天正13年(1585)に金森氏が飛騨に侵攻して三木氏が滅亡すると金森可重が山下城に入った。三木三澤は戦わずに逃亡したが、翌月再び蜂起し、その戦いで敗れて討死にした。
<概要>
山下城は、標高920mの尾根上に築かれている。主郭は、西側の尾根を2本の堀切で遮断している。主郭は平坦で、平たい石が並べられているが、城に関わる遺構ではなく、後世の遺構と思われる。
主郭より東に下ると尾根は二つに分かれている。東の尾根の曲輪②は、周囲に低いながらも明瞭な土塁を設けており、隅部は櫓台状を呈している。東南の尾根の曲輪③は、小規模な曲輪が下段にも続いている。山下城から麓に下る際は、尾根がいくつも分かれていて迷いやすい。
資料
⑦城郭-4 山下城(一之宮町)
城郭-3 畑佐城
高山市新宮町狐洞
畑佐城は新宮神社裏手の標高670mの山頂に立地し、上枝地区や、山田城を眺望できる見晴らしの良いところにある。地元では立(たて)壁城(かべのしろ)とも呼称される。
古くから文献などに記載が見られ、『飛州志』では「往古山田紀伊守其後川上縫殿介居之川上ハ天正十壬午年小島合戦ノ時戦死」、また『飛騨国中案内』では「是は城主三木氏城郭なれども其説山田紀伊守在城すと云う」とある。これらから戦国期に山田紀伊守、川上縫殿介が居城したと推測されるが、両者の詳細については明らかではない。一説には、川上縫殿介は江馬氏の家臣といわれている。
南西側から尾根を登る道が大手で、途中に2ヵ所の堀切と②曲輪が認められ、山頂の①-1主郭(本丸)に至る。①-1から北へ尾根上に①-2主郭(二之丸)が広がり、北側外郭に半月状の曲輪、東側には腰曲輪などが見られる。
①-2主郭(二之丸)から南東へ下る「旧赤坂道」と呼ばれる道があり、また、①-2から北方山麓鬼ヶ洞へ下る道が搦手道と考えられる。搦手道途中に「首切り場」と呼ばれる平地があり、「山田紀伊守」一族の処刑場跡との伝承が残る。
畑佐城跡は、中世の山城の性格を十分に備えた城郭であり、遺構の保存状態も良く、飛騨や、高山市の中世史を考える上で重要な城郭である。城跡は地元の新宮文化遺産保存会により大手、搦手などが維持、整備され、文化財めぐりウォークラリーのコースとしても市民に活用されている。
山田城はこの城から1.4㎞離れた場所にあり、標高630m、麓との比高40mで、頂上に小規模の平坦面がある。山田城城主の山田紀伊守は、白山三馬場の一つ、郡上長滝寺の代官だったと伝えられる。
平成9年5月21日 高山市指定史跡 約500×300mの範囲
尾根道、山腹古道 本丸周辺及び腰曲輪
二之丸周辺及び腰曲輪 堀切周辺及び帯曲輪
標高670m、比高70m
資料
⑦城郭-3 畑佐城
城郭-2 尾崎城(丹生川町)
尾崎城へは、高山市立丹生川中学校の裏側から南方向に遊歩道で登る。上り口西側の御(お)崎(さき)神社は地形上の尾根の先端にあたり、屋敷跡と推定される。
そこから100mほど東に登り詰めると二之丸といわれる郭に着き、さらに東へ進むと土橋を経て主郭に至る。
尾崎城は標高720mで、山頂の平坦部が広く、麓との比高が70mと低いことから屋形城といわれてきた。空堀を周囲にめぐらしその上部を土塁としている。平坦部は全長約280mあり、飛騨の城郭としては大きい。帯曲輪、畝状空堀群、土塁、横堀、土橋がある。
尾崎城は塩屋秋貞によって天文年間(1532~1555)に築かれたといわれていたが、発掘調査の結果、塩屋氏(16世紀)より100年以上古い時代の遺物が出土し、当初の築城年代が15世紀前半期とされている。
塩屋秋貞は飛騨半国の主と記され(『甲陽軍鑑』)、飛騨と越中の国境を越えて動いていた。秋貞に関する伝承は北に流れる宮川、神通川に沿って広く分布し、関係する城としては、臼本城(高山市塩屋町)、古川城(飛騨市古川町)、塩屋城(飛騨市宮川町)が考えられている。
また、富山県側は富山市大沢野町の猿倉城、岩木城、栂尾城、富山市大山(だいせん)町の津毛城が考えられている。『飛州志』には「塩屋筑前守居之来由未詳永禄天正ノ間ノ人也当城ト吉城郡蛤ノ城ニ居ス天正年中戦死」とある。
資料
⑦城郭-2 尾崎城(丹生川町)
城郭-1 三仏寺城 さんぶつじじょう
〈時代〉平安~戦国時代(12~16世紀)〈県指定〉昭和46年9月14日
〈員数〉城郭全体32,870㎡ 〈所在地〉三福寺町井之上他
〈所有者〉三福寺共有他 管理者・三福寺文化遺産保存会
三福寺集落の背後に位置し、北に向かって延びる城山(標高660メートル)の山頂に築かれた山城で、尾根に設けられた4ヵ所の平地が主要な遺構である。三福(みさき)神社のかなり東方から登る道が大手で、尾根に出てから右に登りつめた奥の平地が本丸跡であろう。平安時代の末に築かれ、飛騨では最も古い城跡である。保延、永治(1135~1142)の頃には●平時輔が飛騨の守としてこの城に在城した。●3代目の景則の頃から飛騨は平家の領国となった。●4代目景家は4人の子息と共に京へ上っていたが、治承五年(1181)、源義仲の軍に攻められ落城し、景家の室●阿紀伊の方と二子で城主景綱の●息女鶴の前は行方知れずとなった。義仲勢は飛騨の良馬を求めたといわれる。
弘安(1278~1288)のころには、地頭の左衛門尉●藤原朝高が、続いて畑六郎左衛門尉●藤原安高が在城したと伝える。
大永元年(1521)には、●三木直頼が在城し、天文16年(1547)、三木家臣●平野右衛門尉が入城したが、その子、安室(やすむろ)のとき鍋山城に転じ、直頼の男●三木直弘が入城した。永禄7年(1564)武田の武将山県三郎兵衛が飛騨へ討ち入り、直弘は城に火をかけ、桜洞の本城へ退いた。以後、三仏寺城は廃城になった。
飛騨守
1平時輔 ― 2時景 ― 3景則 ― 4景家 景高
― 景綱
*1時輔の代から在城 ― 景経
*3景則の頃飛騨は平家の領国 ― 景俊
*4景家京都に出ているとき、木曽義仲に攻められ落城
三仏寺城の下にある歓喜寺は、金森4代頼直が照蓮寺13世宣明の子治部卿(じぶきょう)のために建てた寺である。裏山に珍しい木地師の集団墓地がある。木地師の集団墓地は、ここと東山の宗猷寺の2ヶ所だけである。
資料
⑦城郭-1 三仏寺城
自然-8 猪臥山(飛騨市)
いぶしやま・1,518.8m
高山市清見町池本と飛騨市古川町畦畑(うねばた)にまたがる。
呼び名は、「いのぶせ」、「いのふせ」、「いぶせ」、「いぶし」と4つあり、昔、猪による被害などの関わりが、各集落ごとに深かったからと言う。国土地理院では「いのぶせ」、畦畑では「いぶし」と呼ばれる。
頂上のすぐ下の平地に「山の神」の社が祀られている。そこから数分で山頂に行ける。頂上からは360度の大展望が楽しめ、乗鞍岳、御嶽山と白山の秀峰、穂高岳などの飛騨山脈、北に望む飛越国境の山々が眺望できる。秋には飛騨市街地に朝霧が広がり、雲海の眺望が知られている。
登山
高山市清見町彦谷側からは卯(う)の花街道・猪臥山トンネルの手前750mの西側駐車場が登山口。飛騨市古川町畦畑側から小鳥峠を経て林道で登る道もあるが、林道工事関係者が通るので注意を要する。待避所が少ないので、すれ違い不可能の場合はかなりバックすることを覚悟しなければならない。
コース
彦谷側登山口―1時間10分―「1,350m中間点」―50分―「1,456m地点」―30分―猪臥山 ※東に回る周回コースがあって、展望台、無線塔、下り口、彦谷側登山口に戻る。
資料
⑥自然-8 猪臥山(飛騨市)
自然-7 高屹山(久々野町)
たかたわやま
1,303.1m
久々野の河川敷公園駐車場から林道を車で行くと、林道終点に6~7台の駐車スペースがある。登山道には、大きな右折れ岩、ゴジラの背、位山三山を一望できるお立ち岩などがある。木々に覆われた最後の急峻な道を登り詰めるとふれあい広場があり、一気に視野が広がる。山頂はここからほんの少し下って登った所。下山道は別ルートで、最初は急だが、後は安全で歩きやすい。
登山適期は高峰の残雪を望める5月から7月初旬。この時期の新緑も良い。日帰り登山が可能で、地元住民に愛されている里山である。山の名称の「たわ」とは、尾根の地形がたわんでいるという意がある。山頂からは、飛騨の山々はもちろん、飛騨山脈や白山が展望できる。
西方に位山三山と呼ばれている船山・川上岳・位山を一望できる。地図等では「たかたわやま」と表示されるが、地元では昔からなぜかこの山を「たかど」と呼んできた。
高屹山は、里からの眺望の山であり、道らしい道もなく、登山対象の山ではなかった。ある年、山に登って酒を楽しむ軽登山のグループが誕生した。彼らは高屹山に自分たちで登山道を作り、久々野の活性化につなげようと決めた。
登山道の完成までには、ルート調査、地主の許可など大変であったが、メンバーに山仕事の経験があったこともあり、着手から3年目に山頂に標柱を立て、無事完成した。登山専門誌などに紹介され、登山者が増えた。
コース 河川敷公園駐車場―徒歩で50分(車で林道終点まで行くこともできる)―林道終点登山口―20分―右折れ岩―30分―ゴジラの背―30分―ふれあい広場―3分―高屹山
資料
⑥自然-7 高屹山(久々野町)
自然-6 福地山(上宝町)
ふくちやま
1,671.7m
福地山は奥飛騨温泉郷福地温泉街から約2時間半で登れる里山である。福地山は化石の山でもある。層孔虫(そうこうちゅう)などの化石を道端で見ることができる。4億年の歴史をもつ地層からは、アンモナイトが発掘されておりこの地が太古には海があったことを物語っている。
地元温泉街の住民の細やかな整備のおかげで道は大変歩きやすく、子供でも登りやすい。山頂からの眺望は北アルプスが一望できる奥飛騨隋一の展望地となっており、紅葉が色づく時期や、残雪や雪の時期にかんじきを履いて登る県外からの登山客も多い。
登山道は平成16年(2004)に「飛騨北部トレッキングルート開発研究会」が地元福地温泉(高山市奥飛騨温泉郷)の有志の協力で整備した。温泉街にある「昔ばなしの里」横に登山者用駐車場、福地温泉朝市の山側に登山口がある。登山道幅が1.5~2mあって登りやすく、コースは整備されている。県内外の登山者が訪れ、トレッキングを楽しんでいる。
「無然平(むぜんだいら)」には、「飛騨の聖人」と呼ばれ、平湯での教員の傍ら、青年団を作り、幅広い社会活動をした教育者篠原無然の石像がある。そこには「篠原無然之像。福地山山荘跡。大正十年五月此処福地一之谷山へ入山。当山荘に山籠すること幾度。天地大自然を師と崇め、日夜修行に励まれた。」と記されている。
その「無然平」を少し登ると、細い尾根道と幅広い山腹道に分かれる。ダケカンバの生える山腹道は小型重機で敷設された一定勾配で赤土の歩道であるが、滑りやすく少々歩きにくい。左から回り込んだ尾根筋の第3展望台での眺めは、活火山焼岳が目前に見えて素晴らしい。ブナ、ネズコ、ミズナラ、チシマザサなどの植生を見ながら、第3展望台から一旦鞍部に下って、乗鞍展望台を過ぎると、まもなく標柱と三角点がある山頂に出る。
コース 登山口―30分―東屋―50分―無然平―35分―第3展望台―30分―福地山
資料
⑥自然-6 福地山(上宝町)