弁財天橋
弁財天河原付近に架かることに由来する。対岸の多町に向かって藤沢川との合流点付近の三峰川に架けられている。下流方面には弁天岩(弁財天岩)が見える。付近は弁財天河原と呼ばれる。現在の橋は、昭和14年(1939)に架け替えられた。
最初は弁天橋と命名されたが、弁天の正式名称の弁財天をとって弁財天橋に改名した。
かつては現在の天女橋の位置に架けられていた橋をいった。さらにその前は千人橋と言われたいう記録がある。
「べざいてんばし」とよむ。
高遠石工と高遠石
高遠町の方なら知っている弁天岩は、藤沢川と三峰川の合流点にあります。弁天様は弁財天ともいい、昔から財宝、商売繁盛、芸術、水などの神様として衆生の信仰を集めてきました。日本3大弁天というと、神奈川県江ノ島、広島県宮島、琵琶湖就航の歌で知られる滋賀県竹生島を指し、しかも七福神のなかでもただひとり女性の神様として人気の弁天様です。大きな岩の上に祀られている、ここ藤沢川合流点の弁天様は、暴れ天竜の元凶である三峰川を鎮めるために建てられものと推測されます。
さてさて、弁天様はさておいて、実はこの弁天岩周辺の岩質のことが今回のテーマとつながります。普段は薄緑色の岩は、雨や淡雪などで濡れると、少し青みがかかった美しい色になります。地質学的な表現をしますと、弁天岩周辺の岩石は、火山活動によって、地中深くゆっくりと冷えて固まってできた「輝緑岩」と呼ばれる岩です。ここの輝緑岩は別名、「青石」とも「高遠石」とも呼ばれ、マグマが地下の深いところで時間をかけて冷えたために硬い性質をもっています。高遠町で産出する硬い岩は、ほかにも安山岩があって、藤沢川上流から得ることができます。
石に関してもう少し話をしますと、あまり知られていませんが、三峰川では日本で一番多くの種類の石を探すことができます。一説には、日本全国の石のうち70から80パーセントの石を拾うことができると言われています。それは三峰川の流れる、南アルプスの成り立ちに理由があります。
標高3,033メートルの仙丈ヶ岳に源を発する三峰川は、まず四万十帯(しまんとたい)という地層を南に流れます。四万十帯は砂岩や粘板岩を主にした地層です。流れは石灰岩層の秩父帯(ちちぶたい)を北流し、さらに緑色岩、礫岩の三波川帯(さんばがわたい)、中央構造線に沿ってさらに三峰川は美和ダムに向かって流れています。そして美和ダム付近からは西へ向い、高遠町にかけては、領家帯(りょうけたい)の地層となりますが、このあたりでは花崗岩やマイロナイト、輝緑岩、領家変成岩などが見られます。そのほかにも三峰川流域では、変成作用をうけたチャートや蛇紋岩、アンモナイトなどの化石も見られ、まさに石の宝庫なのです。
この日本の「石のデパート」のような三峰川流域で、2014年9月27日(土曜日)から30日(火曜日)にかけて日本ジオパーク全国大会が予定されています。日本ジオパークは、2008(平成20)年、糸魚川・有珠山・山陰・島原などともに、国内で初となる日本ジオパークとして「南アルプス(中央構造線エリア)ジオパーク」として認定されました。ジオパーク(GEOPARK)とは、「大地の公園」と表現し、地球の成り立ちや、大地のでき方を知ることができる場所、つまり公園をさします。地球活動の遺産を知ることでできる、いわば「地質遺産」で、ユネスコの管轄に所属しています。国内では、2013年9月現在で32ヶ所となっています。そのほかにも準会員16カ所、関心を寄せている地域が11カ所と全国200近い市町村が関わりをもっています。9月末にはたくさんのみなさんが高遠町・長谷を訪れる予定です。
ところで先ほどの「青石」・「高遠石」は、なぜ輝緑岩ではなく「高遠」という固有名詞がつけられているのでしょうか?もちろん明治時代以前には、輝緑岩や蛇紋岩、花崗岩、変成岩、チャートといった専門的分類の表現はなく、ごま石やまだら石、青石、黒石など色や模様による表現や、火打ち石、ろう石、砥石など生活のなかから生まれた名前で呼ばれていました。そうしたなか、わざわざ「高遠石」と地域を表す名称にはどのような歴史があったのでしょうか?それは中世からその名を知られ、江戸は内藤家の時代となって、全国にその名を馳せた技術集団、「高遠石工」の存在です。特に元禄年間以降は、石工たちは全国に散らばり、石仏であれば、精巧にして芸術性の高い作品を残しています。石工たちは狛犬や鳥居も造り、また石臼・石垣など、石に関わる仕事は、高い信頼を行き先々で得ながら評判をよび稼いでいたようです。その範囲は、長野県内はもとより、山梨県・群馬県・栃木県・東京都・神奈川県・愛知県・三重県や、遠くは山口県や福島県・宮城県・山形県にも及んでいます。もちろん駒ヶ根や飯島、箕輪などの上伊那地域にも広く高遠石工の作品は分布し、諏訪地方にも、双体道祖神で人気の安曇野あたりにも多く残っています。そして、日本各地を旅して稼いだ高遠石工たちは、いまの高遠にある、北原・守屋・柿木・保科・藤沢・清水・池上などの姓なのです。
高遠石工は江戸高遠石工といえば守屋貞治、その父親の孫兵衛、祖父にあたる貞七の、いわゆる「守屋三代」が有名です。守屋貞治の生まれたのは明和2年(1765)、教科書でお馴染みの「田沼意次の賄賂政治」その粛正を図った松平定信の「寛政の改革」の時代の頃です。守屋貞治の代表作は、高遠町から長谷に三峰川を渡る「常盤橋」のたもとに佇む「大聖不動明王」や高遠町建福寺に数多くある作品のなかでも有名な「願王地蔵菩薩」、「如意輪観音」などが知られています。ちなみに貞治は生涯340体ほどの石仏を彫ったとされています。
このように高遠石工のすぐれた作品の材料となったのが、高遠で産出された輝緑岩や安山岩であり、石工の名声とともに「高遠石」として知られていったわけです。高遠石工の技術と、彼等が使った石材には「高遠」の固有名詞がつけられたのです。現在の花畑地籍、高遠ダム直下には、優良な材料として輝緑岩の採石場がありました。松倉や片倉にも材料に適した、安山岩の産出場があり、三峰川流域その支流、藤沢川流域は高遠石工の活躍するバックグラウンドが展開していたわけです。
菩薩像傍の石仏、道祖神、庚申塔、甲子塔、お墓の石塔や城の石垣、馬頭観世音、石の祠、神社の狛犬と鳥居、常夜灯、道しるべ、そして生活にあった石臼など、高遠町には自然のなかから生まれた石に、数々の手を加えた作品は数多くあります。藤沢川の谷から高遠の街にかけてのたくさんの野仏には、遠く、土俗で素朴な人々の姿や声が聞こえてくるかのよう錯覚すら覚えます。とりわけ、私の好きな建福寺の願王地蔵菩薩によせて、にごりのない微笑みと気品は何度も足を運びたくなる、高遠石工の傑作といえる作品です。
春、あたたかくなったら、ぶらりぶらりと、ふきのとうでも探しながら野仏たちを訪ね歩こうかなと考えています。
「清流」 まほら伊那市民大学 平成26年度修了記念文集 掲載 伊那市長 白鳥 孝 より引用