アーカイブ年: 2025
与那原の文化財 与那原町の石獅子
与那原町の石獅子は7つとも異なる姿・形をしている。特に火の獅子(上与那原区)と中島の石獅子②はユニークである。
火の石獅子は大里村の石獅子に対抗して設置された石獅子という話が残っている。昔、火事が良く起きていた大里村では、火事を返すために与那原町に頭を向けた石獅子を設置していた。そのことが原因で与那原での火事が頻発するようになったと考えた与那原の村人は、大里村に頭を向けた石獅子を設置することで村を火事から守ろうとした。
中島の石獅子は材木ストリートの先、住宅街にひっそりと存在している。が、この石獅子の顔の右半分は木がめり込んでいるというほかに石獅子にはないような唯一無二の個性がある。そういった特異さも含めて地域の人々から愛されているからこそ、今もなお残されているのかもしれない。
国道331号線沿いに鎮座している新島の石獅子①は、拝所として崇められているわけでも木がめり込んでいるわけでもないが、その胸元には大きなリボンがかけられており、かわいらしさを感じさせると同時に地元住民に愛されているという他ならない証拠のようなものであると思わせられる。
このように、石獅子は先人がかつて与那原町を守ろうとしてきた証拠であり、村人の地域に対する誇りを感じるような歴史を持っている。その歴史に触れることは現代の与那原町民のシティプライドにもつながると考えられる。また、これまで7体もの石獅子が大事に守られてきたという事実がシビックプライドであり、その石獅子の存在が広まることがより強いシビックプライドにつながる。
資料(メタデータ)
与那原の文化財_石獅子/与那原の文化材_中島区の石獅子
与那原の歴史 御殿山
御殿(ウドゥン)とは、王子・按司の家、またはその人を指す名称のことで、一般に王族の家屋建物を意味する語である。
御殿山(ウドゥンヤマ)は、山原(金武)から首里の御殿に納めるための木材を一時的に置いておくための場所であったことから由来する地名である。沖縄では昔、山原(金武)から木材や薪炭を運び、南部からは米・麦・豆といった日用雑貨を運んで貿易を行っていた。与那原はその物資を受け取る港として栄えていた。山原から運ばれてきた木材のうち、御殿に差し出す木はここに置くようにさだめられたため、実際には山はないが「御殿山」と称したというのがいい伝えである。
なお、御殿山は1999(平成11)年4月21日に町指定文化財として登録されている。
資料(メタデータ)
与那原町の歴史_御殿山
与那原の産業 AGARIHAMA BREWERY
与那原町にあるクラフトビール製造所のアガリハマブルワリー(クラフトビール専門店)は、株式会社YUKAZEの新規事業で2023年にオープンさせた場所である。創業約3年と始めたばかりで、「ないものは、創ればいい」というYUKAZEの理念のもと、一からビールについて勉強し、工場長とその仲間たちで作り上げたクラフトビールである。
与那原町の新たな県産品として発信中である。試行錯誤しながら作っており、ジャパン・グレートビア・アワーズ(JGBA)という日本地ビール協会(クラフトビア・アソシエーション)が主催する、日本国内で製造されたビールに特化した日本最大級の品評会・審査会では、2024年に金賞と銀賞、2025年にも銅賞を受賞している、成長中のクラフトビール専門店である。
クラフトビールは普通のビールと違い、苦手に思う方もいるが、AGARIHAMABREWERYのクラフトビールは、すっきりした味わいで、初心者の方でも飲みやすいように作られている。
この味わいを生み出すために、工場長の方は日々努力されている。主な原料は4つだけだが、その4つにも種類がありその組み合わせで味が異なっていたり、製造中の温度を1℃ずつ変えて味を確認しながら絶妙な調整をしながら作っている。試行錯誤に日々で年々美味しくなっていっているし、自身を持って提供している商品である。
資料(メタデータ)
与那原の産業_クラフトビール
与那原の文化財 三津武獄
三津武獄(みちんだき)は、与那原町の運玉森(うんたまむい)の中腹に位置する史跡で、琉球王国の信仰において神女の最高位とされる聞得大君(きこえおおきみ)が葬られた場所と伝えられています。
琉球で長く干ばつが続いた際、国王が神に祈りを捧げたところ、「聞得大君を連れ戻しなさい」との啓示を受けたという伝承が残されています。
聞得大君は琉球の聖地・久高島(くだかじま)へ参拝の途上、逆風に遭って薩摩へ漂着していました。命は助かりましたが、そのとき妊娠していたため首里に戻ることを避け、与那原の御殿山(うどぅんやま)に庵を結び、生涯を終えたといわれています。このため三津武獄は、現在も子宝祈願の聖地として多くの人々の参拝を集めています。
三津武獄がある運玉森は、与那原町と西原町の境にある標高158メートルのなだらかな山で、琉球時代の伝説の義賊・運玉義留(うんたまぎるー)が身を隠した場所とも伝えられています。「むい」は沖縄の方言で「森(もり)」「高地」を意味します。
資料(メタデータ)
与那原町の文化財_三津武獄
与那原の施設 沖縄県営与那原マリーナ
与那原マリーナは、1991年に始まった中城湾港マリンタウンプロジェクトをきっかけに整備され、2016年8月20日に開港した沖縄本島南部のマリーナである。総面積は7.1ヘクタールで、海上に66隻、陸上に226隻の船を収納可能。
2018年には日本最大級のマリーナクレーンを導入し、愛知県常滑市のマリーナりんくうに続き、60トンと20トンの2基のクレーンによるツーウェイ方式を採用している。さらに、幅10メートルの大型艇が入港できる施設は日本で与那原マリーナだけとされている。
マリーナでは、2019年10月から「イーストアドベンチャーセーリング」によるセーリング体験も行われており、ヨットの操縦や帆の上げ下げなどを実際に体験できるプログラムが用意されている。その他にも、チャーターボードを貸し切って釣りを楽しむこともでき、釣具のレンタル可能なため、手ぶらで気軽に参加できるのが魅力である。
資料(メタデータ)
与那原の施設_与那原マリーナ
与那原町の自然 運玉森
中城湾に面した与那原町の東南には雨乞森(133m)、北西には運玉森(標高158.1m)という山並みがひかえている。とくに、運玉森(うんたまムイ)は与那原町と西原町の境にある標高158.1mの森で、与那原小学校や与那原東小学校の校歌にも歌われ町民にも親しまれている。また、運玉森は、西原町に伝わる民話に登場する義賊「ウンタマギルー(運玉義留)」が隠れ住んでいた場所として伝説になっている。
現在の運玉森は道が整備され、2024年3月には運玉森の頂上に平和広場が設けられている。与那原町の公式サイトには、与那原町役場から運玉森の頂上までルート案内が掲載され、案内板や駐車場なども整備されて安全に訪れることができるようになっている。
平和広場は戦争について学ぶ場所として地域の学校や住民による学習活動に利用され、与那原市民にとって沖縄の過去と現在を結ぶ大切な場所となっている。
資料(メタデータ)
与那原町の自然_運玉森
与那原町の施設 与那古浜公園
与那古浜公園は、埋め立てにより造成された与那原町東浜地区に位置する、町内最大の公園です。美しい海岸線を望み、芝生広場や運動広場などが整備されており、世代を問わず多くの人々に親しまれる憩いの場となっています。この一帯は、1996年(平成8年)から始まった埋立事業により誕生した新しいまち「マリンタウン」として整備されました。
公園名の「与那古浜」は、琉球王朝時代から敗戦直後まで、山原船が行き交い、与那原が港町・陸海交通の要所として栄えた歴史に由来しています。琉球王国時代に編纂された歌集『おもろさうし』にも「よなはま」「よなこはま」として登場し、与那原の浜が神聖な場所であったことがうかがえます。沖縄県立博物館・美術館が所蔵する「間切図 島尻」にも「與那小浜」という文字が確認できます。
与那古浜公園では、毎年「与那原大綱曳まつり」与那古浜公園と御殿山青少年広場を会場に行われます。まつり会場となる与那古浜公園では出店や音楽ライブが行われ、翌日には大綱曳の本番が御殿山青少年広場で行われます。また12月~1月にかけて「YONABARU illumination」が開催され、多くのイルミネーションで公園が彩られます。イベント日以外でも、土日祝、長期休暇には、公園で多くの親子や子どもたちが元気に遊ぶ姿が見られ、地域に愛され、地域に活気をもたらす公園です。
資料(メタデータ)
与那原町の公共施設_与那古浜公園
沖縄の歴史上人物 百十踏揚/百十踏揚の墓
百十踏揚(ももとふみあがり、生没年未詳)は、琉球王国第一尚氏王統の尚泰久王(在位1454〜1460)の王女です。彼女は王命により勝連按司の阿麻和利に嫁ぎ、政治的な婚姻の一環を担いました。その後、阿麻和利が謀反を企てたとして討たれると、大城賢勇(鬼大城;越来 賢雄。15世紀琉球王国の武将で、鬼大城の名で知られる。越来は後に越来間切の総地頭となって以降のものであり以前は大城賢雄であった)に降嫁したと伝えられています。
『おもろさうし』には〈百ぢやらの主てだ、成りよわちへ〉と詠まれており、王女として華やかな地位にあったことや、神女として霊力を持ち活躍していた姿をうかがうことができます。百十踏揚は「神女名」としても知られており、政治権力の中枢において宗教的な役割を果たした女性でもありました。
しかし、彼女の生涯は権力闘争に翻弄されました。二人の夫─阿麻和利と大城賢勇─はいずれも非業の死を遂げ、百十踏揚は政略結婚の犠牲者として不幸な運命を辿ったといえます。特に賢勇の死については「尚泰久王の命による誅殺説」と「第二尚氏による攻伐説」があり、真相は定かではありませんが、いずれも政治的対立の中で命を落としたと考えられています。
参考1:らしいね南城市|沖縄県南城市観光ポータルサイト,https://www.kankou-nanjo.okinawa/,[アクセス2022/12/03]
参考2:辺戸名朝有「百度踏揚」沖縄大百科事典刊行事務局『沖縄大百科事典』下巻 沖縄タイムス社 p.677.
資料(メタデータ)
沖縄の歴史上人物_百度踏揚
与那原の交通 くじら橋
与那原町は沖縄本島中部の東海岸に位置し、近年では那覇市のベッドタウンとして開発が進みつつある地域で、新しい住宅地やマンションの建設も相次ぎ、若い世帯の流入が増えている地域です。
町の東側には中城湾を埋め立てて造成された東浜地区が広がり、それを囲むように「東浜水路」が整備されています。この水路には、「くじら橋」「東浜橋」「えびす橋」「世持橋」「与那古橋」「ゆめなり橋」「ほかけ橋」の7つの橋が架けられています。
中でも「くじら橋」は、東浜地区と知念高校裏を結ぶ最も海側に位置する橋で、埋め立て前にこの付近にあったクジラービシあ(くじらの形をした岩)に由来して名付けられました。
与那原町のシンボル的存在として親しまれており、晴れた日には中城湾を一望できる撮影スポットです。かつて漁業が盛んだった与那原の海とのつながりを感じられる場所でもあり、与那原町の自然と歴史が感じられる景観となっています。
資料(メタデータ)
与那原町の暮らし_くじら橋
沖縄の自然 泡瀬干潟
沖縄市の東海岸に広がる泡瀬干潟は、約250ヘクタールに及ぶ国内最大級のサンゴ礁干潟です。砂・泥・サンゴ礫・海草藻場・サンゴ礁が複雑に入り混じる環境で、その多様性と規模から、東京湾の盤州干潟や九州・有明海の干潟と並び、日本を代表する干潟のひとつとして注目されています。
この干潟は、干潮時には豊富な底生生物が姿を現し、シギ・チドリ類などの渡り鳥にとって国際的に重要な中継地となっています。そのため、渡り鳥の保全や干潟生態系の研究にとって格好の場となり、国内外の研究者や市民による調査・観察活動が続けられています。
さらに、泡瀬干潟は埋め立て開発をめぐる議論を背景に、保全活動や環境教育の場としても注目されており、「泡瀬干潟を守る連絡会」をはじめとする市民運動は、学術研究と地域社会をつなぐ実践の場ともなっています。このように、泡瀬干潟は自然環境の保全と地域社会のあり方を考える場になっています。
資料(メタデータ)
沖縄の自然_泡瀬干潟
【新聞寄稿】飛騨高山匠の技と地域のデジタルアーカイブ
2016.8.24 掲載 岐阜新聞 オピニオン
久世 均(くぜ ひとし)
1954年瑞穂市生まれ。岐阜大学大学院教育学研究科修士課程修了(教育学修士)。専門は、教育工学、デジタルアーカイブ、情報教育、生涯学習。2006年より文化創造学部教授。日本教育情報学会理事、文部科学省「先導的な教育体制構築事業」委員、文部科学省ICT活用教育アドバーザー。著書「デジタル・アーカイブ要覧」「生涯学習eソサエティハンドブック」など。62歳
高度情報通信社会において,この世には情報があふれていると言われながら,意外に知らないのが自分の生まれ育った地域です。この地域の貴重な「文化資源」を記録し保存等を行うことを「地域のデジタルアーカイブ」と呼んでいます。
自分の生まれた地域のさまざまな文化資源等をデジタルアーカイブしてみることにより,これまでに気付かなかったさまざまなものが,素材を通して見えてきます。また、地域のデジタルアーカイブという手法を通して,自分と地域の新たな関係がそこに生まれ,時空を共にした一瞬が記録することができます。
この地域のデジタルアーカイブは,このようにさまざまなことを発見し,理解を深めていく上で大切な活動です。しかし,それだけで地域の本当の姿が見えてくるわけではありません。むしろ、デジタルアーカイブで記録された素材は,単なる地域を知る手がかりのような情報で,現実の地域の映像は,長い時間経過の中の一コマを捉えた記録に過ぎなく、非常に現象的なものです。
例えば、皆さんが住んでおられる地域は、古代には海の底だったかもしれませんし、陸地であってもそこは干拓されてできた土地かもしれません。また、家並みも50年前,100年前とは大きく異なっています。同様に,これから50年先,100年先がどのように変貌していくかもわかりません。あくまで地域の映像は,その「時代」を写し取った現象的なものの記録なのです。こうして現在の地域をデジタルアーカイブすると,目には見えないもっと本質的な何かがそこにあるということが理解できてきます。そこに記録されたものが何なのか,なぜ地域の人々はそれを捉えたのか,といったことは,記録した時よりも,素材化した後,素材に再び向き合う時に気付いてくることが意外に多いものです。
また、場合によっては,何十年も経過した後,古い素材に接した時に,以前には気付かなかったことに気付き,素材化していたことのありがたさを感じることもあります。特に、地域の生活に中にある知を発見し,アーカイブすることは,地域の文化の再発見のプロセスとして重要です。
しかし、このような地域のデジタルアーカイブには,地域の人々の参加が必要となってきます。特に,地域の資料の収集,デジタル化には,地域の実情に応じた活動が重要であり,自分たちの身近な場で地域のデジタルアーカイブをすべきです。
このためには,いかに地域の人々が自分たちの「文化資源」としていかに主体的に収集・整理することできるかが課題です。また,このような地域の人々や,大学,学校,社会教育施設などとの協働によるデジタルアーカイブの活動を,地域における生涯学習の一環として捉えることが重要だと思います。
岐阜女子大学では、デジタルアーカイブについては20年前から実践しており、実践的なデジタルアーカイブの開発・研究も先導的に行っています。その中でも、地域のデジタルアーカイブとしては、北海道から沖縄まで、写真、古文書、研究成果など20万件の多様な資料を保管し利用できるようになっています。
本年度からは、現在、文化庁の「日本遺産」に認定された飛騨高山の匠の技のデジタルアーカイブを高山市等の地域の人々と共に進めています。飛騨高山の匠は、律令制度下において、匠丁(木工技術者)として徴用され、多くの神社仏閣の建立に関わり、平城京・平安京の造営においても活躍したと伝えられています。また、匠の技については、平城宮造営に従事していたことを示す『正倉院文書』や宮跡から出土した木簡、奈良県に残る「飛騨町」など、さまざまな歴史的資料をはじめ、言い伝え、伝説などにも残されています。
現在の伝統的な匠の技や製品についても、こうした古くからの歴史的背景、関連する各種資料が、その重要性を裏付ける根拠となるため、次の世代への伝承の中で、歴史的資料も収集し、適切に保管、選択、利用できる総合的な地域のデジタルアーカイブが必要です。また、その情報を海外に発信することにより伝統文化の価値を高めることに繋がってきます。
内閣の知的財産戦略本部では、2007年2月に「知的創造サイクルの推進方策」を策定し、知的創造サイクルの戦略的な展開のための具体的方策を提言しています。これをデジタルアーカイブのサイクルとしてとして捉えると、収集・保存した情報を活用することにより、新たな情報を創り出すということになります。
本学では、デジタルアーカイブにおける知的創造サイクルとして「知の増殖型サイクル」を提案。飛騨高山匠の技デジタルアーカイブに適用することを研究しています。
飛騨高山の匠の技デジタルアーカイブを、産業技術、観光、教育、歴史等で新しい「知の増殖型サイクル」実現を目指し、地域の文化資源の価値をさらに高める新しいデジタルアーカイブとして捉えています。
Digital Heritage: Hida Takayama’s Master Crafts and Knowledge Cycle
高度情報通信社会における、生まれ育った地域の貴重な文化資源を記録・保存する地域のデジタルアーカイブの重要性とその手法を論じています。デジタルアーカイブは、地域に対する新たな視点を提供するものの、その真価を引き出すためには、生涯学習の一環として教育機関と連携した地域の人々の参加が不可欠です。具体的には、日本遺産に認定された飛騨高山匠の技を対象としたデジタル化事例を詳述し、地域の歴史的背景や資料を次世代へ正確に伝承する必要性を強調しています。最終的な目標は、収集した知的資源を活用して産業や教育に役立つ新たな価値を生み出す知の増殖型サイクルの実現を目指すことにあります。
動画資料




































































































































































































