歓喜院
歓喜院(かんぎいん)は、埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗の仏教寺院である。日本三大聖天の一つとされる。一般的には山号に地名を冠した「妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)」と呼称され、公式でも主にその名で案内される。 また、「埼玉日光」(国宝に指定される前は「埼玉の小日光」[2] )とも称されている。参拝客や地元住民からは「(妻沼の)聖天様」などと呼ばれている。
寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が参拝したほかにも、中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。
平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011年)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012年)7月9日に聖天堂(本殿)は国宝に指定された(埼玉県内における国宝建築物としては、初めての指定で、2021年現在唯一である)。
聖天堂(本殿)
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は妻沼の名工林兵庫正清で幕府作事方棟梁の平内政信の子孫に当たり、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にわたる二十数年をかけて再建されたものである。奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。
奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等を華麗にほどす装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とも伝承されるが実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。彫刻にはそれぞれ中国の故事にちなむ主題が見られ、唐破風下に「三聖吸酸」及び「司馬温公の瓶割り」など、拝殿正面唐破風下には「琴棋書画」がある。2003年から2010年にかけて屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定
泉福寺
泉福寺(せんぷくじ)は、埼玉県桶川市にある天台宗の寺院である。山号は東叡山。院号は勅願院。房号は円頓房。本尊は阿弥陀如来および地蔵菩薩。
泉福寺の正門にある竜の彫刻は左甚五郎の作といわれております。むかしこの村は非常な旱魃(ひでり)にあって、田畑の作物が枯死寸前となり、村人たちは困ってしまいました。すると村の長老が、「長いこと門に閉じこめられていて、さぞ退屈だったろう、どうじゃ寺の池にでも出して泳がせてみるとしたら」と、言いましたので、どんな雨乞いもきかなかったときのことだけに、村人たちもそろって賛成し、さっそく竜を門からおろして、池にはなしてやりました。
彫刻の竜は、雨乞いの村人たちの目の前で、まるで生きもののように泳ぎ出しました。雨乞いの祈りも忘れて、目を見張る村人たちの頭上が、にわかに曇って、その黒雲の流れの早いこと、見る間にあたりはうす暗く、風雨も強くなりました。
雷鳴がとどろき、大暴風雨となり、池はあふれ、たちまちのうちに荒川もいっぱいになり、とうとう大洪水となってしまいました。
あまりのことに驚いた村人たちは、雨乞いもやたらと出来ないと語り合い、あの竜をどうしたものかと相談することになりました。
竜を放そうと言った長老が、「この先、あばれすぎて、何が起こるか知れん。すぐにでもあの竜を動けないようにしなくてはならない」と、言いました。
それには、どうしたらよいかとみんなで知恵をしぼって考えました。村人たちが総出で、竜の爪を切りおとして、今まで納まっていた寺の門へ、かねのくさりで、しっかりとしばりつけることになりました。
それからは、村に大洪水はなくなったということです。
本掲載内容は、桶川市史「第11章 口頭伝承・民俗知識」の一部
泉福寺の正門の竜の彫刻は左甚五郎の作という。昔、大変な旱魃があり、田畑の作物は枯死寸前となった。すると村の長老が「長いこと門に閉じこめられていて、さぞ退屈だったろう、どうじゃ寺の池にでも出して泳がせてみるとしたら」といった。
どんな雨乞いも効果がなかったので、村人たちは皆賛成し、早速竜を門から下ろして、池に放った。彫刻の竜は皆の前でまるで生き物のように泳ぎ出し、村人たちは雨乞いも忘れて目を見張っていた。そうしているうちに黒雲が流れ出し、雷鳴が轟き、大暴風雨となった。
たちまち荒川があふれ、大洪水になってしまった。あまりのことに驚いた村人たちは、やたらと雨乞いはできないと語り合い、竜の爪を切り落し、寺の門へ鎖でしっかりと縛りつけることにした。それからは村に洪水はなくなったという。
『桶川市史 第六巻 民俗編』より要約
泉福寺の正門の竜の彫刻は左甚五郎の作という。昔、大変な旱魃があり、田畑の作物は枯死寸前となった。すると村の長老が「長いこと門に閉じこめられていて、さぞ退屈だったろう、どうじゃ寺の池にでも出して泳がせてみるとしたら」といった。
どんな雨乞いも効果がなかったので、村人たちは皆賛成し、早速竜を門から下ろして、池に放った。彫刻の竜は皆の前でまるで生き物のように泳ぎ出し、村人たちは雨乞いも忘れて目を見張っていた。そうしているうちに黒雲が流れ出し、雷鳴が轟き、大暴風雨となった。
たちまち荒川があふれ、大洪水になってしまった。あまりのことに驚いた村人たちは、やたらと雨乞いはできないと語り合い、竜の爪を切り落し、寺の門へ鎖でしっかりと縛りつけることにした。それからは村に洪水はなくなったという。
『桶川市史 第六巻 民俗編』より要約
五箇山 菅沼合掌集落
富山県の南西端にある南砺市・五箇山には、9戸の合掌造り家屋を今に伝える菅沼合掌造り集落があります。その家屋は、いくつもの歳月を重ねて、冬の豪雪に耐えうる強さと、生活の場と養蚕などを生産する仕事場を兼ね備えた合理性を持つ建物です。
そのたくましく美しいたたずまいを筆頭に、日本の原風景ともいうべき山村の景観も含めて、1995年12月に岐阜県白川郷、五箇山相倉とともにユネスコの世界文化遺産に登録されました 周辺の山林をも含めた地域が世界文化遺産に指定されているため、観光地化されていない、ありのままの自然を残しているところが魅力。
遙か昔にタイムスリップしたかのような不思議な感覚を味わえます。また、集落内には江戸時代の主産業を今に伝える「塩硝の館」や「五箇山民俗館」があり、五箇山の歴史と伝統にふれることもできます。
(引用:http://suganuma.info/about)
五箇山 上平村上梨
上梨(かみなし)は、国道156号線沿いにある五箇山地域で最大の集落です。こきりこの里として知られています。毎年9月25日と26日にはこきりこ祭りが開催され、白山宮では奉納こきりこ踊りが行われます。
上梨は世界遺産に登録された五箇山の相倉(あいのくら)と菅沼の間に位置する集落。多くの観光客が素通りしていますが、ここにも見事な合掌造り民家が残されています。
富山県の五箇山(旧平村、旧上平村、旧利賀村の総称)にはかつて70の集落があり、そのほとんどが合掌造りの村でした。しかし近代化の影響を受け、多くの家が建て直され、また、豪雪被害などで廃村となる集落もありました。
現在、良好な状態で往時の姿をとどめるのが、相倉(合掌造りの民家は20戸)と菅沼(9戸)で、岐阜県白川郷の荻町とともに世界遺産に登録されています。
上梨は相倉と菅沼の間に位置する集落。合掌造りの家が5戸残り、数のうえでは五箇山で第三の合掌集落ということになります。
別の言い方をすれば、合掌造りの家が「群」をなしている光景を見られるのは、相倉、菅沼のほかには、ここ上梨だけということになります。