曹洞院
下田市街地より県道下田南伊豆線で西に3km程行くと、山合いに第25番札所の曹洞院はある。周りを自然林に囲まれ、静かなたたずまい。シンプルな造りの山門は左甚五郎作と伝えられている。本尊は十一面観音。
幾度かの火災のため記録が焼失してしまっていて、詳細な沿革は不明となっています。かつては弘法大師修行の霊蹟で大師山とも言われる真言宗の大刹でした。戦乱で焼失した後、1525年(大永5)に七堂伽藍を再建、その際に曹洞宗へと改宗しました。1593年(文禄2)に山火事で類焼しましたが、1596年(慶長元)に再建されています。
23.伝説「左甚五郎の山門」
大賀茂の林山、少林山曹洞院の山門は江戸初期の名匠、日光陽明門にある「眠り猫」の作者、左甚五郎の作と伝えられている。
此の山門は別名「響門」と呼ばれ、寺内にある「金剛水」は弘洪大師ゆかりの井水と共に有名である。
曹洞院は元禄年間に火災のため大部分の建物が焼失したが、響門(山門)は本堂から大部離れた森の中にあったので、幸い火災を免れた。
響門はクギ一本も使わない完全なクサビ門で、中ほどの敷居の上で拍手を打つと前方の山に響きが伝わって、鴬の声に聞えたり小鳥の声に聞えたりして響が伝わってゆくので、響門と呼ばれるようになったと云う。
四脚門の切妻造りで、現在は桟瓦葺であるが、昔は茅葺であったと云う。
斗供は出三斗、中央及び前後の梁の上に蟇股があり、蟇股の中に浮彫が施されている。両側の外部には椿及びぼたん。その裏側にはそれぞれ花菱と桐、中央の蟇股にはおもだかの紋様が刻まれている。おもだかは此の門を寄進した武士の家紋であろうと云われる。蟇股の浮彫をはじめ、虹梁・懸魚・こぶし鼻等
の紋様は、素朴であるが気品を持っている。棟札の銘によると「延宝九年(1681)此門新造」と記されている。
左甚五郎は「一生に同じものを二度と作らなかった」と伝えられるが、「ここの門と曹洞院の門とは同じものだ。嫁があったら尋ねてゆけ。」と誰かに云い残したという事だが、「こゝの門」がどこにあるのかはっきりしない。
先年、曹洞院住職伊藤仁重老師(昭53.8亡)を尋ねて、「響門」の話を伺った時、先代の臼井祖猛師が片瀬の竜渕院の山門が「こゝの門」を指しているのではないか、というのを聞いたことがあると話された。
響門は名工の作として、今日でも柏手を打てば妙なる響を伝えてくる。
下田市の民話と伝説 第2集より
デジタルアーカイブ研究所資料集(飛騨高山編)
はじめに
平成29年度に文部科学省の私立大学研究ブランディング事業の「地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業」で採択され、3年間にわたりこれまでに本学独自で育んできたデジタルアーカイブ研究を活用し、地域資源のデジタルアーカイブ化とその展開によって、伝統文化産業の活性化などの地域課題の実践的な解決や新しい文化を創造できる人材育成を行い、地域の知の拠点となる大学を目指し事業を展開してきた。
その中でも「飛騨高山の匠の技デジタルアーカイブ」は、以下の点に注力して研究を進めてきた。
①伝統文化産業(飛騨春慶・一位一刀彫等)を多視点でデジタルアーカイブし、歴史的な視点を総合的にまとめ、匠の “こころ”をオーラルヒストリー等により「知の増殖型サイクル」を構成し、これらの一部を海外へ発信することにより伝統文化産業の振興を図る。
②伝統文化産業における匠の技とその歴史的な背景をまとめてデジタルアーカイブ化することで、伝統文化産業の理解と継承が容易になる。さらに、継承の過程で生まれた新しい知見を「知的創造サイクル」で取り込み、その利活用によって地域社会の振興を支援できる。
③フィールドにおける効果検証をするためのデジタルアーカイブ研究として捉え、解の見えない地域課題の解決をするための地域資源デジタルアーカイブとそのメソッドを確立する。
これらにより、地域の知が適切に循環・増殖することで新たな価値の創造と、これらを実践できる高度な専門的な知識を持つ人材の養成による雇用の創出を促進し、その結果として「知的創造サイクル」としてデジタルアーカイブの効果が認められ、さらにデジタルアーカイブの新たな展開が期待できる。また、これにより大学は地域に開かれた「知の拠点」となりうる。
この「デジタルアーカイブ研究所資料集(飛騨高山匠の技編)」は、本学が展開しているデジタルアーカイブの最新成果であり、これらの研究の拠点となるデジタルアーカイブ研究所では、大学が大学としてのアイデンティティを確立するためにも、「知」の拠点としての地域資源デジタルアーカイブを含めた総合的な大学デジタルアーカイブを構築することを支援している。今後は継続してデジタルアーカイブ研究に取り組むとともに新たな養成カリキュラムを構築することが本学として社会的な責務と捉えている。
2023年10月 デジタルアーカイブ研究所長 久世 均
岐阜女子大学 デジタルアーカイブ研究所
資料集(飛騨高山匠の技編)
発行年月日 2023年10月
発 行 所 岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所
〒500-8813
岐阜県岐阜市明徳町10番地 杉山ビル4階
印 刷 所 有限会社 青山印刷
高山市長との協議
1.日程 11月15日(水)9:00~14:00
2.高山市長との協議
3.参加者
一般財団法人 飛騨高山大学連携センター
①六角センター長
②木岡副センター長
岐阜女子大学
③松川学長
④久世 4名
4.内容
1.岐阜県私立大学地方創生推進事業について
2.飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ資料集
(上)(中)(下)(左甚五郎編)
3.資料の活用について(協議)
4.その他
資料
大龍寺
「だるま観音」として知られるお寺で、境内には約5メートルもある達磨大師坐像が安置され、毎年1月中旬に念願かなって両目を入れ奉納されただるまを供養する「だるま供養」が行なわれます。
このほか、戦国時代、斎藤道三公や織田信長公、豊臣秀吉に仕え美濃三人衆の筆頭に挙げられた「稲葉一鉄」ゆかりの寺で多くの遺品が残されています。
大龍寺(だいりゅうじ)は、岐阜県岐阜市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は金粟山(きんぞくさん)。
※本来は、こんぞくさん だいりょうじ と読む
通称「だるま観音」。岐阜市の北端にあり山県市高富と隣接することから「高富大龍寺」とも呼ばれる。
本尊は腹帯子安観世音菩薩、達磨大師。子授け、安産、虫封じにご利益があるという。
美濃三十三観音霊場第十一番札所。美濃七福神(福禄寿)。土岐氏、稲葉一鉄ゆかりの寺である。
沿革
飛鳥時代の持統天皇の時代、国家鎮守の寺として創建されたと伝えられている。平安時代に真言宗に改宗する。安元元年(1175年)、後白河法皇が腹帯子安観世音菩薩を安置。本尊とする。
明応年間(1492年 – 1501年)、土岐氏の強い要望により、瑞翁和尚が招かれる。文亀2年(1502年)、大龍寺は臨済宗に改宗し、達磨大師を安置する。
永禄年間(1558年 – 1570年)、別伝の乱(美濃国で起きた禅宗の宗派の争い)の折、大龍寺の五世龍谷は斎藤義龍に加担し、快川和尚をはじめとする多くの禅家と争うが敗北し、本山妙心寺から除籍される。その為一時廃れたが、天正年間(1573年 – 1592年)、再興される。
平成8年(1996年)5月5日、高さ5mの達磨大師坐像が安置される。
龍峰寺
龍峰寺(りゅうぶじ、龍峯寺)は岐阜県岐阜市奥にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は廣徳山。北方城主安藤守就の菩提寺である。
戦国時代に北方城主の安藤守就が、弟の湖淑を開山として一族の菩提寺として北方に建立した。正確な創建年は不明で、湖淑の法系も伝わっていない。その後、天正10年(1582年)に北方城が稲葉良通により攻められた際に城と共に兵火により焼亡した。湖淑は本巣郡の奥村まで逃れ、安藤守就の菩提を弔い寺院を再興した。湖淑和尚の没後は住持を欠くが、明暦年間に越前国報恩寺の別川和尚が住持となる。その法嗣、蜜外和尚は人里離れた山上から麓に寺を移した。天和3年(1683年)に乙津寺の鉄錐和尚を住持に招いたのちその法が受け継がれた。寺宝として湖淑和尚の肖像を所蔵し、安藤守就の墓が本堂裏手の山に建っている。
後背山栄昌院
栄昌院は、織田信長の妹であるお市の方と浅井長政との間に生まれた三姉妹のうち、次女の常高院(初)の菩提寺です。
初は、近江の名門で若狭国(福井県)小浜城主となった京極高次に嫁ぎました。寛永十年(1633年)に江戸で亡くなり、法名を常高寺殿松厳栄昌大姉といいます。常高院の没後、その側近く仕えた侍女七人が小浜にそれぞれ寺庵を結び、全体を栄昌院と号して、常高院の菩提をとむらいつづけました。
明治維新をむかえたとき、尼僧たちは小浜から京極家の領地であった丸亀(香川県)に移りましたが、明治初期に京極家が祭祀を仏式から神式に改めたため、常高院の位牌とともに尼僧が美濃国方県郡佐野村(岐阜市)へ来住し、栄昌院を復興したのです。
境内には常高院の供養塔とともに、寺を守ってきた歴代の尼僧たちの供養塔が建っています。
また、ドラマでも有名となった、三姉妹の三女の江から初にあてた手紙が見つかったことから栄昌院は一躍脚光を浴びました。