稲爪神社
兵庫県明石市大蔵本町に鎮座する神社です。式内社「宇留神社」および「伊和都比賣神社」を当社に比定する説があります。
当社の由緒について、江戸時代の地誌『播磨鑑』の引く「或記」に概ね次のように記しています。
推古天皇の御代、異国から「鉄人」が八千人の兵を率いて日本へ侵略しに来た。
そこで伊予国の「小千益躬(オチマスミ)」なる人物が命を受け、九州へ赴いたが、「鉄人」のあまりの猛威のため降伏し日本を案内することとなった。
益躬らは九州から播磨の室津まで船で移動し、そこから馬で案内した。
明石に着いた時、三島大明神が益躬の陣中に顕れ、「鬼指」という矢を隠し持ち、この矢で「鉄人」の足裏を指し通し、鉄人が馬から落ちたところを益躬の随臣らが遂に討ち取った。
この神威に感謝し大蔵谷に三島大明神を勧請したのが当社である。
細部で異なる点はあるものの、現在もほぼこのような由緒が伝えられています。
また一説に、三島大明神が顕れた際に稲妻が発生したので当社は元は「稲妻大明神」と称したとも伝えられています。
当社の由緒に登場する「鉄人」のような、全身が金属で覆われた武将が猛威を振るうも体の一ヶ所(当社社伝では足裏)に弱点があり、ここを突かれて退治される伝説は全国に分布しています。
当社では「鉄人」は単なる敵として登場するものの、各地で語られる伝説は必ずしもそうでなく、当初は英雄として活躍する例も多く見られます。
大林太良氏の『本朝鉄人伝奇』によればこうした「鉄人」伝承には、
母親が妊娠中に鉄を食べてしまう。
その結果生まれた子供は全身鉄張りであるが、ただ一ヵ所だけ鉄張りでないところがあった。
この鉄人は成人後、武名を轟かせるが、ふつう悪玉と考えられている。
ある英雄がこの鉄人を討とうとするも難渋していたとき、英雄は女(多くの場合、鉄人の母あるいは愛人)から鉄人の弱点がどこにあるかを知る。
英雄が鉄人の弱点を攻めてこれを退治する。
の五つの特徴があることを指摘しています。
当社の社伝はこの内の1.および2.が欠如しており、また鉄人に弱点があることを教えたのは女でなく三島大明神となっている点に脚色があると言えましょう。
谷川健一氏は『鍛冶屋の母』において、こうした「鉄人」伝承は鍛冶師や鋳物師など金属に関する漂泊民らによって伝播されたのではと推測しています。
社伝に登場する「三島大明神」とは伊予国一宮である「大山祇神社」(愛媛県今治市大三島町宮浦に鎮座)の神で、「小千益躬」の「小千」とは「越智」すなわち今治市から芸予諸島東部にかけての一帯を示す地名(伊予国越智郡)です。
「大山祇神社」は一般に海の神もしくは社名の通り山の神として信仰されており、金属に関する信仰があったかは定かではありません。
ただ、伊予国越智郡で製鉄を行っていた集団が当地へ移住していった可能性は考えられるかもしれません。
いずれにしても人々の移住など伊予国との何らかの縁により「大山祇神社」の神が勧請されたのが当社だったのでしょう。
現在の当社は「大山祇神」に加えて神代七世の神である「面足(オモダル)神」「惶根(カシコネ)神」の二柱も配祀しています。この二柱が祀られている理由ははっきりしません。
江戸時代中期の国学者、度会延経は『神名帳考証』で式内社「宇留神社」は当社ではないかとしているもののその理由は不明。
また『神社覈録』は式内社「伊和都比賣神社」は大蔵谷中庄村の「岩屋明神」に比定しています。中庄とは明石川の河口左岸側の地名で、現在は「岩屋神社」が鎮座しており、恐らくこの神社を指しているのでしょう。ただその地は大蔵谷ではないため当社と混同している可能性があります。
また何故か(明石郡でなく)赤穂郡の方の「伊和都比賣神社」を当社に比定する説もありますがこれは荒唐無稽と言うべきでしょう。
このように当社を式内社とする、或いは式内社を合祀しているとする説があるものの、一般的にはあまり認められていません。
「鉄人」伝承に基づき古い時代に伊予との関わりの中で創建された神社であるとの認識が根強く、現在は明石市東部の有力な神社として人々に親しまれています。
左甚五郎作の彫刻
素戒鳴尊、八岐大蛇退治をモチーフとしたもので左甚五郎作と伝わります。
左甚五郎は明石の和坂生まれという地元伝承があり彼の作品と伝わる山門や木像などが何ヵ所か明石市内にもありますが、この門は一般に知られる左甚五郎の作品の可能性が高いといわれています。
稲爪神社には文化財指定を受けている複数の神事が伝承されています。兵庫県指定無形民俗文化財の大蔵谷の獅子舞は京へ上る途中だった秋月種実が大蔵谷宿で宿泊した当日が稲爪神社の宵宮で秋月家の先祖大蔵氏時代から伝わる獅子舞神楽を奉納したのが始まりと伝わるもの。牛乗りと大蔵谷の囃口流しは明石市指定無形文化財となっています。神事の模様や詳細は稲爪神社のホームページで御確認ください。
稲爪神社(稲爪濱えびす)
稲爪神社の楼門には、江戸時代に活躍した明石出身の伝説的な彫刻職人「左甚五郎」作と伝わる『素戔嗚大神の大蛇退治』の彫刻が施されている。
祇園祭(八幡山)
町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれる。水引は今までの金地花鳥仙園図唐繍にかわって昭和61年より十長生図の刺繍が用いられている。「十長生」とは不老長寿を意味する。前懸は慶寿群仙図で元禄3年(1690)に寄進されたものを昭和62年に復元新調したのである。見送は日輪双鳳人物文様の綴錦と藍地雲龍文様蝦夷錦がある。欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝えられ、朱塗鳥居の上には左甚五郎作の木彫胡粉彩色の鳩が飾られる。その他に美術品として海北友雪(1598~1677)筆の祇園会還幸祭図屏風(京都市指定文化財)を所蔵している。
The object of worship of the small Shinto shrine which located on this float is Hachiman, one of the most famous Japanese gods.
The miniature shrine on the float is decorated with gold foil, and it is said to have been made in the Tenmei period, between 1781 and 1788.
(引用:http://www.gionmatsuri.or.jp/)
祇園祭(鯉山)
山の上に大きな鯉が跳躍しており、龍門の滝をのぼる鯉の奔放な勇姿をあらわしている。前面に朱塗鳥居をたて山の奥には朱塗の小祠を安置し素盞鳴尊を祀る。その脇から下がる白麻緒は滝に見立てられ、欄縁その他の金具はすべて波濤文様に統一されている。山を飾る前懸、胴懸(2枚)、水引(2枚)、見送は16世紀にベルギー・ブラッセルで製作された1枚の毛綴を裁断して用いたもので、重要文化財に指定されている。ベルギー王室美術歴史博物館の調査により、その図柄はホーマー作「イーリアス」物語の一場面で、トロイのプリアモス王とその后ヘカベーを描いたものといわれている。別に旧胴懸としてインド更紗のものがある。また、平成21年に前水引「金地果実文様」が、平成22年に後水引「金地花唐草文様錦」が新調された。
The theme of this float comes from a Chinese legend that if a carp (koi in Japanese) could swim up ryumon (a waterfall), it would become a dragon. The figure of the carp on this float is quite realistic, vivid and beautiful, as if a living carp is jumping up the waterfall. The shrine on this float is dedicated to Susano-o no Mikoto”, a powerful deity in Japanese mythology. The designs of most of the tapestries describe stories of the Trojan War in Greek literature. They were produced in the 16th century in Brussels, Belgium.
龍門の滝を登り切った鯉は、龍になるという中国の「登竜門」の故事を表現した山です。飛沫を上げながら滝を登る鯉の彫像は、左甚五郎の作と伝えられています。
また、前懸・胴懸・水引・見送はギリシャの英雄叙事詩『イーリアス』の名場面を描いた逸品です。欄縁を飾る金具は、激流を表現した波濤文様で立体感のある厚肉彫です。隅房掛金具も波を意匠しており、千鳥を一羽ずつ浮彫にしています。明治の名工・村田耕閑の作です。(引用:http://www.gionmatsuri.or.jp/)
祇園祭(月鉾)
鉾頭に新月型(みかづき)をつけているので、この名で呼ばれる。
真木のなかほどの「天王座」には月読尊を祀る。古い鉾頭と天王の持つ櫂には「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。また正徳4年(1714)の鉾頭もあるが昭和56年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭にかえている。屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙(1733~95)の筆。天井の金地著彩源氏五十四帖扇面散図は天保6年(1835)に町内の住人岩城九右衛門の筆。破風蟇股の彫刻は左甚五郎の作と伝えられる立派なものである。軒桁貝尽しの錺金具は松村景文(1779~1843)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも華麗なもので山鉾のなかでも最高のものである。天水引の霊獣図刺繍は天保6年(1835)円山応震の下絵である。前懸、後懸は華麗なインド絨毯、胴懸はインドやトルコの絨毯を用いており、北面の「中東蓮花葉文様」は平成22年(2010)に、南面の「幾何菱文様」は平成23年(2011)に復元新調された。近年下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も同作の湖畔黎明図にかえている。また、平成12年(2000)には前懸のインド絨毯も復元された。
鉾の名は鉾頭(ほこがしら)の新月型(みかづき)に由来し、真木(しんぎ)の中ほどの「天王座(てんのうざ)」には月読尊(つきよみのみこと)を祀る。元亀四年(一五七三)と正徳四年(一七一四)刻銘の二つの鉾頭を持つが、昭和五十六年から田辺勇蔵(たなべゆうぞう)寄進の十八金のものを着装。屋根裏の金地彩色草花図(きんじさいしょくそうかず)は天明四年(一七八四)円山応挙(まるやまおうきょ)の筆、天井(てんじょう)の金地著彩源氏(きんじちゃくさいげんじ)五十四帖扇面散図(じょうせんめんちらしず)は天保六年(一八三五)、町内の住人岩城九右衛門(いわきくうえもん)の筆である。破風蟇股(はふかえるまた)の彫刻は左甚五郎(ひだりじんごろう)と伝わる。軒桁貝尽(のきけたかいづく)しの錺金具(かざりかなぐ)は松村景文(まつむらけいぶん 一七七九~一八四三)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも山鉾の中でも最高の華麗さを誇る。天水引(てんみずひき)の霊獣図刺繍(れいじゅうずししゅう)は天保六年(一八三五)円山応震(まるやまおうしん)の下絵で、胴懸(どうかけ)はインドやトルコの絨毯(じゅうたん)。近年、下水引(したみずひき)に皆川月華(みながわげっか)の花鳥図を、見送(みおくり)も同作の湖畔黎明図(こはんれいめいず)を掛ける。なお、旧前懸(まえかけ)のインド絨毯(平成十二年復元)はその良好な保存状態から、世界でも稀な逸品とされる。
京 都 市
資料
養源院
豊臣秀吉の側室 淀殿が父 浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に建立される開山は長政の従弟で比叡山の高僧であった成伯法印、長政の院号を以って寺号としたのは文禄三年五月(1594年)である
養源院の寺院名は浅井長政公の戒名そのものである その後程なくして火災にあい焼失するも、元和七年(1621年)に淀殿の妹で二代将軍徳川秀忠公正室、お江により伏見城の遺構を用いて再建される 以来、徳川家の菩提所となり歴代将軍の位牌をまつる寺院となる 現在の本堂(客殿)は再建時のものとなる
平成二十八年二月に本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂等が国の重要文化財に指定された (引用:https://yougenin.jp/)
文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政、祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建された。養源院とは浅井長政の院号であり、浅井氏の菩提寺である。開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印(伝・長政弟)で、秀吉が寺領300石を寄進している。この後、毘沙門堂の脇門跡となっている。元和2年(1616年)5月7日、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠正室の崇源院(江、淀殿の妹)によって、昨年の慶長20年(1615年)5月に大坂夏の陣で自害した淀殿とその子・豊臣秀頼の菩提が弔われている。元和5年(1619年)、落雷により焼失したが、元和7年(1621年)に崇源院の願により再興された。以後、徳川氏の菩提所ともなった。廊下の天井は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりのしみた板を使った「血天井」として有名である。本堂の襖12面、杉戸8面の絵(重要文化財)は俵屋宗達の作品である。第11世住職等順は、東叡山寛永寺護国院第13世から信濃国善光寺別当大勧進第80世に就いた時に、天明3年(1783年)の浅間山大噴火や天明の大飢饉において民衆救済に尽力したことで知られ、お血脈、善光寺本堂での御開帳の由来である。寛政9年(1797年)11月7日には光格天皇に三帰戒及び十念を授け奉り、養源院住職時代は皇族に尽くした名僧である。元々は天台宗であったが、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)に浄土真宗遣迎院派に改宗した。
本堂(重要文化財) – 元和5年(1619年)に破却された豊臣秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされる。特に「牡丹の間」は秀吉の学問所であったという。本堂左右と正面の廊下の天井は血天井として知られる。また、秀吉が伏見城に祀っていた大聖歓喜天を安置している。
血天井 – 関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下2,000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたといわれ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る。同様の血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもある。
鶯張廊下 – 日光東照宮の眠り猫で有名な江戸時代初期の大工・彫刻師である左甚五郎が作ったものと伝わる。
襖絵と杉戸絵 – 俵屋宗達作の重要文化財があり、これも伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、杉戸の象や唐獅子や麒麟などを図案化した構図は、表現の奇抜さでも知られている。2010年(平成22年)、この唐獅子図の隣りに、江戸時代よりたった一軒続いてきた唐紙屋となる唐長の唐紙師・トトアキヒコによる「星に願いを」が奉納された。また同氏は、俵屋宗達の重要文化財である金地着色松図の唐紙修復も手がけている。(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E6%BA%90%E9%99%A2)
【資料】歴史探訪 飛騨高山匠の技
本資料は、高山市教育委員会をはじめ、多くの機関のご協力のもとに、岐阜女子大学デジタルアーカイブ専攻並びに岐阜女子大学大学院デジタルアーカイブ専攻と共同でデジタルアーカイブした飛騨高山匠の技に関する地域資料79,166点を基に作成いたしました。
これらに資料は、Webサイト並びにデータベースを構築し、また元データは、オプティカルディスク・アーカイブとして保存管理しています。
オプティカルディスク・アーカイブは、デジタルデータの長期保存(アーカイブ)を目的とした、大容量光ディスクストレージシステムで、保存寿命100年以上といわれています。
■ 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブとは
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブは、文部科学省の私立大学研究ブランディング事業において収集・管理されている飛騨高山匠の技に関する地域資料である79,166点のデータの一部を提供しているWebサイトです。
本事業は、地域に根差し地域社会に貢献する大学として、本学独自で育んできたデジタルアーカイブ研究を活用し、地域資源のデジタルアーカイブ化とその展開によって、伝統文化産業の活性化などの地域課題の実践的な解決や新しい文化を創造できる人材育成を行い、地域の知の拠点となる大学を目指す目的で作成したものです。
第1章 飛騨高山匠の技遺産
Contents1 両面宿儺・・・・・・・ 6
Contents2 桜山八幡宮・・・・・・ 6
Contents3 月ヶ瀬 飛騨の匠碑・・ 7
Contents4 飛鳥大仏・・・・・・・ 7
Contents5 法隆寺・・・・・・・・ 8
Contents6 寿楽寺・・・・・・・・ 8
Contents7 飛騨町・・・・・・・・ 9
Contents8 平城京・・・・・・・・ 9
Contents9 唐招提寺 講堂・・・・ 10
Contents10 朱雀門・・・・・・・・ 10
Contents11 大極殿・・・・・・・・ 11
Contents12 西隆寺・・・・・・・・ 11
Contents13 西大寺・・・・・・・・ 12
Contents14 飛騨国分寺・・・・・・ 12
Contents15 飛騨国分尼寺・・・・・ 13
Contents16 飛騨支路・・・・・・・ 13
Contents17 飛騨一宮水無神社・・・ 14
Contents18 阿多由太神社・・・・・ 14
Contents19 小萱の薬師堂・・・・・ 15
Contents20 荒城神社・・・・・・・ 15
Contents21 安国寺経蔵・・・・・・ 16
Contents22 熊野神社・・・・・・・ 16
Contents23 飛騨匠神社・・・・・・ 17
Contents24 千鳥格子御堂・・・・・ 17
Contents25 高山陣屋・・・・・・・ 18
Contents26 春の高山祭 山王祭 ・・ 18
Contents27 秋の高山祭 八幡祭 ・・ 19
Contents28 飛騨春慶塗・・・・・ 19
Contents29 一位一刀彫・・・・・ 20
Contents30 高山市三町伝統的建造物群保存地区 20
Contents31 高山市下二之町・大新町伝統的建造物群保存地区 21
Contents32 吉島家・日下部家住宅・ 21
Contents33 千光寺・・・・・・・ 22
Contents34 位 山 ・・・・・ 22
Contents35 飛騨一宮水無神社例祭・ 23
Contents36 宮 川 ・・・・・・ 23
Contents37 西隆寺塔跡・・・・・ 24
Contents38 唐招提寺・・・・・・ 24
Contents39 森水無八幡神社・・・ 25
Contents40 位山八幡神・・・・・ 25
Contents41 若宮八幡神社・・・・ 26
Contents42 東大寺・・・・・・・ 26
Contents43 生きびな祭り・・・・ 27
Contents44 飛騨民俗村・飛騨の里 27
Contents45 日枝神社・・・・・・ 28
Contents46 寿楽寺廃寺跡・・・ ・ 28
Contents47 杉崎廃寺・・・・・・ 29
Contents48 龍應山西明寺・・・・ 29
Contents49 薬師寺・・・・・・・ 30
Contents50 興福寺・・・・・・・ 30
Contents51 霊雲寺・・・・・・・ 31
Contents52 宗猷寺・・・・・・・ 31
Contents53 雲龍寺・・・・・・・ 32
Contents54 勝久寺・・・・・・・ 32
Contents55 大雄寺・・・・・・・ 33
Contents56 常照寺・・・・・・・ 33
Contents57 石舞台古墳・・・・・ 34
Contents58 檜隈寺跡・・・・・・ 34
Contents59 高松塚古墳・・・・・ 35
Contents60 キトラ古墳・・・・・ 35
Contents61 光寿庵跡・・・・・・ 36
Contents62 石橋廃寺・・・・・・ 36
Contents63 東寺・・・・・・・・ 37
Contents64 平安京跡・・・・・・ 37
Contents65 近江大津宮跡・・・・ 38
Contents66 長岡宮跡・・・・・・ 38
Contents67 難波宮跡・・・・・・ 39
Contents68 石山寺・・・・・・・ 39
Contents69 東山道・赤坂宿・・・ 40
Contents70 紫香楽宮・・・・・・ 40
Contents71 恭仁京・・・・・・・ 41
Contents72 東山神明神社・・・・ 41
Contents73 田上家住宅・・・・・ 42
Contents74 二荒山神社・・・・・ 42
Contents75 日光山輪王寺大猷院・ 43
Contents76 下原八幡神社(水無八幡宮)43
Contents77 乗政八幡神社・・・・ 44
Contents78 日龍峯寺・・・・・・ 44
Contents79 飛鳥寺・・・・・・・ 45
Contents80 福原京・・・・・・・ 45
Contents81 第1次平城宮・・・・ 46
Contents82 第2次平城宮・・・・ 46
Contents83 藤原京・・・・・・・ 47
Contents84 飛鳥浄御原宮・・・・ 47
Contents85 豊浦宮・・・・・・・ 48
Contents86 難波長柄豊崎宮・・・ 48
Contents87 飛鳥川原宮(橘寺)・・ 49
Contents88 飛鳥川原宮(川原寺)・ 49
Contents89 塔の腰廃寺・・・・・ 50
Contents90 上町廃寺・・・・・・ 50
Contents91 古町廃寺・・・・・・ 51
Contents92 沢廃寺・・・・・・ 51
Contents93 山田寺・・・・・・ 52
Contents94 石神遺跡・・・・・・ 52
Contents95 甘樫丘・・・・・・・ 53
Contents96 野洲・・・・・・・・ 53
Contents97 五箇荘・・・・・・・ 54
Contents98 不破の関・・・・・・ 54
Contents99 美濃国分寺・・・・・ 55
Contents100 長良北町・・・・・ 55
Contents101 下之保・・・・・・ 56
Contents102 神渕・・・・・・・ 56
Contents103 菅田・・・・・・・ 57
Contents104 金山・・・・・・ ・ 57
Contents105 下原八幡神社・・・ 58
Contents106 火打峠・・・・・・ 58
Contents107 乗政・・・・・・・ 59
Contents108 初矢峠の石畳・・・ 59
Contents109 下呂解脱観音・・・ 60
Contents110 下呂・・・・・・・ 60
Contents111 上呂・・・・・・・ 61
Contents112 あさんず橋・・・・ 61
Contents113 位山神社周辺・・・ 62
Contents114 位山峠の石碑・・・ 62
Contents115 飛騨支路・苅安峠・ 63
Contents116 三仏寺廃寺・・・・ 63
Contents117 東光寺跡・・・・・ 64
Contents118 名張廃寺・・・・・ 64
Contents119 堂前廃寺・・・・・ 65
Contents120 平安京・船岡山・建勲神社 65
Contents121 平安京 大極殿・・ 66
Contents122 平安京 羅城門跡・ 66
Contents123 匠の道・平城京・・ 67
Contents124 椿井大塚山古墳・・ 67
Contents125 匠の道・蟹満寺・・ 68
Contents126 匠の道・瀬田の唐橋 68
Contents127 東山道・草津宿・・ 69
Contents128 東山道・守山宿・・ 69
Contents129 飛騨匠伝説(郡上・立花六角堂) 70
Contents130 飛騨の版画・・・・ 70
Contents131 飛騨の木製飛行機・ 71
Contents132 郡上長滝寺と飛騨匠 71
Contents133 近代建築の名工・坂下甚吉 72
Contents134 名工・西田伊三郎(吉島家) 72
Contents135 名工・川尻治助(日下部、田上家) 73
Contents136 高山の土蔵の創始・江戸屋萬蔵 73
Contents137 屋台彫刻の名手・谷口与鹿 74
Contents138 匠伝承・西明寺三重塔 74
Contents139 匠伝承・西明寺本堂 75
Contents140 古川祭・・・・・・ 75
Contents141 亀塚古墳・・・・・ 76
Contents142 飛騨国分尼寺と条里 76
Contents143 縄文時代の木工技術 77
Contents144 東山白山神楽台、飛騨総社 77
Contents145 鎌倉大仏殿高徳院・ 78
Contents146 長谷寺・・・・・・ 78
Contents147 円覚寺・・・・・・ 79
Contents148 建長寺・・・・・・ 79
Contents149 鶴岡八幡宮・・・・ 80
Contents150 飛騨の家具・・・・ 80
Contents151 高山城址・・・・・ 81
Contents152 和歌浦天満宮・・・ 81
Contents153 紫香楽宮跡(甲賀寺跡) 82
Contents154 姫路城・・・・・・ 82
Contents155 豊国神社・・・・・ 83
Contents156 平湯神社・・・・・ 83
Contents157 飛騨木工家具・・・ 84
資料1 デジタルサイネージへの展開 84
第2章 左甚五郎遺産
Contents1 根来寺・・・・・・・ 86
Contents2 北野天満宮・・・・・ 86
Contents3 豊国神社・・・・・・ 87
Contents4 手力雄神社・・・・・ 87
Contents5 瑞巌寺・・・・・・・ 88
Contents6 浮島観音堂・・・・・ 88
Contents7 願成院本堂(愛染堂) 89
Contents8 飛騨一宮水無神社・・ 89
Contents9 鳥追観音(如法寺) ・ 90
Contents10 北口本宮冨士浅間神社 90
Contents11 酒列磯前神社・・・・ 91
Contents12 圓明寺・・・・・・ 91
Contents13 西橋寺・・・・・・・ 92
Contents14 方広寺・・・・・・・ 92
Contents15 知恩院・・・・・・・ 93
Contents16 石清水八幡宮・・・・ 93
Contents17 誠照寺・・・・・・・ 94
Contents18 成相寺・・・・・・・ 94
Contents19 園城寺(三井寺) ・ 95
Contents20 米倉寺・・・・・・・ 95
Contents21 桃原寺・・・・・・・ 96
Contents22 長国寺・・・・・・・ 96
Contents23 誕生寺・・・・・・・ 97
Contents24 神野寺・・・・・・・ 97
Contents25 浄願寺・・・・・・・ 98
Contents26 書写山圓教寺・・・・ 98
Contents27 熊野速玉大社・・・・ 99
Contents28 紀州東照宮・・・・・ 99
Contents29 定光寺・・・・・・ 100
Contents30 龍潭寺・・・・・・ 100
Contents31 粉河寺・・・・・・ 101
Contents32 安楽寺・・・・・・ 101
Contents33 秩父神社・・・・・ 102
Contents34 東福寺・・・・・・ 102
Contents35 大門神社・・・・・ 103
Contents36 国昌寺・・・・・・ 103
Contents37 龍門寺・・・・・・ 104
Contents38 出雲大社・・・・・ 104
Contents39 日光東照宮・・・・ 105
Contents40 上野東照宮・・・・ 105
Contents41 久津八幡宮・・・・ 106
Contents42 鶉田神社・・・・・ 106
Contents43 加太春日神社・・・ 107
資料2 オプティカルディスク・アーカイブ 107
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブについて 108
冊 子
表1
本文1P-6P
本文7P-86P_Part1
本文7P-86P_Part2
本文7P-86P_Part3
本文87P-109P
本文110P-111P
三十三間堂
国宝|千手観音坐像
千手観音坐像は蓮華王院の本尊で、鎌倉時代後期の仏師、湛慶(たんけい)とその弟子たちによる作品です。左右1000体の立像の中央、高い位置に安置されています。高さ3.35m、背後の光背まで含めると約7mにも及ぶ大きな坐像はヒノキ材の寄木造りで、漆を塗った上に金箔が施されており、国宝に指定されています。42本の手で「千手」を表現し、尊くも暖かい表情が特徴的です。
国宝|千体千手観音立像
中央に鎮座する千手観音坐像の両脇に配置されています。左右10列の各段に50体ずつ整然と並ぶ様子は壮観で、三十三間堂ならではの景色といえます。坐像の背後にも立像が1体安置されており、立像だけで1001体という数です。
本尊と同じヒノキの漆箔に寄木造りで、一体一体が11の顔と40の手を持っている、なんとも巧緻な作りです。1249年の火災でそのほとんどが失われ、創建時の平安時代の像は124体が残るのみ。あとの像は全て鎌倉時代に16年をかけて再興され、日本中の著名な仏師たちがこの一大国家プロジェクトに関わりました。一体一体魂を込めて作られた仏像たちは、それぞれ違った表情を湛えており、会いたい人に似た顔の仏像を見つけることができるとも伝えられています。2018年、国宝に指定されました。
風神雷神と二十八部衆
二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)とは、千手観音の眷属(使いの者)のことです。三十三間堂では、二十八部衆に風神、雷神を加えた30体もの等身大の仏像が、千体仏の前に立ち並びます。ヒノキの寄木造りで彩色が施されており、二十八部衆のそれぞれの神様に基づいた造作です。甲冑を身に着けた像や、楽器を手に持つ像など、それぞれがユニークな表情や姿を表し、千手観音像とは異なった趣があります。
太閤塀
太閤塀(たいこうべい)は桃山時代に、豊臣秀吉の寄進により建てられた、泥土をつき固めたつくりの築地塀です。秀吉が権勢誇示のために建立した大仏殿方広寺(だいぶつでん ほうこうじ)の塀として、南大門とともに造営されました。現在は方広寺は失われており、この太閤塀と南大門のみが残っています。
太閤とは、関白の位を子孫に譲った者を指す称号を意味します。豊臣の家紋である「桐紋」があしらわれ、当時秀吉が太閤であったことから、太閤塀と呼ばれています。桃山文化の気風に溢れた作りで、国の重要文化財に指定されています。
三十三間堂の歴史
三十三間堂という名前は、南北120mに渡る大きな本堂の内陣に「33の柱間」があるという特徴から由来します。「三十三」という数字にも理由があり、観音様が人々の救済のため「三十三の姿に変化する」というエピソードに基づいています。
三十三間堂は蓮華王院の本堂として、1164年に平清盛の寄進により、後白河上皇の法住寺殿内に離宮として建てられました。創建当時の外装は朱塗り、建物の内部は花や雲文様などが極彩色で彩られ、豪奢な作りだったと伝えられています。
創建から80年後に焼失してしまいましたが、後嵯峨上皇によって1266年に再建されたものが現在まで残っています。室町時代に入ってから足利義教により本格的な修復が行われ、全てが完成するまでには5年もの年月を費やしたといわれています。
国宝にも指定されている千手観音坐像を作った湛慶は、東大寺南大門の金剛力士立像を作ったことで有名な運慶の息子です。千手観音坐像は、湛慶にとって生涯最後の傑作となりました。
千手観世音菩薩はねずみ年の守護本尊でもあります。ねずみ年生まれの人はより一層のご利益を願い、参拝に訪れてみてはいかがでしょうか。
三十三間堂の伝統行事
通し矢|大的大会
桃山時代から行われているという「通し矢(とおしや)」は、仏堂南端から120mの距離を弓で射通し、その矢の数で競います。江戸時代には、「大矢数(おおやかず)」と呼ばれる競技が人気を博しました。一昼夜に千本から一万数千本を射つづけ、その数の多さで競います。武芸者の強靭な肉体と研ぎ澄まされた精神を見せつけるこの競技は、特に尾張、紀州の二藩の間で盛んとなり、京都の名物行事までなりました。
この通し矢にちなんで、現在は毎年1月中旬の日曜日に「大的大会」が行われ、全国の弓術家がその腕を競っています。大会当日は境内が無料開放され自由に見学ができるため、大勢の見物客で賑わい、正月の雰囲気を盛り上げます。
春桃会
春桃会(しゅんとうえ)は「三十三間堂」の名前にちなんで、「三」の重なる3月3日に行なわれる法要行事です。華道の名家である池坊の献華式と華展、寄席などが催され、境内は無料開放されます。参拝者は、ひな祭りにちなんだ女性専用の「桃のお守り」をいただくことができます。
楊枝のお加持
楊枝のお加持(やなぎのおかじ)とは、平安時代から続く伝統的な法要です。大的大会と同じ1月中旬の日曜日に行われ、境内が無料開放されます。三十三間堂を管理する妙法院の門主などの僧侶が、聖樹とされる柳で、祈願した法水を参拝者の頭に注ぎ、病気平癒を願います。この風習は、頭痛に悩まされていた後白河上皇が楊枝の里(やなぎのさと)の柳を三十三間堂の棟木に使ったところ、頭痛が治まったという逸話に由来しています。頂いた柳の小枝は、頭痛平癒にご利益があるといわれています。
三十三間堂のお守り
後白河上皇の病気平癒の逸話から、三十三間堂では頭痛封じのお守りを受けることができます。悪疫退散、難病除けに功徳のある「悪疫守護お守り」も授与しています。また境内にある「夜泣泉」のお地蔵様のよだれかけは、夜泣き封じにご利益があると伝えられています。
#左甚五郎
資料集
125_336_三十三間堂
西光寺
寛文二年(1662年)本願寺第十三世良如上人より木仏(阿弥陀如来像)と寺号(西光寺)を下附されたと伝わる。当初しばらくは現在の大阪府八尾市にある恵光寺の末寺であったらしい。堂内正面にある鳳凰の欄間には、泉州貝塚左甚五郎伝子、岸上但馬守藤原朝臣定勝とある。本堂と山門は、昭和47年に記念事業の一環で改築され、当時としては珍しい鉄筋コンクリート建て銅葺き屋根である。関屋仏教日曜学校(大谷派隣寺と合同運営)、西光寺仏教婦人会、西光寺めぐみ会(仏教壮年会を含む)などの教化活動、他には、お寺deヨーガ、報恩講コンサート、ムジークフェストなら連携コンサートなどを開催している。令和二年四月には門信徒合同のお墓『法縁廟』が建碑された。
#左甚五郎
資料集
124_335_西光寺
加太春日神社
加太春日神社の創建年代は明確ではないが、紀伊国造家旧記によると、神武天皇御東征の御代に、天道根命が神寳二種を奉じて加太浦に上陸、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという。 当地は海に面して漁業の盛んなところであるため、のちに航海安全と大漁を祈願する住吉神社を合祀したらしく、文保元年(一三一七年)六月二十九日付賀太庄住吉社への寄進状(向井家文書)が残されている。
当社の社名については、紀伊風土記によると日野左衛門藤原光福が地頭としてこの地を支配した嘉元年間(一三〇三~一三一七年)に、自分の祖先神である春日三神をあらたに祀り、総名として「春日社」と称したとあり、嘉吉2年(一四四二年)の記録に春日明神神事日記(向井家文書)がある。 紀伊名所図絵によると、社地はもと、現在地から東の山の中腹にあったが、天正年間(一五七三~一五九二年)に羽柴秀長の家臣で和歌山城代(当時、秀長は大和郡山に居城、大和、和泉、紀伊三国を領し、紀伊国は和歌山城代が支配)、桑山重晴によって現在地に遷したと記している。なお、棟札(重文)によって慶長元年(一五九六年)に大がかりな社殿の造作がなされたことも実証されている。
当神社は、明治時代まで神職はおかず、神社経営は宮座形式の当屋制によって運営されていた。そのため、神社には記録文書類は全く存在せず、他からの資料に頼らざるを得ないが、御神徳の篤い神社であることは、「紀伊国神名帳」に「正一位春日大神」と記されており、神格の高さを知ることが出来ると共に、役小角(飛鳥時代の山岳修業者で修験道の開祖者、役行者とも称す)が、友ヶ島を行場とし、当社を勧請して守護神とされた。そのため現在でも毎年四月、当社に聖護院門跡が大勢の山伏僧と共に参拝されていることからもわかる。 また、昭和五十六年、環境庁(現環境省)主催の第二十三回自然公園大会において、採火神社に指定され、聖火を献火すると共に、氏子有志による獅子舞が郷土芸能として披露された。
なお、加太春日神社の現在の社名は、太平洋戦争後、全国の神社が国家の保護を離れ、宗教法人による神社に切り替わったとき、用いられたものである。
現在の御社殿は、一間社流造、千鳥破風及び軒唐破風付き檜皮葺で、構造をはじめ木鼻、蟇股、手挟、欄間、脇障子などの彫刻が雄大、豪壮でよく桃山時代の特徴を表しているとして、昭和6年に国宝として指定され、戦後は国指定重要文化財として保存されている。
蟇股の向拝の彫刻は透彫で、中央は雲に龍、,裏は雲、向かって左は竹に虎、 裏は竹に椿、右は牡丹に唐獅子、裏は牡丹が彫られており、身舎の正面の中央には宝珠、左は恵比須、右は大黒天、東側は桐に鳳凰と迦陵頻伽、西側は貝類と波に蝦、後側の中央は水に若葉と筆、左右には桐と菊を配している。 手挟の東は牡丹に蓮、西は菊に枇杷など多くの彫刻で飾られているが、あまり人目につかない軒唐破風の付け根にも二匹の鯉が相対しているなど、あらゆる面に細心の気配りがうかがわれる。 迦陵頻伽は梵語で極楽鳥のことであるが、人頭鳥身で仏前を飾る華鬘にももちいられ、蟇股の飾りに取り入れられたのは類例がなく、また、西側に貝類と波に蝦など珍しい飾りを配するなど地域性も考慮した精密な構想の下に建立された華麗な極彩色の社殿であったが、明治初年の神仏分離の際、すべて剥ぎ取ってしまったと言うことである。
古老らに聞くと、国宝になる以前から左甚五郎の作った立派な社殿だからご利益があり、どの角でもよいからよいから担ぐと肩の凝りが治り、無病息災になると言い伝え、特に節分の日には大勢の人が、「どうのすみかたげよ」といいながら担いだものであるという。
#左甚五郎
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123_332_加太春日神社
鶉田神社
宝亀二年創祀。天武天皇の第三皇子一品舎人親王の孫権中納言式部卿秀重、宝亀二年鶉の森を拓き、鶉の郷と名付け、郷内天王森に鎮守の祠を建て(素盞鳴尊を祀れり。弘安四年蒙古来寇の時、御祈願の為勅使参向あり。平定の後、皇室より大床安坐の狛犬を下賜せらるる。永禄年中織田信長、斉藤龍興征討の際戦勝祈願あり。斉藤滅亡の後紋所を寄進し、且つ社殿改築寄進あり。後光明天皇正保年中社殿炎上したれども、御神体及び大床安坐の狛犬のみ難を逃れたり。其の後加納藩主松平丹波守光重に於いて再建し、且つ社田旧高十石を寄進せらる。社殿の彫刻は左甚五郎の作なりと云ひ伝へ。精巧を極む。延享五年里正より寛延二年笠松郡代吉田忠倶より寄進の石灯籠今に存す。維新前旧高十八石を有せしが、町村政実施の際村有地となるたるも、字名神田と称し存在せしも、農地改革実施に伴ひ現在は全部民有に帰したり。従前は社家社僧ありしを、維新の後之を改め、更に古昔の郷名を採り社号を鶉田神社と称し明治六年一月笠松縣より郷社と定めらる。
#左甚五郎
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122_331_鶉田神社
根来寺
平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧といわれた覚鑁が大治5年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。さらに2年後の長承3年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。保延6年(1140年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生(錐もみの乱)。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は3年後の康治2年(1143年)12月12日49歳のとき、円明寺で没する。それから1世紀以上後の正応元年(1288年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2,700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、信長没後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて徳川方に通じ留守の岸和田城を襲ったほか南摂津への侵攻を図ったことで秀吉の雑賀攻め(紀州征伐)を招くこととなった。 生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、天正13年(1585年)、秀吉軍は根来寺に到達。大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちた。根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため焼き討ちの必要性は薄く、炎上の原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆による自焼、兵士による放火など多説あるが、定かではない。焼け残った大伝法堂は秀吉が信長の廟所として京都の船岡山に建立する予定であった天正寺の本堂にする為に解体して持ち去っていった。しかし、天正寺は建立されず、部材は大坂の中津川沿いに持ってきたまま放置された。現在の大阪市此花区伝法である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川方が勝利した翌年、家康は東山の豊国神社の付属寺院の土地建物を根来寺の僧で焼き討ちされた塔頭智積院の住職であった玄宥に与え、智積院は東山の地に再興した。慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家が滅びた後、家康によって秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲寺が根来寺に寄進されるが、そのまま智積院が譲り受けて寺地を拡大させた。江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと主要な伽藍も復興され、また、東山天皇より覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜された。1976年(昭和51年)から寺域周辺の発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが学術的にも裏付けられた。また、発掘によって陶磁器、漆器、仏具、武器などのおびただしい遺品が出土した。それら遺品は敷地内に建てられた「岩出市立民俗資料館」で保管・展示されている。2007年(平成19年)現在、根来寺境内は近世以前の閑静な佇まいが残されているが、近辺は先の「民俗資料館」や「岩出市立図書館」が建設されるなど、文教地域化政策が岩出市によって進められている。さらに境内前面には、大型道路(広域農道)が通り、後背の山が砕石場になるなど周辺環境の乱開発が続けられていること、また、境内外れの市立図書館近くにラブホテルが存在することなど、根来文化の保護・継承をめぐる課題は山積している。なお、地域灌漑用水地であった大門池に市立図書館が建設されたことをめぐっては、先の課題による文教政策の見通しの是非をめぐって賛否が分かれている。また毎年興教大師(覚鑁)の誕生日である6月17日の午前中には、40名近くの僧侶が式典を執り行う。
#左甚五郎
資料集
192_203_根来寺