国指定・飛騨国分寺塔心礎
〈国指定〉昭和4年12月17日
〈所有者〉国分寺
〈所在地〉総和町1丁目83番地
〈時代〉奈良時代(8世紀)
〈員数〉29.7㎡
境内には室町時代に建てられた国重文の国分寺本堂があり、その東側に玉垣で囲われた塔心礎石がすえてある。飛騨国分寺は天平13年(741)の詔により天平勝宝9年(757)頃までには完成していたらしく、この心礎は創建当時のものと推定される。
礎石の形状はほぼ方形を呈し、上面に円柱座を造り出し、その中央部に円形の穴があけられる。礎石の寸法は、径約2m四方、地上高さ約1m、円柱座径133㎝、高さ1㎝、円穴径58㎝、深さ29㎝で、枘(ほぞ)穴式心礎である。石質は地元で「松倉石」と呼称しており、リュウモン岩である。過去に移動されて、原位置を保っていない。
現寺域および周辺からは布目瓦を出土する。軒丸瓦は、5個の蓮子を持つ中房の周囲に細形単弁8葉の蓮花文を配し、外区に珠文帯をめぐらす。軒平瓦は、二重圏の中に左右対照の唐草文を配する。
現在の三重塔は岐阜県の文化財に指定され、文政4年(1821)に俊立したものである。過去には、創建の塔が弘仁10年(819)に炎上、斉衡年中(854~857)に再建している。また、応永年間(1394~1428)さらに兵火にかかり、その後再建されたが戦国時代に損傷、元和元年(1615)再建したと三福寺小池家文書「国分寺太平釘図」に記録されている。寛政3年(1791)、大風で吹き倒されてから31年後に建てられたのが現在の三重塔である。
昭和27年、本堂の解体修理をする際床下を発掘調査して礎石と玉石を確認しているが、桁行7間、梁間4間の金堂建物と推定されている。金堂と心礎の位置関係は推定の域を出ない。ちなみに、昭和63年辻ケ森三社境内で発掘調査がなされ、高さ1mの版築基壇上に桁行7間、梁間4間の金堂建物礎石列が発見された。国分寺と国分尼寺金堂が確認されたことにより、奈良時代における飛騨の歴史が大きく判明した。
参考文献
『高山の文化財』168~169頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日