与那原の文化財 与那原親川
与那原の親川には、天地開闢の昔、浜の御殿(御殿山)に舞い降りた天女が、子どもを出産する際に、この湧井の水を産湯に使ったとの神話が伝えられています。
与那原は周囲を山に囲まれていたため、全域で水が豊富でした。特に親川は豊富な水が湧き出る水場であり、古くから大切にされている拝所でした。
琉球王朝時代には国王の久高島参詣時の休憩場であるとともに住民の生活に密着した井戸でもあり、2022年4月には新しく親川広場として整備され、遊具が設置されたり芝生が植えられるなど、与那原町民の憩いの場所となっています。
資料(データベース)
与那原町の文化財_親川
与那原町の歴史_親川広場
与那原の歴史 材木ストリート
江戸時代から木材の流通地として栄えていた与那原には与那原港があり、戦前・戦後と国頭(くにがみ;沖縄本島の北部)の山原(やんばる)から山原船で、沖縄本島東海岸のいくつかの港を経由して、材木や薪、炭などの生活必需品が運びこまれた。運び込まれた材木は、首里や各地域に運ばれるなど、町にはさまざまな物流や往来で活気があり、町の発展に大きな影響を与えていた。
当時、与那原には「シチバ(敷場;材木等の荷物置き場とか、薪の荷揚げを行う場所のこと)」とよばれる材木屋が港周辺に立ち並び、材木ストリートとよばれるようになった。その後、港は埋め立てられ現在の東浜地区ができたが、以前の位置に数軒、営業を続けている材木屋がある。材木ストリートから与那原の歴史や住民の活気を感じ取ることができる。
*港区コミュニティーセンターからえびす橋までの川沿いのとおりが材木ストリートである。
*Googlemap等に掲載されていないためわかりずらい。
資料(メタデータ)
沖縄の怖い話『ミミチリボウジ』
■中城御殿(大村御殿)とは
「中城御殿」は琉球の王世子のための宮殿として建てられた邸宅であった。王世子は伝統的に中城間切(中城村〔沖縄中部〕)の統治が任されていたことから中城王子とよばれており、それに由来する。大村御殿ともいわれる。
*間切・・・琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。
■中城御殿の歴史
中城御殿は尚豊王代(1621~40年)に創建され、二百数十年間、世子殿であった。1875年に世子殿が龍潭の北側(旧県立博物館敷地)に移転すると、跡地は「下の薬園(シムヌヤクエン)」となった。
1879年の沖縄県設置後、1891年に沖縄尋常中学校(後の県立第一中学校)が置かれた。沖縄戦で建物内に保管された大事な宝物とともに重要な資料も散逸しまった。沖縄戦後は首里高等学校の校地となった。元々の建造物のうち、残ったのは井戸が1つと、周辺の大きな石垣だけだったが、中城御殿に関する資料や写真は多く残っている。その場所には1966年に沖縄県立博物館・美術館が建てられたが、2008年に解体され、現在は重要な発掘作業が進められている。
【中城御殿にまつわる怖い話『耳ちりぼーじ』】
琉球王朝時代に首里に黒金座主(くるがにざーし)という僧がいた。その僧が怪しい術を使って女性をたぶらかし襲っているという事に怒った琉球王は北谷王子に彼の殺害を命じた。
北谷王子は黒金座主に囲碁の対局を持ちかけ、黒金座主は両耳を、北谷王子は髷をそれぞれ賭けた。黒金座主が怪しい術で北谷王子を眠らせようとしたところを逆に北谷王子が黒金座主の両耳を切り落として殺した。
その後、黒金座主は幽霊となって北谷王子の住む大村御殿を囲う石壁の角に夜な夜な現れた。またそれ以来、大村御殿には男の子が生まれるとすぐ死ぬとう事が続きどちらが生まれても「ウフーイナグ(大きな女の子)の生まれたんどオ」と唄う風習ができたという。
*諸説あり
資料(メタデータ)
沖縄の怖い話_ミミチリボウジ
与那原の産業 セーイカ
セーイカとはソデイカの沖縄方言での呼び方であり、最初にソデイカ漁業が始まった久米島で、「せー(エビ)」に似た味がすることからこの名がついたといわれている。寿命は1年程度、外套長1m、体重は20kgにも達する巨大なカで、世界に一属一種の生物である。昼間は水深400~600mの深海で過ごし、夜間は餌を追って海面付近にまで浮上する。通常2個体ずつで遊泳する習性をもっている。撮影日には、当添漁港に600杯のセーイカがあがった。多い時には800~1000杯あがることもある。
イカは足が早いため、水揚げしてすぐに船の上で頭と足とにさばき、それぞれをひとつずつ包んで冷凍庫で保管しながら漁港に戻る。そのため、漁港につくと冷凍されたセーイカがベルトコンベアを渡して水産物荷さばき施設に移される。水産物荷さばき施設では、ベルトコンベアからおろされたセーイカを1包み毎に目方にのせて重さを記録する。その後、大きなコンテナにまとめて入れ、さらにコンテナごと大きな計りで総重量をはかり、二つ重ねてトラックへ運ぶ。
セーイカの身の繊維は柔らかいため調理もしやすく、刺身や寿司ネタだけでなく、最近はソーセージやチキアギ(沖縄の揚げかまぼこ)などの加工品も開発されている。ファーマーズマーケット与那原あがりはま市場などで購入することができる。
資料(メタデータ)
与那原町の漁業_セーイカ
平和への願い 白梅之塔
白梅之塔は高嶺村真栄里(現在の糸満市真栄里)にある、沖縄県立第二高等女学校の慰霊塔である。沖縄戦で戦没した校長・職員・生徒および同窓会員、他の場所で戦死した学校関係者合わせて149名を合祀している。
八重瀬岳の第24師団第1野戦病院解散後、白梅学徒隊16人の学徒が戦地をさまよった末にたどり着いたのが、上の壕(眞山之塔裏)、下の壕(白梅之塔側)とよばれた真栄里の自然壕である。上の壕は食糧弾薬倉庫、下の壕は傷病兵の看護場所で、学徒らは負傷兵の手当てを手伝った。6月21日に下の壕が、翌22日に上の壕が米軍の激しい攻撃を受けた。
敗戦後の1948年1月に自然石の小さな碑を建立し、第1回の慰霊祭が執り行われた。「塔」とされているが、実物は琉球石灰岩でできた高さ数十センチの石碑である。その後、1951年8月に建て替えられ、再度、1992年6月に現在の慰霊塔に改修された。白梅同窓会が維持管理を行っている。現在も毎年6月23日の慰霊の日に例祭が執り行われている。
資料(メタデータ)
沖縄の怖い話『仲西ヘーイ』
潮渡橋は、泊と那覇の間を流れる潮渡(すーわたい)川にかかる橋で、塩田潟原(かたばる)の上に明治42(1909年)に架けられた、長さ7間(約13m)の木橋だった(東恩納寛惇『南島風土記』)。
潟原は干潮時に徒歩で横断すると泊から若狭・那覇方面への近道になることから、人の往来の多かったようだ。現在の潮渡橋は那覇市前島のリッチモンドホテルのそばに移され、橋の上を国道58号線が通っている(位置は当時よりも南に移動)。
*潮渡川は安里川が崇元寺付近から分かれて久茂地川となり、その先の美栄橋付近から海に向かって別れて流れる川である。
【怖い話】
仲西は那覇市に伝わる妖怪で、夜になって那覇と泊の間にある塩田潟原にかかった潮渡橋で「仲西ヘーイ(仲西やーい)」とよぶと、「ヘーイ」と返事が返ってきて現れる。現在、潮渡橋はかつてあった場所から移動しており、昔のように呼んでも現れなくなったようである。
*違う内容の話がいくつか伝わっている。
資料(メタデータ)
沖縄の有用植物 沖縄の薬草文化
沖縄は気候による温暖さや降水量の多さから多様な植物が生育しやすい環境であり、独特の生態系を育んでいる。特に、沖縄本島北部のヤンバル(山原)は「生物の宝庫」、八重山(諸島)は「東洋のガラパゴス」といわれている。また、琉球列島は地理的に日本本土と東南アジアの中央に位置している。日本本土、台湾、中国大陸、フィリピン、東南アジア、オーストラリアなど、様々な地域の植物が混ざり合った植物相で、約150種類の薬草が自生していることから「薬草の宝庫」ともいわれている。
日本では薬草は『古事記』や『日本書紀』にも登場し、古くから健康を支える存在として治療や儀式に利用されてきた。沖縄の薬草文化は、干ばつや台風などの自然災害にたびたび見舞われてきた沖縄において、厳しい環境と上手く付き合う知恵のひとつとして、野菜や薬草を巧みに取り入れて薬餌効果を優先する「養生食」のなかで育まれてきたと考えられる。
沖縄には、グァバ(蕃石榴〔ばんじろう〕、沖縄の方言で ばんしるー)、ウコン(鬱金〔うこん〕、沖縄の方言で うっちん)、クミスクチン(別名ねこのひげ)の三大薬草があり、葉や茎などを乾燥させ、煎じて服用する。現在ではグァバはジュースとしても販売されており、南国のフルーツジュースとして馴染みがある。またウコンはウコン茶(ウッチン茶)としてペットボトルや缶での販売がある。
資料(メタデータ)
沖縄の生活文化 花ブロック
■沖縄独自の建築資材 花ブロック
花ブロックとは沖縄の建築に使用される装飾的なコンクリートブロックをさし、沖縄独自の建築材料である。主に外壁に用いられ、透かし模様が施されている。これにより通気性を保ちながら沖縄の強い日差しを遮る機能があり、また、その透かし部分から朝昼夕と時々の光が差し込み、夜は内側からの光の陰影を楽しめるというデザイン性ももちわせている。
周囲の自然や環境を大切にさりげなく生活に取り込む沖縄のあたたかさが感じられる。
沖縄県のある初期の花ブロックを利用した有名な建築としては、1958年に建築された聖クララ修道院(与那原町与那原)、1981年に建築された名護市市役所(名護市港)などがある。
資料(メタデータ)
沖縄の有用植物 サトウキビ
サトウキビは、琉球王朝時代、儀間真常(1557-1644)により中国福建省からその栽培方法と製糖方法が伝えられた。現在では沖縄県の全耕地面積の約5割がその栽培に使われており、県内農家の約7割が栽培に従事している(令和4年度 沖縄県農林水産部調査)。サトウキビは強風や日照りに強く高温多湿を好むため、台風の多い沖縄でも栽培することができる。
栽培・製糖・加工・販売による雇用機会の確保など、沖縄の地域経済を支える主要農産物である。
サトウキビは沖縄方言でウージとよばれ、沖縄の特産品でもある黒糖は、郷土料理や菓子、土産品など、幅広く使われており、古くからの沖縄の慣習や生活文化に深く根付いている。
野外博物館である琉球村(沖縄県恩納村)には、サーター車(砂糖車)が展示されている。サーター車は牛や馬に砂糖車を引かせてサトウキビを絞る歯車のことで、古くから黒砂糖を作る製糖方法であり、儀間真常によって中国から伝えられたもののひとつである。
近年では、サトウキビのしぼり汁から取り除かれた糖蜜はバイオエタノールの原料や家畜のエサに、搾りかす(バガス)は製糖工場の燃料や次のサトウキビ栽培の肥料に使用されるなど、持続可能なエネルギーや資源として注目されている。