与那原の施設 沖縄県営与那原マリーナ
与那原マリーナは、1991年に始まった中城湾港マリンタウンプロジェクトをきっかけに整備され、2016年8月20日に開港した沖縄本島南部のマリーナである。総面積は7.1ヘクタールで、海上に66隻、陸上に226隻の船を収納可能。
2018年には日本最大級のマリーナクレーンを導入し、愛知県常滑市のマリーナりんくうに続き、60トンと20トンの2基のクレーンによるツーウェイ方式を採用している。さらに、幅10メートルの大型艇が入港できる施設は日本で与那原マリーナだけとされている。
マリーナでは、2019年10月から「イーストアドベンチャーセーリング」によるセーリング体験も行われており、ヨットの操縦や帆の上げ下げなどを実際に体験できるプログラムが用意されている。その他にも、チャーターボードを貸し切って釣りを楽しむこともでき、釣具のレンタル可能なため、手ぶらで気軽に参加できるのが魅力である。
資料(メタデータ)
与那原の施設_与那原マリーナ
与那原町の自然 運玉森
中城湾に面した与那原町の東南には雨乞森(133m)、北西には運玉森(標高158.1m)という山並みがひかえている。とくに、運玉森(うんたまムイ)は与那原町と西原町の境にある標高158.1mの森で、与那原小学校や与那原東小学校の校歌にも歌われ町民にも親しまれている。また、運玉森は、西原町に伝わる民話に登場する義賊「ウンタマギルー(運玉義留)」が隠れ住んでいた場所として伝説になっている。
現在の運玉森は道が整備され、2024年3月には運玉森の頂上に平和広場が設けられている。与那原町の公式サイトには、与那原町役場から運玉森の頂上までルート案内が掲載され、案内板や駐車場なども整備されて安全に訪れることができるようになっている。
平和広場は戦争について学ぶ場所として地域の学校や住民による学習活動に利用され、与那原市民にとって沖縄の過去と現在を結ぶ大切な場所となっている。
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与那原町の自然_運玉森
与那原町の施設 与那古浜公園
与那古浜公園は、埋め立てにより造成された与那原町東浜地区に位置する、町内最大の公園です。美しい海岸線を望み、芝生広場や運動広場などが整備されており、世代を問わず多くの人々に親しまれる憩いの場となっています。この一帯は、1996年(平成8年)から始まった埋立事業により誕生した新しいまち「マリンタウン」として整備されました。
公園名の「与那古浜」は、琉球王朝時代から敗戦直後まで、山原船が行き交い、与那原が港町・陸海交通の要所として栄えた歴史に由来しています。琉球王国時代に編纂された歌集『おもろさうし』にも「よなはま」「よなこはま」として登場し、与那原の浜が神聖な場所であったことがうかがえます。沖縄県立博物館・美術館が所蔵する「間切図 島尻」にも「與那小浜」という文字が確認できます。
与那古浜公園では、毎年「与那原大綱曳まつり」与那古浜公園と御殿山青少年広場を会場に行われます。まつり会場となる与那古浜公園では出店や音楽ライブが行われ、翌日には大綱曳の本番が御殿山青少年広場で行われます。また12月~1月にかけて「YONABARU illumination」が開催され、多くのイルミネーションで公園が彩られます。イベント日以外でも、土日祝、長期休暇には、公園で多くの親子や子どもたちが元気に遊ぶ姿が見られ、地域に愛され、地域に活気をもたらす公園です。
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与那原町の公共施設_与那古浜公園
沖縄の歴史上人物 百十踏揚/百十踏揚の墓
百十踏揚(ももとふみあがり、生没年未詳)は、琉球王国第一尚氏王統の尚泰久王(在位1454〜1460)の王女です。彼女は王命により勝連按司の阿麻和利に嫁ぎ、政治的な婚姻の一環を担いました。その後、阿麻和利が謀反を企てたとして討たれると、大城賢勇(鬼大城;越来 賢雄。15世紀琉球王国の武将で、鬼大城の名で知られる。越来は後に越来間切の総地頭となって以降のものであり以前は大城賢雄であった)に降嫁したと伝えられています。
『おもろさうし』には〈百ぢやらの主てだ、成りよわちへ〉と詠まれており、王女として華やかな地位にあったことや、神女として霊力を持ち活躍していた姿をうかがうことができます。百十踏揚は「神女名」としても知られており、政治権力の中枢において宗教的な役割を果たした女性でもありました。
しかし、彼女の生涯は権力闘争に翻弄されました。二人の夫─阿麻和利と大城賢勇─はいずれも非業の死を遂げ、百十踏揚は政略結婚の犠牲者として不幸な運命を辿ったといえます。特に賢勇の死については「尚泰久王の命による誅殺説」と「第二尚氏による攻伐説」があり、真相は定かではありませんが、いずれも政治的対立の中で命を落としたと考えられています。
参考1:らしいね南城市|沖縄県南城市観光ポータルサイト,https://www.kankou-nanjo.okinawa/,[アクセス2022/12/03]
参考2:辺戸名朝有「百度踏揚」沖縄大百科事典刊行事務局『沖縄大百科事典』下巻 沖縄タイムス社 p.677.
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沖縄の歴史上人物_百度踏揚
与那原の交通 くじら橋
与那原町は沖縄本島中部の東海岸に位置し、近年では那覇市のベッドタウンとして開発が進みつつある地域で、新しい住宅地やマンションの建設も相次ぎ、若い世帯の流入が増えている地域です。
町の東側には中城湾を埋め立てて造成された東浜地区が広がり、それを囲むように「東浜水路」が整備されています。この水路には、「くじら橋」「東浜橋」「えびす橋」「世持橋」「与那古橋」「ゆめなり橋」「ほかけ橋」の7つの橋が架けられています。
中でも「くじら橋」は、東浜地区と知念高校裏を結ぶ最も海側に位置する橋で、埋め立て前にこの付近にあったクジラービシあ(くじらの形をした岩)に由来して名付けられました。
与那原町のシンボル的存在として親しまれており、晴れた日には中城湾を一望できる撮影スポットです。かつて漁業が盛んだった与那原の海とのつながりを感じられる場所でもあり、与那原町の自然と歴史が感じられる景観となっています。
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与那原町の暮らし_くじら橋
沖縄の自然 泡瀬干潟
沖縄市の東海岸に広がる泡瀬干潟は、約250ヘクタールに及ぶ国内最大級のサンゴ礁干潟です。砂・泥・サンゴ礫・海草藻場・サンゴ礁が複雑に入り混じる環境で、その多様性と規模から、東京湾の盤州干潟や九州・有明海の干潟と並び、日本を代表する干潟のひとつとして注目されています。
この干潟は、干潮時には豊富な底生生物が姿を現し、シギ・チドリ類などの渡り鳥にとって国際的に重要な中継地となっています。そのため、渡り鳥の保全や干潟生態系の研究にとって格好の場となり、国内外の研究者や市民による調査・観察活動が続けられています。
さらに、泡瀬干潟は埋め立て開発をめぐる議論を背景に、保全活動や環境教育の場としても注目されており、「泡瀬干潟を守る連絡会」をはじめとする市民運動は、学術研究と地域社会をつなぐ実践の場ともなっています。このように、泡瀬干潟は自然環境の保全と地域社会のあり方を考える場になっています。
資料(メタデータ)
沖縄の自然_泡瀬干潟
与那原の観光 軽便与那原駅舎展示資料館
沖縄の軽便鉄道は、那覇から嘉手納・糸満・与那原の3方面に敷設された路線網で、「ケイビン」の愛称で親しまれました。
与那原線は1914年に開通し、那覇から首里、南風原を経由して与那原に至る全長約9.4kmの路線で、沖縄本島で初めての鉄道交通を実現しました。那覇には当時の主要な商業港があり、与那原は東海岸の物流拠点として発展した港はありました。この両地を結ぶ鉄道の開通は、物資や人の移動を飛躍的に向上させ、地域経済と生活に大きな影響を与えました。
終着駅だった与那原駅は、沖縄戦で路線が消失する中、駅舎は鉄筋コンクリート造だったため全壊を免れ、戦後は農協(JA)与那原支店として活用されました。
2014年、開通100周年を記念して駅舎が復元され、翌2015年から「軽便与那原駅舎展示資料館」として一般公開されています。
現在は地域資源・観光資源として整備され、駅舎内では路線図や年表、写真、映像、切符切り体験、ARによる構内への電車の到着映像展示や古写真のカラーリングなどが楽しめます。屋外には戦火を逃れた駅跡も保存・公開されています。
資料(メタデータ)
与那原町の観光_軽便与那原駅舎展示資料館
与那原の文化財 与那原親川
与那原の親川には、天地開闢の昔、浜の御殿(御殿山)に舞い降りた天女が、子どもを出産する際に、この湧井の水を産湯に使ったとの神話が伝えられています。
与那原は周囲を山に囲まれていたため、全域で水が豊富でした。特に親川は豊富な水が湧き出る水場であり、古くから大切にされている拝所でした。
琉球王朝時代には国王の久高島参詣時の休憩場であるとともに住民の生活に密着した井戸でもあり、2022年4月には新しく親川広場として整備され、遊具が設置されたり芝生が植えられるなど、与那原町民の憩いの場所となっています。
資料(データベース)
与那原町の文化財_親川
与那原町の歴史_親川広場
与那原の歴史 材木ストリート
江戸時代から木材の流通地として栄えていた与那原には与那原港があり、戦前・戦後と国頭(くにがみ;沖縄本島の北部)の山原(やんばる)から山原船で、沖縄本島東海岸のいくつかの港を経由して、材木や薪、炭などの生活必需品が運びこまれた。運び込まれた材木は、首里や各地域に運ばれるなど、町にはさまざまな物流や往来で活気があり、町の発展に大きな影響を与えていた。
当時、与那原には「シチバ(敷場;材木等の荷物置き場とか、薪の荷揚げを行う場所のこと)」とよばれる材木屋が港周辺に立ち並び、材木ストリートとよばれるようになった。その後、港は埋め立てられ現在の東浜地区ができたが、以前の位置に数軒、営業を続けている材木屋がある。材木ストリートから与那原の歴史や住民の活気を感じ取ることができる。
*港区コミュニティーセンターからえびす橋までの川沿いのとおりが材木ストリートである。
*Googlemap等に掲載されていないためわかりずらい。
資料(メタデータ)
沖縄の怖い話『ミミチリボウジ』
■中城御殿(大村御殿)とは
「中城御殿」は琉球の王世子のための宮殿として建てられた邸宅であった。王世子は伝統的に中城間切(中城村〔沖縄中部〕)の統治が任されていたことから中城王子とよばれており、それに由来する。大村御殿ともいわれる。
*間切・・・琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。
■中城御殿の歴史
中城御殿は尚豊王代(1621~40年)に創建され、二百数十年間、世子殿であった。1875年に世子殿が龍潭の北側(旧県立博物館敷地)に移転すると、跡地は「下の薬園(シムヌヤクエン)」となった。
1879年の沖縄県設置後、1891年に沖縄尋常中学校(後の県立第一中学校)が置かれた。沖縄戦で建物内に保管された大事な宝物とともに重要な資料も散逸しまった。沖縄戦後は首里高等学校の校地となった。元々の建造物のうち、残ったのは井戸が1つと、周辺の大きな石垣だけだったが、中城御殿に関する資料や写真は多く残っている。その場所には1966年に沖縄県立博物館・美術館が建てられたが、2008年に解体され、現在は重要な発掘作業が進められている。
【中城御殿にまつわる怖い話『耳ちりぼーじ』】
琉球王朝時代に首里に黒金座主(くるがにざーし)という僧がいた。その僧が怪しい術を使って女性をたぶらかし襲っているという事に怒った琉球王は北谷王子に彼の殺害を命じた。
北谷王子は黒金座主に囲碁の対局を持ちかけ、黒金座主は両耳を、北谷王子は髷をそれぞれ賭けた。黒金座主が怪しい術で北谷王子を眠らせようとしたところを逆に北谷王子が黒金座主の両耳を切り落として殺した。
その後、黒金座主は幽霊となって北谷王子の住む大村御殿を囲う石壁の角に夜な夜な現れた。またそれ以来、大村御殿には男の子が生まれるとすぐ死ぬとう事が続きどちらが生まれても「ウフーイナグ(大きな女の子)の生まれたんどオ」と唄う風習ができたという。
*諸説あり
資料(メタデータ)
沖縄の怖い話_ミミチリボウジ
与那原の産業 セーイカ
セーイカとはソデイカの沖縄方言での呼び方であり、最初にソデイカ漁業が始まった久米島で、「せー(エビ)」に似た味がすることからこの名がついたといわれている。寿命は1年程度、外套長1m、体重は20kgにも達する巨大なカで、世界に一属一種の生物である。昼間は水深400~600mの深海で過ごし、夜間は餌を追って海面付近にまで浮上する。通常2個体ずつで遊泳する習性をもっている。撮影日には、当添漁港に600杯のセーイカがあがった。多い時には800~1000杯あがることもある。
イカは足が早いため、水揚げしてすぐに船の上で頭と足とにさばき、それぞれをひとつずつ包んで冷凍庫で保管しながら漁港に戻る。そのため、漁港につくと冷凍されたセーイカがベルトコンベアを渡して水産物荷さばき施設に移される。水産物荷さばき施設では、ベルトコンベアからおろされたセーイカを1包み毎に目方にのせて重さを記録する。その後、大きなコンテナにまとめて入れ、さらにコンテナごと大きな計りで総重量をはかり、二つ重ねてトラックへ運ぶ。
セーイカの身の繊維は柔らかいため調理もしやすく、刺身や寿司ネタだけでなく、最近はソーセージやチキアギ(沖縄の揚げかまぼこ)などの加工品も開発されている。ファーマーズマーケット与那原あがりはま市場などで購入することができる。









































































































































































































































































