沖縄空手(多視点映像)
1.空手の紹介
2020年東京オリンピックの追加種目に正式採用されて以来、空手はこれまで以上に注目を浴びています。沖縄古来の武術が中国の武術と融合して誕生した空手は、突き、蹴り、受け、転身、投げ、固め、極め等の技を活用した武道であり、沖縄の地で研鑽され、日本本土や世界に広がりました。現在では、護身術、スポーツ、精神修養の手段として広く世界中で受け入れられています。
空手発祥の地で脈々と受け継がれてきた沖縄空手は、先人たちが伝え継承してきた「型」の習得を重要視しています。沖縄空手の「型」は、攻防一体となった無駄のない技が完璧なまでに構築されており、同じ「型」を日々繰り返し鍛錬することによって、体力、忍耐力、精神力を鍛え上げるものです。空手の鍛錬は型の反復練習に加え、器具等を使った部位鍛錬が伝統的なメニューです。近代になって組手(自由・約束)による修練が出てきました。また、沖縄空手は沖縄古武道とも一体の面があり、武器術や取手術、関節術なども合わせた総合的な武術という側面もあります。
沖縄空手では「チンクチをかける」「ガマクを入れる」「ムチミを使う」というような言葉がよく使われます。これらの言葉は沖縄空手独特の身体操作を表現したものであり、基本動作であるとともに極意にもつながる大切な動きです。
空手は、自分の身体能力を自覚し、開発することにつながります。
2.歴史の紹介
空手発祥の起源についてはさまざまな説がありますが、琉球王国の士族が教養として学んだ護身術がそのルーツであるといわれています。この護身術は「手(てぃ~)」と呼ばれる沖縄古来の武術となり、その後中国武術と融合し、現在の空手の基本が生まれました。空手は、首里、那覇、泊の3つの地域を中心に発達し、その後多くの流派を生み出していきます。学校教育に取り入れられたことも沖縄における空手の普及に大きな力となりました。本土に紹介された後の空手は、各大学や陸軍戸山学校・警視庁の空手研究会を中心に発展を遂げていきます。
沖縄は、日本本土だけでなく台湾や東南アジアにも近いという地理的な優位性を生かして、様々な文化を柔軟に取り入れてきました。空手もまたそうした沖縄の知恵や風土の産物の一つなのです。
3.世界への広がり
沖縄で生まれた空手は世界中に広まり、現在では約150カ国以上、数千万人の愛好者がいるといわれています。空手が海外に広がった背景には、積極的に海外での普及活動に従事してきた多くの空手家の努力がありました。そして、こうした人たちの努力のおかげで、空手は世界にひろがって、世界のKARATEとなりました。
そして2020年東京オリンピックの追加種目への採用は、空手をさらに世界に飛躍させるきっかけとなるでしょう。
4.沖縄空手の思想の紹介
本来、沖縄の空手に試合という発想はありませんでした。空手は護身術であるとともに、自己鍛錬の手段だからです。向き合うのは自分自身であり、空手の稽古を通じて自分を磨くことこそが沖縄空手の稽古なのです。
「空手に先手なし」
「人に打たれず、人打たず、事なきをもととするなり」
沖縄空手の先人が残した金言には、礼節を尊ぶ平和の武としての精神性が表されています。道場ではじめに教わることは礼です。空手の稽古は礼によってはじまり、礼によって終わります。技法や技術だけではなく、守礼の心を学ぶことが大切なのです。
沖縄のアメリカ世の名残 プラザハウス
プラザハウス(PLAZA HOUSE SHOPPING CENTER)は、終戦後に設置された琉球米軍司令部(Ryukyu Command Headquarters)や、その他米軍基地や施設等に駐留していた将校や司令官、その家族の需要を満たすために、1954年にライカム(Rycom)エリアに隣接した場所に創業した「日本初のショッピングモール」といわれている。
琉球政府(=司法・立法・行政の三権を備えた自治機構として、戦後、米軍が沖縄に設けた統治機構“米国民政府”の意向で創立された政府)より特別免許を取得し、7月4日のアメリカ独立記念日に営業を開始した。当時のアメリカ本国で主流だったショッピング文化が反映されていた。
現在もヨーロッパ、アメリカなどからの直輸入によるセレクトショップ「Roger’s」をはじめ、衣・食・住・娯楽などの幅広い、個性豊かな専門店が40あまり立ち並んでおり、週末には多くの人が訪れ、駐車場も込み合う。
資料データ(メタデータ)
沖縄のアメリカ世_プラザハウス
参考
・プラザハウス公式ホームページ,https://www.plazahouse.co.jp,[アクセス2022/11/15]
沖縄のアメリカ世の名残 730記念碑
沖縄本土復帰の6年後である1978年(昭和53年)の7月30日、沖縄の交通方法の変更により、米国施政権下から33年続いた米国式の「車両右側走行」が「左側走行」に切り替えられた。この変更は、実施日にちなんで「730(ななさんまる)」とよばれ、記念碑の設置されている交差点は730交差点と標記されている。
沖縄県は住民生活の負担と混乱を防ぐため、変更前日29日午後10時から翌日6時までのわずか8時間、全県において車両通行止めや駐車禁止等の規制を行い、道路標識や道路標示、信号機等の切り替え作業を一斉に行った。
石垣市では、同年9月歴史的な事業を記念し、730記念碑を建立した。その後、2008年7月30日交通安全を祈念して一対の獅子(シーサー)を置いて碑の周辺を公園として整備し、「730シィーシィーパーク」とした。(「シィーシィー」とは琉球語の八重山方言でシーサーをさす。)
資料(メタデータ)
沖縄のアメリカ世の名残_730記念碑
斎場御嶽
御嶽(うたき)とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽(せーふぁうたき)は琉球開闢(りゅうきゅうかいびゃく)伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。また、琉球国王や聞得大君(きこえおおきみ)の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り(あがりうまーい)」の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されています。
御嶽の中には六つのイビ(神域)があります。琉球国王はこの六カ所を参拝しながら、国家繁栄・安寧、五穀豊穣、航海安全などを神に祈願しました。
はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島から特別に運び入れ、それを御嶽に敷きつめました。その祭事の中でも、最も大きな行事が、聞得大君(きこえおおきみ)の就任式である「御新下り(おあらうり)」でした。
斎場御嶽は、琉球の最高神女(さいこうしんじょ)であった聞得大君(きこえおおきみ)の就任の儀式が執り行わられ、国の豊凶を占う儀式も行われた、琉球王国最高の聖地です。
斎場御嶽は、数ある御嶽の中でも琉球王国最高の聖地として、王府が直接管理していました。その名称についてはいくつもの説がありますが、歴史的な文献には「さやはたけ」「サイハノ嶽(タキ)」「さいは」などと記され、久高島とともにアマミキヨの霊地として国王自らが巡拝(じゅんぱい)する習わしがありました。
斎場御嶽の中にはイビと呼ばれる霊域が6カ所あります。その中でも、大庫理(ウフグーイ)・寄満(ユインチ)・三庫理(サングーイ)はいずれも首里城内にある建物や部屋と同じ名前を持っていることから、両者の深い関わりを示すものと言われています。
また、斎場御嶽を説明するうえで欠かせないのは、琉球王国の最高神女・聞得大君の就任儀礼である「お新下り(おあらおり)」です。聞得大君は国の祭祀をまとめる重要な役割を担っており、王族の女性がその地位に就きます。首里城から出発し、南風原・与那原・佐敷を経由して斎場御嶽に着くまでの各地方の神役(かみやく)たちが参列する国の大きな行事でした。その主会場が斎場御嶽です。国の最高神職に就任する重要な儀式である「お新下り」の祭祀場として選ばれたことは、この御嶽の重要性を表しています。
また、斎場御嶽は2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして、世界遺産リストに登録されました。
袋中寺
琉球に浄土宗が伝来したのは、1603年(万暦31年・慶長8年)に袋中が来琉したことをもって嚆矢とする。袋中は陸奥国石城郡(現・福島県いわき市)の出身の僧侶で、仏法を学ぶため明国渡航を志し、中継地の琉球王国に渡ったのである。琉球では尚寧王や儀間真常の帰依を受け、那覇に桂林寺を創建した。しかし明への渡航が不可能なことを悟り、1606年(万暦34年・慶長11年)に帰国した。
袋中帰国後の琉球浄土宗は、直後に勃発した薩摩藩による琉球侵攻の混乱もあって教勢が振るわず、桂林寺もいつしか廃寺となってしまった。浄土宗そのものは根付かなかったが、やがて「ニンブチャー」という念仏を唱える集団が登場し、今日のエイサーの起源になったといわれている。
壷屋焼
壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋で主に生産されている陶器です。焼物(やちむん)とも呼ばれ、沖縄を代表する陶器の一つとなっています。
壺屋焼の特徴は、沖縄特有の釉薬を用いた色とりどりの力強い絵付けです。庶民が用いる器でありながら装飾性に豊み、様々な技法を駆使した意匠は、大正時代の民芸運動家である柳宗悦(やなぎむねよし)らによって広く紹介され世に知られるようになりました。
壺屋焼は荒焼(あらやち)、上焼(じょうやち)と呼ばれる2種類に分かれ、主に酒や水の瓶などに使われた簡素な荒焼に比べ、上焼は様々な種類の釉薬を使い分け1200度の高温で焼締めます。こうして焼かれた壺屋焼はどっしりとした重量感と風格があり、沖縄の豊かな自然風土を写し取った焼物と称されます。
使用される釉薬の中でも特に白釉は、消石灰とモミ灰に沖縄の土である具志頭白土と喜瀬粘土を混ぜた壺屋焼特有のもので、壺屋焼の特徴である温かみの表現に重要な役割を担っています。
沖縄の焼物(やちむん)の起源は、14世紀~16世紀頃に大陸からもたらされた高麗瓦が由来とされています。この頃、琉球王朝は中国や東南アジア諸国と盛んに交易を行っており、壺屋焼の一種である荒焼(あらやち)もこの頃に技術が伝えられたと言われています。
17世紀に入って琉球王朝は江戸幕府薩摩藩の支配下となり、それまで盛んに行われていた外国との貿易も影を潜めるようになりました。そこで当時の琉球王、尚寧王(しょうねいおう)は朝鮮から陶工を呼び寄せ窯を開き、朝鮮の作陶技術を積極的に取り入れた焼物を作るように推奨しました。こうして、壺屋焼の元となる上焼(じょうやち)が沖縄で焼かれるようになりました。
やがて1682年(天和2年)、王府内にあった首里、知花、湧田の窯が、牧志村の隣、現在の壺屋に統合され、これが現在へ続く壺屋焼の始まりとなりました。
明治以降になると、いったん壺屋焼は安価な焼物の大量生産に押されて生産が下火となります。しかし大正時代に入ると民芸運動の高まりとともに注目されるようになり、遂には1985年(昭和60年)、陶芸家の金城次郎が沖縄県で初めて人間国宝に認定され、壺屋焼は沖縄を代表する伝統工芸品として広く知られるようになりました。