金森氏上山への国替え道中記「北浜偶嘯」の現地を訪ねる ~高山~飛騨境まで~
写真は4月の新緑が美しい国道360号の景観で、概ね越中東街道沿いを通っている。金森氏は上山への国替えの際、家臣団はこの越中西街道を通っている。
国府町上広瀬「追分」で、越中東街道(神岡経由)と越中西街道(飛騨市宮川町経由)に分岐している。金森家臣団は越中西街道を通った。
<北浜偶嘯に記される宿泊地全体>
10月2日 高山出発 *新暦では11月9日
2~11日 古川に10日滞在、出立準備 (10班に分けて順次出発したと思われる)
12日 三川原 泊り (飛騨市宮川町)
13日 楡原 泊り (富山県富山市楡原)
14日 滑川 泊り (富山県滑川市)
15日 泊 泊り (富山県下新川郡朝日町)
16 日 糸魚川 泊り (富山県糸魚川市)
17、18日 今町泊り 1日公事あり (新潟県上越市) *旧直江津市
19日 鉢崎 泊り (新潟県柏崎市米山町)
20日 出雲崎 泊り (新潟県三島郡出雲崎町)
21日 地蔵堂 泊り (新潟県燕市分水町地蔵堂) *舟
22日 臼井 泊り (新潟県新潟市南区臼井) *舟
23日 大仏 泊り (新潟県新潟市東区河渡本町辺り)
24日 黒川 泊り (新潟県胎内市)
25日 玉川 泊り (山形県西置賜郡小国町玉川)
26日 沼沢 泊り (山形県西置賜郡小国町沼沢)
27日 赤湯 泊り (山形県南陽市赤湯)
28日 上山到着 (山形県上山市) *新暦では12月5日
*実質18日(今町で2泊を含む)の旅
金森氏上山への国替え道中記「北浜偶嘯」の現地を訪ねる ~雪の高山~富山~
写真は1月の厳しい国道360号で、概ね越中西街道(飛騨市河合、宮川町を通る道)沿いを通っている。金森氏は上山への国替えの際、家臣団はこの越中西街道を通っている。
<金森氏の国替え>
金森氏第6代頼旹は寛文9年(1669)に生まれ、幼名を万助といい、同12年3月5日に家督を継いだが、幼少であったため左京近供が後見人となった。貞享2年(1685)西之一色の山王宮を再興し、元禄元年(1688)江名子の錦山稲荷を再建した。元禄2年(1689)6月、第5代将軍綱吉の側用人(そばようにん)となったが同年8月解任され、元禄5年(1692)7月28日、出羽上ノ山へ転封を命ぜられた。しかし、それからわずか5年後の元禄10年(1697)美濃郡上八幡へ再転封となっている。
<金森氏の国替え道中>
上山へ移動する金森氏武士団一行は家族を含めて4千人以上、元禄5年(1692)10月2日(新暦11月9日)に高山を出発、120里(約480㎞)の行程を歩き、同月28日(新暦12月5日)、上山に到着している。1日あたり6時間半歩く悲惨な旅であった。この道中を記したのが『北浜偶嘯(ほくひんぐうしょう)』である。
<道中の宿所>
高山~富山へは越中西街道を通った。途中の文童子街道と言われる道は厳しく、羊の腸の様に曲がりくねって厳しかったと道中記は記している。古川に10日滞在して、家臣団は10班ぐらいに編成されて順次出発。最初の宿泊は三川原(飛騨市宮川町)で次は楡原(富山県)であった。
金森氏の顕彰
一般財団法人金森公顕彰会が金森氏の顕彰事業を展開している。令和6年は金森長近公生誕500年にあたる。毎年9月1日には金森長近公を祀る金龍神社で例祭が行なわれる。城山二之丸公園には金森長近公の銅像(昭和57年建)がある。
飛騨国主となった長近は、初め「鍋山城」(高山市漆垣内町)に城下を構えたが、城下町を発展させるには不便なため、天神山古城(現在の城山公園)の場所に城を築くことにした。
城の建築は天正16年(1588)から始めて、慶長5年(1600)までの13年間で本丸と二之丸を完成させ、その後3年かけて三之丸が築かれている。高山城の標高は686mほどで、山頂からは高山盆地が見渡せる良い地形である。本丸には御殿風の秀麗な建物が建てられた。織田信長の安土城に似る作り方で、軍事的機能を最優先させた形の城とは異なる。
金森氏の飛騨における山林支配は重要な産業で、たくさんの収入があった。また商業の発展、鉱山の発見と開発なども、金森長近の功績である。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の時、長近は3万8千石の大名であったが、倍近くの6万石並みの大名と同じ数の兵隊を出すことができたという。豊かな山林と鉱山を持っていたからである。
岸和田の史跡
<金森家と岸和田の小出家>
金森宗和に「菊」という妹は、大阪府堺市郊外の陶器藩主の小出三尹(こいでみつただ・みつまさともいう)に嫁いでいる。菊は金森氏第2代・可重の娘。
三尹の子である小出有棟(宗)も、金森家から金森氏第3代重頼(しげより)の子「辻」を嫁に迎えた。さらに、宗和の子七之助は小出家から嫁を迎えている。
このように金森家と小出家とは深い姻戚関係にあったので、大坂夏の陣の際には可重が小出本家・岸和田城の加勢に軍勢を出している。また、三尹は宗和に茶道を学び、有棟も父より宗和流茶道を引き継いだ。二人とも宗和流茶道の流派の系統図に載っている。
<陶器藩>
中世に陶器城が設けられたが、慶長9年(1604年)、小出三尹(こいでみつまさ)がここを拠点(写真)として陶器藩1万石の初代藩主になっている。小出本家の甥・小出吉英が自分の所領を、叔父である三尹に陶器藩として1万石分与したのである。
<小出分家の菩提寺 高倉寺>
陶器藩小出氏の菩提寺は堺市高倉台にある真言宗の寺で、景雲2年(705)、高僧行基開創の古刹。高倉天皇(在位1168~1180)が当寺にお出ましになったことから高倉寺の名を賜ったという。応仁の乱や織田信長の焼き討ちなどで荒廃したが、その後真海僧正らが復興に努め、小出三伊が陶器藩主になると高倉寺に帰依して代々の祈願所とし、諸堂の修理や改築に尽力した。境内の廟墓には三尹、有棟ら代々の墓が建ち並んでいる。
高倉寺には当初四十九院の塔頭があったが、今日まで存続している唯一の坊舎が宝積院。この院に小出家の過去帳が有りそこには有棟の妻・辻の名前が記載され、本堂に位牌があるが、三尹の継室・菊の名前、位牌は無い。
郡上八幡の史跡
金森氏第6代頼旹は元禄2年(1689)6月、第5代将軍綱吉の側用人(そばようにん)となったが同年8月解任され、元禄5年(1692)7月28日、出羽上ノ山へ転封を命ぜられた。しかし、それからわずか5年後の元禄10年(1697)美濃郡上八幡へ再転封となっている。
元文元年(1736)5月23日没、郡上における金森氏は頼旹の跡を孫の頼錦が継いだが、郡上宝暦騒動により、宝暦8年(1758)12月25日に改易となった。
郡上郡121か村(村高2万4千石)と越前国内で69か村(村高1万5千石)の合計3万9千石を治めることになった。宗祇水(頼錦遺構)、左京神社(金森左京屋敷跡)、郡上慈恩寺(金森家菩提寺)など金森氏に所縁のある遺構がある。
金森氏の飛騨攻め
天正13年(1585)、長近は豊臣秀吉の命令で飛騨の三木氏を攻め滅ぼした。翌年、長近は飛騨国3万8千石の国主となっている。
7月下旬、秀吉から飛騨攻略の命を受けた金森長近の軍勢は、越前大野城を出発した。 石徹白村において、軍勢は二手に分かれ、一隊は長近自身が率いて、石徹白長澄を先導とし、白川郷尾上郷村から中野・岩瀬を経て牧戸に向かい、他の一隊は、長近の養子可重が率い、美濃郡上郡長瀧を経て野々俣村へ進み、内ヶ嶋氏の属城たる牧戸城を挾撃する態勢をとった。
8月6日には岩瀬橋において尾上((神))備前守氏綱と戦い、金森方は苦戦に陥ったが、郡上の両遠藤氏の援兵を得て、ようやく8月10日に牧戸城を攻め落した。
牧戸の旧城主であった川尻備中守氏信は、内ヶ嶋氏に背いて、越前に逃れ、金森氏の部下に加わっており、同様に江馬・鍋山・牛丸など没落した飛騨の名家の人々が、金森氏に属して、道案内の役を勤めていた。