令和5年度 岐阜県私立大学地方創生推進事業
【公開講座】社会人のための準デジタルアーキビスト資格取得講座2023
1.【特別講義】デジタルアーカイブin岐阜2023 「AI時代のデジタルアーカイブ」
日 時:2024年2月11日(日) 9:00~12:00
会 場:オンライン講座(Zoomを使用)
主 催:岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所
後 援:デジタルアーキビスト資格認定機構、日本教育情報学会、公益財団法人学習情報研究センター
受講対象:社会人(デジタルアーカイブと教育に興味がある社会人)
趣 旨:デジタルアーカイブは機械学習をはじめとしたAI技術の基盤となるものであり、AI技術の深化により、人間の学びなどの人間の知的活動に、AIが大きな役割を果たしつつある。このAIにおける様々な処理には,デジタルアーカイブがその基礎にあり、AI時代のデジタルアーカイブは、情報の保全・活用、知識の蓄積・再利用、文化遺産の保存・伝承、予測と未来への展望といった面で多様な価値を持つ。今年のデジタルアーカイブin岐阜は、「AI時代のデジタルアーカイブ」をテーマにして、AI時代のデジタルアーカイブの在り方と、人間の学びの変革について考えます。
定 員:100名 (実施済)
募集期間:令和5年11月1日(水)~ 令和6年1月31日(水)
受 講 料:20,000円
プログラム:
1.「AIと人間の学び」(9:10~10:00)
赤堀侃司(東京工業大学名誉教授)
動画資料
資 料
1.プレゼン資料(赤堀先生)
2.AIと人間の学び 壁の向こうで答えているのはAIか人か? (単行本)発売日 : 2022/3/31
2.「人とAIの学習研究から考えるこれからの教育」(10:10~11:00)
益川弘如(聖心女子大学教授)
動画資料
資料
3.「人工知能(AI)とデジタルアーカイブの現状と未来」(11:10~12:00)
澤井進(岐阜女子大学特任教授)
動画資料
資料
コーディネータ
久世均(デジタルアーカイブ研究所長)
申し込み先
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeWLEsg0CE1TI92e4ytZOh-kCf2_TNZZ-Oma7AoQq87ln4-lQ/viewform
※講師の関係で講演の順番について変更させていただきました。(2024.1.23)
資料
2.e-Learning講座
第1講 デジタルアーカイブの基礎
1.目 的
デジタルアーカイブは、「デジタル」と「アーカイブ」という言葉からできた和製英語と言われています。デジタルアーカイブとは何か? デジタルアーキビストに必要な能力は何か?ここでは、言葉の意味と発展の歴史から、基本的な考え方を理解し、今後のデジタルアーカイブの方向性を考えます。
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブとは何か説明できる。
② デジタルアーカイブがどのように発展してきたかについて具体例をあげ説明できる。
③ デジタルアーキビストに求められている能力について具体的に説明できる。
3.課 題
① デジタルアーカイブとは何か自身の立場で説明しなさい。
② デジタルアーカイブがどのように発展してきたか説明しなさい。
③ デジタルアーキビストに求められている能力は何か自身の立場で説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの基礎
5.動画資料
第2講 デジタルアーカイブ開発と活用プロセス
1.目 的
デジタルアーカイブの利用は、資料の提示や提供から始まり、課題解決、知的創造等の処理へと進みます。またデジタルアーカイブを活用し、新しい「知」の創造を求め、さらに新しい「知」と人々の経験を付加し、新たな知的活動へと発展します。ここでは、デジタルアーカイブの開発と活用プロセスについて考えます。
2.学習到達目標
①デジタルアーカイブの活用について具体例を挙げて説明できる
②資料の選定評価について説明できる。
③デジタルアーカイブのプロセスや記録方法について説明できる。
3.課 題
①デジタルアーカイブの活用について具体例を挙げて説明してください。
②資料の選定評価の課題について説明してください。
③デジタルアーカイブのプロセスや記録方法について説明してください。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブ開発と活用プロセス
5.動画資料
第3講 デジタルアーカイブの評価とメタデータ
1.目 的
デジタルアーカイブは、対象とする資料(情報資源)の分野も多岐にわたり、プロジェクト規模なども異なるため、それぞれにあわせた評価手法が求められます。そこで、本講では、デジタルアーカイブの自己点検ツールとして考案された「デジタルアーカイブアセスメントツール」の内容を把握し、その評価項目の中でも重視されているメタデータについて、記述のための国際標準、国際指針として制定されている事例から学びます。
2.学習到達目標
① 「デジタルアーカイブアセスメントツール」の内容について説明できる。
② 記述のための国際標準、国際指針などの事例について説明できる。
③ 資料(情報資源)のメタデータ記述ができる。
3.課 題
① 「デジタルアーカイブアセスメントツール」の評価項目の内、あなたが重要だと思う項目について、なぜそう思うかを含めて説明してください。
② 具体的に何か資料(情報資源)を一つ取り上げ、その資料のメタデータ記述項目を設定した上で実際の記述を行ってください。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの評価とメタデータ
5.動画資料
第4講 デジタルアーカイブの利活用
1.目 的
デジタルアーカイブは、1990年代の初期から、過去から現在の資料をデジタル化し、次の世代への伝承と現状での利活用を目指して開発が進められてきた。デジタルアーカイブの基本は、過去~現在の資料の収集・保管、デジタル化、さらに現状での利活用と次の世代への伝承である。
過去~現在の各種資料を収集・保管し、次のように使われる。
①次世代へのデジタルコンテンツの確かな伝承
②国内外のデジタルコンテンツの流通と利活用
ここでは、図書館や博物館等におけるデジタルアーカイブの利活用について考える。
2.学習到達目標
① 図書館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明できる。
② 博物館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明できる。
③ デジタルアーカイブの共通利用について説明できる。
3.課 題
① 図書館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明しなさい。
② 博物館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明しなさい。
③ デジタルアーカイブの共通利用について説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの利活用
5.動画資料
第5講 デジタルアーカイブによる地域活性化
1.目 的
知識基盤社会においてデジタルアーカイブを有効的に活用し,新たな知を創造するという本学独自の「知の増殖型サイクル」の手法により,地域課題に実践的な解決方法を確立するために,地域に開かれた地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成をする。このことにより,地域課題に主体的に取り組む人材を養成する大学として,伝統文化産業の振興と新たな観光資源の発掘並びにデジタルアーカイブ研究による地方創成イノベーションの創出について具体的に考える。
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブと地域課題解決について説明できる。
② 地方創成イノベーションの創出について具体的に説明できる。
3.課 題
① 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブにより,地域の文化産業を振興するための方策を3つ挙げて説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブによる地域活性化
5.動画資料
※本映像は本学の学部の授業(情報の管理と流通)の内容の一部を利用して提供しています。
6.テキスト資料
デジタルアーカイブによる地域活性化
第6講 デジタルアーカイブと知的財産権(1)
1.目 的
デジタルアーキビストとして、アーカイブを計画し、そして資料収集し、そして構築し、そして利用許諾し、また運用していくという、こういったときに必要な権利処理について説明する。
2.学習到達目標
① デジタルアーキビストに著作権処理の能力が必要であることについて具体的に説明ができる。
② 著作者の権利について具体的に説明できる。
③ 著作権の契約書を作成できる。
3.課 題
① デジタルアーキビストに著作権処理の能力が必要であることについて具体的に説明しなさい。
② 著作者の権利について具体的に説明しなさい。
③ 著作権の契約書を作成しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブと知的財産権(1)
第7講 デジタルアーカイブと知的財産権(2)
1.目 的
著作権について、自分の立ち位置とは関係ない形で第三者的に実践の試みの良い部分と課題について理解を深め、基本的な理解を図った後に、実践の中から法律など制度的な課題について考えます
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブの実践における著作権に関する課題について説明できる。
② 著作権のデジタルアーカイブの活用に関する課題について具体例を挙げて
説明できる。
3.課 題
1.デジタルアーカイブの実践における著作権に関する課題について説明しなさい。
2.著作権のデジタルアーカイブの活用に関する課題について具体例を挙げて説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブと知的財産権(2)
5.動画資料
第8講 ジャパンサーチとデジタルアーカイブ活用基盤
国立情報学研究所名誉教授 高野明彦氏
➝ プレゼン資料:ジャパンサーチとデジタルアーカイブ活用基盤
第9講 世界のデジタルアーカイブの発展とその活用
東京大学大学院情報学環 時実象一氏
➝ プレゼン資料:世界のデジタルアーカイブの発展とその活用
第10講 デジタルアーカイブと法制度の現在地点
骨董通り法律事務所パートナー弁護士 福井健策氏
➝ プレゼン資料:デジタルアーカイブと法制度の現在地点
テキスト
【テキスト】
3.準デジタルアーキビスト資格試験
■認定試験の方法
1.認定試験問題を下記に提示いたしますので、試験問題を回答いただき、2月25日(日)17時(時間厳守)までに下記のメールアドレスに送付してください。
pfe01173@nifty.com
2.下記振込期限までに講座に受講料(資格試験料含む)を振り込んでください。
なお、請求書や領収書が必要な場合は、宛先を明記の上下記まで申し込んでください。
pfe01173@nifty.com (担当:久世)
※なお、事前に資格を希望された方には、E-Mailにて課題をお送りさせていただいております。
新たに資格を希望される方は、下記の課題を提出いただき、資格試験料を振り込んでいただければ資格証をお送りいたします。
■認定試験問題
1.R5社会人のための準デジタルアーカイブ資格取得講座課題(Ward版)
2.R5社会人のための準デジタルアーカイブ資格取得講座課題(PDF版)
資格試験料振込口座
資格試験料については、下記の口座に振り込みをお願いいたします。
資格試験料 20,000円
振込期限:令和6年2月29日(木)17:00(時間厳守)
銀行名 十六銀行
支店名 高富支店
預金種目 普通預金
口座番号 1526285
口座名義 学校法人華陽学園(ガッコウホウジンカヨウガクエン)
尚、請求書や領収書が必要な場合については pfe01173@nifty.com まで申し込んでください。
※準DA資格証の発行については、課題提出後2ヶ月後となります。
資料
令和5年度 岐阜県私立大学地方創生推進事業
デジタルアーカイブin岐阜2023
「AI時代のデジタルアーカイブ」
日 時:2024年2月11日(日) 9:00~12:00
会 場:オンライン講座(Zoomを使用)
主 催:岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所
後 援:デジタルアーキビスト資格認定機構、日本教育情報学会、公益財団法人学習情報研究センター
受講対象:社会人(デジタルアーカイブと教育に興味がある社会人)
趣 旨:デジタルアーカイブは機械学習をはじめとしたAI技術の基盤となるものであり、AI技術の深化により、人間の学びなどの人間の知的活動に、AIが大きな役割を果たしつつある。このAIにおける様々な処理には,デジタルアーカイブがその基礎にあり、AI時代のデジタルアーカイブは、情報の保全・活用、知識の蓄積・再利用、文化遺産の保存・伝承、予測と未来への展望といった面で多様な価値を持つ。今年のデジタルアーカイブin岐阜は、「AI時代のデジタルアーカイブ」をテーマにして、AI時代のデジタルアーカイブの在り方と、人間の学びの変革について考えます。
定 員:100名 (実施済)
募集期間:令和5年11月1日(水)~ 令和6年1月31日(水)
受 講 料:無 料
Zoom:
プログラム:
1.「AIと人間の学び」(9:10~10:00)
赤堀侃司(東京工業大学名誉教授)
動画資料
資 料
1.プレゼン資料(赤堀先生)
2.AIと人間の学び 壁の向こうで答えているのはAIか人か? (単行本)発売日 : 2022/3/31
2.「人とAIの学習研究から考えるこれからの教育」(10:10~11:00)
益川弘如(聖心女子大学教授)
動画資料
資料
3.「人工知能(AI)とデジタルアーカイブの現状と未来」(11:10~12:00)
澤井進(岐阜女子大学特任教授)
動画資料
資料
コーディネータ 久世均(デジタルアーカイブ研究所長)
※講師の関係で講演の順番について変更させていただきました。(2024.1.23)
資料
【公開講座】社会人のための準デジタルアーキビスト資格取得講座2023 (希望者)
➝ 社会人のための準デジタルアーキビスト資格取得講座2023
参加申し込み
参加申し込みはここから ➝ デジタルアーカイブin岐阜2023
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeWLEsg0CE1TI92e4ytZOh-kCf2_TNZZ-Oma7AoQq87ln4-lQ/viewform
資料
2.新聞広告_原稿
もっと知りたい!昔の沖縄の子どもの食と道具
仲本先生が子どもころは、コンビニも冷蔵庫もない時代!
みなさんは おなかがすいたら どうしますか?
仲本先生が子どもだったころの沖縄は、家のそばにスーパーやコンビニなどはなく、家のなかには 冷蔵庫(れいぞうこ)やレンジ、ガスコンロもない時代(じだい)でした
そんな時代(じだい)の子どもたちは、どんなものを食べ、どのようにくらしていたのでしょうか
小学生向けWeb教材 「もっと知りたい!昔の沖縄の子どもの食と道具」
ねらい:昭和8年生まれの仲本先生の話を通して、
沖縄の昔の子どもの食生活や使われていた道具について知り、
生活が移り変わってきたことや、人々の暮らしの中の知恵や工夫について考える
小出城跡
【案内】 市立西春近北保育園(表記番地)の西約180mより細い道を南に200mほど行くと、城跡碑が建てられている。その手前の空家の前に駐車できる[マップコード171 247 069*78]。
西側の西城との間に堀跡の道路が続いている。主郭には城跡標柱、説明板が建てられている。南と東側に低い土塁があり、北側に空堀があり、東側下段には二重の深い空堀が残っている。
平成二年(1990年)11月1日、伊那市の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代前期、藤原鎌足の流れを汲む工藤氏の一族小井弖(こいで)氏により築城されたと云われる。
工藤氏は源氏派の有力御家人で『住 信濃国 号林二郎、子孫遂信濃人』の記述があり、早くに信濃国に住み着き、治承四年(1180年)源頼朝挙兵の折り甲斐源氏武田信義親子と共に、平家方大田切城を攻め、勝利の勲功により西春近を安堵されたと伝わっている。
工藤氏は、能綱の時、建長三年(1251年)嫡子師能と庶子宮熊わうい間に起きた所領譲りの係争や、正応元年(1288年)課役係争について鎌倉幕府の裁定を仰いだいわゆる工藤文書が5通現存している。
また建武二年(1335年)に起きた中先代の乱、暦応三年(1340年)に起きた大徳王寺城合戦、応永七年(1400年)の大塔合戦、永享十二年(1440年)結城合戦に参戦した記録がある。
享徳二年(1453年)頃、師能系の弾正忠朝能とその兄は、妹が神氏(みわし:後の諏訪氏)に嫁いだ縁で諏訪氏の依頼を受け諏訪に移住したと云われている。
戦国末期に、高遠城家来に6人の所領を得た工藤と名乗る武士がいるが、いずれも小出氏の末流と見られている。
また、尾張の国中村から出て、但馬国出石藩主となった小出甚左衛門秀政やその長子小出吉英(岸和田藩主)・次子親(園部藩主)も、ここの小出氏の末流と考えられている。『現地説明板』より(年号一部追加)。
深妙寺
感応山深妙寺は、平安時代、権現山のふもと小殿寺に権現信仰(真言宗)の寺院として開創されたと言われます。その後、山寺垣外に移りました。
伊那春近領に工藤犬房丸祐時(曽我物語)が流罪になり当山の密教に帰依し、本堂を再建されたと伝えられています。これは、当山開基 三位公 池上弥次郎入道 が伊那春近領で活躍される数十年前の出来事です。 ≪工藤犬房丸の伝承≫ 参照
この、伊那春近領を鎌倉幕府 政所重臣 三位公 池上弥次郎入道(日蓮聖人孫弟子・六老僧日朗上人直弟子・常法院日遊上人・藤原氏、工藤氏と同族)が治めら れました。三位公入道は伊那春近領の政所長官(地頭を指揮監督する役職)をなさ れました。小出(小井弖)には鎌倉幕府の出張所である政所があったといわれてい ます。
政所役人 三位公入道が統括した伊那春近領は現在の伊那市から下伊那郡松川町 に及ぶ天竜川沿いの広大かつ肥沃の地でした。ここには三位公入道に仕える、小出 氏(工藤氏)・赤須氏・飯島氏・田島氏・片桐氏・名子氏などの地頭がいました。
入道は幕政に参画されるとともに、弘安8年(1285)伊那春近領で起きた洪 水の災害復旧を成就され北条政権に信頼されました。当山はこの三位公入道により 鎌倉時代正安元年・1299年(正応元年・1288年説もある)日蓮宗に改宗さ れました。
慶長5年(1600)現在地に移り、実に700年の永きにわたり法華経の教えを弘める道場として栄えて来ました。
宮田宿本陣 旧荒井家住宅
宮田村町区の宿場町にあった伊那街道に唯一残る江戸時代の本陣を、ふれあい広場の隣接地に復元しました。
宮田宿は飯田藩主が参勤交代で江戸に向かう時、この地を宿泊地としたことや、伊那谷一の荒れ川太田切川を南に控えていたことから、伊那街道の要衝として賑わいました。
大名の宿泊施設として置かれた本陣は藩の臨時の役所や役人の休憩所としても使われました。
長野県宝 旧新井家住宅(宮田宿本陣)
指定年月日 1987年8月17日
所在地 宮田村ふれあい広場東
指定物件 母屋、座敷棟、土蔵、門
江戸時代の宿場町のほぼ中央にあった建物を、創建当時の姿に移築復元したもので、向かって右に大きな母屋、その左に門、門の奥、母屋の南に座敷棟、母屋の裏に土蔵があります。母屋が18世紀後半、座敷棟が19世紀初めに建てられたものと推定され、伊那街道では唯一、江戸時代の姿のままに残された本陣建物です。
伊那街道の始まりは、関ケ原の戦いの7年前の1593年(文禄2年)、豊臣秀吉によって飯田の地を治めるよう命ぜられた京極高知(たかとも)が道路整備へ着手してからと言われています。高知はそれまで天竜川の近くを通っていた道を西の一段高い所へ引き上げ、ほぼ一定の間隔に宿場を置きました。飯田から6番目になる宮田宿は、南に太田切川の荒れ川が控えていて、伊那街道の中でも重要な宿場の一つでした。
交通通信の基点として作られた宿場町は、両側にびっしりと家が並び、幅が狭くて奥が長い、いわゆる鰻の寝床の屋敷割で、宮田宿の場合、間口4間(約7m)位の屋敷が多かったのですが、本陣の間口は13間半(約24.5m)あります。
江戸時代の宮田村は宮田町割、宮田南割、宮田北割の3ケ村に分かれていました。各村には名主や組頭を長とする行政機構がありましたが、宿場は、問屋を長とする年寄衆によって運営され、さらにそれから独立した公営宿舎の本陣や、藩役人の日帰り出張の休憩や会合の場所であるお茶屋が設けられていたのです。新井家は本陣と、母屋の部分がお茶屋を兼ね、さらに、一時期問屋も兼ねていたそうです。
母屋と座敷棟の屋根は当時の定めに従って板葺きとなっています。伊那谷の板葺き屋根は1960年代を境に急速に姿を消し、今はもう一般の家庭では見ることができません。
この建物が移築されたあと、総合公園ふれあい広場や、宮田球場などが建設され、周辺は村民をはじめ多くの皆さんの憩いの場となりました。
金沢城公園
金沢城(かなざわじょう)は、加賀国石川郡尾山[注釈 1](現・石川県金沢市丸の内)にある日本の城である。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。城址は国の史跡に指定されており[1]、城址を含む一帯は金沢城公園(かなざわじょうこうえん)として整備されている。
概要
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形にちなむ。台地先端を山の尾とみなした)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重6階の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた蓮池庭を前身とし、代々の藩主が改修した大名庭園である。
なお、金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られている[2]が、尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていた。佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。だが、金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されている[3][4]。
城址は明治以降、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年(1995年)まで置かれていた。
兼六園
17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された「大名庭園」を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられる。2009年3月16日発売の『ミシュラン観光ガイド』では、最高評価の3つ星に選ばれた。園名は、松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名した[1]。四季それぞれに趣が深く、季節ごとにさまざまな表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっている。県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所でもあり、日本さくら名所100選にも選ばれている。
金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、国立工芸館、石川県立美術館、金沢21世紀美術館、石川県政記念しいのき迎賓館を肇めとした文化施設(兼六園周辺文化の森)などの観光地があり、道路(百間堀通り)を隔てて橋一本で金沢城公園とも繋がっている。
兼六園の管理等に関しては石川県都市公園条例で定められており、石川県都市公園条例施行規則で開園時間や入園料、無料入園期間などが定められている。
1676年(延宝4年)、加賀藩5代藩主の前田綱紀が、金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し、その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建ててその周りを庭園化したのが兼六園の始まりである。庭は当時は蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていたが、1759年(宝暦9年)4月10日に発生した宝暦の大火で焼失した。それから15年後の1774年(安永3年)、10代藩主前田治脩によって蓮池庭が再興され、同年に翠滝と夕顔亭、1776年(安永5年)には内橋亭を造り、庭園が整備された。また、蓮池庭上部にある平坦な場所で当時は空き地になっていた千歳台に藩校である明倫堂と経武館を建てた。
11代藩主の前田斉広は、1819年(文政2年)に37歳で隠居を表明した後、千歳台で自身の隠居所の建設を始め、藩校は現在のいしかわ四高記念公園の場所に移した。3年後の1822年(文政5年)には建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所「竹沢御殿(たけざわごてん)」を完成し、この年に白河楽翁(松平定信)によって兼六園と命名された。斉広の死後、竹沢御殿は12代藩主前田斉泰によって取り壊されるが、斉泰は1837年(天保8年)に霞ヶ池を掘り広げたり、栄螺山を築いたり、姿形の良い木を植えるなどして庭を拡張・整備し、1860年(万延元年)には蓮池庭との間にあった塀を取り壊して、現在の形に近い庭園を築いた。
明治時代以後
長らく殿様の私庭として非公開だったが、1871年(明治4年)から日時を限っての公開が開始。同年に園内の山崎山の下に異人館が建てられ、噴水前には理化学校が開設された。1872年(明治5年)には異人館は成巽閣とともに国内初の博物館である金沢勧業博物館となった。同館は1909年(明治42年)に廃止されるが、その間1879年(明治12年)に図書館、1887年(明治20年)に金沢工業学校(後の石川県立工業高等学校)が附属されるなど、大規模なものに拡張された。
1874年(明治7年)5月7日から正式に一般公開され、1876年(明治9年)には兼六園観光案内組合が組織され、積極的な観光利用の歴史が始まった。24時間開放されていたが[注 1]、石の持ち去りや灯籠の破壊などが後を絶たず、保存徹底の声が上がるようになり、維持・保存費用捻出も兼ねて1976年(昭和51年)から有料とし、時間を限って公開されるようになった。1985年(昭和60年)に特別名勝に指定された。
勢理客十五夜祭
獅子舞を中心として、多くの踊り(ウドゥイ)、狂言(チョウギン)も演じられた勢理客の十五夜祭は、戦前から広く知られていて、祭りの夜は近隣から沢山の見物客も詰めかけてにぎやかでした。獅子舞は、約四百年の昔から伝承され、人物像ははっきりしませんが、「コーレー具志堅」という方が始めたと伝えられています。去る沖縄戦で、勢理客地域は壊滅的な被害を受け、村屋は焼失し獅子や舞台衣装、三線、ドラ、太鼓等の小道具にいたるまで全てを失いました。しかし、昭和22年に収容所から地元帰住を許されると、直ちに村屋を造り、獅子や舞台衣装、小道具などを作りあげ、「十五夜祭」を復活したのです。
村屋(現在は公民館)は、場所を移転してきましたが、旧暦8月15日の「十五夜祭」は、一度も欠かすことなく、毎年実施して今日に至っています。戦後の20年間は、戦前の十五夜祭と同じように、夕方から明け方まで中断なく演技が行なわれました。獅子舞11番全てが登場したほか、子供の舞い、二才踊り、女踊り、そして実に多彩な狂言(チョウギン)の演目が次々と演じられました。
その後、都市化が進み、住民の働く形態も変わり、祭りの時間の制約などもあり、十五夜祭は縮小され多くの演目が失われて今日に至っています。しかし、獅子舞を中心に十五夜祭は、勢理客区民の心の拠り所として毎年開催されてきました。獅子舞は昭和48年に「国選択の無形文化財」になり、昭和56年には「浦添市指定民俗文化財」にもなっています。(「勢理客獅子舞保存会の活動史」から抜粋)
中村家住宅
国指定重要文化財 – 中村家住宅
中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色を全て備えている建物です。沖縄本島内では、第二次世界大戦の沖縄戦を経てこのように屋敷構えがそっくり残っている例は極めて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも貴重な遺構であるとのことで、1956年(昭和31年)に琉球政府から、1972年(昭和47年)復帰と同時に日本政府によって国の重要文化財に指定されました。
中村家の歴史
今から約五〇〇年前中村家の先祖賀氏がうじは、忠信かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸ごさまる(中城なかぐすく城主)が読谷よみたん(本島中部)より城を中城に移したとき、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられています。その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利あまわりに滅ぼされてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目にあいました。一七二〇年頃、ようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職)に任ぜられました。
中村家沿革
今から約500年前中村家の先祖賀氏(がうじ)は、忠臣かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸(中城城主)が読谷(本島中部)より城中城に移した時、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられています。その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利に滅ぼされてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目にあいました。1720年頃、ようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職) に任ぜられました。
構造について
現存する建物は18世紀中頃に建てられたと伝えられています。建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、各部に特殊な手法が加えられて、独特な住居建築になっています。この遺構は、士族屋敷の形式に農民の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して沖縄の住居建築の特色をすべて備え持っています。屋敷は、南向きの緩い傾斜地を切りひらいて建てられており、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、その内側に防風林の役目を果たしている福木を植え、台風に備えています。