鹿苑寺六角堂
昔から立花六角堂として有名なこのお堂は、旧郡上街道の地蔵坂峠にあり、村の繁昌と旅人の安全を守る地蔵堂であった。
このお堂に掲げられている元文3年(1738年)の板額に記されているものによると、応長(おうちょう)元年(1311年)に飛州(飛騨の国)の大工匠頭藤原朝臣宗安が再建したとある。建築の様式から考えて、この記録のように鎌倉時代末から室町時代初期のものと推定され、美濃市内最古の建築である。
平面は六角形で周囲に縁をめぐらし、柱は円柱、斗組(ますぐみ)は三斗(みつと)、屋根は桧皮葺で、屋根上の露盤(ろばん)や宝珠は後補のものである。内部の柱に天文(てんぶん)年間の墨書の落書がいくつか見られ、この堂の古さを立証している。
このお堂を左甚五郎が建てたという俗説があるが、左甚五郎が飛騨の匠といわれ、この堂も飛州の匠頭が作ったものであることから誤り伝えられたものであり、左甚五郎の時代よりも300年も古い建築である。
六角堂は度々の補修で柱の多くは根継ぎされ、当初材は中央の来迎柱(らいごうばしら)など数本に過ぎない。しかし柱や斗組の部分に室町時代初期のものがそのまま残っており、貴重な建築として国の重要文化財に指定されている。信仰により700年の歳月を今日まで護りぬいてきたこの地蔵堂は素朴で美しく、県下にも六角堂は稀であり室町期建造物として甚だ貴重である。
三日坂
大和エリアは「古今伝授の里」と呼ばれる和歌の里。
鎌倉時代から室町時代にかけて約320年にわたり郡上を治めた東氏(とうし)は、和歌に優れた才能をみせた一族で、中でも9代目・東常縁(とうのつねより)は連歌師の宗祇に古今伝授を行ったことで「古今伝授の祖」として知られる人物です。
東氏の拠点がおかれた牧集落は、当時の名残を随所にとどめています。篠脇城、東氏館跡庭園、明建神社、馬場跡、東林寺跡、木蛇寺跡、慈永大姉墓、千人塚、三日坂と連なる中世遺跡群です。さらに芋穴、シシ垣などの生活遺跡や、そこで暮らす人々の姿、家並み、田畑といった生活環境、山野草などの貴重な植物、四季折々に彩を変化させる自然景観、それら全てを含めフィールドミュージアム(野外博物館)としています。
平成5年に「古今伝授の里フィールドミュージアム」は、東氏記念館、和歌文学館、篠脇山荘、短歌の里交流館などを核施設として整備しました。
ここは、豊かな自然環境の中で和歌と歴史の世界に想いを馳せ、訪れた人に日本の美しさを感じさせる特別な場所です。
おまむ桜碑
【おまんさくらのひ】
長滝白山神社を南に下った、国道沿いにある大きな碑である。周囲には他の石碑や地蔵が置かれてあるが、肝心の桜の木はなく、既に枯死したものと思われる。
元禄の頃(1688~1704年)、小源次という魚売りの若者が長滝に商いに来ていた。1月6日、ちょうど長滝白山神社の花奪い祭の折、小源次は境内で一人の娘を見初める。娘の名はおまむ。長滝にある寺坊の一人娘であった。
いつしか二人は惹かれ合う間柄となった。だが、魚の行商人と寺の娘とでは、言葉を交わす機会を作るのも難しい。何とか年明けの花奪い祭の夜、神社近くの桜の木の下で出逢う約束だけをした。そして小源太はその夜、桜の木の下でおまむを待ち続けた。一方のおまむは、夜半に家を抜け出ようとしたところで親に見つかり、外出を禁じられて部屋に閉じ込められた。そして恋しい人に出会えぬまま一夜を過ごしたのである。
翌朝、桜の木の下で小源次が凍死しているのが見つかった。その話は当然、寺にも伝わった。その日のうちにおまむの姿は寺から消えた。家人が消息を知るのは、小源次が亡くなった桜の木の下で自害して果てたという知らせがあった時であった。
年月が経ち、二人の悲恋は“おまむ桜”の伝承として伝えられ、さらには白鳥の町に続く夏の風物詩である“白鳥踊り”の曲目「シッチョイ」の歌詞として語り継がれている。
おまむ桜の碑なるものが建っています。「おまむ」は、白山長滝寺の寺坊の一つ「蔵泉坊」という坊の評判の娘だったそうです。
「白鳥おどり」の中に「シッチョイ」という演目があります。
♪ おまむ桜の由来を問えば、時は元禄半の頃に、数あるお寺に天台宗に、
そのやお寺にひとりの娘、歳は14でその名はおまむ、隣近所の評判娘。
他所や在所の若い衆たちが、我も我もとおまむを目指す、
ある日一人の若侍が、歳の頃なら19か20、今に伝わる花奪い祭り、
その日おまむを見染めてからは、魚売りにと姿を変えて、
今日も明日もとお通いなさる。
月は流るる水より早く、もはや5年の年月積り、いつか二人の心は通う、
示し合わせて人目を忍び、今宵巳の刻、高五郎谷の、春に花咲く桜の根元、
ここに逢引き約束いたす。
それは長滝祭りの夜で、雪の降る中小源次こそは、兼ねて約束桜の下を、
行きつ戻りつおまむを待てど、ついにおまむの姿は見えず。
唄の続きはこの後あれど、ここらあたりで止めおきまする。
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白鳥おどりの演目は、10ぐらいあるようですが、一つ一つが長いので、
唄手の都合で省略することもあるようです。
そこで続きを載せておきます。
さても哀れや小源次こそは、待てど来ぬ人おまむを胸に、
恋のともしび雪にと消える、遂に帰らぬあの世とやらへ。
闇にまぎれてお寺をいでて、心急くまま桜の根元、
呼べど答えず姿も見えず、そこでおまむは途方にくれる。
泣いて泣きぬれ桜にもたれ、待つも哀れやおまむの姿、
雪に凍えておまむもここに、花の20もそのまま散りて、
伝え聞く人涙を誘う。
後の世までもおまむの桜、いまの世までも話に残る、
さても哀れや小源次おまむ。
白髭神社(しらひげじんじゃ)
愛知県稲沢市祖父江町四貫宮屋敷
四貫の白髭神社は江戸時代の初めごろにできたと言われています。「洪水の前の夜に白いひげのおじいさんが夢枕に立って、村の人にひなんするように注意した」という白髭伝説(しらひげでんせつ)は日本中にあります。このため、大きな川の近くには白髭神社が多くまつられているのです。四貫の白髭神社では、「おびしゃ」という行事があります。
矢をいって、その年の作物のできを占ったり、わざわいがおきないように、健康にすごせるようにもちをまく「もちなげ」を行います。還暦(60才になった人)の人がおもちやおかしをほうのうして、そのおさがりをやく年の人がまきます。子どもも大人も参加する行事です。
参考資料
1)『祖父江町史』P.69 P.72
地泉院 (じせんいん)
愛知県稲沢市祖父江町神明津231
神明津の地泉院は奈良時代からつづくお寺です。安土桃山時代の関ヶ原の合戦のときには、徳川軍が地泉院に一泊し祈願したと言われている尾張徳川家ゆかりの寺でもあります。やねがわらに葵の紋(あおいのもん)があるのはそのためです。地泉院では、11月に十万体地蔵流しが行われます。90年ほど前(1931年頃)に木曽川で渡し舟がてんぷくし、その時になくなった人びとをなぐさめるためにはじまりました。
参考資料
1)『わたしたちのまちそぶえ』P.49 平成8年 祖父江町教育委員会
2)地泉院ホームページ https://jisennin.ehoh.net/#
3)『長岡の昔ばなし第二集 みよ池の里』
水屋〈稲沢市指定文化財〉 (みずや 〈いなざわししていぶんかざい〉 )
愛知県稲沢市祖父江町神明津矢田塚西
神明津には水屋(みずや)があります。水屋は大水になったときにひなんするところです。食べ物や移動のためのふねが用意され、水が引くまでの間、そこで生活をしていました。しかし、こうした水屋は豊かな家の人にしかつくることができませんでした。今では、木曽川に高いていぼうがつくられ、人々の生活を守っています。こう水のきけんが少なくなり、土をもったり、石がきをきずいたりする家はへってきました。むかしはたくさんの水屋がありましたが、今はわずかしかのこっていません。この水屋は安政4年(1857年)にたてられました。災害のときには十数人がひなん生活ができたといわれています。
参考資料
1)『わたしたちのまちそぶえ』P.46 平成8年 祖父江町教育委員会
2)『わたしたちのいなざわ』P.164平成18年稲沢市教育委員会
2)『長岡の昔ばなし 一本松の子ら』
3)稲沢市ホームページ
www.city.inazawa.aichi.jp/miryoku/bunka/shishitei/1002926.html
旧佐屋川野田渡船場跡 (きゅうさやがわのだとせんじょうあと)
愛知県稲沢市祖父江町野田佐屋川
むかしは、木曽川や佐屋川には橋がなく、渡し舟でわたりました。野田(牧川地区)には「野田の渡し」のあとがあります。
佐屋川は、はばが160mもある大きな川でしたが、1900年(明治33
年)にせき止められ、小さな川になりました。今でもむかしのていぼうが牧川地区の島本、野田、中牧、長岡地区の西鵜之本、四貫などにのこっています。
この場所は、旧佐屋川の野田渡船場の跡として祖父江町が昭和50年3月28日に指定しました。
野田渡船場は人の行き来が多かったためキリシタン禁制の「高札」も立っていたと書かれています。
参考資料
1)『わたしたちのまちそぶえ』P.47 平成8年 祖父江町教育委員会
2)『祖父江町史』P.222 , P.487
3)『長岡の昔ばなし 一本松の子ら』
4)『長岡の昔ばなし第二集 みよ池の里』
5)『八開村史 通史編』P.215
6)木曽川下流河川事務所「KISSO VOL.30祖父江町特集号」
https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/KISSO/kobore30.html