勢理客十五夜祭
獅子舞を中心として、多くの踊り(ウドゥイ)、狂言(チョウギン)も演じられた勢理客の十五夜祭は、戦前から広く知られていて、祭りの夜は近隣から沢山の見物客も詰めかけてにぎやかでした。獅子舞は、約四百年の昔から伝承され、人物像ははっきりしませんが、「コーレー具志堅」という方が始めたと伝えられています。去る沖縄戦で、勢理客地域は壊滅的な被害を受け、村屋は焼失し獅子や舞台衣装、三線、ドラ、太鼓等の小道具にいたるまで全てを失いました。しかし、昭和22年に収容所から地元帰住を許されると、直ちに村屋を造り、獅子や舞台衣装、小道具などを作りあげ、「十五夜祭」を復活したのです。
村屋(現在は公民館)は、場所を移転してきましたが、旧暦8月15日の「十五夜祭」は、一度も欠かすことなく、毎年実施して今日に至っています。戦後の20年間は、戦前の十五夜祭と同じように、夕方から明け方まで中断なく演技が行なわれました。獅子舞11番全てが登場したほか、子供の舞い、二才踊り、女踊り、そして実に多彩な狂言(チョウギン)の演目が次々と演じられました。
その後、都市化が進み、住民の働く形態も変わり、祭りの時間の制約などもあり、十五夜祭は縮小され多くの演目が失われて今日に至っています。しかし、獅子舞を中心に十五夜祭は、勢理客区民の心の拠り所として毎年開催されてきました。獅子舞は昭和48年に「国選択の無形文化財」になり、昭和56年には「浦添市指定民俗文化財」にもなっています。(「勢理客獅子舞保存会の活動史」から抜粋)
中村家住宅
国指定重要文化財 – 中村家住宅
中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色を全て備えている建物です。沖縄本島内では、第二次世界大戦の沖縄戦を経てこのように屋敷構えがそっくり残っている例は極めて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも貴重な遺構であるとのことで、1956年(昭和31年)に琉球政府から、1972年(昭和47年)復帰と同時に日本政府によって国の重要文化財に指定されました。
中村家の歴史
今から約五〇〇年前中村家の先祖賀氏がうじは、忠信かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸ごさまる(中城なかぐすく城主)が読谷よみたん(本島中部)より城を中城に移したとき、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられています。その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利あまわりに滅ぼされてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目にあいました。一七二〇年頃、ようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職)に任ぜられました。
中村家沿革
今から約500年前中村家の先祖賀氏(がうじ)は、忠臣かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸(中城城主)が読谷(本島中部)より城中城に移した時、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられています。その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利に滅ぼされてしまうと、中村家の先祖も離散の憂目にあいました。1720年頃、ようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職) に任ぜられました。
構造について
現存する建物は18世紀中頃に建てられたと伝えられています。建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、各部に特殊な手法が加えられて、独特な住居建築になっています。この遺構は、士族屋敷の形式に農民の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して沖縄の住居建築の特色をすべて備え持っています。屋敷は、南向きの緩い傾斜地を切りひらいて建てられており、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、その内側に防風林の役目を果たしている福木を植え、台風に備えています。
那覇市内の風景
わたしたちの街「那覇市」は、沖縄県の県都として、人口32万人余を有する政治・経済・文化の中心地です。また首里台地(標高165m)から東シナ海に面して、ゆるやかに傾斜した平野部を背景に、古くから港が整備されるなど、海外との交流拠点として、「琉球王国」文化が華ひらいた街です。気候的には、暖かい黒潮の影響もあって、冬でも暖かく、夏は、四方の海から吹く風が吹き抜ける、年間の平均気温差が少ない、すごしやすい土地です。先のアジア太平洋戦争末期の沖縄戦では、街は焦土と化しましたが、1972年の日本復帰を経て、多くの県民市民の努力と協力によって、現在の那覇市へと発展してきました。21世紀をむかえ、那覇市は、沖縄都市モノレール・中心市街地及び新都心地区を核としたまちづくりを展開しています。また市民との協働のまちづくりや次代を担う子どもたちの育成を中心とした諸施策を展開し、風格ある県都としての新たな那覇市の実現をめざします。(市のプロフィールより)
久高島
北東から南西方向にかけて細長く、最高地点でも標高17m[3]と平坦な島である。将来懸念される津波襲来に備えて、300人を収容できる避難施設(上部は海抜21.35m)が設けられている。土質は島尻マージと呼ばれる赤土で保水力には乏しい。河沼はなく、水源は雨水と湧き水を貯める井泉(カー)に依存している。海岸沿いには珊瑚礁で出来た礁湖(イノー)が広がっている。
北東約2.1km沖にウガン岩がある。
琉球王国時代には国王が聞得大君を伴って久高島に渡り、礼拝を行っていた。後に本島の斎場御嶽(せいふぁうたき)から久高島を遙拝する形に変わり、1673年(延宝元年)からは、国王代理の役人が遙拝を務めるようになった。
近世・近代には鰹節の産地として知られ、徐葆光の『中山伝信録』でも「鰹節は久高島産のものが良質」と述べられている。
1945年1月7日に日本軍から強制立ち退き命令がだされ、金武町屋嘉の集落に身を寄せた[6] (久高島住民強制疎開の碑)。そのためやんばるでの避難生活や収容所での栄養失調やマラリアで亡くなった住民が多いといわれ[7]、沖縄戦での犠牲者は男性が13名、女性が24名、子どもが27名の計64名である。1946年5月に帰島が許された。
行政区域上は1908年(明治41年)の島嶼町村制施行時に島尻郡知念村久高となり、2006年(平成18年)に知念村が佐敷町、玉城村、大里村と合併したため、南城市知念字久高となった。
2021年(令和3年)11月、福徳岡の場の噴火から生じた大量の軽石が沖縄の海域に移動。安座真港と久高島をつなぐフェリーが欠航するなどの影響が出た。
琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島である。琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。島内には御嶽、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島第一の聖域であり、男子禁制である。
島北端のカベール岬は祖神アマミキヨが降り立ったとされる地であり、海神が白馬の姿で降臨したとも伝わる聖地である。
現在の久高島
久高島には琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に一度行われる秘祭イザイホーを頂点とした祭事を行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、民俗学的に重要な島である。12年に一度の午(うま)年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための儀礼として行われる。それにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。ただしイザイホーは、後継者の不足のために1978年に行われた後、1990年、2002年、2014年は行われていない。
イシキ浜
久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地であり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている。『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に流れ着いた壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、五穀発祥の地とされる。島の伝承では流れ着いたのは壷ではなく瓢箪であり、それをアカッチュミとシマリバという名の夫婦が拾ったともいう。また、年始に男子一人につき伊敷浜の石を三個拾い、お守りとして家に置き、年末に浜に戻す儀式がある。
かつて琉球時代に執り行われた「麦の穂祭り」など多くの五穀発祥にまつわる祭祀が年中行事として現在も残る。
中世から近世にかけて、久高海人は奄美群島まで出かけて、現地妻を作るなどしたため、奄美との交流の歴史は古い。奄美の一地方では、久高海人を意味する「くだかんちゅ」という言葉が、久高島周辺の沖縄諸島住民全体を指して用いられることがあった。
かつて風葬が行われていた地であり、地元の方言による葬送歌なども存在する。
1966年のイザイホーの際に取材に来た芸術家の岡本太郎は祭りの最中に男子禁制のクボー御嶽に入り、風葬の地に入って墓を写真に撮り、写真を『週刊朝日』に掲載した。これが直接の原因ではないが、現在では久高島では風葬は行われていない。
岡本太郎の著書『沖縄文化論 – 忘れられた日本』(中央公論社刊 1972/10)によると、岡本は久高ノロの子息に案内されて1959年に大御嶽を訪れており「ここもかつては男子禁制だった。」と書いている。1966年の再訪の際にもクボ―御嶽に行って写真を撮影している。「那覇から来ている新聞記者」らと共に有志の案内で後生(ぐそう)を訪れ、ここで風葬を撮影した。
伊那西高等学校と岐阜女子大学との高大連携に関する協定調印式
日 時:令和5年6月22日(木曜日)14:00〜14:40
場 所:伊那西高等学校 校長室
内 容:
1.岐阜女子大学学長挨拶
2.伊那西高等学校長挨拶
3.調 印
4.写 真 撮 影
5.学生代表挨拶
6.生徒代表挨拶
1.岐阜女子大学学長挨拶
この度は,学校法人高松学園伊那西高等学校と岐阜女子大学が高大連携の調印式を迎えるにあたって一言ご挨拶させていただきます.
現在,教育のデジタルトランスフォーメーション(DX)を加速する中,本学は,ニューノーマル時代に求められる学びの在り方に対応するため,様々な大学改革を不断に実行しています.
特に,本学では,平成29年度より3年間私立大学研究ブランディング事業において「地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業」というテーマで,
更に,令和4・5年度には岐阜県私立大学地方創生推進事業として「デジタルアーカイブによる新たな価値創造推進事業」というテーマでそれぞれ採択され,飛騨高山匠の技と郡上白山文化遺産等を対象にして,20万件以上の静止画・資料・動画を収集整理し,シソーラス,索引語の整理などの「地域資源デジタルアーカイブ」の研究に対する必要な基礎データを準備してまいりました.
この,地域資源のデジタルアーカイブでは,自分の生まれた地域のさまざまな地域資源などをデジタルアーカイブすることにより,これまでに気付かなかったさまざまなものが,素材を通して見えるようになります.そのような意味で,この地域資源デジタルアーカイブは,このように地域のさまざまなことを再発見し,理解を深めていく上で重要な教育活動であると考えています.
また,この地域資源デジタルアーカイブには,地域の人々の参加が必要となってきます.特に,地域の資料の収集,デジタル化には,地域の実情に応じた活動が重要で,今後,地域住民たちが身近な場で地域のデジタルアーカイブをすべきだと考えています.
このためには,地域住民自らが自分たちの「地域資源」としていかに主体的に発見・収集・整理することできるかが課題です.
この度の高大連携における大学と高等学校との「共創」によるデジタルアーカイブの活動を,新しい学びの一環として捉えることができます.
ここでの「共創」とは,多様な立場の人たちと対話しながら,新しい価値を「共」に「創」り上げていくことです.デジタルアーカイブは,単なる記録ではなくて,研究成果,「知」を集積することがデジタルアーカイブに問われています.
あらゆる地域が地域としてのアイデンティティを確立するためにも,「知」の拠点としての地域資源デジタルアーカイブを含めた総合的なデジタルアーカイブを構築することが求められています.
令和4年から高等学校に実施されています学習指導要領では,課題探究型の学びが求められています.
伊那西高等学校と岐阜女子大学のデジタルアーカイブにおける高大連携講座の実践は,この課題探究型の学習の全国のモデルとなりうると考えています.
これからの学びは,「競争」から「共創」の学びに着実に変化していきます.これからの高校生にも課題探究という研究的な学びを,大学と高等学校が連携し,お互いに対話しながら,新しい価値を「共」に「創」り上げていきたいと思います.
本日は,伊那西高等学校の多くの先生並びにここに参加いただいております生徒の代表の皆様に今回の高大連携へのご協力にお礼を申し上げると同時に,今後ますますこの連携の絆が強くなりますことを期待いたしまして,ご挨拶とさせていただきます.
5.学生代表挨拶
この度は,伊那西高等学校と岐阜女子大学との高大連携に関する協定調印式,誠におめでとうございます.
伊那西高等学校の卒業生として,また,岐阜女子大学の在学生としてこの調印式に参加できることを感謝いたします.
私たちが学んでいるデジタルアーキビストという専門職とは「文化資料等のデジタル化についての知識と技能を持ち,文化活動の基礎としての著作権・プライバシーを理解し,総合的な文化情報の収集・管理・保護・活用・創造を担当できる人材」です.
この基盤となるデジタルアーカイブは,さまざまな分野で必要とされる資料を記録・保存・発信・評価する重要なプロセスです.
また,このデジタルアーカイブは,わが国の知識基盤社会を支えるものであり,デジタルアーカイブ学会でも,デジタルアーカイブ立国に向けて「デジタルアーカイブ憲章」などの法整備への政策提言を積極的に行っています.
そのためにも,知識基盤社会おいてデジタルアーカイブについて責任をもって実践できる専門職であるデジタルアーキビストがますます重要になってきます.
これからの高校生や大学生には,地域の様々な解の見えない課題に主体的に向き合い,地域課題を解決すると共に,地域に貢献することを求められています.
私たちは,そのためにも,この岐阜女子大学において,デジタルアーキビストの学術的な基礎として,デジタルアーカイブに関する歴史から我が国の動向並びにデジタルアーカイブの課題を実践的に学んでいます.
私たちは、今回の高大連携により,伊那西高等学校の生徒さんと、また、地域の皆さんとの連携により、デジタルアーカイブの学びを深化させていきたいと思っています。よろしくお願い致します.
資 料
(1)協定書(伊那西高校)
(2)伊那西高等学校と岐阜女子大学との高大連携に関する協定調印式
新聞記事
【研究論文】高遠石工 石造物のデジタルアーカイブ
研究概要
1.はじめに
長野県伊那市高遠地域は、風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも、高遠石工とその石仏は地域の歴史的価値を高め、観光資源としても魅力的な文化財であると考える。しかし、高遠石工の存在は、高遠町民には周知されているが、長野県民を始め、県外観光客からみると認知度が低いのではないかと考える。また、高遠石工の石造物のデジタルアーカイブ化への取り組みがほぼ行われていない。石造物は経年劣化や自然災害により、石工達の活動や石造物そのものが損傷または喪失するリスクが高いと考える。
そこで、本研究では主に高遠石工への興味を県内外で喚起することと、地域文化財の保存と普及を目的とし、高遠町を中心に、長野県南信地方の上伊那地域に現存する石造物の撮影を行いデジタルアーカイブを作成する。また、高遠石工の作品がどのようにして江戸時代の社会や文化等に寄与したのか歴史を明らかにし、今に残る石造文化財が現代の地域社会にどのような影響を与えているのか調査し、アーカイブすることの意義について考察する。
2.研究の方法
はじめに、研究対象である、高遠石工と名工と呼ばれた守屋貞治に関する資料を収集し文献調査を行う。石工誕生背景、石仏の種類、表現技法など、基本的な情報を調査し、その起源と現在までの変遷を辿りながら、当時の地域信仰や生活を考察する。表現技法については、守屋貞治の作品と人柄を深堀し、どのような特徴があるのか調査する。文献調査で分かったことをまとめ、分析する。
次に、高遠町と上伊那地域に現存する石仏(写真1)、道祖神、庚申塔、供養塔などの撮影を行い、または関連施設を訪問し情報や資料を収集し記録する。
収集したデータをもとに、地域学習や観光資源として利活用でき、石工への興味喚起を図れるようなWebページの制作を行う。
3.研究の結果(考察等)
高遠石工とは、江戸時代に信州高遠を拠点に全国で活躍した石材加工の職人集団のことである。活躍した時代背景には、高遠藩による出稼ぎ石工の奨励、民間信仰が盛んになり造立が活発化したこと、高遠藩領では良質な石材が豊富であったことなどが挙げられる。また、収集した資料を、所在地や石仏の種類ごとに整理すると、それぞれの地域ごとに民間信仰や石造物の特色が捉えることができた。多量の石造物が造立されていることから、当時の庶民の信仰心が強いことが分かった。
撮影方法としては、対象とする石仏の全体像を前後左右の4方向と、碑文や台座、持物、印相、石仏の表情を部分的にクローズアップして撮影し、石仏1体1体の特徴や魅力が伝わるよう意識をしつつ、一眼レフカメラを使用し静止画で記録を行った。ただし、崖や川付近に安置され、格子に囲まれている石仏については正面と斜め左右の3方向から撮影を行う。
4.おわりに
現在、約165体の石造物の撮影が完了している。今後も撮影を進めるとともに、Webページの制作も行う。そして、文献調査した結果から、これらの石造物が現代の人々にどのような影響を与えているのかを考察する。
参考文献
高遠町誌編纂委員会.高遠の石仏.伊那毎日新聞社,1975
研究資料
高遠石工とは
江戸時代、信州高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のこと。主に手彫りによる石の加工技術が特徴的。
全国各地に、石仏、石鳥居、石橋、供養塔など数多くの石造物を造った。
江戸時代、民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化した。
石造物の需要が増したことで高遠の石工は各地に出向いて働くようになり、優れた技術が各地で評価された。
高遠石工の名が全国を轟かせたことで、高遠石工がブランド化した。ブランド化したことによって、石工の活動もさらに盛んとなり、全国各地で数多くの作品を残すこととなった。
現状と課題
1.石工技術を持った職人の高齢化、人材不足
→専門家や職人の高齢化、後継者不足により、技術の伝承が途絶えてしまい、石工技術継承の危機に陥る。
2.高遠石工の文化遺産に対する、若者の興味関心が低い
→伝統的な技術やノウハウの継承が困難になる。
3.石造物は観光資源、人文資源として価値がある。
→石造物を観光資源として活用することにより、魅力ある地域づくりが可能になり、高遠町はもちろんのこと、全国各地の地域社会の活性化に繋がる。
高遠石工の足跡
全国18都府県
長野県、山梨県、静岡県、神奈川県、東京都、新潟県、福島県、山形県、青森県、群馬県、
栃木県、埼玉県、茨城県、愛知県、岐阜県、三重県、兵庫県、山口県
高遠藩による他国への出稼ぎが奨励され、全国各地に
高遠石工が出向き活躍。
長野県内だけでなく、各地
に高遠石工が携わった石造物が存在する。
⇒そのため、観光資源として価値があり、今後
さらに注目されるべき文化財である。
高遠町民には高遠石工が十分周知されている。
⇒しかし、高遠町は桜の名所として認知されているため、高遠石工の存在が桜に埋もれてしまっていることが問題点だと考えられる。
高遠の文化遺産に対する人々の関心、認知を高めるために、高遠石工の歴史や文化的な背景を説明し、その価値を明確にすることが大切であると考える。
そして、高遠町の特色や文化遺産との関連性を強調し、遺産が地域の歴史や文化と深く結びついていることを伝えることにより、地域住民のアイデンティティや誇りを引き出し、さらに価値を高められる。
高遠石工の存在を知ってもらうことにより、観光資源として活用でき、さらに観光客が増加することで地域振興に繋げられる。
目 的
高遠石工の石材加工技術者の高齢化、後継者不足により技術継承が途絶えることが危惧される。そこで、伊那市の地域文化遺産である高遠石工の技術の継承と、地域資源への興味喚起のために、高遠石工のデジタルアーカイブ化を行う。
研究内容
〇守屋貞治・渋谷藤兵衛の石仏デジタルアーカイブ
伊那市内にある主な守屋貞治の作品
〇歴 史
高遠石工は、1187年(文治3年)に源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっているが、発祥は中世頃と推定されている[2]。由緒に基づき、全国を行脚しており、現在の青森県から山口県まで旅稼ぎをしていた。
天正末期、徳川家康の命で江戸城工事に従事し、八王子付近に定住していたことが「新編武蔵風土記稿」に記載されている[4]。鳥居氏の所領だった(1636年〜1689年)の間の高遠地方旧記の引き継ぎ目録に記録が残っている[5]。元禄4年(1691年)に内藤清枚が藩主となると、藩の財政難解消策の一環として出稼ぎが奨励されるようになった。明和4年(1767年)には「他国稼ぎ御改め帳」が発行されるなど、石工が全国を回っていた[6]が、それは「旅稼ぎ」といわれ、藩には運上金を1人年1貫文(千文)を収め決まりとなっておりお高遠藩にとっては重要な収入源だった。
文化8年(1811年)の記録では領内の主要な産業として保護、統制を受けており、職人団体の中で運上金上納額最高が石切職人だった。
その存在が日本全国に知られるようになったのは江戸時代、17世紀半ば頃のことであったとされる[1]。彼らは日本の各地に散らばり、石仏を始めとする彫刻作品を残した[1]。活動に取り組む姿勢は芸術家さながらであったとも、あくまでも職人であったとも言われる[8][9]。高遠石工は18世紀が最盛期だったが、明治になり廃れた。
現在、高遠石工による作品は地元の伊那谷周辺に多く残され、安曇野に多い石像道祖神も、その多くは高遠石工の手によるものである。その他にも首都圏や東海・近畿、山口にまで散見されている。
伊那市高遠町の建福寺には西国三十三所観世音をはじめとして多くの作品を見ることができる。
主な石工
〇守屋 貞治(もりや さだじ、1765年 – 1832年)- 明和2年(1765年)に信州伊那郡高遠藤澤郷塩供(しおく、現在の長野県伊那市高遠町長藤〈おさふじ〉塩供)で孫兵衛の3男として生まれる。高遠石工の中でも稀代の名工と言われ、68年の生涯に336体の石仏を残している。亡くなる前年の天保2年(1831年)に「石仏菩薩細工」を書き残しており、いつどこで何の石仏を刻んだのかが、その正確な記録から判明している。この記録によって、彼の作品は1都9県(長野、群馬、東京、神奈川、山梨、岐阜、愛知、三重、兵庫、山口)に残っていることが確認されているが、数多くの石工を輩出した高遠石工にあって西日本にまで作品を残しているのは貞治だけである。貞治は信州諏訪の温泉寺の名僧、願王和尚を師と仰ぎ深く仏門に帰依し、香を焚き経を唱えて石仏を刻んだと伝えられ、ゆえに貞治は単に石工ではなく「石仏師」と呼ばれ、貞治の刻んだ石仏は特に「貞治仏」と呼ばれている。
〇守屋 孫兵衛(まごべえ、生年不明 – 1782年) – 貞治の父
〇守屋 貞七(さだしち、1700年頃 – 没年不明) – 貞治の祖父。
〇向山 重左衛門 (むかいやま じゅうざえもん、1690年頃 – 1773年) – 寛延から明和年間の作品が残る高遠藤澤郷御堂垣外(みどがいと)の石工。
〇久左衛門(きゅうざえもん、生没年不詳) – 向山重左衛門の弟弟子 。
〇下平 文左右門(しもだいら ぶんざえもん、生没年不詳) – 明和から安永 (元号)年間を中心に活動した安永東春近の石工。なお、息子の太左右門(たざえもん)も石工である[13] 。
〇渋谷 藤兵衛(しぶや とうべえ、1784年 – 1853年) – 守屋貞治の高弟。信州伊那郡川下り郷川手(現在の長野県伊那市美篶下川手)に生まれる。伊那市高遠町建福寺の石段には師貞治の延命地蔵が石段左に、藤兵衛の柳楊観音(嘉永2年、1849年)が石段右に対になって立っている。上伊那郡箕輪町長岡の長松寺に残る貞治の延命地蔵尊は、まず藤兵衛が先に長岡に来て村の世話人と打ち合わせと石の詮議をし、村人足とともに石を切り出して下準備をした後に貞治の作業が始まっている。これは同寺の「地蔵建立諸入用控帳」に残されており、それには「石屋定治郎 手代藤兵衛」と記されている。
〇小笠原 政平(おがさわら まさへい、1796年 – 1861年) – 信州伊那郡殿島(現在の伊那市東春近下殿島)に生まれる。東春近を中心に作品が残るが「俺の石仏は銘がなくとも頬骨のふくらみを見ればそれとわかる」と言っていたとの言い伝えがある。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。
集落を見守る石仏たち
諏訪と高遠を結ぶ杖突街道沿いには、農村風景に溶け込むように多くの石仏があるのが目に入ります。そのほとんどが集落の入口(村境)にまとまっており、馬頭観音、庚申塔、道祖神など様々な石仏が見られます。
これらは、災厄が村に入ってこないように、また子孫繁栄や旅の安全などを願って、江戸時代から昭和まで長年にわたって受け継がれてきた民間信仰の証です。
石工のふるさとの美しい景観を保ちながら、石仏たちは今も集落を見守っています。
高遠石工の特徴
高遠石工は、長野県の高遠地域で発展した石工技術のことを指します。この地域は古くから石材が豊富であり、その質の高さから日本各地に石材を供給してきました。高遠石工は、主に神社仏閣や城郭などの建築物において石材を加工し、美しい彫刻や堅牢な構造を実現するための技術として重要な役割を果たしてきました。
高遠石工の特徴的な技法としては、以下のようなものがあります:
面取り(めんどり): 石材の角を斜めに削り取り、エッジを丸くすることで安全性を高めるとともに、美しい仕上がりを実現します。
目地加工(めじかこう): 石材同士の接合部分に目地を設けることで、石材の結合を強化します。目地には石の割れや変形を防ぐ役割もあります。
彫刻技法: 高遠石工では、美しい彫刻技法が発展しています。彫刻によって龍や花卉、幾何学的な模様などを表現し、建築物に装飾的な要素を与えます。
石積み技法: 石材を組み合わせて壁や柱を構築する石積み技法も高遠石工の特徴です。石同士のバランスや組み合わせによって、安定性や美しさを追求します。
高遠石工は、伝統的な技術でありながら現代にも受け継がれ、多くの建築物や文化財に活かされています。その美しい石組みや彫刻は、日本の建築文化の一環として高く評価されています。
研究内容
・石工の誕生、石仏の造立の背景
・高遠石工が手掛けた石造物の良さとは(他の石工との比較)
・産業としての石工の仕事の位置づけ
〇特徴・魅力
・高遠石工ならではの石仏表現法や技法
〇技術が今にどう生かされているのか
石仏師・守屋貞治
数多くいた高遠石工の中でも、高い技術を持った稀代の名工と呼ばれる石仏師。
石仏の制作を専門としており、生涯において336体に及ぶ作品を残している。
守屋家は祖父・貞七の代から石工を生業としている。そのため、貞治も自然と石工を志すようになった。
造形や技法は、祖父と父から影響されていると考えられる。
江戸時代、石工の仕事は細分化され、専門性が高い者も増えていましたが、高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。彼は石仏の制作を専門とし、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。
温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめていますが、これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。
身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。
守屋貞治仏の技法と表現法
1.口元円形微笑型
・口元円形→人が笑うとほうれい線が丸くなる様子を表す。
特徴→石仏の口を中央にして、鼻の付け根と下あごを外周とする円形に彫りくぼめた形態を形成した上で、その中に口と円形凸型の下あごを表現する。
2.蓮華座花弁巻き返し表現
石仏を豪華に魅せたり、重量感を持たせたる技法。
特徴→蓮華座の花弁が裏側に巻き返し状になっている。
資料
2.中間発表レジュメ
テーマ「高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究」
第1章 緒 言
1. 研究の動機と課題
本研究では、高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究をテーマとする。この研究の動機として、私の故郷である長野県伊那市への愛嬌心から、伊那の遺産を本研究で取り上げたいと考えた。生まれ育った地域に対する知的好奇心と、伊那市の文化遺産について多くの人に興味を抱いてもらいたいという思いがある。これまで、デジタルアーカイブ専攻で身に着けた知識を活かし、高遠地域の文化遺産である高遠石工の石造物に焦点を当ててデジタルアーカイブを行うことで、地域社会への貢献を果たせるのではないかと考えた。地域の歴史や文化を後世に繋いでいくために、高遠石工遺産に関する研究に取り組むことを決定した。
本研究の対象地域である長野県伊那市高遠町は、長野県南部にあり、伊那谷北部に位置する(図1-1)。風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも特に、高遠石工たちが造立に携わった石造物の数多くが市の有形文化財として指定されているため、高遠地域に現存する高遠石工遺産は我が国が守るべき貴重な遺産であり、歴史上、芸術上、学術上、文化価値が高いものであるといえる。しかし、現存する石造物の保護状況を見ると、その多くが野ざらしに安置され、管理が行き届いていないことが課題の1つなのではないかと考えている。これらの石造物の保護が十分に行われていない場合、経年劣化や自然災害により、損傷または喪失の危険性が高まるのではないかと懸念している。
また、デジタルアーカイブの数やその取り組みが少ないのではないかと考えている。自然の中に安置されている石造物は、災害が起こり、年月が経つほど、石造物本来の姿形を保つことはかなり困難であると感じている。だからこそ石造物をデジタル資料として保存し、デジタルアーカイブ化に取り組んでいく必要性が高いのではないかと考える。実際、デジタルアーカイブの重要さについて郷土史・石仏研究家の田中清文氏は、石仏は「野にあるため、もう50年100年経つと風化してなんだかわからなくなってしまう。今のうちに記録して写真に残しておかないといけない」(https://www.inadanikankou.jp/より引用)と発言している。このことからも、高遠地域に残る高遠石工たちが残した活動跡を、後世に残し、継承していくこと、地域の歴史的価値を高めていくためにもデジタルアーカイブ化に取り組んでいくことが非常に重要であると考える。
以上のことから、高遠石工に関して、石造物の保護状況が十分でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であるという2つの課題が存在しているのではないかと考える。そこで第2節では、石造物の保護状況とアーカイブ化への取り組みについて明らかにする。
2. 石造物の保護状況とアーカイブ化の現状
第1節では、石造物の保護状況が良好でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であることの2点が課題であるのではないかと考えた。そこで、現在の石造物の保護状況と高遠石工に関するアーカイブ化の取り組みの現状を知るために実際に高遠町に足を運び現地調査を行うとともにweb調査を行った。
(1) 石造物の保護状況
石造物の保護状況をみると、高遠石工の中でも特に高い技術をもっていたとされる守屋(もりや)貞治(さだじ)が造った石仏には雨風や雪を凌ぐために格子で四方を取り囲み、屋根が設置されていたため状態良く保存されていた(図1-2)(図1-3)。
しかし、その他の場所、例えば集落、路傍や川・崖付近などに安置されている石造物については、格子や屋根は取り付けられておらずそのままの状態で安置されていた。それなのにも関わらず、予想以上に多くの石造物が綺麗な状態で残されていたのが驚きであった。ただし、体の一部が欠けてしまっているもの(図1-4)、下部が埋まってしまっているもの、石の表面に苔やカビが発生しているものも数多く発見することができた。
苔やカビの発生に関しては、気候などの環境だけが原因だけでなく、使用されている石材の質の違いであるとも考えられる。苔やカビの発生は、風合いとして美術的な観点からみると風情があって良いという見方もできる。だが、本体が一部欠けてしまっている場合は、問題であると考える。しかし、全ての石造物に格子や屋根を取り付けるということを考えると膨大な費用と労力がかかるため現実的に厳しい側面があり、町の景観も損なわれてしまうのではないかと考える。
次に、石造物の損傷原因として、特に自然災害によるものが多いと考えた。
伊那市高遠町は、東西11㎞、南北19㎞で、総面積の85%を山林が占めており、耕地面積や可住地面積が小さい自然に恵まれた地域である。また、冬季は積雪も多い。そのため、山林面積の大きいこの地域では、土砂災害や川の氾濫、雪害による自然災害が多いといえる。石造物は、崖や川付近、峠道などに多く存在している。そのため、自然災害による石造物の損傷や喪失が多発する可能性が非常に高いということが考えられる。
自然災害が発生しやすい地域であるからこそ、文化遺産を本来の姿のままどのようにして残していくのかが重要であると考える。そして、その1つの方法としてデジタルアーカイブを進めることが遺産を守ることに繋がるのではないかと考える。
(2) 高遠石工に関するアーカイブ化の現状
高遠石工に関する資料のアーカイブ化への取り組みの現状(2023年12月9日現在)を把握するために、どの機関がアーカイブ化に携わっているのか、どのような高遠石工に関するコンテンツ作成されているのかインターネットを通じたweb調査を行った。調査結果は以下の①~⑤である。
① 高遠石工研究センター
高遠石工研究センターでは、高遠石工の調査・研究を行いながら、石仏を静止画や動画で記録し、アーカイブ化する活動を行っていた。しかし、その活動記録や撮影した資料は公開されておらず、web上にも公式サイトは見当たらなかった。
また、調査研究やアーカイブ活動に加えて、「高遠石工の石仏巡礼ガイド」などを紙冊子で発行しており、伊那市役所と高遠町総合支所で購入することができるようになっていた(図1-5)(図1-6)。
② 高遠町歴史博物館
高遠町歴史博物館は、古代・中世に至る高遠城と城下町高遠の歴史、文化、人物、民俗をテーマごとにスポットを当て展示を行っている。また、歴史博物館デジタルアーカイブ事業に携わっており、地域住民から寄せられた地域に残る写真資料を募集しデジタルアーカイブ化に取り組んでいる。さらに、伊那市教育委員会と協働し、高遠石工の足跡調査を行い、情報提供を募っている。博物館の所蔵品には、高遠石工に関する多くの資料があった。ただし、これらの資料はデジタル化が進められているものの、インターネットを通じた資料の公開は行われていなかった。
③ 伊那市デジタルアーカイブ(向山雅重資料デジタルアーカイブ)
「向山雅重資料デジタルアーカイブ(https://adeac.jp/ina-city/top/)」においては、伊那図書館が所蔵していた向山(むかいやま)雅(まさ)重(しげ)の写真資料がデジタルアーカイブ化され、約2000点のモノクロ静止画資料が閲覧できる。このデジタルアーカイブでは、高遠石工を主とした項目はなかったが、高遠石工が携わった石造物に関する資料が登録・公開されていた。これは、民俗学の研究や、教育機関で活用できるデジタルアーカイブだと感じた(図1-7)(図1-8)。
④ ホームページ
伊那市観光協会公式サイト、伊那市公式ホームページ、長野伊那谷観光局にて、観光客向けに高遠石工遺産が存在する名所の紹介や歴史を大まかに説明しているWebページがあった。伊那市観光協会の公式サイトでは、「高遠石仏探訪マップ」と「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」などのパンフレット資料がPDFファイル形式でダウンロードできるようになっており、デジタルパンフレットとして活用できるようになっている(図1-9)。これは、電子版だけでなく、紙媒体での発行もされている。
伊那市公式ホームページでは、外国人向けに作られたWebページとパンフレットが作成されていた(図1-10)。パンフレットはダウンロード可能でデジタルパンフレットとして利用できる。
⑤ YouTube動画
伊那市公式動画チャンネルや一般の個人による高遠石工の歴史に関する話や説明、シンポジウム動画がいくつかYouTubeにて投稿されていた。
以上のことから、主に高遠石工研究センターと高遠町歴史博物館の2機関がアーカイブ化に通り組んでおり、資料の収集とそのデジタル化は進んでいたことが分かった。しかし、アーカイブ化が一部進められてはいるものの、高遠石工の石造物を主としたデジタルアーカイブの数は圧倒的に少なく、インターネットを通じた公開がほぼ行われていなかった。
また、紙媒体と電子版の石仏マップやパンフレットが作成されており、観光事業に活用できるようになっていた。
3. 研究の目的および方法
高遠町に現存する石造物は、高遠石工たちの活動跡であり、その地域の歴史を伝える貴重な遺産であるため、後世に残していくべきである。また、高遠石工遺産は観光資源や文化資源として活用することで地域活性化に繋げることができると考えている。しかし、石造物の保護状況とデジタルアーカイブ化への取り組みを調査すると、石造物の残存状態が悪いものも一部存在しており、高遠石工に関するデジタルアーカイブ数も非常に少ないということが分かった。
そこで本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、江戸時代から始まった高遠石工の歴史と当時の民間信仰や石造物に対する人々の信仰心から今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をする。
本研究では、以下の3つを軸に行っていく。
① 文献調査
文献調査では、高遠石工の起源と発展、石造物造立の時代背景など歴史を調査する。また、高遠に現存する石造物を種類ごとに分け、造立数、造立年代、それぞれの石造物がもつ特徴について調べる。この石造物調査から、造立当時の生活や民間信仰を見出す。
② 高遠石工に関する資料の撮影
主に長野県伊那市高遠町に存在する石造物の撮影を実施する。また、稀代の石工と呼ばれた守屋貞治の石仏の撮影を行う。石造物に加え、石工関連施設を訪問し情報や資料を収集する。
③ Webページの作成
岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所が運営している「地域資源デジタルアーカイブ」にて収集したデータをもとにwebページを作成する。
第2章 高遠石工の歴史
1. 高遠石工とは
高遠石工とは、江戸時代、信濃国高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のことである。彼らが手掛けた作品には、銘や造立年代が刻まれており、そこから江戸中期(元禄時代)以前の石造物が複数確認されているため、高遠石工たちは江戸初期から活動をしていたと考えられている。また、石造物の造立だけでなく、石材の採石や、石材加工をする際に使用する道具も自分たちで鍛冶していたと言われている(図2-1)。
高遠石工の多くは、農家の二男や三男、あるいは山峡の農民であり、江戸時代に活躍した石工の数はおよそ1700人以上いたと推定されている。彼らは拠点地である高遠のみでなく、全国各地に出向き、石仏・石神・石碑・石灯籠・供養塔など多くの石造物を造った。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事にも関わったといわれている。高遠石工たちが携わった石造物は、北は青森県から、南は山口県まで、全18都府県で散見されている(図2-2)。
彼らの石材加工技術が他地域の石工よりも群を抜いて高かったことから、その技術が求められ活動域が広くなっていった。技術の高さに加えて、彼らが活動域を全国に広げることができたのは、高遠が交通の要衝であったからである。彼らの技術がいくら高くても、仕事を頼む側に高遠石工の技術の高さなどの情報が流れていなければ依頼することもできない。だが、石工の活動が活発化していた江戸時代までは、杖突峠を通って伊那谷から三河に抜ける伊那街道、あるいは大鹿から遠江に抜ける秋葉街道が、民衆の道として広く利用されていた。そのため、五街道や地域民衆の生活の道が高遠を通り、全国に繋がっていった。石工たちはこの道を使い、情報を発信し、逆に受け入れながら、社会の求めに応じてどのような技術が必要とされているのか知ることで、社会の需要に応じることができていたのである。
2. 高遠石工が活躍した理由と時代背景
(1) 江戸時代の信仰と石造物
江戸時代(1596年~1868年)とは、室町時代から続く長い乱戦の世に終わりを告げ、江戸幕府による封建的かつ中央集権的支配によって社会が安定した時代である。江戸幕府は参勤交代や武家諸法度などの制度を作り、幕府の権力を高めていった。庶民は土農工商の身分制度により、職業ごとに身分を分けられ、身分を固定化された。また、制度による支配だけでなく、儒教の朱子学を幕府の思想・教育の基本とし、江戸幕府が支配・管理しやすい思想が広まっていった。このような徹底した管理によって情政が安定し、交通網が整備され、身分が固定化されたことによって、庶民にも余裕が生まれ、庶民中心とした文化が栄えるとともに、経済活動も活発化し産業も徐々に発達していった。その他に、江戸幕府や諸藩は、農業政策にも力を入れ、産業の発達を促した。生産力の向上、安定化することを目的に、新田開発を奨励し、河川の治水や干拓などを実施した。この時に農民も、生産量の増加、作業の効率化、生活の安定化のために、備中鍬や千歯扱などの新しい農具も使用するようになっていったという。
江戸時代による石造物造立の背景としては、人々の間では、神仏と結びついた民間信仰が盛んになっていたことが理由として挙げられる。上記で述べたように、江戸期は、農民が経済的に発展していった時代でもある。家を興し、田畑を耕して家族を養えるようになっていくが、度重なる天災や風水害、凶作、流行病など、飢饉や人為を超えた災いが当時の農民の生活を脅かし苦しめていた。現在のように科学が進歩していない時代、伝染病が流行して、村全体が壊滅的打撃を受けることも多かったため、病に対する恐怖心はとても強いものだったのではないかと予測できる。このような状況から、人々の生命を脅かすものに対して、人間の力だけでは限界ということを悟り、無病息災や平和を願い、ひたすた神仏に祈りを捧げていたのではないかと考えられる。
全国的に民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化、石造物の需要増加により、石工の成り手も増えていった。そして、平安・鎌倉時代のような強い権力をもつ人々による造立に加え、庶民の間にも次第に信仰に基づいた石造物の建立が広まっていった。特に江戸中期になると、個人や講、村中での造立が盛んに行われるようになり、五穀豊穣、子孫繁栄、健康祈願、厄除け、旅の安全など様々な願いを神仏に託し、祈りの拠点として石造物は大事にされていた。また、それぞれの家庭でお墓を持てるようにもなり、先祖供養の念とともに平安を願っていた。
(2) 高遠石工が活躍した理由
江戸時代に、民間信仰が盛んになったことで石造物の造立、石工の数が増加していった。しかし、この時期には高遠石工のみだけでなく、和泉国の泉州石工が存在していた。しかし泉州石工は高遠石工ほどの広範囲での活動はなかった。では、なぜこれほどまで高遠石工たちの活動が全国各地で行われていたのか。
その理由は、主に以下の5つである。
① 高遠藩による、旅稼ぎ石工の奨励
1つ目は、高遠藩による出稼ぎが奨励され政治的な後押しがあったことである。
江戸時代、高遠城を拠点に地を治めた高遠藩は、元禄4年頃から、藩の税収増加を狙って石工たちに領外に出て稼ぐ出稼ぎを奨励した。この石工たちの出稼ぎは、農業の傍ら、農閑期を中心に行っていたといわれている。この頃の藩の財政は厳しく、度重なる凶作で農民からの微税も苦しかった。さらに幕府による出費も多く藩の財政は逼迫したため、石工たちは旅稼ぎ石工となって稼いでいたのである。幕末のある時期には藩の税収の3分の1を稼ぎ出していたという。このため、旅稼ぎ石工の奨励は、石工たちが農業だけでは補えない分の家計の負担を減らすことだけを目的としていたのではなく、藩財政の補完的役割ももたせられていたことが分かる。
この旅稼ぎ石工の存在を示す資料として石沸菩薩細工がある(図2-3)。この石沸菩薩細工とは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治がこれまでに彫り上げた石仏を書き記しているものである。この石沸菩薩細工から、「貞治の活動は、現在の1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及んでいる」(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1318より引用)ということが分かっている。このことから、高遠石工の1人である守屋貞治が残した石沸菩薩細工から広範囲にわたる活動が行われていたということが分かる。
② 優れた技術
2つ目は、優れた技術を持っていたことである。特に、精巧にして芸術性の高い作品を残していいること、多様な石造物を造っていたということが評価されていた。
その中でも彫刻技法が評価されている。それぞれの作品によって龍や花弁、幾何学的な模様などを表現し、装飾的な要素を含んでいる。その例として、長藤塩供に残る花文字の道祖神を挙げる(図2-4)。また、仏像を彫る際には、微笑みを浮かべた穏やかで引き締まった顔を表現する口元円形微笑型表現や蓮華座を豪華に見せる手法の蓮華座花弁巻き返し表現なども技術力が高いためできる表現方法である。高遠石工たちは、優れた技術を持っていることで、独創性のある石造物を造れたのではないかと考える。
高遠石工の中でも、群を抜いて高水準な石造物を彫る専業工が存在し、その石工の元には多くの修業石工たちが集まるようになった。このような高い技術を持った職人たちは、技術水準を高め、同時に高遠石工の名を全国に轟かせ、高遠石工が一種のブランド化したことによって、その活動も一層盛んになっていった。
③ 素行の良さ
3つ目は、優れた技術を持ちながらも、出稼ぎ先で素行が良かったことである。
この石工たちの素行の良さには、以下のように藩との間に厳しい御誓文が交わされていたという背景があったからである。
一、 他国へ当分出稼ぎするについては、五人組でよく吟味し、請人を立て、年貢や諸役に支障のないようにすること。
一、 御公様より仰付けられている御法度は勿論、堂々仰付けられている御法度にも決して背かないこと。
一、 旅稼ぎに出て、その年に帰らない者がある場合は、請人及び五人組でよく詮議をとげ早速申出ること。無事帰った場合も、名主、組頭、五人組迄届けること。
つけたり、少しの田畑持といえども田畑を荒らさぬ様、耕作の時期にはかえって、仕つけなど手落のないように妻子にもよく申し付けて置くこと。また旅稼ぎに出た以上、秋になって不作であっても、年貢を引いてくれなどといわないこと。
一、 私供旅稼ぎに出る上は御公儀様で決められている御法度をよく守り、旅先で盗み、ばくち、酒乱、口論、腕力沙汰など一切しないように心掛ける。万一旅先で何かの入費のことがあっても国元の御公儀様や、村役人、お組合等へ一切迷惑をかけないよう石工仲間で処理する。又旅先で越年して帰らない者がある場合は、請人が迎えに行ってきっと連れ帰り、お役人衆に御苦労はかけない。(高遠町誌編纂委員会,1977,pp.17-20)
このように、彼らが農閑期に出稼ぎに出る際には、藩との間に「運上金を必ず収めること」「農繁期には帰ってくること」「問題を起こさないこと」など御誓文が交わされていた。誓約があったからこそ、旅先でも素行よく真面目に仕事に取り組み、世間から人柄も評価されていたということが考えられる。
④ 専業石工が多数存在していた。
石工は大工など他の職人と比べて給料が良く、仕事量も多かったため、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門とする専業石工も多数存在していた。また、高遠藩は高冷地で、米作りを行うことも難しかったため、家計を支えるために石工になった人も多く、石工の数も徐々に増加していった。
⑤ 高遠藩領では、良質な石が産出し石材に恵まれていた。
高遠藩では、石仏を彫るのに適した石が豊富であり、採石場からは輝緑岩や安山岩、花崗岩が多く産出した。(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1317より引用)この中でも特に輝緑岩は、きめの細かい美しさとなめらかな手触りが特徴的で、見た目からも表面がつるつるしていることが分かる。これは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治も作品に使用しており、重宝されている(図2-5)。
高遠は、山間部で耕地が狭い地域だが、人々の知恵と土地の形勢を生かしながら働いていたと考える。
第3章 石造物に現れる日本人の民間信仰
まず、民間信仰について説明する。「民間信仰は、特定の教祖・教義・教団などをもつことなしに、地域共同体に伝承的に機能してきた庶民信仰である。体系的に整備された宗教と異なり、呪術的な性格の強い信仰形態を示す。イエ(家)を単位とする組や村などの共同体の中で機能するのできわめて地域性の高いものである。」(松沢邦男, 2001, p.71)
この民間信仰が盛んになった江戸時代は、多くの石造物が造立されていることが特徴的である。そして、民間信仰は地域性が非常に高いものといえるため、この信仰心が造形となって現れる石造物を深堀し調査することで、当時の庶民の生活や信仰を見出すことができると考えた。そこで、本章では高遠地域に残る石造物数や造立年代、どのような石造物が造られているのか調査を行い、そこから石造物がもつ特徴や意味を明らかにする。そして、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあり、どのような影響を与えているのか考察する。
1. 高遠地域に現存する石造物の種類と数
「高遠石仏 付 石造物」の石仏調査一覧表を参考に、庚申塔、甲子塔、道祖神、月待塔、石塔、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の形態分類ごとにデータを整理し、種類、造立数、造立年代を調査した。結果は表3-1の通りである。
1974年11月に行われた石仏調査によると、高遠町で確認された石造物数は2229基、未確認であるもの加えると2500基以上にわたるほどの膨大な数が造立されている。この中には、仏像や庚申塔、道祖神、月待塔、石塔、仏足石、石灯籠など様々な石造物が造立されていた。
石造物を種類ごとに数を集計すると、上位トップ3は仏像、庚申塔、道祖神であることが分かった。また、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の中でも菩薩が812基と最も多いことが分かった。
ここからさらに、菩薩を「観音菩薩」「地蔵菩薩」「その他の菩薩」に細分化し、数を集計すると、特に馬頭観音と地蔵菩薩が多いことが分かった。
菩薩の分類結果は表3-2、表3-3、表3-4の通りである。
高遠地域に現存する石造物の造立年代は、全体的に見ると江戸時代から昭和までと長期にわたって石造物が造られており、特に江戸時代に造立が活発化していた。また、最も古いものは江戸初期の寛永(1624年~)に造立されており、400年近くの年月を経ても現代まで残されている。
また、表を見ると石造物の造立が活発化したのが江戸時代からということが考えられるが、高遠の良質な石材採れる地形と石工業の給料の良さから考えると、江戸時代以前から高遠石工は活動しており石造物の造立は始まっていたのではないかと推測する。
2. 高遠石工が造立した石造物
高遠地域に現存する石造物は、石仏、石神、石塔、石灯籠など多種多様で、造立数も非常に多かったことが分かった。本節では、高遠石工たちが造った石造物とその特徴について説明する。
また、造立数が多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つについては、第3節で詳しく取り上げる。
(1) 仏像(如来、菩薩、明王、天部)
石で造られた仏像のことで、仏教で信仰される釈迦の姿、仏の姿をうつしたものである。各地域で様々な場所に安置されており、日常生活でよく見かける石造物である。如来、菩薩、明王、天部に分類され、それぞれの種類が細分化されている。外見や持ち物など特徴も異なり、4つの仏には階層がある(図3-1)。
「如来」とは、真理に目覚め、悟りを開いた仏のこと。外見は、一般的に装身具類をつけず、薄い衣一枚をまとい、螺髪という渦巻いた髪型をしている。如来の中には、人々を苦しみから救う「釈迦如来」、あの世の平和を取り戻す「阿弥陀如来」、宇宙全体を統一する「大日如来」、病苦を取り除く「薬師如来」などが存在している。この如来は。高遠地域に5体存在していた。
「菩薩」とは、悟りを求め、如来になるために修行をしている者のこと。菩薩は、如来のすぐ下の位にあり、如来の意思に従って様々な姿に変身をするため、観音菩薩や地蔵菩薩など多くの種類がある。
観音菩薩は、観音様で親しまれ、多くの人を救うために三十三種類の姿に変身すると言い伝えられている。聖観音菩薩が基本的な観音様の姿であり、ここから様々な観音菩薩が派生していった(図3-2)。
また、如意輪観音、准胝観音、十一面観音、馬頭観音、千手観音、聖観音の6種の観音菩薩のことを六観音と呼び、六道で苦しむ者たちを救済する。仏教では、死んだ後も、別の生命に生まれ変わるという輪廻転生の思想が基本になっており、この死後に生まれ変わる6つの世界のことを六道という。六道それぞれに担当の観音様がいるため、観音菩薩は、たとえどんな世界に生まれ変わっても救済の道があることを教えてくれる存在であるといわれている。
地蔵菩薩は、お地蔵様として親しまれ、あらゆる人を救済すると言われている。外見は、きらびやかな装飾品をつけ、髪を結い上げた中世的な姿をしている。座像や立像などの形態があるが、救いを求める人をすぐ助けられるように基本的に立ち姿で表していることが多い。
これらの菩薩は、高遠地域では、十一面観音(図3-3)、千手観音(図3-4)、准胝観音(図3-5)、如意輪観音(図3-6)、不空羂索(ふくうけんさく)観音(かんのん)(図3-7)、聖観音(図3-8)、馬頭観音、地蔵菩薩の8種類が特に多く見られた。
「明王」は、修行するものを煩悩から守る仏のこと。悪を懲らしめ、仏の教えに従わない者たちを正しく導く。そのため、外見は背中に炎を背負い、右手には剣を、左手には縄を持ち、憤怒の形相をしている。明王の中には、「不動明王」「愛染明王」「孔雀明王」「馬頭明王」があるが、高遠では不動明王が25体と最も多く現存していた(図3-9)。
「天部」とは、仏法と仏教世界の守護の役割を担う。もともと、仏教成立以前に民間信仰されていたバラモン教やヒンズー教などの神々が仏教に帰依したものである。外見は、官服を着た貴婦人や、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など表現が多彩である。高遠地域では弁財天、大黒天など29体残っている。
(2) 石塔(無宝塔・宝篋印塔・五輪塔・笠塔婆・石幢)
石塔とは、お釈迦様の遺骨である仏舎利を安置するための仏塔のことであり、供養塔を指す。また、後々人々のお墓としても造られるようになったため墓石のことも指す。石塔は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)(図3-10)、多重塔(図3-11)、無縫塔、五輪塔、笠塔婆、石幢(せきどう)と呼ばれるものがあり、形も大きさも異なる。神社仏閣、墓地に安置されていることが多い。その中でも、宝篋印塔などは高い石工技術が必要なため高価であり、身分の高い人々の間でしか使われていなかった。
(3) その他(仏足石・石灯籠・石垣・御神使・記念碑)
石仏、石塔、庚申塔、道祖神の他には、仏がその場所にいることを示す印として釈迦の足裏の形を刻んだ仏足石や、石灯籠、石垣、御神使、道しるべ、性神、石積みなど多種多様な石造物があった(図3-12)(図3-13)(図3-14)。
3. 石造物からみる民間信仰と現代との繋がり
本節では、造立数の多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つの石造物がもつ特徴や意味を明らかにし、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあって、どのような影響を与えているのかを見出す。
(1) 菩薩からみる民間信仰
石造物数調査において、仏像数が871基であり、その中でも菩薩が812基と最も数が多いことが分かった。さらに、菩薩の中でどの種類が多いか調査すると、馬頭観音(614基)と地蔵菩薩(97基)の2つが特に多く高遠地域に造立されていた。そこで、菩薩の中でも造立数が多かった馬頭観音と地蔵菩薩に焦点を当て、詳しく取り上げる。
「馬頭観音」とは、馬の安全息災を祈り、死馬の供養のために建てられたものである。六観音の一つに数えられ、畜生道に迷う人々を救済する。
当時、馬は農耕や輸送などで重要な働きをしたため、人々は馬を大切にし、馬の無病息災を祈る信仰が生まれた。そして、馬とともに道中の安全を祈り、道端で力尽きた馬を供養するために祀られるようになっていったという。
像容は、頭上には馬の頭をのせ、三面六臂や四面六臂など顔と手が複数ある仏像や(図3-15)、馬頭観音の墓碑(図3-16)、文字塔(図3-17)、供養塔、記念碑、など様々な形態があった。また、観音菩薩の中では唯一、憤怒の形相をしていて、この怒りが強ければ強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、馬が濁り水を飲みつくし雑草を食べ尽くすことから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすと言われている。
この馬頭観音が高遠地区で614基と最も多い理由として、江戸時代から昭和初期にかけて軍馬や農耕馬として使用し、物資の運搬に馬が最も大きな働きをしていたからであると考える。武士や農家など、多くの人々にとって馬は生活の一部になっているため、病気や事故などで死んでしまった愛馬を供養することが増加していったのではないか。
「地蔵菩薩」とは、お釈迦様が亡くなった後、弥勒菩薩が次の仏になるまでの間、釈迦に代わってあらゆる人を地獄の苦しみや悩みから救う菩薩のこと。日本では、平安時代以降から、地獄を恐れる風潮が強まり、地蔵菩薩への信仰が江戸時代から庶民にも広がっていった。地蔵菩薩が6体並んだ六地蔵がある理由も、お地蔵様が六道をめぐりながら人々の身代わりになり苦しみを背負ってくれるという信仰があったからである。また、祈りに特別な決まりはなく、自分の願いを直接ぶつければ良いとされたことから宗派を超えて多くの人の信仰を集めていたのである。
地蔵菩薩はお地蔵さんとして親しまれ、寺院や道端、墓地などあらゆる場所に安置されており、民衆の目に留まりやすい場所に安置されている。その身近さから、最も周知され親しまれている仏像であると感じる。地蔵菩薩は、特に子どもを守る仏として信仰されたため子育地蔵として親しまれるものが多い。日常生活で見かけるお地蔵さんは、赤い涎掛けや頭巾をしていることが多いが、この涎掛けなどをしている理由も、子どもが健やかに育つようにと願いが込められているからである(図3-18)。この子育地蔵の他にも、願掛け地蔵、身代わり地蔵、火防・盗難除けの役割を持つなど庶民の願いを聞き届ける仏として親しまれていた。このように地蔵菩薩には、様々なご利益があることが分かり、それぞれの地域の人々が地蔵菩薩への意味付けが異なっているのではないかと考える。
さらに、地蔵菩薩は広く親しまれ、信仰されてきた対象であるからこそ、様々な迷信や俗信も生まれてきたと考えられる。その一例として、笠地蔵や地蔵浄土などの昔話がある。笠地蔵は、大みそかの日、優しいお爺さんが六地蔵の頭に笠をかぶせると、夜中に米や宝物を運んできてくれるというお話である。また、地蔵浄土は、正直なお爺さんがお地蔵さんに助けられ、鬼から宝物を奪うお話である。このように、地蔵菩薩は昔話の中では、困っている人を助けたり、教訓を語ったりする存在として登場している。このことから、昔話は日本における信仰や暮らしを物語り、民話として現代まで語り継げられてきたこと分かる。
また、地蔵菩薩の信仰は現代においても続いており、地域ごとに独自の行事や祭りが行われている。例えば、8月に近畿、北陸地方で行われる地蔵盆では、地蔵菩薩の元に集まって像を綺麗にしたり、お菓子をお供えして地蔵菩薩に感謝を捧げる行事が子どもたちを中心にして行われている。江戸時代、地蔵菩薩に祈りを捧げていたように、現代でも地蔵菩薩は大事にされ、地域の人々の生活と深く関わりがあるということが分かった。そして、これらの行事や信仰が、江戸時代の信仰性と今の日本文化との繋がりを感じさせる。
(2) 庚申塔からみる民間信仰
庚申(こうしん)とは、干支(十干、十二支)にあてはめた言葉で、十干と十二支を組み合わせる暦の十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が合わさる日または年のことをいい、60日あるいは60年ごとに巡って来る日のことである。昔の暦の干支は、60日、60年で一回りする仕組みになっており、この庚申(かえのさる)の年は人心が冷めて災いが起こると言われていたため、この災いを避けるために、60年に一回めぐって来る庚申の年には、村に悪疫や災厄を入り込ませないように庚申塔を建て祈願していたのである。またこの庚申塔を建てる理由として、村の安全を祈るだけでなく、ご利益や記念も目的としていた。
庚申(こうしん)はかえのさるの晩に行った民間信仰で、この信仰の由来は、中国の三大宗教の1つである道教の三尸(さんし)説によるものである。庚申信仰では、人間の体内には、三尸(さんし)と呼ばれる病を引き起こす三匹の虫がいて常にその人間の行いを見ていると考えられていた。三尸は、人が死ぬことで自由になることができるため、人を欲深くさせ悪事を働かせ、寿命を縮めようと隙を狙う。だが、普段は体内から出ることはできず、庚申の日、眠っている時にだけ出ることができた。そのため、庚申の夜に人が寝静まった時、人間の体内から抜け出して閻魔大王のもとへ行き、その人の悪事を告げることで、それを聞いた閻魔大王が、その人間の寿命を縮め、命を奪うと言われていた。そのため、庚申の夜は眠らずに夜を明かす庚申待という習わしが生まれ、庶民の間で庚申講と呼ばれる集まりをつくり、会場を決めて庚申待をする風習が広まっていったという。そのため高遠地域に現存する庚申塔は、公民館や神社仏閣、道端など人が集まる場所に多く、町を見渡せばどこにでもある石造物であった。
像容は、庚申の文字が刻まれたもの(図3-19)と、青面金剛・太陽と月・2匹の鳥と3匹の猿が刻まれているもの(図3-20)がある。文字が刻まれたものは、文字の書体や、石の大きさも異なっている。
青面金剛の像に日月、鳥と猿が彫られたものは、庚申塔の基本形である。高遠地域に残る最古の青面金剛・日月・鳥と猿の庚申塔には、延宝の文字が刻まれているため、庚申塔の造立と庚申信仰は江戸初期から始まっていたのではないかと考える。
(3) 道祖神からみる民間信仰
道祖神とは、厄災や疫病が村へ入るのを防ぐ村の守り神である。五穀豊穣や旅人の安全を祈るなど道祖神によって祈りは様々である。村の守り神とされていたため、村境、村の中心部、三叉路、道端などに立っている場合が多い。
また、道祖神は地域ごとに呼び方も様々で、「どうそじん」の他に、障(さえ)の神、塞(さい)の神、道(どう)陸(ろく)神(じん)、だうそじん、などがある。また、塞の神が訛ると「せいのかみ」になるため、性との深い結びつきがあり、子孫繁栄のために建てられたともいわれている。道祖神の像容は、大きく分けて2つある。
1つは、道祖神の文字を刻んだ文字碑型のものである。この道祖神の文字は、楷書や草書、篆書などの様々な書体で彫り込まれており、ひとつとして同じものはなかった(図3-21)(図3-22)。また、高遠塩供地区には全国的に見ても珍しい、装飾的な花文字道祖神が存在していたことが分かった(図3-23)。
2つ目は、双体道祖神である。双体道祖神は、仲睦まじい男女の姿が浮き彫りされている(図3-23)。男女が遠慮がちに寄り添って立つもの、手を握るもの、抱きしめあうなどその姿態はさまざまであるが、高遠地域では、向かって右側に男神、左側に女神が彫られ、お互いに握手している像が多かった。このことから、夫婦仲が良ければ子どもも生まれて、村の繁栄にも繋がるという意味を指し、人々の繁栄を祈るために造立され始めたのではないかと考えられる。
道祖神は呼び方や形態もひとつひとつ異なり独創性がある。さらに、様々なご利益を願われ造立されていた。道祖神は、呼び方によって形や意味が変わるという訳ではなく、神社やお寺の神像や仏像と違い決まった様式はないため、村の人々が石工に自由に注文をつけて造ってもらっていたといわれている。
このように、道祖神が建てられた意味や呼び方、像容を見ると、当時の地域性が最も現れる石造物が道祖神であると考える。
さらに、道祖神と関連する行事として「どんど焼き」が挙げられる。これは長野県各地で行われる行事で、道祖神のための祭りであり、お正月の松飾りを集めて焚き上げ、厄落としを行う。このような、行事を通じて、道祖神は地域の信仰と行事に関わりがあることが伺える。
(4) 月待塔からみる民間信仰
月待とは、特定の月齢の日の夜に人々が寄り合い、神仏に祈りを捧げ、仲間とともに飲食をしながら月の出を待つ行事のことで、月が出るとありがたく拝んだり、悪霊を祓うという意味合いを持っていたが、昔の人の月の満ち欠けへの恐れから生まれた行事とも言われている。この月待を行った人々が供養のしるしに造立したのが月待塔である。月待塔は、二十二夜や二十三夜、二十六夜など、〇〇夜と刻まれている(図3-24)(図3-25)。高遠地域では、その中でも特に二十二夜塔と二十三夜塔の数が多く残されていた。
十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、二十六夜は愛染明王のようにそれぞれの月夜には特定の神仏が結び付けられている。
例えば、高遠地域に多く現存していた二十二夜に結び付けられる神仏は、如意輪観音であり、この如意輪観音は女性の守り仏と考えられていたため、女性だけの月待行事も行われていたとされている。この女性限定の月待を現代風に言い換えてみると、真夜中まで月を待つ女子会のようなもので、仲間の家やお堂に集まり、おしゃべりをしながら食べ、飲み、月の出を待ってそれぞれの願いを月に託す場面が浮かび上がる。このように、月を眺めながら仲間と語らい、お互いの絆や親交を深めていた当時の人々の姿は、現代の私達の日常とさほど変わりはなく、共通しているように思える。こういった人間の本質的なものは時代を経ても変化しないのだなと感じる。
月待の信仰は今ではほとんど見られないが、現代では全国で中秋の名月にお月見イベントなどが開催され、月に関する行事も多い。このように、江戸時代から主流になっていった月待の民間信仰は、現代の日本文化にも通ずるものがあることが分かった。月に惹きつけられた人が集い、人と人とが結びつけられている様子は今も昔も同じである。
第4章 デジタルアーカイブする意義とは
本章では、第1章から第3章までの内容で分かったことから、石造物をデジタルアーカイブする必要性について考察する。石造物のデジタルアーカイブを行うべき理由は主に3つあると考える。
1つ目は、未来への遺産の継承である。
第1章より、高遠地域に現存する石造物は、自然の中に安置されているため、災害や経年劣化による喪失や損傷はなかなか避けることができない状態にあることが分かった。このように物理的な保存が難しい場合でも、デジタル化して保存することにより、今ある本来の姿のまま永続的に保存できるため、アーカイブ化を進めていくことが重要であると考える。
2つ目は、歴史と信仰の保存である。
第2章・第3章より、江戸時代は、飢饉や天然痘などの災害や疫病に人々が苦しめられた時代であったため、石造物は当時の人々の拠り所となり、守り神として建立されていたことが分かった。石造物は、仏像や道祖神、庚申塔など多くの種類が造立されており、どの石造物にいたっても人々の祈りの対象となっていた。そのため、今に残る石造物は、地域の人々の篤い信仰によって建てられたということが分かり、何百年前の人々の生活や民間信仰、時代性を反映し、歴史の変遷を知ることができる貴重な遺産であると感じる。だからこそ、高遠の歴史を物語る石造物をアーカイブすることで、歴史と文化の理解をさらに深め、歴史的・文化的価値を高められるのではないかと考える。そして、インターネットやデジタルメディアを通じて、高遠石工遺産をデジタル資料として提供することで、多くの人々が高遠石工を知る1つのきっかけとなり、高遠石工に興味関心を抱いてもらうことで、観光資源としてもさらに活用できるようになり、地域の活性化に繋がるのではないかと考える。
3つ目は、教育への活用である。
上に記したように、石造物は人々の生活を反映しているため非常に地域性が高い遺産であるといえる。また、地蔵菩薩や道祖神など石造物が関連した行事やお祭りが各地で行われていることが分かり、神仏に祈りや願いを捧げる信仰は、現代の私達の日常生活や文化の中で引き継がれていると感じた。だからこそ、石造物デジタルアーカイブを通じて、日本文化に対する学びをより深めるとともに、地元の歴史や文化に誇りを持たせ、地元への愛着や関心を高められるのではないかと考える。
第5章 高遠石工 石造物デジタルアーカイブ
1. デジタルアーカイブの対象と撮影方法
(1) デジタルアーカイブの対象
「高遠石工 石造物デジタルアーカイブ」では、主に、長野県伊那市高遠町に現存する石造物の撮影を行う。石造物は、仏像、石塔、道祖神、庚申塔などを含む。上伊那地域に現存する、高遠石工の中でも高い技術を持ったといわれる守屋貞治の石仏も撮影対象とする。加えて、高遠町歴史博物館の所蔵品と高遠石工研究センターの方や学芸員による高遠石工に関する講座の動画撮影を行った。
撮影場所は、「高遠石仏探訪マップ」「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」「高遠の石仏 付 石造物」から選定した。また、撮影場所までの道中で発見した石造物も撮影した。撮影は19ヶ所で行い、約300基以上の石造物の資料を収集した。(2023年12月21日時点)
以下の表5-1、は、石造物の撮影場所、撮影した石造物の種類、数をまとめたものである。
(2) 撮影方法
対象とする石造物を前後左右の4方向から静止画で撮影を行う。格子に囲まれているものや、崖や川付近など近づくことができない場合は、前方のみ撮影を行う。一眼レフカメラを使用する。特に仏像については、碑文、台座、持物、印相、表情をクローズアップして、1体1体の特徴や魅力が伝わるように撮影を行った。
また、高遠石工に関する講座については、高遠町歴史博物館が主催する第27回歴博講座を対象として動画撮影を実施した(図5-1)。講座内容は、伊那市誌編さん委員、駒ケ根市立博物館専門委員の北澤夏樹氏による「地形・地質からみた長谷・高遠地域」と、高遠石工研究センターの熊谷友幸氏による「深まる高遠石工の世界―貞治仏調査結果から―」の2講座である。
2.Webページの作成
本学のデジタルアーカイブ研究所が運営している、「地域資源デジタルアーカイブ」にて、収集したデータをもとにwebページを作成する(図5-2)。このWebページは、下のQRコードから閲覧できる(図5-3)。
Webページは、撮影場所ごとにページを作成する。ページは、タイトル、サムネイル画像、概要(歴史、石造物の特徴や説明など)、収集した石造物の画像、所在地を知らせるためのマップで構成されている(図5-4)。石造物の画像は、横移動させて画像を切り替えて閲覧することができるようになっている。
第6章 結 言
本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、高遠石工の歴史と当時の石造物に対する人々の信仰心から、今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をした。
石造物造立が活発化した江戸時代は、天災や病に苦しめられた時代であった。そのため、人々は生命を脅かすものに対抗するため、神仏への信仰が一般化し、石造物を通じて無病息災などを祈り、守り神として人々に希望と安心をもたらしていた。これらの石造物は、造立当時の人々の生活や信仰心、時代性を反映しており、高遠地域で今なお数多く残されていた。そして、江戸時代から強まっていった信仰心や民間信仰は、今の私たちの生活や文化、行事にも受け継がれていることが分かった。そのため、高遠石工の活動跡として残る石造物は、歴史的・文化的価値を有し、高遠地域そのものの価値を高める遺産であるといえるため、後世に繋げていくためにデジタルアーカイブを行うべきである。
また、撮影中には地域住民の方から声をかけていただき、貴重なお話を伺うことができた。その際、高遠石工の存在やその石造物が今でも大事にされ続けていることを痛感した。このような地域住民の遺産に対する愛着や関与があるからこそ、私達がその意思を受け継ぎ、地域の文化遺産を残していくことが地域貢献に繋がるのではないかと感じた。
そして今回、デジタルアーカイブに取り組むうえで、もっと撮影場所の下調べを入念に行うべきであったことが一番の反省点であった。撮影場所の選定は、石仏探訪マップや文献から行ったが、そこには地区名や所在を示した大まかな地図の情報しかなかったため、実際に行ってみると目的地にたどり着くまでに相当な時間がかかってしまった。特に自然の中に安置され管理があまり行き届いていない石造物については、Googleマップ等の検索エンジンを用いてもマップ上に掲載されておらず、場所を特定することができなかった。そのため、専門的に研究に従事している高遠石工研究センターなどの機関に確認を取り、石造物がどこにあるのか、周囲に目印とするものはあるのか等を聞き、場所を明確にしておくべきだった。アーカイブ化を行ううえで、石造物は自然に溶け込んでいるため、建造物とは違い発見しにくい。そのため、意識を巡らせながら町を探索することも大切だと感じた。また、道中が険しい場所もあり、車でのアクセスが困難で徒歩での移動も多く、目的地までたどり着けずに撮影を断念した場所もいくつかあり資料収集に苦労した。そのため、デジタルアーカイブ化を行う際には、知識や技術だけでなく、根気と体力も不可欠であると感じた。
本研究を通じて、高遠石工について探求し、石造物を目指し高遠を巡ることで、故郷の見え方が大きく変わった。自分が生まれ育った地域こそ、価値ある遺産や風景が当たり前すぎて見過ごしてしまっていたことに気づき、その価値を再確認することができた。だからこそ、遺産を記録し、多くの人にその魅力を伝えていくことが重要であると考える。
今回、約300基の石造物をアーカイブしたが、まだまだアーカイブ化するべき石造文化財が沢山ある。高遠石工遺産を保存し後世に残していくこと、高遠地域の発展に繋げていくためにも、地域遺産にもっと興味関心を持ち、デジタルアーカイブする人材が増えていけば良いと考える。
参考文献
1) 松沢邦男.庚申塔と道祖神-見て、歩きの手引き-.ほおずき書籍, 2001, 166p
2) 高遠町誌編纂委員会.高遠の石仏 付 石造物.高遠町誌刊行会, 1975, 215p
3) 小山矩子.信州伊那へ―石匠 守屋貞治の石仏を訪ねて―.文芸社, 2016 , 139p
4) 坂口和子.石仏巡り入門-見方・愉しみ方.大法輪閣, 1997, 239p
5) 田中清文.高遠石工 石匠列伝.伊那谷石造文化財研究所, 1998, 352p
6) 高遠町誌編纂委員会.石仏師 守屋貞治.小松総合印刷, 1977, 346p
7) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
8) 松沢邦男.庚申塔と道祖神.ほおずき書籍, 2001, 166p
9) 木戸ひろし.再発見!高遠石工.ほおずき書籍, 2015, 235p
10) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
11) 市川智康.図解・仏像の見分け方.大法輪閣,1992, 192p
12) 笹本正治.再発見!高遠石工.ほおずき書籍,2015,235p
13) 伊那市高遠町・長谷周辺の石造物マップ.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/takatoishiku.files/map.pdf(2023/8/10 閲覧)
14) 石仏探訪マップ
https://www.inacity.jp/kankojoho/kanko_news/174t_knk.files/map_takato.pdf
(2023/8/10 閲覧)
15) 日本地図ジェネレーター.
https://www.start-point.net/maps/map_maker/ (2023/10/1閲覧)
16) 名古屋刀剣ワールド.“江戸時代日本史 |ホームメイト”.
https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-edo/(2023/10/6 閲覧)
17) 伊那市.“市指定文化財:伊那市公式ホームページ”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/shishiteibunkazai.html (2023/12/8閲覧)
18) 伊那市.“伊那市の文化財の概要”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/shogaigakushu_news/rekishibunka.files/02.pdf (2023/12/8閲覧)
19) 文化庁.“伊那市【長野県】‐歴史文化構想”.
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/rekishibunka/pdf/92756301_01.pdf
(2023/12/8閲覧)
20) 伊那市公式ホームページ.“高遠石工:伊那市公式ホームページ”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/takatoishiku.html (2023/12/26閲覧)
21) 長野伊那谷観光局.“高遠石工のふるさと伊那谷”.
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1150 (2023/12/26閲覧)
22) 「日本で最も美しい村」連合.“長野県伊那市高遠町たかとお-「日本で最も美しい村」連合.https://utsukushii-mura.jp/map/takatoo/ (2023/12/26閲覧)
23) 伊那市観光協会.“おいでな伊那―一般社団法人伊那市観光協会公式サイト”.
https://inashi-kankoukyoukai.jp/ (2023/12/26閲覧)
24) 伊那市デジタルアーカイブ.https://adeac.jp/ina-city/top/ (2023/12/26閲覧)
25) 高遠石工と天才仏師 守屋貞治を追って.https://stone-c.net/report/8032 (2024/02/13 閲覧)
論文資料
【研究論文】岐阜和傘の歴史と技術のアーカイブ
〜岐阜市文化資源デジタルアーカイブの構築〜
研究概要
1,はじめに
卒業研究のテーマを決める中で、現在住んでいる岐阜市について関心を持ち、岐阜市を知っていく中で岐阜県の伝統工芸品である岐阜和傘を初めて知り、岐阜市にはまだあまり知られていない伝統工芸品があるかもしれないと考え、そこから若い世代や知らない方に岐阜和傘を知ってもらえる様にデジタルアーカイブを通して伝えたいと考えた。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史を中心に、岐阜和傘以外の伝統工芸品と長良川の関係性をアーカイブし、より多くの人に伝える事が本研究の目的である。
2,研究の方法
研究対象である岐阜和傘とその他の伝統工芸品の歴史や技術などの資料を集め、文献調査を行う。次に、文献調査で分かった事をまとめ、分析しまとめていく。文献調査だけでなく岐阜和傘の資料や岐阜和傘に関連する施設などを実際に訪問し、撮影をさせてもらう。文献調査や撮影などを基にデジタルアーカイブを作成し、活用の方法とデジタルアーカイブをする事の意義を考察、提案する。
3,研究の結果(考察等)
本研究では、最初に岐阜和傘の歴史やその他の岐阜市の伝統工芸品の歴史・技術を知る為に文献調査を行った。そこから分かった岐阜市の伝統工芸品の共通点として長良川に沿って伝統工芸品が生まれている事が調査で分かった。
長良川は、岐阜県北部の大日ヶ岳から南へと岐阜県内を横断し、三重県桑名市で揖斐川に合流し、伊勢湾へと流れ込む。全長は166kmで、流域には、86万人が暮らしている。長良川は江戸時代では、物流の手段として使われていた。長良川は、伊勢までたどり着く事から関西から関東まで荷物を運ぶ事ができ、物流の要として使われていた。その為、出来た品物や材料などが手に入れやすい事から長良川の流域で数多くの伝統工芸品が生まれた。
その事から、岐阜和傘・岐阜うちわ・岐阜提灯の関係性が分かった。また、長良川の役割や歴史を知る事で、岐阜和傘の成り立ちと深く関係している事が分かった。
また、文献調査を進めるにあたって岐阜市和傘の現状の課題点が見えてきた。昨今は、和傘よりも洋傘が主流となっており、和傘の需要が減少しており、最近では舞台での小道具や結婚式の前撮りの小道具として使われる事が多くなった。そこで若い世代の方にも和傘をより身近に知ってもらう為にもデジタルアーカイブを通して岐阜和傘の歴史と技術を知ってもらう事が需要だと考える。その為に現在は、岐阜和傘に関連する場所や施設などを撮影し、ネットに上げる事を行っている。また、文献調査も並行して行う。
4.おわりに
岐阜和傘の普及の為に様々な取り組みが行われてきているが、現状はまだ若い世代に「岐阜和傘」の普及がないと考える。若い世代に「岐阜和傘」を知ってもらう為にもインターネットを通して、「岐阜和傘」の普及に努める。Mata,
関連の場所での撮影が出来ていないので、撮影を重点的に行いながら、岐阜和傘の歴史や技術、長良川の伝統工芸品の関連性と歴史の文献調査を行っていく。
参考文献
(1)岐阜傘に関する調査研究
(2)加納町史 下巻
(3)密柑水の文化センター 機関誌『水の文化』50号「江戸時代から続く岐阜・加納の和傘づくり」
https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no50/05.html
(4)和傘CASA
研究資料
岐阜和傘の歴史
・岐阜和傘の成り立ち
1756年(宝暦6)、加納藩主・永井直陳は下級武士の生計を助けるため和傘づくりを推奨した。岐阜で和傘を製造するにあたって、分業体制の確立に加え、美濃和紙の生産地に近く、周辺の山間地で良質の竹が採取できるなどに加えて、加納は位置的にも原材料に恵まれた事もあり、加納の和傘は栄え、最盛期の昭和20年代半ばには年産100万本を超えている。
・岐阜和傘と長良川
岐阜和傘を搬送するにあたって、長良川は大きな役割を果たした。搬送経路としては、長良川から伊勢湾の桑名に出て、廻船によって江戸・大阪などの大消費地へと搬送する事が可能となったため、広範囲に和傘を販売することができ、岐阜和傘が栄えた一因となった。
岐阜和傘とは?
・岐阜和傘の特徴
岐阜和傘は、畳むと細く収まる傘「細物」を特徴として、傘の製造に優れた技術を有し、豊富な装飾技法を継承している。
・和傘の種類
「蛇の目傘」→細みかつ色柄が豊富で女性が使用する事が多い
「番傘」→太めの骨や白の和紙で作られる男性用で、雨傘としても作られ、
わしには水除けの油が引かれる。
「舞踊傘」→日本舞踊や歌舞伎などで使われる
「野点傘(のだてかさ)」→野外のお茶会などで使われる
など様々な和傘が存在している。
・岐阜和傘が認められて…
2022年3月には、国の伝統的な工芸品に推定されている。
岐阜和傘の現状と課題
・岐阜和傘の今
現在、岐阜和傘を製造販売するのは加納地区に3件のみとなっている。最盛期だった頃と比べ、洋傘の普及に伴い、需要が減り、今の岐阜和傘の主な収入源としては、歌舞伎や日本舞踊などでの貸し出しや結婚式での貸し出しが主となっており、和傘を普段使いの傘として買う人は減少している。岐阜和傘は一つ一つが手作りで分業制で出来ているからこそ一本一本の値段が洋傘に比べると高く、中々手に届かないのも一つの原因となっていると考えられる。
⇓
その現状を打破しようと様々な事が取り組まれてきている。最近だと岐阜市に岐阜県で唯一の和傘専門店である「CASA和傘」というショップが出来た。このショップでは「岐阜和傘」をブランド化し、現代に合わせ、洋服に合うデザインの岐阜和傘を店頭やオンラインショップ等で販売している。また、公式のホームページでは買った方の写真や感想などが掲載されていたり、岐阜和傘の種類等も掲載されており、和傘をより身近に普段使いしやすいサービス等が提供されている。
研究内容(仮)
岐阜和傘の普及の為に様々な取り組みが行われてきているが、現状はまだ若い世代に「岐阜和傘」の普及がないと考える。若い世代に「岐阜和傘」を知ってもらう為にもインターネットを通して、「岐阜和傘」の普及に努める。
◎岐阜和傘の歴史と人をアーカイブする
⇒「岐阜和傘」はどういう物なのかどの様な歴史なのか、今現在どの様に作られているのか作っている人をアーカイブし、公開する事で岐阜和傘について知ってもらう。
(例)職人の方の作業風景やインタビューを行いアーカイブする
岐阜和傘や岐阜の伝統工芸品にまつわる資料などをアーカイブする
◎岐阜和傘を通して長良川周辺にある伝統工芸品についても調べ、マップにする
⇒長良川周辺で生まれた岐阜うちわや岐阜提灯などを調べ、紙のマップにしたり、ウェブでのマップを作成する
(例)そこにある伝統工芸品についての歴史や豆知識などをタップして見れるようにする。
資料
論 文
岐阜和傘の歴史と技術のアーカイブ
〜岐阜市文化資源デジタルアーカイブの構築〜
第1章 緒 言
1. はじめに
卒業研究のテーマを決めるにあたって、現在住んでいる岐阜市について関心を持ち、岐阜市を調べていく中で、岐阜県の伝統工芸品である岐阜和傘が岐阜市で作られてきたことを初めて知った。岐阜和傘の技術と歴史をもっとより多くの人に知ってもらいたいと考えた。また岐阜和傘以外にもまだあまり知られていない伝統工芸品があるかもしれないと考えた。そこから調べてく中で岐阜うちわ、岐阜提灯の2つがある事が分かった。この二つの伝統工芸品と岐阜和傘の成り立ちなどを調べていく際に、この3つとも長良川付近で作られている事が分かった。そこから若い世代の方や知らない方に岐阜和傘や岐阜和傘以外の伝統工芸品を知ってもらえる様にデジタルアーカイブを通して伝えたいと考えた。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史を中心に、岐阜和傘以外の伝統工芸品と長良川の歴史的関係性を調査し、デジタルアーカイブを通じてより多くの人に伝える事が本研究の目的である。
2. 岐阜和傘の歴史的変遷
上記でも述べた通り、岐阜和傘をより多くの人に知ってもらう事が本研究の目的である。岐阜和傘は最盛期の1950年頃は600件以上の問屋があり、月に120万本から130万本まで生産されていた。しかし、現在は職人の高齢化や後継者が少なく、お店を畳む人が多く岐阜和傘を扱うお店も全盛期より大幅に減った。また、もう一つの原因として挙げられるのは、洋傘の普及だ。昭和20年頃日本は敗戦し、終戦を迎えた。それに伴い生活様式が大きく変わった。和傘の需要低下が本格的に進んだのは、終戦直後の昭和23年~25年をピークに急激に落ち込んだ。その背景としてあるのは、生活様式が変わった事に伴い、洋傘の普及が始まった事が和傘の需要低下に拍車をかけた一つだ。その他にも、服装の変化として、着物から洋服へと変わった事、交通機関の発達、なども挙げられる。また物資不足だったのも原因の一つと考えられる。そして、昭和30年には洋傘の生産と和傘の生産が逆転し、急激に低下した。現代においても、傘というと洋傘の方が日常使いのイメージが強い。一本一本人の手で作られており、単価が高く手に出しにくい。しかし、洋傘の場合は大量生産に適しており、単価も安いものから高いものまである。また、洋服に和傘は合わせづらいという事もある。これは和傘が洋傘よりもデザインの幅がない事が原因だと私は考えている。この様に和傘は現代の生活様式には合わなくなっている。また和傘を作っている会社のホームページはあるが、岐阜和傘について作られたサイトは少ない印象がある。この岐阜和傘での問題は他の岐阜市の伝統工芸品出も同じだと考えている。今回取り上げる岐阜うちわ、岐阜提灯でも現代の生活様式に合わず、生産量なども最盛期に比べると随分減った。岐阜和傘を中心に岐阜市の伝統工芸品をより多くの人に知ってもらえる様にするには、インターネットの活用が最適と考えた。そこで、デジタルアーカイブを用いて、岐阜市の伝統工芸品の和傘について歴史的変遷と共に周知する事が問題の解決だと考える。
3.目 的
本研究の目的は、「岐阜市の伝統工芸品をより多くの人にデジタルアーカイブを用いて知ってもらう」事だ。岐阜市には伝統工芸品が数多くある。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史について、デジタルアーカイブを中心に岐阜うちわ、岐阜提灯と長良川の関係性をアーカイブしていく。
第2章 岐阜市の歴史
1.岐阜市について
岐阜市は、岐阜県の県庁所在地であり、人口は42万人で、岐阜県の市町村の中で一番多い人口だ。パーセンテージで表すと、岐阜県の20%が住んでいる。の主な産業としてはアパレルが挙げられる。市内中心部を清流長良川が流れており、金華山がそびえている。歴史も長く、岐阜市が歴史に登場したのは旧石器時代で、最初は岐阜市の北部から東部にかけた台地上に営みがあり、縄文、弥生、古墳時代にはほぼ全域に営みは広がっていった。その証拠として、紀元前1300年頃の石器や遺跡などが見つかっている。応仁・文明の頃には、斎藤道三が美濃国を手中にして、井口と呼ばれた稲葉山山麓に城下町を形成。永禄10年には、織田信長が美濃国を手中にし、「井口」から「岐阜」と改めた。その後、「楽市楽座」を行い城下町を発展させた。その後は合併が繰り返され、今の岐阜市が出来たのは1889年(明治22年)7月1日、その後2006年に柳津町と合併し、2019年に130周年を迎えた。本研究では、岐阜市の伝統工芸品を紹介してきたが、岐阜市には他にも様々な伝統文化や産業がある。その一つとして、岐阜市の伝統文化である長良川の鵜飼がある。長良川の鵜飼は、その歴史と伝統に培われた技術が評価され、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また岐阜市を代表する産業として、アパレル産業が挙げられる。岐阜市のアパレル産業は満州から引き揚げられた人達が中心に軍服を売る店を立ち上げ、そこから発展していき、日本でも有数のアパレルの産地となった。また、岐阜市には様々な史跡が残されている。城の跡地が残っている所もあり、金華山の上にそびえる岐阜城跡は、岐阜城を含む金華山一帯が「岐阜城跡」として国史跡に指定されている。国史跡とは、日本の歴史を正しく判断する上で欠く事が出来ない遺跡の事であり、岐阜城跡地は岐阜市内の国史跡としては4件目に登録された。岐阜市は岐阜県の中心地として栄えながらも伝統と歴史のある町であり、自然にも恵まれている。
2.岐阜市の伝統工芸品について
岐阜県には、国の指定を受けた伝統的工芸品が6品目あり、その中の2つの伝統的工芸品は岐阜市にある。岐阜市には5つの伝統工芸品があり、内訳としては、国から指定された伝統的工芸品は、岐阜提灯、岐阜和傘の2つで、岐阜県から指定された郷土工芸品は、岐阜渋うちわ、のぼり鯉・花合羽、美濃筒引き本染め・手刷り捺染の3つが指定されている。本研究では、この5つのうち岐阜和傘、岐阜提灯、岐阜うちわについて取り上げていく。まず伝統工芸品とはどの様なものかを説明していく。一般には伝統工芸品と言われる事が多いが、それとは別に「伝統的工芸品」という呼称がある。伝統的工芸品は「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」(以下から「伝産法」と略す)で定められている。この伝統的工芸品の「的」には、「工芸品の特長となっている原材料や技術・技法の主要な部分が今日まで継承されていて、さらに、その持ち味を維持しながらも、産業環境に適するように改良を加えたり、時代の需要に即した製品作りがされている工芸品」の意味が含まれている。「伝統的工芸品」には、法律上で次の要件が必要になる。
・主として日常生活で使われるもの
冠婚葬祭や節句などのように、一生あるいは年に数回の行事でも、生活に密着し一般家庭で使われる場合は日常生活に含まれる。
・製造過程の主要部分が手作り
すべて手作りでなくてもよいが、製品の品質、形態、デザインなど製品の特長や持ち味を継承する工程は「手作り」が条件だ。持ち味が損なわれない様な補助的な工程には、機械を導入する事が可能だ。
・伝統的技術または技法によって製造
伝統的とはおよそ100年間以上の継続を意味する。工芸品の技術、技法は、100年間以上、多くの作り手の試行錯誤や改良を経て初めて確立すると考えられている。伝統的技術、技法は、昔からの方法そのままではなく、根本的な変化や製品の特長を変えることが無ければ、改善や発展は差支えない。
・伝統的に使用されてきた原材料
「伝統的技術または技法によって製造」と同様に、100年間以上の継続を意味し、長い間吟味された、人と自然にやさしい材料が使われているか。またすでに枯渇したものや入手が極めて困難な原材料もある場合は、持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換する事は、伝統的であるとされている。
・一定の地域で産地を形成
一定の地域で、ある程度の製造者があり、地域産業として成立していることが必要。ある程度の規模とは、10企業以上または30人以上が想定されている。
以下の要件を全て満たし、伝産法に基づいて経済産業大臣の指定を受けた工芸品の事を指す。今回取り上げる岐阜提灯、岐阜和傘は伝統的工芸品で、岐阜うちわは郷土工芸品に分類されているが、3つとも伝統工芸品である事には変わらないので、ここでは3つとも伝統工芸品と呼称していく。それでは、いつ伝統的工芸品と郷土工芸品について指定されたのかというと、岐阜提灯は平成7年4月5日、岐阜和傘は令和4年3月18日に伝統的工芸品として岐阜渋うちわは平成4年3月30日に指定されている。
3.岐阜市加納地域に地域性
加納の地名の由来は、荘園が誕生した時代に盛んぼる。荘園とは、功績のあった貴族やお寺に与えた土地が荘園である。今の茜部には茜部の荘という東大寺の荘園があり、その荘園の管理者は、荒地を開墾し、その土地を国に言わずに自分の土地にして、年貢を手に入れていた。しかし、隣の荘園との境にぶつかると、正式に権限が欲しいため、開墾した土地を正式に届出を出し、そこから国に年貢の一部を納めた。その様な経緯から、元の荘園に後で加えて納めたことから「加納」という地名が出来た。加納は岐阜県稲葉郡に存在した町で旧城下町でもあった。加納城が出来たのは、1600年11月出来ヶ原合戦後、家康は西方の脅威に備え、交通の要衝を理由に加納城の築城を命じられ、加納城が築城された。加納城初代城主には奥平信昌が任されたという。また、加納は加納城が築城する前は、中山道の宿場町としても栄えた。中山道は、1601年から7年間で他の4街道(東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道)とともに整備された会堂であり、古くは都と東国を結ぶ東山道と称されていた。加納宿は守山宿から東海道の草津宿を経て京都三条に大橋に至ると69の宿があり、そこまでを「木曽路69次」とも言われている。美濃路には16宿が設けられていて、そのうちの最大の宿だと加納宿は言われていた。加納は加納城を中心に、侍屋敷と宿場町から成り立っていた。侍屋敷は加納城周辺(丸の内,東西の丸,長刀堀等)で、宿場町は本町一丁目~九丁目,天神町,広江,新町,柳町,安良町,八幡町等22町からなっていた。()そこから明治16年には、東加納町と西加納町が確立。その後、明治30年には、東加納町と西加納町、下加納町が合併し、加納町となった。その後、昭和に入り、加納町は岐阜市と合併した。加納の特産品としては、岐阜和傘があり、加納に数多くの国に指定された史跡が残っている。加納城だけでなく、加納宿、加納天満宮、加納八幡神社などがある。加納天満宮は、祭神は菅原道真公で加納城が築城される前から祀られていた古社で、慶長年間に現在の場所に移設された。加納天満宮は、学問の神様としても有名で、戦炎で焼け残った拝殿は、文化7年創建され、三十六歌仙,六歌仙,等の宝物や市文化財指定の山車(鞍馬車)があり、天神祭りやみそぎまつり、提灯まつりなどが開催されている。平成15年10月には、御鎮座400年と官公御神忌1100年の記念事業として本殿造営工事がされた。また、町政時代の名所として、1962年に竣工された旧加納町役場が存在しており、武田五一設計で、鉄骨鉄筋コンクリート造2階建ての近代建築で、国の登録有形文化財にも登録された。しかし、耐震性の問題などから2016年に取り壊され、その跡地は現在中山道加納宿まちづくり交流センターとなっている。この中山道加納宿まちづくり交流センターでは、加納宿を中心とした中山道の歴史の継承を図り、地域のまちづくりの活動の場という役割で令和2年10月14日に開館した。屋内には和傘や加納城のジオラマなどの展示が展開されており、街歩きなどで中山道を訪れる方へのトイレの提供や休憩スペースとしても利用が出来る様になっている。この様に加納を知る事ができる施設もある。また、旧加納町役場以外にも加納小学校の正門は、赤いレンガ造りが有名で「赤門」と呼ばれており、明治32年4月の開港同時に設置された。市内最古の門であり、平成7年10月には「岐阜の宝百選」にも選ばれた。加納は、1940年の1月23日に岐阜市への編入案が可決されたが、編入案が可決する条件として、岐阜駅、東海道本線下に地下道を設ける事、「加納」という地名を残すことを提示した。この条件を承諾した事で、岐阜市に編入した今も加納という地名は残っている。
4.長良川という自然環境
長良川は、岐阜県北部の大日ヶ岳から南へと岐阜県内を横断し、三重県桑名市揖斐川に合流、伊勢湾へ流れ込む。その全長は166kmで、流域には86万人が住んでいる。高知県の四万十川、静岡県の柿田川と並んで日本三大清流と言われており、名水百選にも選ばれている。また、長良川は上流約1㎞の水浴場があり、全国で唯一河川の水浴場として、「日本の水浴場88選」に選定されている。また、長良川にはダムや工場群が無く、水の美しい川として有名だ。長良川は水が美しい清流の為、鮎を中心に川の魚が良く捕れる。鮎は、澄んだ川の象徴と言われている。夏を告げる旬の魚だ。柳の葉のようなスリムな体をしていて、鮎の身からスイカの匂いが漂う為に「香魚」とも呼ばれる事もある。鮎は北海道から沖縄まで生息していて、澄んだ清流を好む。また、鮎は「年魚」とも呼ばれ、一年で命を閉じる。
おいしい鮎が育つためには、エサとなる上質なコケ(藻類)が必要となる。太陽光線 がコケ(藻類)の生える石まで届けばコケが豊富に育つが、泥や落ち葉などのゴミに遮られるとあまりコケは育ちにくい。しかし、長良川は、本流にダム(河川法で規定される高さ15m以上のモノ)が無く、大雨で自然に川の底が洗われやすいため、コケ(藻類)が育ちやすい環境にある。また、鮎は1日あたり自分の体重の半分の重さのエサを食べる。その為、鮎は縄張りを作るのは、他の鮎からエサ場を守る為だという。その為、たくさんの鮎が育つには、広範囲に美しい川が必要となる。また、鮎のエサとなるコケは、水中の二酸化炭素や窒素、リンなどを吸収し、水を綺麗にする役割がある。鮎がコケを食べる事で、次々に新しいコケが育ち、水を綺麗にし続ける。この循環がある事で、長良川の水の美しさを保ち続けることが出来る。鮎は水を綺麗に保つ役割を果たしている。長良川は、宮内庁の御魚場が定められていて、鵜飼の鵜匠が捕った鮎は皇室や伊勢神宮へ納められている。鮎の他にも、長良川の流域には、伝統工芸が多くある。
5.美濃和紙との関係性ついて
本研究でも取り上げている岐阜和傘や岐阜提灯、岐阜うちわ以外にも様々な伝統工芸がある。例えば、「美濃和紙」もその一つだ。美濃和紙の紀元はおよそ1300年前、天保9年(737年)ころで、奈良時代の「正倉院文書」の戸籍和紙が美濃和紙であったことが記されている。美濃和紙の原材料は、和紙の原料となる落葉低木楮、三椏、雁皮で、幹を使うのではなく、皮の部分の繊維を利用する。そして、良質の冷たい水が豊富にある事が、和紙を作る上で大事になってくる。美濃市は、その2つが揃っており、都からも近い場所だった為、和紙の産地として栄えた。
民間でも広く和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間以後だった。美濃の守護職土岐氏は、製紙を保護推奨、紙市場を大矢田に開いた。紙市場は、月に六回開かれていたため、六斎市と呼ばれていて、現在も行われている。この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へ運ばれ、美濃の和紙が全国に知られるようになった。そして、慶長5年に徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川河畔に小倉山城を築城した。
慶長11年には、現在も残る町割りが完成した。こうして江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は、幕府・尾張藩御用達となっていった。明治維新により、紙すき業に必要だった免許の制限がなくなり、製紙業が急増し、国内の需要や海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えた。しかし、濃尾震災と太平洋戦争の影響で、物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになった。その影響は大正時代にも続いて行く。機械抄きが導入し、戦後には石油化学製品の進出が続いた。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、打撃が大きく、昭和30年には、1200戸あった生産者が、昭和60年では40戸に減ってしまった。現在では、20戸程度になっている。美濃和紙は機械で漉く和紙を含め、美濃で作られた和紙全般を指す。
美濃和紙の中でも重要文化財指定の材料、道具を使い認められた職人が漉いた和紙のみ「本美濃和紙」と呼ぶことが出来る。上品な色合いや、薄くても布の様に丈夫で太陽の光に透かした時の美しさから。本美濃和紙は江戸時代以来最高級の障子紙として高く評価されてきた。美濃和紙の長い歴史の中で伝統の技が受け継がれてきたことなどが評価され、本美濃和紙は、昭和44年に国の重要文化財に指定され、平成26年には、ユネスコ無形文化遺産(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)に日本の手漉き和紙技術(石州和紙・本美濃和紙・細川紙)が登録された。
前述にも書いた通り、和紙の製法には「手漉き」と「機械抄き」がある。
〈手漉き〉
手漉きは、伝統的な「流し漉き」「溜め漉き」の技法を使用し、職人が一枚一枚丁寧に漉いている。仕上がった紙には四方に手漉きの特徴である「耳」がある。また、職人の手作りの為、一点として同じものはない。手漉きの技法には、前述でも述べた通りに2種類の技法がある。「流し漉き」は日本独特の技法で、靱皮繊維(雁皮・三椏・楮など)の紙料にネリ(植物性粘液)を混ぜ、簀桁ですくい上げ、全体を揺り動かしながら紙層をつくり、簀桁を傾けて余分な紙料を流しながら漉く。繊維が絡み合うため、横にも縦にも破れにくい紙が出来る。「溜め漉き」は、中国古来の紙漉きの技法。日本独自の流し漉きと違い、ネリを用いず一枚ごとに簀桁の中の水を簾の間から自然に落として漉き上げるので、「機械抄き」では製造できない厚さのある紙を造る事ができる。証券や賞状などに用いられる局紙は溜め漉きで漉かれている。
〈機械抄き〉
「機械抄き」は和紙の伝統的な技法である「流し漉き」の手法を機械に置き換えて製造する方法。比較的均一な紙を造ることができ、洋紙ほどではないが大量に生産をする事が可能である。しかし、伝統的な原料から製造するので、「手漉き」と同様に天然原料の持つ光沢や風合いを活かした美しく強靭な紙を造る事ができる。本来は「手漉き和紙」こそが「和紙」という存在であったとされている。しかし、日本古来の「手漉き」が色々な道具や手法を取り入れて進歩し、現在に至ったという事を考えると「機械抄き」も「和紙」の形の一種と考えられている。
第3章 和傘の歴史
1. 和傘について
世界で初めて傘が登場したのは、約4000年前の古代エジプトやペルシャで、当時の壁画にもその様子が残っている。
当時は、今の様に雨をしのぐ道具として使用しておらず、太陽の日差しを遮る事を目的とした日傘として使われだした。また、現在の様に開閉機能はなく、常時開きっぱなしだった。その後、傘はヨーロッパに渡り、富の象徴として多くの帰属が使用する事になった。13世紀頃(西暦1201~1300)のイタリアでは、傘の骨組となるフレームが考案され、18世紀頃になると現在のような傘の形状になった。そして、これまで日傘として使われてきた傘だったが、次第に雨避けとして傘をさす人が
増えていった。日本で最も古く傘についての記述があるのは、日本最古の歴史書である「日本書紀」に登場した。日本書紀で記述されている傘は、現代の傘の形状ではなく、「かぶりがさ」と知られる笠である。また、古墳時代には笠をかぶった埴輪なども残されている。
この当時の笠の材料は、イグサ、ヒノキ、竹などが使われている。この被り笠は現在も屋外の労働に、雨や日よけとして広く東南アジア各地でも使われている。一方、軸を中心に頭の上に広げる「傘」が日本に伝来した時期については詳しく分かっておらず、古墳時代の後期、鉄明天皇の時代には、百済から仏具の傘(天蓋)が日本に献上したと記憶されている。
和傘は平安時代前後に仏教やお茶・漢字等と同じく中国から伝来したと言われている。平安時代に登場する和傘は現在のような形ではなく、傘(蓋・笠)であり、天蓋のような覆う形のような物で、貴人に差し掛けて日除けや魔除け、権威の象徴として使用されていた。また、この時代では傘は開いたままで閉じる事は出来なかった。開閉が出来る様になったのは、安土桃山時代で、その頃には、製紙や竹細工の技術の進歩により、和紙に油を塗り防水性を持たせ、開閉できる「和傘」が作られるようになった。
和傘が広く一般に使われだしたのは分業制の発達した江戸時代中期のことで、江戸時代の浮世絵にも傘をさしている町人の姿が多く見受けられた。生活必需品として、広く普及していた事が伺える。普及するにつれ、和傘はただの日常品としてだけでなく、装いにアクセントを付けるファッションの小道具でもあったので、美しさも兼ね揃える様な様々な技巧やデザインを凝らした和傘が生まれた。和傘は、日常使いだけでなく、歌舞伎や日本舞踊、茶道の中でも取り入られてきた。また、傘に屋号をデザインしたものを客に貸与する事で、雨具としてだけでなく、宣伝の道具としても使われた。
和傘は、和紙、竹、木などの自然素材で作られている傘の総称となる。和傘は柿渋や油などを塗って防水加工した和紙などが用いられている。その和紙を数十本の骨組みで支える構造となっている。柄と骨部分には主に竹や木が使用されている。和傘の種類は、以下の種類がある。
・番傘(ばんがさ)
江戸時代に誕生した和傘。特徴としては、シンプルな構造と無骨な重厚感が挙げられる。持ち手は太い竹を使用し、傘布に使われる油紙は厚く、基本的に無地で、洋傘と比べると大振りで重量がある。番傘は、もともと商家が屋「〇〇の十三番」を入れて使用していた事から番傘と呼ばれるようになった。
・蛇の目傘(じゃのめがさ)
歌舞伎役者が舞台で使用することでおなじみの蛇の目傘。特徴は、骨組みの細さと装飾的な趣向である。江戸時代に軽量化されたことで、腰に差して使われていた。番傘に比べるとデザイン性があり、細身の骨を使用していて、女性でも使いやすい傘だ。中を白く、周辺を黒・紺・赤などで太く輪状に塗った模様が、蛇の目に見える事から、「蛇の目」と呼ばれている。
・日傘(ひがさ)
日傘は傘布に油による防水加工をしていないため、雨傘としては使用できないが、和傘独特の風合いや、程よく日光を遮り、透過する見た目が非常に美しいため、夏場に活躍する和傘だ。特徴としては、一般的に雲龍紙を使用したものが定番だが、一本ずつ表情の異なる手絞りの和紙を使ったものから、華やかな型染和紙を使ったものまで、多種多様だ。ろくろ部分には、飾り糸が付けられている。
・舞傘(まいがさ)
名前の通り主に舞台で使用される和傘で、和紙のものから絹を使った高価なものもある。デザインは、舞の邪魔にならないように基本的に無地の物が多いが、「助六」と呼ばれる紫地に白い輪状に色抜きしたものから渦巻き模様などもある。舞傘も防水加工はされていないが、日傘としても活用可能である。
この様に、和傘には雨傘としてではなく、日傘や舞傘、宣伝の為にも使われてきた。
次に、岐阜和傘の制作過程を述べていく。和傘の制作は大きく分けて、轆轤・柄作り、つなぎ、張り、仕上げの工程がある。一般的な轆轤作り以外の工程は現在も手作業で行われている。また、和傘は「分業制」で作る事が特徴で、この制度がある事で、大量生産と品質の向上が図られてきた。
傘張りは、以下の工程で作られた。
①親骨先端の軒と軒糸に、帯状に軒紙を張る。(軒付け)
②親骨と小骨を繫いだ中節と中糸の上に中置紙を張る。(中置紙張り)
③軒から中心にかけて、平紙を親骨に張る。(平張り)
④頭轆轤に紙を巻き、親骨とつないだ部分に、カナヘラやカナオサエヘラで天井紙を押し込み、ひだを作りながら張る。更に数度頭轆轤に紙を巻き張り、下部を天井紙と接着する。(天井張り)
⑤小骨の手元轆轤と繫いだ部分に、手元紙カナヘラやカナオサエヘラでひだを作りながら張る。(手元紙張り)
この工程で傘に和紙を張っていく。
2.岐阜和傘の成り立ち
岐阜和傘は、主に加納地区で作られてきた。岐阜和傘の起源として、今現在考えられているのは2説ある。
①寛永16年(1639年)藩州明石藩主戸田丹波守重(7万石)が加納城に移封された時、一所に明石から傘屋かね右衛門一家を連れ、傘張りを始めさせた。(文化 2 年〔 1805〕 6 月の久運寺留書の記事より )。金右衛門が加納にきたという事実はあるがそれが直接に傘産業を興したとはまだ傘が一般庶民には使用禁止されていたので家中の需要に応ずるのみで商品として製造販売されなく、あまり需要がなく発達したとは考えられにくい。
②宝暦 6 年(1756)永井伊賀守尚陳が加納に移封されたとき、わずか 3 万 2 千石と 10 万石の城下町にとって財政が苦しく、家臣たちは生きていくために、“武士は食わねど高楊子”といって生活は苦しいが武士は内職が許された時代ではなかったので、目立たない内職として傘骨削り、轆轤作りに従事し、また藩主の奨励が出たことにより地場産業として確立していった。また永井氏の時代、天保年間 (1781~ 88)には都会で傘の需要が高まってきた時代で産業として伸びた時期と思われる。
(引用元:岐阜大学地域課学部,地域学実習報告書,2004,3,第7章加納の和傘産業と現状とこれから,p.22)
この様に、岐阜和傘の起源は諸説ある。また①は、藩主の移封では、浄化の商工業者が従われるのは通例で、その中で金右衛門が一緒に来たのもあり得る事から、この金右衛門が加納で傘を広めたといえるかもしれない。加納にある久運寺の過去帳には、初代金右衛門から3代目まではっきりと傘屋長次郎と記されている。しかし、金右衛門が傘を加納で発達させたかは記されていないため不明である。また、戸田氏は7万石といえども領地はだいぶ輪中地帯にあり、災害が度々続き、財政が苦しかったと考えられる。その為、戸田氏が移封された頃は加納で岐阜和傘が産業として成立するほどではなかった。一方、宝暦5年に加納城の藩主となった永井直陳の頃は、傘の需要が増え、産業として成立する基礎が確立されてきたと考えられる。寛永の歴史的起源と宝暦の産業的起源の二つが岐阜和傘の起源であるといえる。
加納で和傘の産業が本格化したのは、永井直陳が加納城藩主をしていた時代である。石高の減少や度重なる水害による財政難のため、武士に和傘の内職を薦めた。本格化した頃には、武士は傘骨削り、埴輪作り、柄竹作りなどをし、加納町民・農閑期の農民は傘張り、仕上げをするなどといった分業制が生まれてきた。この分業制があったからこそ加納で和傘が栄えたともいえる。
文政9年になると宮田吉左衛門(江戸席酒造家で宿老)と森孫作(脇本陣の年寄)が加納藩より領分傘問屋を申し付けた。この狙いとしては財政難に苦しむ藩役人が城下の傘作りに専売制を実施し、江戸積産業を育成して、その利益を回収しようとした。この統制は全体で5万本を超えていったが長くは続かなかった。また、この江戸積については、従来仲買人制度の頃から行われており、統制の時期に始まったものではない。
加納傘の生産量はその後年々増えていき、安政6年の4月の「加納領傘銀桟留出来数取調帳によると、傘生産者が加納の町内に35人で、その中の上位の3業者の主な販路として、江戸、京都、など遠隔地で出荷し、それ以外の業者は岐阜・名古屋など近辺に出荷していた。その時の加納で作られた傘の生産量は、業者によってばらつきはあるが、全て合わせると加納町内だけで、49万1380本を生産していた。
明治維新の後、当時の加納藩主と重役は東京へ移住したが、一般武士はほとんど残り、傘生産に従事した武士も多く残った。明治5年頃には、上加納の中村源之助が絵日傘を神戸のイギリス商人と取引し、杉山新七は小型の絵日傘を製造して海外輸出を試み、この年は年間150万本の生産を記録した。明治12年には、オーストラリアのシドニーで万国博覧会が開催され、加納の赤塚源次郎が加納傘13種を出品した。この事が岐阜和傘の海外進出への基礎を築き上げた。その後、東海線開通により、郵送時間の短縮、包装堅固などの企業利益からほとんどの業者が製品郵送で往来使っていた水運から鉄道を使うようになり、東京が主な取引先だったが、他府県の直接販売に成功し、北は北海道、南は宮城県まで京阪地方にも直接販売を拡張していった。明治36年第五回国内勧業博覧会が大阪で開催されるとき、加納傘問屋から多数出品をし、加納傘の精美にして安価であるため飛ぶように売れ、それ以降も出店をし、加納傘は1日1万本から2万本へと著しく生産量が増加した。しかし、大正元年に入ると、大阪の松坂屋が原価を無視した宣伝がされ、傘は飛ぶように売れ、同様の事を松坂屋だけでなく、三越、大丸でも行われ、京都、東京にも波及した。しかし、この事態は都市の傘小売店に大影響を与え、問屋や製造元までに影響は広がった。その結果、安価に傘が大量に売られた事で粗製品であるように思われ、実際粗製品が市場に出回り、評判が悪くなった。昭和に入り、当時の岐阜和傘同業組合の会長だった赤塚源八は県当局から助力を得て、取引上の欠陥、製品、業界の改良、回復をし、以前あった組合を解散させ、昭和10年に新たに「岐阜県傘商業組合」を誕生させた。その後、昭和20年代半ばには、生産1000万本を超えている。その後は洋傘の普及、交通機関の発達、生活様式の変化により、和傘の需要は戦争直後で物資不足だった昭和23年~25年をピークに急激に落ち込み、洋傘の生産と和傘の生産が逆転した。
3.長良川と岐阜和傘の関係性について
長良川は岐阜和傘にとって欠かせない存在だ。長良川は、公共交通機関が発達する前、運送の手段として使われてきた。
各地で城下町や門前町、宿場町などの建設の為に大量の木材が運ばれたり、幕府・大名の御用物資・年貢米などの郵送、各地の商品生産との流通や荷船による船運の役割などにも長良川は活躍してきた。長良川流域には各地に川湊ができ、大小の船が頻繁に往来していた。
また、長良川が伊勢湾に繋がる事から東京や大阪にも出やすかった。その為、岐阜和傘の原材料である和紙や竹なども頻繁に運送されていた。また、加納町が長良川に近い事もあり、出来た和傘をすぐに東京や大阪に出荷出来る位置にあった。また、長良川は水運としての役割だけでなく、文化の発達の役割もしていた。長良川の流域には多くの伝統文化が生まれた。清流の水を使い染める郡上本染、長良川と津保川の水運や水を使う関市の刃物産業、長良川で捕れる鮎を取る漁法鵜飼などが挙げられる。その内の一つが岐阜和傘である。長良川流域には上述でも述べた通り様々な伝統文化が誕生してきた。その中には、岐阜和傘の原材料となる美濃和紙、周辺の産地で取れる良質な竹、エゴの木、柿渋・亜麻仁油・桐油などがあった事と運送の事も合わせると岐阜和傘を作る環境が整っていた。長良川があったからこそ岐阜和傘は発達してきたのである。
第4章 デジタルアーカイブと地域活性化
1.デジタルアーカイブについて
今回の研究では、デジタルアーカイブを活用している。デジタルアーカイブとは、「デジタル技術を用いて作成されたアーカイブという意味の造語」(特定非営利活動法人,“デジタルアーカイブとは”,https://jdaa.jp/ ,最終閲覧日:2023年12月26日 )だ。アーカイブは、古文書や公文書館というのが元来の意味である。デジタルアーカイブの対象は、公的な博物館、図書館、文書館の収蔵資料、自治体・企業等の文書・設計図・映像資料などを含め有形無形の文化・産業資源など多岐に渡る。また、完成されたものだけでなく、そのプロセスに関する資料も対象となる。
デジタルアーカイブはそれらを収集するだけでなく、デジタル形式で記録し、データベースの技術を用いて保存、蓄積をして、ネットワーク技術を用い検索を可能にすることで持続的に活用するまでがデジタルアーカイブである。この様に蓄積したデータは、研究や学習支援、地域の振興、防災、経済の発展、新たなコンテンツの創作などの活用が可能となる。この事からデジタルアーカイブは地域循環型社会の社会基盤として重要視されている。
デジタルアーカイブにする事で、文字、図表、画像、映像、音声などの様々な情報を統合して扱う事が出来、保存や複製をしても劣化しない事が特徴である。また、分野を横断した関連情報の連携・共有も可能となり、ネットワーク技術を使い、時間や場所にとらわれず情報やコンテンツへのアクセスも簡単に行える事からデジタルデータのメリットや特徴がデジタルアーカイブの役割を担っている。デジタルデータで記録する事で、長年の経験や研鑽により培われた個人の技術などは、言葉や文字にも表しにくいため継承が困難になる事も少なくない。しかし、デジタルデータを活用する事で、形式知可出来る可能性があり、技術の継承や知識の共有などに役立てる事が出来る。また、文化財や文化遺産がアーカイブされると考えがちだが、地域の文化や伝統芸能、生活の記録は、貴重な地域資産としての価値があり、産業技術や職人の技術などを中心とした伝統産業、日常の生活、テレビ、ファッションなども社会全体の財産を記録として残す事が求められている。また、過去だけでなく今も残す事も必要である。今を記録し、残していく事で、震災や自然災害の復興に役立つことも重要視されている。これらがデジタルアーカイブの役割である。デジタルアーカイブの活用事例として多いのは、博物館、図書館、公文書館などの公的な施設が多い。特に博物館は、デジタルアーカイブを利用したデジタルミュージアムを各地の博物館や大学で行っている。岐阜女子大学でもデジタルミュージアムが行われており、内容としては、全国各地の文化情報を取り扱っている。
また、デジタルアーカイブのメタデータを提供し、検索・閲覧・活用できるプラットフォーム「ジャパンサーチ」もある。日本国内で保有する様々な分野のコンテンツを提供している。利活用の例としては、検索機能を提供したり、インターネット上でギャラリーを作る事が出来る。
2.岐阜県とデジタルアーカイブの活用例について
ここでは、実際に岐阜市ではどの様なデジタルアーカイブが活用されているかを述べていく。
①岐阜市digitalarchive写真貸出システム
このサイトでは、岐阜市の「観光振興を目的とした広報活動に利用しても羅う事を目的としたデジタルアーカイブを活用したサイトである。デジタルアーカイブの対象は、岐阜市の伝統文化である鵜飼を始め、長良川や金華山、史跡・旧跡、町並み、博物館など岐阜市が対象である。写真貸出システムというサイト名の通りに写真を利用する際には、利用申し込みをする必要がある。
②岐阜県図書館
岐阜県図書館では、岐阜県関連資料や地図資料等を図書の検索と同じように「資料検索」のページからキーワードで検索できるようになっている。岐阜県図書館では、ウェブサイトで公開しているデジタルコレクションで、パブリックドメインを付している画像は、申込書等の手続きが条件を守った上で不要となっている。
③岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館では、ウェブサイトに館蔵品一覧を公開している。館蔵品一覧では、岐阜市歴史博物館が所蔵する資料をテーマごとに紹介している。テレビ放映や刊行物への掲載、インターネット公開、展示パネルでの刑事での目的で利用する場合は、申請を行う必要がある。
④岐阜県博物館 デジタル展示室
ここでは、岐阜県博物館の収蔵品がインターネット上で無料で見れるようになっている。カテゴリに分かれており、収蔵品の写真は、様々な角度から見れるようになっている。所蔵品の説明もされている。
岐阜県でデジタルアーカイブを行われているのは、公的な施設が多かった。今回だと博物館や図書館だとほとんどの所では、所蔵されている作品が家にいても見られる様になっていた、また、データでの貸し出しや画像を静止画だけではなく、様々な角度から見られるような工夫をしている事が分かった。
3.伝統工芸品のデジタルアーカイブの活用事例について
ここでは、実際に伝統工芸品のデジタルアーカイブ化をし、どの様な活用がされているのかを国立工芸館の一例を基に述べていく。
・国立工芸館
国立工芸館では、2020年10月に石川県金沢市に移転開館した国立工芸館が所蔵する一部の工芸作品を、3Dデジタルアーカイブ化をし、設置したタッチディスプレイで公開した。また、2Dでのデジタルアーカイブ化も行った。
上の写真の様に作品が展示された。実物展示では見られない展示品の器物の底などが見られるように様々な角度から見られる仕様となっている。展示品の写真だけでなく、キャプションも一緒に組み込まれている。
この様な画面になっており、タッチディスプレイの為、来館者好きな様に展示品を動かし、見る事が出来る。また、多言語にも対応している。2Dの方では、国立工芸館のコレクションの中で気になる作品画像からその作品の解説や技法を閲覧する事が出来る。検索機能が主となってくるため、年代選択から選ぶことが出来たり、分類選択など様々な角度から検索する事が出来る。
この様な画面から来館者が好きな作品を選ぶことが出来る様になっている。
作品を選択すると「解説」・「技法」・「拡大画像」を見る事が出来る。2Dなので、3Dの様に自分で様々な角度を見ようと動かす事は出来ないが、拡大したり、解説だけでなく、技法も合わせて見る事が出来る。
検索機能では、様々な方法から検索する事が出来る。年代からの検索では、選択された年代に該当する作品一覧が表示される。分類選択でも選択された分類に該当する作品の一覧が表示される。
国立工芸館では、デジタルアーカイブを展示する事によって、様々な方面から伝統工芸品について知る事ができる様になっていた。国立工芸館は当初、展示品を飾る際に鏡を使うという案もあったが、難しく物理的規約に縛られない仮想現実を用いて作品を紹介する取り組みを行った。デジタルアーカイブを用いる事で、今まで見れなかった部分を見る事ができるのは、デジタルアーカイブを活用したからこそ伝統工芸品に身近に触れて知ってもらうが出来るのである。
第5章 岐阜市文化遺産デジタルアーカイブ
1.岐阜市文化遺産とデジタルアーカイブの関係性について
ここでは、岐阜市文化遺産とデジタルアーカイブの関係性について詳しく述べていく。文化遺産とは、その国や地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を象徴した存在である。文化遺産は様々な種類があり、有形の物から無形の物まである。岐阜市にも様々な文化遺産がある。今回の研究のテーマである伝統工芸品から史跡や銅像、絵画など様々な文化遺産が岐阜市にある。様々な文化遺産が岐阜市にある中でその文化遺産がどこにあるのかどの様な物なのかを紹介するためにもデジタルアーカイブという方法は最適であると思う。実際に、岐阜市のホームページには岐阜市の文化遺産を紹介するページがある。
上の写真の様に、写真だけでなく、解説や史跡についての歴史もアーカイブをしている。その他にも文化財一覧では、国指定の文化財は、文化庁のホームぺージにリンクが飛ぶようになっている。
また、前述でも述べた通り岐阜市にある博物館や図書館に所蔵している作品もサイト上で公開されている。岐阜市立図書館でも所蔵している文化財をデジタルアーカイブとして誰でも見られるようになっている。
また、メディアコスモスでは、昔の地図や写真、伝統工芸品などをデジタルアーカイブをした物を今と比べたマップが一階のシビックプライドプレイスで展示されている。
この様に岐阜市では文化遺産をデジタルアーカイブをし、活用している。文化遺産をデジタルアーカイブする事で町おこしや後世に伝える役割をしている事が分かった。
2.岐阜和傘デジタルアーカイブのコンテンツ構成
ここでは、デジタルアーカイブを使って岐阜和傘のコンテンツを構成を述べていく。デジタルアーカイブを使ったコンテンツはたくさんあるが、今回は岐阜和傘の歴史・技術を知らない人、若い世代に向けたコンテンツを構成する。今回このコンテンツとして入れる要素で特に重要視して入れる要素は「歴史」と「技術」である。まず初めに「歴史」と「技術」をどの様な構成デジタルアーカイブにしていくかを述べていく。この後世でのデジタルアーカイブの撮影方法は、写真を中心に考えている。また、どの様な所を撮影するかは、岐阜和傘だけを撮影するのではなく、岐阜和傘に関わる場所や物、加納の歴史、岐阜和傘を作成している様子などをデジタルアーカイブをしていく。また、デジタルアーカイブをした物は、一つのウェブサイトにまとめたいと考えている。そこでは、「歴史」と「技術」をカテゴリに分ける。例えば、一つのウェブサイトで「歴史」と「技術」を分ける事で、検索をもっとしやすくなると考える。また、解説も詳しく書いていきたいと考える。
歴史と技術を中心にアーカイブをしていく予定だ。アーカイブで載せる写真や動画は、様々な方向から撮っていく。このウェブサイトでは、岐阜和傘の歴史と技術を知らない人や若い世代の人にも分かりやすく伝える事が目的のコンテンツにしてく。
3.岐阜市伝統工芸品と長良川の関係性のアーカイブのコンテンツ構成について
ここでは、岐阜市の伝統工芸品とアーカイブの関係性を分かりやすくまとめたコンテンツの構成にしていく。前述では、岐阜和傘を中心に取り上げてきたが、このコンテンツでは、岐阜市の伝統工芸品である岐阜和傘を始め、岐阜うちわ、岐阜提灯の共通点である長良川の関係性について写真や図、表などを用いて、若い世代の方にも分かりやすく伝えたいと考えている。まずは、岐阜和傘と岐阜うちわ、岐阜提灯の説明をするページを設ける。その後、長良川についてのページを設け、長良川と岐阜市の伝統工芸品をデジタルアーカイブでの資料を使いながら、図や表を用いて説明していきたいと考えている。
この様に図や写真を使って分かりやすく岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性のアーカイブをウェブサイトでまとめていく。長良川のアーカイブや図を用いながら、流域にある伝統工芸品も一緒に紹介していく事で関係性について詳しく理解してもらえる様にする。このウェブサイトで長良川と岐阜市の伝統工芸品の関係性について若い世代や知らない人にも興味を持ってもらえるサイトにする。
4.岐阜市文化遺産の活用について
ここでは、デジタルアーカイブ以外に現在岐阜市文化遺産を知ってもらえるまたは盛り上げているどの様な活用をしているかを述べていく。
・和傘CASA
和傘CASAは、岐阜県岐阜市港町にある岐阜県で唯一の和傘専門店である。長谷川てしごと町屋というお店の中に和傘CASAはある。和傘CASAでは、和傘の販売から貸出までやっている。和傘CASAは店舗からの販売もしているが、インターネット上での販売も行っている。店舗では、実際に和傘を触る事が出来たり、レンタルをしている。和傘CASAの建物には和傘以外にも提灯や活版印刷など様々な文化遺産も取り扱っている。
・岐阜灯り物語
岐阜市で行われる岐阜市の伝統工芸品とプロジェクションマッピングがコラボしたイベントが岐阜公園や正法寺等で行われる。このイベントは、毎年行われており、岐阜和傘と岐阜提灯を用いて行われる。また、連動イベントとして、岐阜駅前広場から金公園でも同様のライトアップが行われている。
ここでは、岐阜市の文化遺産をデジタルアーカイブ以外の方法で紹介しているイベントや店などについて紹介してきた。
第6章 結 言
本研究では、岐阜和傘の歴史と技術を中心に岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性をデジタルアーカイブを用いて、若い世代や岐阜市の伝統工芸品を知らない人に伝えていく事を目的にこれまで述べてきた。若い世代や岐阜市の伝統工芸品を知らない人に、技術と歴史を伝えるためには、紙媒体だけでなく、デジタルアーカイブを活用する事でより多くの人の目に留まるのではないかと私は考えた。
岐阜市の伝統工芸品を多くの人に知ってもらえる事で、現在問題視されている後継者不足が解消するのではないかと私は考える。岐阜和傘では、和傘を非日常の物として使うのではなく、昔の様に普段使いしてもらえる様に様々な取り組みが行われている事が本研究を進めていく中で分かった。岐阜和傘を販売している「和傘CASA」の方にお話を聞いて、岐阜和傘は普段使いをする事で和傘自体の劣化を防ぐ事が分かった。また、現在は岐阜和傘の柄を洋服にも合わせてもらえる様に様々なデザインがある。
また、岐阜市では、伝統工芸品とプロジェクションマッピングとのライトアップのイベントが毎年行われている事も分かった。岐阜和傘の技術と歴史をデジタルアーカイブをする事で、岐阜和傘を知ってもらい、現在行われている取り組みを知ってもらえるのではないかと考えた。
また、岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性をデジタルアーカイブにする事で、岐阜市の伝統工芸品がどの様にして誕生したのかを知ってもらい、岐阜市の伝統工芸品を知ってもらう事で現在ある問題の解決に繋がると考える。デジタルアーカイブを活用し、岐阜和傘を中心に岐阜市の伝統工芸品の普及が出来る事が本研究を通して分かった。
参考文献
1.和傘CASA (最終閲覧日:12月30日)
https://wagasa.shop/
2. 密柑水の文化センター 機関誌『水の文化』50号「江戸時代から続く岐阜・加納の和傘づくり」 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no50/05.html
3.マルト藤沢商店 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.wagasa.co.jp/
4. 坂井田永吉商店 (最終閲覧日:12月30日)
http://kano-wagasa.jp/html/wagasa.html
5.世界農業遺産 清流長良川の鮎 (最終閲覧日:12月30日)
6.public relations office 和傘最大の生産地・岐阜市 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202306/202306_03_jp.html
7.日本洋傘振興協議会 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.jupa.gr.jp/pages/history
8.岐阜市 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.city.gifu.lg.jp/info/kidspage/1009717/1009718.html
9.加納町づくり会 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.city.gifu.lg.jp/info/kidspage/1009717/1009718.html
10.岐阜市漫遊 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.gifucvb.or.jp/outline/index.php
11.人力 (最終閲覧日:12月30日)
「人力」とは – 旧街道ウォーキング – 人力 (jinriki.info)
12.岐阜県 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/3156.html
13.環境省 (最終閲覧日:12月30日)
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14.全国鮎養殖漁業組合連合会 (最終閲覧日:12月30日)
http://www.zen-ayu.jp/ayu/#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E5%84%AA%E7%BE%8E,%E3%81%A7%E5%91%BD%E3%82%92%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
15.Corsoyard (最終閲覧日:12月30日)
16.岐阜大学 (最終閲覧日:12月30日)
https://www1.gifu-u.ac.jp/~forest/rilc/senngonowasi.html
17.「ふるさとの岐阜の歴史をさぐる」No.27 (最終閲覧日:12月30日)
https://gifurekisi.web.fc2.com/rekisi/no27.htm
18.太田成和(1980),加納町史 下巻
19,岡村精次,神馬仁太郎(1929),岐阜傘に関する調査研究
20,岐阜和傘の技と美 パンフレット
論文資料
1.卒論要旨
石徹白地区
石徹白は、石器土器が出土されていることから縄文時代から人々が生活していたとされていて、白山中居神社は景行天皇12年(82年)に創建されたという古い歴史があります。養老元年(717年)に泰山大師が白山に登拝し、白山信仰が広がると、多くの修験者の出入りで栄えました。
元歴2年(1185年)には、奥州を支配していた藤原秀衡から「虚空蔵菩薩像」が寄贈されました。小さな村ながらも白山信仰の重要な拠点であったことがうかがえます。「虚空蔵菩薩」は現在「大師堂」に祀られていて、国指定重要文化財に指定されています。「大師堂」は明治4年(1871年)の神仏分離の際、白山中居神社の仏像仏具が廃棄されそうになったため、その保存先として村人たちによって明治5年(1872年)9月に造営されたものです。織田信長や柴田勝家などの戦国武将が寄進した鰐口や仏像も祀られていて、多くの仏具類が重要文化財に指定されています。最近の研究では、源頼朝の追尾を受けた源義経が奈良吉野山から奥州平泉への逃避行の途中に石徹白に逗留し、雪解けを待ち脱出した可能性があるとも言われ、石徹白に残る伝承にもそれを示唆する記述が見受けられます。
建物
風景
パノラマ写真
【研究】郡上白山文化における御師の歴史的役割の研究~石徹白地域における御師と現代の観光とのつながり~
1. 問題の所在
地域の文化を学ぼうとする時、その地に祀られている神社や寺院が多くのことを教えてくれる。岐阜県は、全国で一番多く白山神社が存在している。そのために、白山文化を織ることは岐阜県の文化を織ることともいえる。
白山信仰とは、加賀国、 越前国、美濃国 (現 石川県、福井県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰である。古くから白山は、富士、立山とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていた。奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、「白山信仰」が成立することとなった。(ウィキペディアより)
しかし、何故白山神社は日本全国に二千七百社も祀られているのであろうか。その陰には、御師(おし)と呼ばれた方々の先人の努力があったと考えられる。御師とは、特定の社寺に所属して、その社寺へ参詣者、信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職のことである。御師については熊野御師や伊勢御師が有名ではあるが、白山にも御師が存在したと石徹白に残る白山御師檀那場巡回帳等に記録されている。しかし、白山登拝の入り口である三馬場のうち、越前馬場、加賀馬場では詳細な御師の記録は見当たらない。また美濃馬場においても、御師の記録がなくなってきており、このままであれば御師の活動そのものが不明になる寸前である状況である。
そこで、これらの御師の記録資料をデジタルアーカイブするとともに、御師の活動について地域の方のオーラルヒストリー等を作成し、記録資料を分析、その結果として、御師は何を持ってどのように白山信仰を全国に広めていったのか。特に石徹白の白山御師の果たした役割とは何かについて明らかにすることが目的である。また現在における観光とのつながりについても考察する。
2.郡上白山文化と御師の歴史的背景
奈良時代になると我が国古来の山岳信仰に、外来の道教、仏教とくに密教の影響が見られるようになる。白山もその姿から、古くから山岳信仰の霊山として仰がれてきた。白山への禅定道は、加賀・越前・美濃の三方に馬場という白山登拝の拠点が開かれた。美濃禅定道にも、宿とよばれる行場や社がいくつかあり、白山への道は一般信者の登拝道と修験者たちが登る行者道に分かれていたようである。
美濃禅定道の石徹白(いとしろ)は、薬草や護符を配布して白山信仰を広めた御師の集落である。奈良時代に起源をもつ白山信仰の重要な宗教拠点として、かつては村人すべてが神に仕えた「御師の里」である。農閑期に諸国を旅し、白山信仰を全国に広げた御師の働きもあって、美濃馬場は「上り千人、下り千人」と称されるほど隆盛を極めました。
石徹白白山御師の場合、夏は登拝信者の先達として山の案内や宿坊を提供し、年末降雪期から春頃までは檀那場を回った。白山先達の力が衰えた江戸時代になっても、檀那場を一回りしてくると、金50両、米50俵などの寄進があったこともあるという。石徹白地区は雪深い里であり、御師活動による収入は得難い財源であったようである。主に白山薬草、雷除けの護符・牛王札や白山道略図を配布して歩いた。これにはもちろん礼金がともなうので、一巡りすると多くの金品寄進が得られることにつながった。
(1)石徹白地域における白山御師資料について
御師に関する資料は、あまり多くは残っていない。その中で、「白山山麓 石徹白郷シリーズ⑬ いとしろ白山御師資料集」を編集した上村俊邦氏に直接話を伺うことができた。また石徹白に残る白山御師檀那場巡回記録を基に上村氏と全国を訪問した水上氏にも同行いただいた。上村氏は92歳と高齢だが、資料集の内容をひとつひとつ思い出され、当時の様子を語ってくださった。水上氏が鮮明に覚えてみえることから、御師が担った役割や檀那場での歓迎の様子が伺えた。
上村氏が編集された白山御師資料集は、前白山中居神社宮司石徹白秀太郎家に所蔵される「石徹白愛之助の檀那場巡廻帳」を中心に、石徹白清住家の「定礼配札帳」、上杉茂夫家の「作州檀那帳」と白鳥町史に収録されている古記録を加え、記されている。
石徹白御師の活動記録は戦国時代からあらわれるが、特に活発になるのは江戸時代中期からである。御師の役目は、中居神社の維持管理を始め、登山案内はもちろん宿の世話から白山への代参を請けることであり、冬期間は檀那場回りが主要な役目であったようである。白山信仰における石徹白御師について、御師は何を持って、どこを、どのように活躍されていたのか。
石徹白地区は雪深い里である。御師による檀那場巡りは主として年末降雪期から春にかけてであり、白山薬草・雷除けの護符・牛王札や白山道略図を配布して歩いた。これにはもちろん礼金がともなうので、一巡りすると多くの金品寄進が得られたという。御師の里上在所は、中居神社門前集落として栄えた集落であったから、御師活動による収入は得難い財源であったようである。
記録されている御師の巡回奉加資料によると、江戸中期から明治・大正・昭和の初期までの檀那場は、美濃、飛驒(岐阜)、尾張、三河、知多(愛知)、越前(福井)、加賀(石川)、信濃(長野)を始め、甲斐(山梨)、遠江、駿河、伊豆(静岡)、相模(神奈川)、江戸(東京)、上野から、遠くは備前(岡山)にまで及んでいる。
ここまでの広範囲の御師活動が出来た背景等を現存する資料をデジタルアーカイブすることにより、読み解いていきたい。御師が「山と里をつなぐ」役割も担っていたのであれば、今日でも必要な役割と考えられる。
白山信仰や御師について語れる方が、高齢となっておられ、伝承が難しくなってきている。その記録や伝承が途絶える前にデジタルアーカイブを行う必要がある。今回の研究においては、石徹白御師に関して以下のような流れで実施していく。
3.石徹白地域における白山文化遺産について
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブから、石徹白地域に関する白山文化遺産を抽出し記録する。また可能であれば現地に行き撮影を行う。まずは石徹白地域における白山信仰の役割や歴史を踏まえる。
① 石徹白地域に残る資料のデジタルアーカイブ
近代における石徹白白山御師の家は5軒あり、可能であれば資料の確認及び撮影を行う。(石徹白彦右衛門家、石徹白愛之助家、杉本家、上杉家、上村家)
御師に関する衣装や持ち物、資料の確認及び撮影を行う。特に檀那場に関する巡廻帳や白山登拝絵図があれば、記録として残したい。※石徹白清住家文書「定札配札帳」
1.白山信仰
白山
白山は、岐阜県、福井県、石川県、富山県の4県にまたがる山で、富士山、立山とともに日本三名山といわれることがあります。白山は主峰を持たない山で、御前(ごぜんが)峰(みね)(2,702メートル)、大汝(おおなんじが)峰(みね)(2,684メートル)、剣ケ峰(けんがみね)(2,677メートル)の3つの峰からなります。ここに別山(べっさん)も含めて、ひろく白山と総称することもあります。古来は「しらやま」と呼ばれていたようです。
白山には貴重な植物が多く、「ハクサンコザクラ」「ハクサンイチゲ」など白山の名前を冠する植物も18種類あります。昭和37年(1962)に白山国立公園に指定されたのに続き、森林生態系保護地域、カモシカ保護地域にも指定されています。国際的にもユネスコの生物圏保存地域に指定されるなど、国際的にも高い評価がされているといえます。
白山信仰のはじまり
一年中雪を頂き、長良川(岐阜県)、九頭竜川(福井県)、手取川(石川県)、庄川(富山県)の水源となる白山は、古来から人びとの崇拝の対象であったと考えられます。
白山信仰は、御前(ごぜんが)峰(みね)には伊弉冉(いざなみの)尊(みこと)(別称・白山(はくさん)妙(みょう)理(り)大菩薩(だいぼさつ)。本地仏は十一面観音で白山妙理大権現ともいう。)、大汝(おおなんじが)峰(みね)には大己(おおなむ)貴(ちの)尊(みこと)(本地仏は阿弥陀如来)、別山には小白山(こはくさん)別山(べっさん)大行事(だいぎょうじ)(本地仏は聖観音)がましますとされる、白山三所(はくさんさんしょ)権現(ごんげん)の考え方を基礎とし、神仏習合の山岳信仰として発展しました。養老元年(717)に、越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山を開いたことに始まるとされています。※本地仏神は、仏や菩薩が人間を救うために仮の姿で現れたものという考え方に基づき、本来の姿である仏や菩薩のことを本地仏といいます。
馬場と禅定道
白山信仰が確立していく中で、天長9年(832)には、馬場(ばんば)と禅定(ぜんじょう)道(どう)が整えられたとされます。 馬場とは、白山を遥拝する場所のことで、この馬場から白山への登拝路のことを禅定道といいます。美濃の白山本地中宮長滝寺(現・長滝白山神社/長瀧寺、郡上市白鳥町長滝)、越前の白山中宮平泉寺(現・平泉寺白山神社、福井県勝山市)、加賀の白山本宮白山寺(現・白山比咩(しらやまひめ)神社、石川県白山市)の3つの馬場と、この馬場からそれぞれに白山へ登拝する禅定道(美濃禅定道、越前禅定道、加賀禅定道)がありました。
白山信仰の歴史
白山を開いたとされる僧・泰澄が、聖武天皇の病気を平癒したり、伝染病の流行を治めたりしたことで、白山も広く諸国からの崇敬を集めたと伝えられます。 平安時代初期から、天台・真言宗の力が増すとともに、天長5年(828)に長滝寺がいちはやく天台宗比叡山延暦寺の末寺となったことに続き、ほかの馬場が置かれた平泉寺、白山寺も延暦寺の末寺となっていきます。 平安時代中期以降は、山岳修験道の母胎として、諸国から多くの信者が白山へ登拝するとともに、時の権力者たちも信仰を寄せ、白山信仰は隆盛期を迎えます。 鎌倉・室町時代を境に、諸国の政情不安により徐々に白山神の威光は最盛期の力を失ってゆくものの、江戸時代には藩主から寄進を受けるなど、人びとの信仰を集めていました。
しかし、明治元年(1868)に明治政府が出した「神仏判然令」は神仏分離を命じたもので、神仏混淆の白山信仰は大きな影響を受けました。
2.美濃馬場と禅定道
美濃馬場・白山本地中宮長滝寺の歩み
現在の郡上市白鳥町長滝におかれた美濃馬場(ばんば)・白山本地中宮長滝寺は、養老元年(717)に越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山中宮を創建したことに始まるとされます。その後、天平2年(730)に元正天皇が、本地十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の三像を奉納したことから、白山本地中宮長滝寺と称するようになったと伝えられます。
長滝寺は、天長5年(828)に、法相宗から天台宗に改宗し、近国における総本山として勢力を増し、同寺の周辺には「6谷6院360坊」といわれるほどの塔頭や宿坊が立ち並んだと伝えられます。治安元年(1021)には後一条天皇の勅命で国家鎮護の祈祷をし、天台別院という高い格式を得ました。
美濃側からの白山への登拝拠点として、尾張・駿河方面からの登拝者たちを迎えたとされます。また、藤原秀衡が鐘楼を寄進したこと、足利尊氏が祈祷を依頼したことなどが記録されており、その時代の権力者の信仰も集めていたと推測されます。
明治元年(1868)の神仏分離令により、白山本地中宮長滝寺は、神を祀る長滝白山神社と、仏を祀る長瀧寺の2つに分離されました。 明治32年(1899)には、濃州第一とうたわれた社殿仏閣は灰燼に帰しましたが、国指定重要文化財の釈迦三尊像などかつての白山信仰の栄華を伝える宝物等が今に伝えられ、一部は龍宝殿や白山文化博物館で公開されています。
美濃禅定道
馬場(ばんば)から白山への登拝路のことを禅定(ぜんじょう)道(どう)といいますが、美濃馬場を起点にする禅定道を美濃禅定道といいます。 美濃禅定道は、白山本地中宮長滝寺を起点に、床並とこなみ社、桧峠を越え、白山中居神社へ。その後、美女下社、今冷泉いましみず社、石徹白大スギ、神(かん)鳩(ばと)社から銚子ケ峰、一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰、南竜ケ馬場、別山を経て白山へ至る道のことで、一般の登拝者が登った道だと伝えられます。
行者(山伏や修験者たち)が通った行者道は、白山本地中宮長滝寺から、一ノ宿、二ノ宿、三ノ宿、多和宿、国坂、泉ノ宿、中須、大日宿、カウハシを経て神鳩宿で禅定道と合流しました。 美濃禅定道は、3つの禅定道の中で最も登拝者が多かった道だとされます。
その盛況さを示す言葉として「のぼり千人、くだり千人、ふもと千人」があります。史料からは、実際の登拝者はもっと少なかったと推測されますが、この道が、美濃・尾張方面からの多くの登拝者たちで賑わったことを思い起こさせます。
白山信仰の衰退とともに、美濃禅定道も荒廃しましたが、一部が復元されています。
3.石徹白と白山信仰
石徹白
石(い)徹(と)白(しろ)地区は、郡上市白鳥町に位置し、白山連峰に源を発した石(い)徹(と)白川(しろがわ)に沿った集落です。人口は316人(平成17年度国勢調査)、地区内は、上在所(かみざいしょ)、西在所(にしざいしょ)、中在所(なかざいしょ)、下在所(しもざいしょ)の4地域にわかれ、いずれも標高約700メートル以上の高地にあります。 石徹白という地名の由来は、「いしどうしろ」から転じて「いとしろ」となったとする説など、諸説あります。
地区内の寺社は、白山(はくさん)中居(ちゅうきょ)神社(じんじゃ)、安養寺(あんにょうじ)道場、白鳥山威徳寺(いとくじ)、雷鳥山円周寺(えんしゅうじ)です。地区内の文化財は、国指定特別天然記念物「石徹白の大スギ」、国指定重要文化財「銅像虚空像(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)坐像(ざぞう)」、県指定重要文化財「白山中居神社の彫刻」県指定天然記念物「浄安(じょうあん)スギ」のほか、県指定文化財7件、市指定文化財8件があります。
石徹白地区の歴史
石徹白地区からは、縄文式土器や石器類が発掘されており、古くからから人びとが生活をしていたものと推測されます。 養老元年(717)に僧・泰(たい)澄(ちょう)が白山を開いた際に、石徹白地区の白山中居神社の社域を拡張し、社殿を修復したと伝えられます。
石徹白地区は、全域が、この白山中居神社の神領でした。人びとは、社家・社人と呼ばれ、それぞれに白山中居神社と関わりあいながら暮らしました。神領ということから、無税(税金が免除)で、名字を名乗ること、帯刀を指すことが許されていました。
また、無主(むしゅ)無従(むじゅう)で、いわゆる大名領になったことはほとんどありません。石徹白地区の主要な出来事は、オトナ(頭社人)と呼ばれる12人の人びとの合議によって決められました。 このような石徹白地区で、江戸時代中期の宝暦年間には、真宗道場威徳寺の昇格を発端とし、白山中居神社の神職間の対立関係が原因の「石徹白騒動」が、明治初年には新政府の神仏分離令に端を発する神仏分離騒動が、そして昭和30年代初期には越県合併問題という、石徹白地区内を2分するような騒動が3度起きています。
社家・社人
石徹白地区の中でも、白山中居神社がある上在所(かみざいしょ)の人は社家(しゃけ)とよばれ、そのほかの在所の人びとは社人(しゃじん)といわれました。また、小谷堂(こたんどう)・三面(さつら)集落の人びとは、末社人と呼ばれました。 社家は、神に仕えることを本職とし、神頭、神主、幣司、神楽司等として、白山中居神社の神事・祭礼をつかさどりました。 社人は、平常は百姓をしていながら、白山中居神社の祭事のときに奉仕した人びとのことで、同社の維持管理を担いました。
社家・社人たちの暮らしと白山信仰
「木山三里、笹山三里、はげ山三里」といわれた白山への長い禅定道では、登拝者たちに先達(案内人)は欠かせないものでした。行者(ぎょうじゃ)(修験者・山伏等)以外の登拝者たちは、石徹白地区で1泊した後、銚子ケ峰、別山を経て白山を目指したとされます。
こうした登拝者たちの宿坊を営み、祈祷をし、登拝者たちの案内人をしたのが御師(おし)と呼ばれる人びとです。冬場は、白山神の羽織袴に帯刀を指し、雷除けの護符に牛王札、白山の薬草、白山略図を持って、各地の檀那場を回り、白山信仰を広めました。檀那場を一回りすると金50両・米50俵などの寄進があったともいわれます。
御師は、上在所の社家がなりました。社家は、神に仕えることを本職としたので、御師としての収入が、生活の支えでした。 一方で、平常は百姓として田畑を耕作していた社人たちは、石徹白地区が白山中居神社の神領として無税であったことから、収穫物は全て自分のものとなりました。 社家は、御師として、社人は、神領ゆえ無税という恩恵を受けながら、白山信仰の中で生活をしていました。
4.石徹白を2分する騒動 ~ 石徹白騒動と神仏分離騒動 ~
石徹白騒動
江戸時代の半ば、宝暦年間に、石徹白地区では「石徹白騒動」と呼ばれる事件が起きました。 騒動の発端は、宝暦2年(1752)に、真宗高山照(しょう)蓮寺(れんじ)の道場・威徳寺(いとくじ)の6代目看坊・恵(え)俊(しゅん)が、本山に対し、高山照蓮寺の掛所(かけしょ)への昇格を願い出たことにあります。恵俊は、石徹白の人びとは全て異存がないと偽りを言い、昇格を願い出ました。
ところが、恵俊の偽りを見破った白山中居神社の神主・石(い)徹(と)白(しろ)豊前(ぶぜん)は、京都へ向かい、本山に対しては強烈な抗議を申し入れ、神道の本家・吉田家に対しては、吉田家の力でもって郡上藩寺社奉行に、恵俊の偽りを吟味するよう指図してほしいと頼みました。
石徹白豊前の願いは聞き届けられ、郡上藩寺社奉行からは、神道の本家・吉田家の厳命によるものだとして、「今後は何事によらず石徹白豊前に従うように」との命令書をもらいます。しかし、石徹白の人びとは、我々は神道の本家・白川家の門弟であるとし、吉田家の命令には従えないと拒否します。結果、こう着状態となり、この一件は棚上げにされました。
宝暦4年(1754)になると、石徹白豊前は、再び京都の吉田家を訪れます。このとき、吉田家から「吉田家の命令に従わないものは神職を免ずる」という一筆をもらいます。石徹白豊前は、これを「吉田家の命令に従わないものは追放する」と拡大解釈し、横暴な行動に出るようになります。 まず、先の恵俊の一件のときに自分の悪口を言い恥をかかせた治郎兵衛を、吉田家の命令だというだけで追放・欠所にします。また、「自分の支配を受けるように、従わない場合は神職を取り上げ百姓にする」と石徹白の人びとを脅迫します。一方で、石徹白豊前は、白山中居神社の用材を伐り出す造営山や、他人の持山にまで手を伸ばし、勝手に伐木するようになりました。
石徹白豊前の横暴に堪りかねた石徹白の人びとは、郡上藩寺社奉行へ訴え出ますが、とりあってもらえなかったため、江戸の寺社奉行へ越訴します。しかし江戸の寺社奉行も、郡上藩主と親戚であったため、内密に処理されました。訴え出た人びとは、手錠をかけられ、後に追放処分されます。 郡上藩寺社奉行は、石徹白の人びとに対し、いまいちど「石徹白豊前の命令にしたがうように」と迫ります。拒否した老幼男女500余人は、欠所の上、飛騨・白川村への追放処分にされます。この中には、降る雪の中を着の身着のまま、素足で追い出された者もいました。路頭に迷い情けにすがるしかない中で、72名の餓死者が出ました。 当時の石徹白の約2/3の人びとがいなくなった石徹白では、石徹白豊前の横暴はますますひどくなったといわれます。 宝暦6年(1756)、追放された石徹白の人びとが連絡を取り合い、再度、江戸への訴訟を計画します。老中が登城するのを待ち構え、籠にむかって訴えました。訴状は受理され、江戸の寺社奉行の元で吟味が始まったものの、遅々として進みません。たまりかね、江戸の寺社奉行へ訴訟するものの、事態は変わりません。 宝暦8年(1757)には、目安箱への箱訴を決行します。3度目の箱訴でようやく取り上げられ、幕府評定所の吟味が始まります。 同年12月には判決が申し渡されます。郡上藩主・金森家は、同じ頃に起きた宝暦騒動(郡上一揆)と本騒動の責任を問われ、領地没収、断絶処分にされました。
郡上藩寺社奉行は死刑相当とされました(牢内で病死)。石徹白豊前も同じく死刑を言い渡されました。一方で、籠訴や箱訴を行なった人びとへは、ほとんど無罪に近い軽い処分だけで済みました。 こうして石徹白騒動は決着をみます。江戸時代には、多くの民衆運動が起きましたが、神職が深く関わった騒動は、白山中居神社の神領であった石徹白地区ならではの特徴です。
明治の神仏分離騒動
明治元年(1868)、明治政府が神仏分離令を出しました。白山信仰は神仏混淆(こんこう)であり、石徹白地区の人びとは社家・社人として、神と仏の両方を自然に尊び生活をしてきたので、大きな混乱をもたらしました。 石徹白地区は、「石徹白騒動」の起きた江戸時代中期あたりまでは、社家・社人とも神道一色の地域でした。しかし、いつからか真宗信者も増え、社人であっても仏教の形式による葬儀を行うものが多くなりました。
社家たちは、明治2年(1869)、いちはやく白山中居神社の神職であることを政府に求め、翌年にかけて、この地域は神地であり、住民は社家・社人のみで百姓は1人もおらず、神(しん)葬祭(そうさい)を行なう地域である、また無税の特典を引き続き与えられ神事に専念させてもらいたい、という運動を展開します。これが成功すれば、石徹白地区全域は今までのように白山中居神社の神領で、社家・社人の自治体制が維持できると考えた社家は、社人でありながら仏教徒である門徒社人たちに対し、「社家・社人たるものは神葬祭によるべし」との指令をだします。 社家は、また、白山中居神社が古来から純粋な神社であると政府に認めさせるため、白山中居神社の社殿内から仏体、仏具などを取り出し、ひそかに処分しました。
こうしたことに大いに憤慨した門徒社人たちは、泰(たい)澄(ちょう)大師以来の信仰があるから白山中居神社への奉仕は続ける、しかし、神葬祭は社家だけに限り、門徒社人へは今まで通りの仏教を認めてもらいたい、という運動を起こすことになりました。しかし、門徒社人が頼りとした本山(本願寺)も、神道国教策をとる明治政府への対応に腐心し、門徒社人たちの訴えに応ずる余裕はありませんでした。
明治3年(1870)、門徒社人たちは郡上役所へ数回に亘って訴えました。神仏分離はもっともなことであるから、以後は、われわれは社人ではなく百姓の身分になる、という内容のものでした。従来まで白山中居神社の神領としての無税の特権を失うことでしたが、それも覚悟の上だったようです。
この願いに対し、政府も、「社人希望のものは社人に、帰農をのぞむものは帰農を許可する。今後は社人と百姓を区別せよ。また、上在所は清浄の地であるから仏堂、仏具などは取り除き、仏体、仏具は帰農するものへ渡せ。土地も明確に区分せよ。」と命じました。
明治4年(1871)、帰農した社人たちは、ようやく社家から渡された仏体(釈迦如来、薬師如来、虚空像菩薩、泰澄坐像など)や鰐口などを、中在所に観音堂を営み、納めました。現在、大師堂と通称されるお堂で、虚空像菩薩は後に、国指定重要文化財に指定された銅造虚空像菩薩坐像です。
5.越県合併といまの石徹白
越県合併
昭和28年(1953)、町村合併促進法が制定され、全国で町村合併が進みました。福井県大野郡に属していた石徹白村は、独立村を目指すものの認められず、同郡上穴馬村・下穴馬村との合併協議も不調に終ったので、岐阜県郡上郡白鳥町との越県合併が協議されました。 石徹白村内では賛成派と反対派にわかれ協議が行なわれた結果、昭和31年(1956)、白鳥町と石徹白村の両町村合同会議において、満場一致で両町村合併が議決されました。
しかし、この後も、賛成派と反対派の対立は続き、両県の職員や県会議員等を巻き込んでの活発な運動が展開されました。あくまで石徹白村の越県合併に反対する福井県は、合併の法定期日を過ぎても合併議決を行なわなかったため、内閣総理大臣の裁定を受けることとなりました。 昭和33年(1958)3月、新市町村建設中央審議会小委員会が、総理大臣あてに、石徹白の越県合併を認める答申を出します。そして9月になりようやく、石徹白村を白鳥町へ編入する処分が総理大臣によりなされます。 こうして5年の歳月を経て、石徹白村と白鳥町の越県合併は実現し、10月15日新しい白鳥町が誕生しました。
※ 合併前の石徹白村の内、上在所・西在所・中在所・下在所集落は白鳥町と合併、小谷堂(こたんどう)・三面(さつら)集落は上穴馬・下穴馬と合併しました。
いまの石徹白
「岐阜県郡上市白鳥町石徹白」、これが現在の石徹白地区の地名です。平成16年3月1日に、郡上郡7町村が合併し、郡上市が誕生しました。石徹白地区は、半世紀の間に2度の合併を経験していることになります。 そんないまの石徹白地区については、渓流釣りやスキー場、スイートコーンやほうれん草、あるいは、国指定特別天然記念物・石徹白大スギ等に代表される豊かな自然のイメージを持たれる方が多いのではないでしょうか。
しかし、石徹白地区内を縦断する県道に沿い、上在所へ入る手前に、しめ縄が飾られています。これは、しめ縄以北の上在所は、神道の地域であるという印で、明治の神仏分離令以降、飾られるようになったものです。また、地区内には、白山を開いたとされる僧・泰澄にちなむ伝承が残る場所が、たくさんあります。
石徹白地区は長い歳月を、白山信仰と共にありました。ですから、石徹白地区の歴史や生活文化、年中行事等は、白山信仰の影響を受けながら作られ、変化し、現在の形になっているものと考えられます。こうした、白山信仰との関係の中で培われた石徹白地区の歴史や文化を「白山文化遺産」と位置づけ、市では平成17年度に調査を実施しました。その調査結果の概要は、次のコーナーのとおりです。スキー場やスイートコーンだけではない、別の石徹白地区の魅力が見えくることと思います。
② 石徹白御師の家「清住家」資料のデジタルアーカイブ
清住家に残る御師に関する衣装や持ち物、資料の確認及び撮影を行う。特に檀那場に関する巡廻帳や白山登拝絵図があれば、記録として残したい。また御師の子孫である石徹白氏に話を伺えるとなお良い。※石徹白清住家文書「定札配札帳」
③ 石徹白地区に残る資料のデジタルアーカイブ
近代における石徹白白山御師の家は5軒あり、可能であれば資料の確認及び撮影を行う。(石徹白彦右衛門家、石徹白愛之助家、杉本家、上杉家、上村家)
※各家に残る個別の檀那場諸祈願巡廻帳等
④昔と今の石徹白
石徹白の歴史的建造物・まちなみ調査結果
資料集
石徹白の四季
春
秋
冬
新年から春
昔の石徹白
4.御師のオーラルヒストリーからみる役割について
1. いとしろ白山御師白山資料集
実際に御師に関する資料は、あまり多くは残っていない。その中で「白山山麓石徹白郷シリーズ⑬いとしろ白山御師資料集」を編集した上村俊邦氏に直接話を伺うことができた。その際には、石徹白に残る白山御師檀那場巡回記録を基に上村氏と全国を訪問した水上氏にも同行いただいた。
上村氏は92歳と高齢だが、資料集の内容をひとつひとつ思い出され、当時の様子を語ってくださった。また水上氏が鮮明に覚えてみえることから、御師が担った役割や檀那場での歓迎の様子が伺えた。「たくさんのお札を残していて話も聞けた。まるで御師が訪ねてきたような気がすると言われ歓迎された」と振り返ってみえた。
上村氏が編集された白山御師資料集は、前白山中居神社宮司石徹白秀太郎家に所蔵される「石徹白愛之助の檀那場巡廻帳」を中心に、石徹白清住家の「定礼配札帳」、上杉茂夫家の「作州檀那帳」と白鳥町史に収録されている古記録を加え、記されている。石徹白御師の活動記録は戦国時代からあらわれるが、特に活発になるのは江戸時代中期からである。御師の役目は、中居神社の維持管理を始め、登山案内はもちろん宿の世話から白山への代参を請けることであり、冬期間は檀那場回りが主要な役目であったようである。記録されている御師の巡回奉加資料によると、江戸中期から明治・大正・昭和の初期までの檀那場は、美濃、飛驒(岐阜)、尾張、三河、知多(愛知)、越前(福井)、加賀(石川)、信濃(長野)を始め、甲斐(山梨)、遠江、駿河、伊豆(静岡)、相模(神奈川)、江戸(東京)、上野、遠くは備前(岡山)にまで及んでいる。
福井新聞 2017年12月30日より抜粋
岐阜県郡上市の山間部にあり、半世紀前に福井県から越県合併した旧石徹白(いとしろ)村で白山信仰を全国各地に広めることに尽力した「御師(おし)」たちの活動を知ってもらおうと、石徹白郷土史研究家の上村俊邦さん(86)=岐阜県郡上市=が、「いとしろ白山御師資料集」をまとめた。御師が残した古文書を現代語に読み解いた書き起こし文、自ら足跡をたどった紀行文で構成。泰澄大師による白山開山1300年の節目に発刊し、上村さんは「石徹白御師が白山信仰をどのように全国に広めたかを知り、果たした役割を考えてもらえればうれしい」としている。
石徹白は、白山への登拝ルートである三禅定道(ぜんじょうどう)のうち「美濃禅定道」の要衝で、白山中居(ちゅうきょ)神社が残る。御師の活動は泰澄の開山以前から白山が信仰の対象だった時代までさかのぼるとの説もあるが、記録は戦国時代から残り、江戸時代中期に最盛期を迎えたという。
御師は春から夏にかけて、神社の管理や、参拝者の宿泊の世話、道案内などを行い、冬の間は全国に白山信仰を広めた。信仰が浸透すると、雪解けまで信者が多い集落「檀那場(だんなば)」を巡回し、白山麓の薬草や雷よけの護符、登拝案内図である白山道略図を配布して礼金を持ち帰った。
1958(昭和33)年に大部分が岐阜県白鳥町に合併するまで福井県の自治体だった元石徹白村役場職員の上村さんは、80年近く前の幼少期に御師が春先に巡回から集落に戻ってくる様子を見ていたことなどから、関心を持っていたという。
資料集は元白山中居神社宮司宅に残っていた明治時代の「檀那場巡廻帳」を中心に江戸や大正時代のものを現代語に書き直した。御師が訪問した檀那場の名称のほか、「白山御祈祷之札(ごきとうのふだ)」の頒布といった巡回目的、各地で受け取った寄付金や経費も記されている。檀那場は東京や神奈川から岡山まで広範囲に及び、石川や福井も巡回していたことが分かった。
紀行文は、2011年~15年にかけ静岡や愛知、奈良、岡山など御師の足跡を上村さんがたどった記録。長野では「たくさんのお札を残していて話も聞けた。まるで御師が訪ねてきたような気がする、と言われ歓迎された」と振り返る。節目の年に発刊し「福井でも御師を知ってもらえれば」と話している。資料集は郡上市図書館や白山文化博物館に寄贈した。
① 上村氏のオーラルヒストリー
1.動画資料
2.文字資料
② 水上氏オーラルヒストリー
檀那場を探訪された水上氏のオーラルヒストリー
平成23年から27年までの4年間に上村氏と水上氏は、檀那場を現地調査する等全国各地を探訪された。その場所毎に関係者に会って話を聞いたという。
そこで一緒に探訪された水上氏に協力いただきながら、オーラルヒストリーを行い、御師の果たした役割等を聞く。
1.動画資料
2.文字資料
私は、水上精栄(みずかみせいえい)と申します。生まれは、昭和30年4月7日です。今は、68歳になります。ここの少し下の実家で生まれました。高鷲町鮎走古屋(あゆばしりふるや)というところです。それで小学校、中学校は、高鷲村で過ごしました。そして、高校へは、八幡町の郡上高校へ3年間行きました。それから、各務原市の岐阜大学の工学部に就職し、同時に大学へも通いました。たまたま、職場が研究室だったものですから、工学部の土木工学科の研究室で、交通工学や河川工学の部屋におりました。最終的には、河川工学の研究室にお世話になりながら。一応、職員でしたので。もう一つの組織が、今は「ものづくりセンター」という名称になっています。そこと同時に研究室の仕事をしていました。
それで各務原の時は5年間、そのあとは岐阜市の折立の方へ、本部と工学部、農学部が移動しました。今は折立で、総合大学にてやっておりますが、そこでずっと定年までおりました。結婚して、家族は今も岐阜市におります。私は定年後に、こちらに引っ越して、親の土地、休耕田をもらいました。実家にしばらく住んでいたのですが、出ないといけなくなり、住むには、ここはちょうど僕にはいいなぁと思って。ちょうど田んぼが7つぐらいありました。ユンボを買って、整備してビオトープを作りたかったので、7つくらいの池を作って、そこに蛍とか、トンボとか、魚とか飼ったり、昆虫とかを眺めながら、余生を過ごそうというつもりで。楽しく過ごせるか分かりませんが、私なりには楽しく過ごそうと思って。
ここに小さなログハウスを建てて、今年で8年目になります。高鷲に来た時は、色々高鷲のことが分からないので。歳が若い人たちが住んでみえるし。高鷲の郷土を知りたい、何か色々なことをやってみたいという地域貢献になれば、やりがいがあるなと。始めにドローンの会社を仲間たちと作ってやりまして、ドローンの教室で働いたりもしました。ドローンの資格も取って、少しは撮ったりもしました。今は休んでいて、また始めたいとは思っています。それを2年間ぐらいやって、その後やめました。その後、農水省の農泊の補助金を2年間もらって、それも農山間地域の宿泊をしたり、滞在型宿泊施設を計画するのですが。あと文化とか歴史を、郷土料理を見てもらったり、そういうのに関わりながら、農泊を始めたんですが、それは2年で終わりました。今は、若い人に「たかすのす」というので、引き継いでいるので、非常にありがたいなと思っています。
その後は、今は高鷲の文化財保護協会というところに入って、そういう高鷲の文化財を勉強したり、守ったりしています。たまたま、県の文化財保護協会の遵守員になったので、高鷲の文化財保護協会の遵守をしたり、報告書を書いたりしています。それに、関わったり。それと同時に、岐阜市にいる時から、もうひとつ文化と自然に関することをやりたかった。高鷲自然文化研究会というのを、先生達と立ち上げて高鷲のシンポジウムを5年くらい続け、報告書を2回くらい書いて、今は休んでいる状態です。今は、代表ということでやっています。
以上のように、楽しみながらやっていますけれども、今日のテーマは「白山信仰」の関係ですから。以前から、白山信仰には興味がありまして、定年になったら、白山信仰の勉強をしたいということで50代の頃からやりたいなと。白鳥に住んでいる上村俊邦先生のところへ、勉強しに行っていろいろ本を見せていただいたりしながら。御師の話や活躍についても聞きました。全国に御師が白山信仰を広めたり、そういう話をしながら。そうなると是非、現地にも行ってみたいなという話にもなりまして。それで定年前から、御師の里巡りをしたり、富士山、白山、立山の三霊山巡りの旅を楽しみながらしてきました。そんなに、詳しくは調べられてなく、ほとんど遊びながらですので体験して感じてくるという旅をしました。
あと四国の八十八箇所巡りを車でやりました。それは、結構秘仏集合の里や白山神社も調べながら、楽しんできました。そんなような人生を送っていますので遊び人と言われています。
-そもそも、白山御師ってなんですか?
白山御師ですか。なんですかと言われると、皆さんご存知でしょうが、要するに信仰の地域ですね、山岳信仰の地、ここだと白山の神様が、石徹白にそこから白山に行くんですけれど、そういう人の手助けをする人とか。あと御師というのは、祈祷師、御祈祷師とも呼ばれているらしいので、御師を兼ねて、祈祷師が御師になったり、修験者が御師になったりもしていると思うのです。そういう白山信仰を広める人ですかね。白山信仰の行事を自分で行って信仰を広めたり、先達と言いますか、白山へ案内をしたりとか色々なことをやられたんだと思うのです。それを石徹白では、専業と言いますか、現金収入になって続けてこられたところだと思うのですが。そんなところですかね。
-御師は何年頃から、いつぐらいまで活動してらっしゃったのでしょう?
どうなんですかね。江戸時代中期ぐらいから、盛んに出ていたと思うんですけど。祈祷師ですと、そういう山岳信仰が始まる頃からいましたので、もっと前からの始まりだと思うんですけども。そんなところで。あまり詳しくは勉強しておりませんので、その程度で。今、結構そういうことを調べようと思うと、インターネットでね、ウィキペディアで見れば一般的なことはわかるので、あまり頭には入れずに。必要な時は見ながら。今、さらにチャットGPTで調べれば、全部文章を作ってくれる時代なので。すごい時代です。それで勉強できると思うんですけど。
-上村俊邦さんを訪ねられて、ご一緒にまわろうと思われた経緯は?
私自身は、こちらの美濃の白山文化のルーツを知りたいという希望があり、人生のテーマにしたいということなので、そういう話をしました。基本的には、私は上村先生の弟子になって、観光しながら。上村さんも、結構旅行が好きみたいで。なんとか費用を捻出しながら、私は。私が車を運転して、観光がてら、そういうことをやりましょうということになって、やったんですけどね。結構、旅館で食べる食事ですとか、お酒も、上村先生は好きですので、楽しかった思い出があります。そういう地域の人と色々会話するのも大事なんですけれど、なかなか人がいないので。ちょっとそこら辺が伺えないところもあったのですが。これがちょっと残念。 時間があまりゆっくり調査できるような旅ではなかったので、でも楽しかったという思い出です。
-事前に次はどこの檀那場に行こうとか、打ち合わせされてアポ取ったりされたんですか?
それは、上村先生が全部そういうのを調べられているので、僕には言わずに。私は、後からまた勉強しようという気があったので。とにかく付いて楽しく行くために、全部はいはい と言って、付いて、運転しながら。一応、足跡は全部地図に残してありますので、後から調べたりもできますし。写真もたくさん撮りました。そういうのを残したので。その程度の旅ですけれど。
-何カ所か訪問されて共通するところとか、感じることはありましたか?
御師の共通点とか。基本的には山岳文化ですので。結構、山奥まで信仰が広がって。白山神社は、山奥にあったり。四国の剣山にも、たくさん白山神社があって、ずっと上に上がっていくところに白山神社があって。探すのにも、夜までかかって写真を撮ってきた覚えもあります。
山が中心なんですけど、結構東海一円に山の御師手帖があったりして。静岡県も多いし、長野県にも多いですし。そういうところに行きました。平地部にもあるんですよね。滋賀県藤原市とか。静岡県も静岡市の中でも平地部に白山神社が多いですよね。それは、たぶん自然に広がっている可能性もあります。なかなかそういうところは、色んな神社が競合しているから。そんなには、行ってないと思うんですけど。山岳部の本当に奥深い山奥の信仰になっているなと。興味深いなと思っています。
-木地師の話も出ていませんでしたか?
木地師はね、滋賀県の東近江市の蛭谷というところが木地師発祥の地で、そこの惟喬親王が基でそこから木地師が発祥して、全国へ動き、広がっています。木地師も山岳系なので、高鷲なんかも木地師の伝承が残っていますけど。まぁ、郡上全体に残っています。
木地師が、郡上の方にも記録が残っていたりして、それで重複しますよね、白山御師が辿った道と。結構つながりがあって、木地師の家に行ったのですが、喜んで対応してくれて。仲間というかそういう意識があったんじゃないかと思います。そういう情報をお互いに取り合いながら、行われたんではないかと思われますけど。
-目的を現地に行かれた時お伝えすると、皆さん好意的に対応くださったんですか?
そうです。皆さん喜んでくれて。本当に、結構話をしてくれましたね。それで白山のお札、御寶印かな、まだ持っているお宅もあったりして。愛知県の奥三河の方だったかな。ちょっと感動したといいますか。それだけじゃなくてそういう色んなお札を持っているんですが。神仏習合ですから。その中に白山の札をちゃんと持ってみえたということもありましたし。興味深かったというか、そういうことですね。
-岡山も行かれていますよね?東海地区が多いですが、岡山にも。
岡山の作州、今ちょっと出てこないですが、美濃との関係があって。津山市に美濃町というのが残っていて。そういう、戦国時代かな、森家が城主になっているのかな。そういう関係なんだと思うんですけど。知り合いというか、つながりもあって行ったりしたのかもしれないですね。詳しいことはわからないですが。そういう人を訪ねて御師が出かけたんですかね。資料館の学芸員の人に話を聞いたんですかね。資料をくださった記憶は、あるんですけど。
もうひとつ津山出身の、私のボスが津山あたりの出身なのであそこは美濃を作ると書いてなんて読むんでしたかね。美作(みさく)というまちがあって。余談かもしれませんが、そういうところもつながりがあるので興味があります。
白山は戦いの神ではないと思うんです。私は、平和の神だと思ってるんですけど。侍の人達が白山神社をもっていったことがあったようで。由緒にもそういうことが書いてあったりもしましたので、そういう風に広がったのでそこに行ったとか。御師の人達が行けるところは、色んなところへ行って、白山信仰を広めた誇り高い人達じゃないかと思うんです。
白山信仰は、全国で有名というか立派な信仰です。白山神社の宮司の若宮多聞さんが、石川県の講演会の時に、「白山信仰は日本一だ」と言われて、驚いたというか。やっぱりそれくらい若宮さんも思っているのかと。そういうことをやっている人とか、御師の人達は誇り高い、誇りを持っています。僕も白山は素晴らしいと思っているので。白山信仰はいいなと思いますね。
-どこか訪問された時、薬というか歯の痛みの話がある場所があったのでは?
歯の神様と書いているところもありましたし。高鷲にも合戸に泰澄が作った祠で、歯の神様って残ったりしていますね。白山の神様は色んな神様になっている。病気の神様はあまり聞かないんですけど。当然、水分神の神様なので水の神様だし、山の神様だし、農業の神様ですね。東北なんか行くと要するに黒航海の神様。北前船とかそういうところに港の神社があったりして。神様として航海祀られているし。漁業の神様にもなっていたりしているので。
そういうことが行くとわかる。そのために行かないと本当の地域の信仰がわからないと思います。白山信仰はなぜ広まったのかという、それを調べたいというか、そういう気持ちになったので。
-石川、福井、岐阜は当然白山神社が多いんですけれど新潟とかも多いですよね?
新潟は多いですよ。あまり僕、本は読まないので読めばわかるかもしれない。ただ新潟は米どころだから、たぶん農業の神様として広がったんじゃないかと私は思うんですけれど。ちょっと調べてないので。新潟の一番中心に白山神社がありますよね。
-燕市は行かれたんでしたか?
燕市は通ったかな。ずっと北陸を通って能生というまちだったかな。茅葺きで立派な白山神社があって。歴史があって結構有名らしいんですけどね。そういうところにも行きました。
-水上さんが何年かかけてまわられて、一番印象に残っていることやこれはしまったというようなお話はないですか?
佐渡島にも結構白山神社があって、12とかありましたかね。港に白山神社があって。それで船の白山丸という名前がついていて、大きな船が作ってありましたね。白山信仰の関係だと思うんですけど。そこは詳しく調べないとわからないですが。そういう白山丸という船まで作って今は祭りに出ているとか。当時は、栄えた港で興味深かったですね。
あとは四国で一番南の高知、半島は足摺岬。そこに白山洞という白山神社が祀られてて。白山洞門は海の波で削られていて洞があって、その上に白山神社が祀られていて。里には、しっかりした白山神社があり、そこには弘法大師が開いたって言うことが書いてありましたね。弘法大師も白山信仰を受け入れていたのかなと。どうやってあんな遠いところに神様を運んできたというか。まぁ色んな修験僧が広げたりとあるので。弘法大師が作りましょうと言って、修験者と一緒にやったのか、色々勝手に想像はします。想像をするのは楽しいですから。
-修験者の方と御師の関係やつながり、またどう違うのかがわかっていないので教えてほしい。
僕もあんまり勉強はしていないので。そういうことを勉強しようと思って、修験学会に入ったりしています。御師は地元の人が、白山の道とかよく知っている人が多いのかもしれない。修験者が、住み着いて御師になったりすることもあるかもしれない。修験者というのは真面目にそういう能力を修行して身につける人や、若い頃から弘法大師さんみたいにやっている人もいるし。泰澄も白山修験と言われています。色んな関係で行っているんですけど。
結構落人みたいな人が逃げ込んで、そこには侍もいるし、京都から来た貴族的な人もいる。戦に負けて、山奥に入って修行してそういう色んなものを身につけて有名な修験者になったということがあったり。そういう人が多いんじゃないかと思うんですけど。よくわかりませんね、こういうことは書いてない気がしますね、想像する訳です。
-行かれていた時も山岳修験学会に出席されてと残っていましたが、今も行かれているんですよね?
今も行っていますよ。去年は飯田市で修験学会があって。すべて聞いてられないので、興味がある講演会や発表は参加して。最後に、現地は修験の人達が多いので、登山が得意な人達ばかりで山へ登ったり、修験のお寺を見学したりできて、面白い。全国に行きますし、また街の中ではやらない、修験の場でやるので楽しい。あとは色々交流できますし。専門はなかなか難しい話はできないんですけど、勉強になりますし。高橋教雄先生に今も入ってもらっているんです、私から誘って。市民学会では、やっぱり美濃とか郡上が知られてなくて。白山信仰というと、どうしても加賀の白山信仰になっちゃうので。越前も歴史はあるのにあまり弱い。全部加賀白山になってしまうものですから、そういう悔しさもあって。高橋先生と僕で一緒に発表して。やっぱり、全国に認められないと研究者にね、弱いという。
高橋先生に感化いただいて、僕も研究は出来ていないんですけど、一杯白山のことを発表しました。そういう中で、色々九州の研究者の人とか、九州に別山大行事がたくさんあるんですよね。ちょっと不思議なんですが。別山大行事は別山の神様なので。なんで九州にあるのかということが話題になって、その先生が郡上へ下見に来たこともあったりして。未だにそれはよくわからないんですけど。不思議なことが結構ね、面白いというかロマンがあったりしていますけど。そういう全国を調べないと物足りないといいますか。中だけでやっているとちょっと弱い。
-水上さんは、白山信仰をライフテーマにされていますがやっぱり広めていきたいという想いでしょうか?
そうですね、自分の文化ですから。高鷲も白山文化の里だと思っているし。泰澄大師が、鮎走の白山神社に来て、何日間か泊まられて、大日に登ったという記録があったり。高鷲の地名は泰澄大師がつけたという、ひるがのとか切立とか。そういう伝承が残っているので、一番身近なところでもありますし。私の地域の白山神社の由緒にそういうことが書いてある。非常に興味を持つには一番良い。そういうことをやられていればいいんだけどなかなかやられていないので。今ほっておくと消えていくという、そういう状況があるんで。誰かやってくれたらいいんですけど、なかなかそういうことが成されないものですから、なんとか関わって少しでも遺せればいいかなという気持ちもある。
-100年先も白山信仰が残って伝わると良いですか?
そうですね。今の時代はよくわからない、ここまで来ると。AIの時代になると、ちょっと難しいかもしれない。白山信仰の神仏習合の神様も仏様を受け入れるという。受け入れるという文化は大事ですし。多様性を受け入れるという文化です。戦争が起きないという考えにもつながるので、白山信仰は、私は平和の神だと思う。あと神仏、要するに多様性を受け入れる神様である。これが大事なんじゃないかと思う。
-今の時代にもいいですね。
よろしい。世界で受け入れられるというか、それが遺せれると。この岐阜県から、発信できるといいし。白山として、白山信仰の地域として石川県、福井県、岐阜県、富山あたりと。私が別にやることではないかもしれないけど、そういう想いだけはしている。
-高鷲も色々あると思いますが、石徹白の白山御師がそんなに活躍していた背景はどうだったんでしょう?
石徹白の人に聞けば一番いいかもしれないが。石徹白って特殊なところなんでしょうね。歴史的に言うと勝山の平泉寺が発祥で、越前の国だったからね、石徹白は。泰澄大師が白山を登る時に、たぶん勝山だと白山が見えないからね。直接白山に登る道がわからない、当時は。九頭竜川を上っていってそういう説が当然あるんですけど、石徹白まで来ている。源流ですよね。九頭竜川の源流は石徹白ですので。そこへ来て、それで集落があって、そこから白山を目指しているという。それで石徹白は中居神社、勝山の白山神社に対して中間にあるというそういう説ですね、それは僕も理解できるので、そういう歴史があるし。
もっと古い歴史だと、石徹白の記録にですね、478年雄略天皇の時代ですけど、石徹白の白山御鎮座日記という記録の中に、雄略天皇の命を受けて大彦命が。大阪ですかね、雄略天皇が白山に向かうということで、滋賀県に来て、岐阜へ来て長良川を上がっていって、郡上へ入って高鷲へ来て。高鷲の神社に来ている。奥住の宮というのとすむの宮というのを訪れて、それから石徹白に入ったと。
古くから白山というのは有名な山だったんだと思うんですけど。そこから始まっているし。石徹白の人達は神様を守るためにそこに住み着いているという考えもあるでしょうし。残念ながら石徹白は何も出来なかった。今はお米が採れるでしょうけど。あそこは水がなかったんですよね。そういう信仰のまちとして生きていかないといけないし、それが大事なことなので。そういう風で御師が活躍し、御師の仕事を見いだしてというか。特徴的だと思うので命をかけて、全国へ白山信仰を広めたり、色んな薬草や地元の物を売って、現金収入にして生活の糧にしていたと思いますので。そういう神様にお仕えする村という風で発展、発展まではいかなくても続けてこられたんだと思います。
-財源というか生活がかかっていますよね。持っていく物はお札とか薬とかどんな物を持っていったのでしょう?
お札とか薬草とか祈祷するための呪術だったかな、そういう物とか。箸なんかも書いてあったかな。何かの神様の物だから、みんな買ってくれると思うんですけど。
-いらっしゃる方がみえれば宿みたいなこともされていたのですか?
そういうね、定宿という宿が長野県の新野だったかな。ありましたね。定宿は最初、常にと書いた宿だと思ったら、正しいというか定着した宿だと思うんですけど。定宿と言うのがありましたね。詳しくは調べてなかったんですが。だからそういう白山神社があって、白山信仰の人達がいるから。やっぱり色々な物をそこで信仰を深めるために行った時に快く泊めてくれるところが定宿だと思うんですけど。そういう風にちゃんと受け入れてくれるネットワークができていたというか。
富士山のてっぺんにも白山神社があるんですよね。僕見たんだけど、疲れてて、大疲労で、行こうと思ったんだけど。疲れもあるけれど、知り合いがもうおじいさんだったので。また今度登ろうと思っている。白山神社なんですね。それはもうびっくりですね。それで当然三霊山ですから、なるほどなという風に思うんですけど。入り口の西の富士宮の浅間神社が国宝になっているかな。古い神社が別のところにあって。そこにね、定宿があったんですよね。そういう資料に残っているので、調べにいったんですが、よくわからなかったんですけど。定宿って言うのがあるんですね。すごいそういう活動の力、信仰の力はすごいというか。楽しみながらいけるというのが観光なんでしょうね。光を観る、それが観光なんです。昔だと観光の始まりですから。まさしく信仰で広めるというのは、やりがいがあるんでしょうね。
-三霊山の中でも富士山や立山に比べて白山は認知されていないのですか?
三霊山としては認知されていると思いますよ。立山の人達が、三霊山巡りを結構している。立山の研究者、学芸員の人が結構調べて、立山の人がわざわざ白山巡って富士山巡って帰って行くというルートを作ったという記憶がある。立山は死に場所ですよね。死んでいくところ。立山で死んで富士山に登ると生き返るんですよ。生き返るために修験の人は登った。富士まで登ると富士は不死ですから死なない、長生きする。長生きしたいという風に広まっているので、三霊山巡りとしてはうまいことなっている。白山自体は、三河の人が結構白山巡りをしている。白山禅定道は三河の辺りからも、愛知県から美濃加茂を出て。そこから、郡上街道って書いてあるんですよね。それが石徹白まで色々な集落を巡って、白山に入って福井へ降りたという。色々なコースがあるんですけど。
-白山は愛知県の津島から見えると書いてありましたが。
白山は、そこがすごいんですよ。伊勢湾から見えます。若狭湾からも見える。両方から見えるというのはすごいですよ。あと白山に登って、夜太平洋側を見るとわかるんだけれど、灯りがね、春日井辺りが結構明るく見えるんです。名古屋辺りは影になるかな。美濃加茂、春日井、そして高鷲も見えるんです。高鷲の牧歌の里の建物が見えるんです。
-見えると拝みたくなりますよね。
そう、春日井なんかは白山という山があるし、そこから拝めるし。白山神社の中に遙拝所があって、そこで拝んだり。そういう風で船の神様にもなっているので、ふなあてっていうのか。漁をしている時に迷子になってウロウロしていると白山が見えると。そこで、どこにいるかわかって、命が助かったとも聞きましたし。東京からは見えないですけど、東京の白山神社にも遙拝所が作ってあって、白山の方向を向いて拝むところもありましたし。
白山という信仰は面白いですよね。うまく話が通じるというか設定がされているというか。祈祷師が祈祷されながら、うまいこと話すんだと思うんですが。白山というと、浄化するという意味で色々な苦労をされた人が白山に詣りたくなるんじゃないですかね。
-もし泰澄大師にお会いできるとすれば、何か聞きたいことはありますか?
聞きたいことはいっぱいあるかも。本当に高鷲まで来たんですか。本当に千日修行、百日修行しましたかとかね。そういう色々な話を聞けると有り難いですね。ただ、泰澄大師が水を出したかどうかは疑問があるんですが。そういうのを利用してもいいし。白山信仰の集団はいたんだと思いますが、全国回っているし。
一番弟子の臥行者が切立のお寺を開いたと残っているし。石動山の出身なので、修験の山なので、泰澄さんの弟子としてこっちに来たというのもわかるなと思う。文化としていいんじゃないかと。文化として大事だから実在しなくてもいい。平和な文化であるということで。ずっと続けてきたというのは大事だと思うし。
-最後に水上さんが思う白山信仰を教えてください。平和の神や多様性の神とは、お聞きしましたが。
それは誰でも言っていると思う。私なりにそう思って、まとめたいとは思うのですが、なかなか。想像でやろうと思うんですが。
-これからもずっと続けられるんですね。
やれればいいなと思う。一緒に発信できる活動もしていけると良いですね。そんなようなことです。
-御師が出かけている檀那場ではなく、来る方のことも伺いたい。白山に登って来るために御師の家に泊まるでしょ。その辺の話を伺いたい。
檀那場から白山にお詣りして。一般的には三河の方から、白山神社があってみんなお詣りしたいということであれば、定宿の人とかお金持ちの人とか、お金が結構いりますよね。そういう費用のある人が、先達さんを中心にグループになって、お金を出し合って、来れない人は代参っていうのかな。代わりにお参りしてくださいと言うことで、なんかたぶんみつむろを預けて。こちらだと長滝へお詣りして、祈祷していただいたり、色々な物を寄進したりして御利益があるということです。そこに泊まって色々話を聞いたり、寺巡りをして帰る人もいるし。元気のある人は石徹白まで登って、更に元気な人は白山詣りをして帰っていく。そんな話で良いのかな。
-御師の家に泊まるんでしょ?
そうね、御師の家に泊まって色々お話を聞いて、その中で祈祷を受けたり、ご馳走を食べたりして。それで御師の人の生活の面でもね、今で言う旅館ですよね。長滝だと神仏習合でお寺さんが沢山あったので、僧坊、お寺の行事として安く泊まれるところは沢山あったのだと思うのですが、石徹白の上在所は神様なので。神の宿、御師が神様の行事で色々なことを教えてもらって帰って行くということですかね。
-白山の案内をするんでしょ。
先達で白山の神様にお詣りして。一番上の神様にお詣りして帰ってくるということなんでしょうけど。先達は、色々祈祷したり、途中で祈祷したりして。まず別山、ここだと別山神ですよね、白山神だと。ここら辺りは主祭神が別山神ですよね。別山まで行って帰ってきた人が多いと思うんだけど。別山で神事をして先達がせんきょして帰ってきて御利益があるという話じゃないですかね。たぶん、白山だけではなく、行きとか帰りに色々な観光地を巡ってきたりして、お土産を沢山買って地元へ帰って話をしたり、お土産を渡したりしたんじゃないですかね。
そういう中で、白山神社が広がっていったんじゃないですかね。うちにも白山神社が欲しいという風なこともあったかもしれませんし。そのように白山神社が広がっていき、白山信仰が栄えたというか。今は、なかなかこの時代になるとそういうことが出来ていないので残念ですけど。もうちょっと研究者が郡上にいると。高橋先生が非常に詳しいですけど。難しいという。高橋先生の話を聞きながら、これからも交流していけると良いと思います。そんなようなことで。
水上さん、本日はありがとうございました。
③佐々木さんオーラルヒストリー
1.文字資料
[稲葉0:00:10]今日は、佐々木アケミさんに、ちょっと…主に魚の話をちょっとしてもらおうと思うんですが、普段は敬語を使って、喋ってますけど、幼馴染やもんで、ちょっと郡上弁でやらさせてもらいますので、よろしくお願いします。ということでいきましょうか。
ほんで、え~…普段ならかしこまって、いろいろと、かしこまって聞くんですが、まぁちょっとそれは、まぁごめんしてもらって、おまんの小さいときから、特に魚を中心にして、あの~…話がしてほしい。
それで、恩地はその~小さいときに井普請で、川に田んぼ…なんや、川の田んぼの川が、に魚がたんとおったけど、今おらんが、おらんってことはないかもしれんが…そのへんからなんか思い出しながらちょっとしゃべってほしい。
[佐々木0:01:25]喋れすったって、(笑)
[稲葉0:01:28]ほんで、ほら、まあ田んぼの川よ…昔は、あの~…なんや魚の名前なんかもちょっと出してってほしい。ほんで、アマゴは…イワナおらなんだよな?
[佐々木0:01:41]イワナおらん。まぁ、あのアマゴと鰻と…今いるクソンボ、なぁ。おいてしまどじょう。どじょうは田んぼに多かったけども沼田ら田んぼに、そこらはおったな。アカダスはあんまり谷におらなんだ。ほんであの、井普請なるとあれやった。やっぱあの…今のこんにあのなんていうんかな。
用水が整備される前はほんっとに鰻もとれたし、アマゴもよけおったけども今、用水を
みんなをかまってまったもんで、魚もおらんよーになってまったわ、ずいぶん変化してまった。
[稲葉0:02:24]その用水っていうのは…結局、U字溝っていうんか。うにの。なんていうんか、とよっていうんかや。んで魚がやっぱりそんでは住めんのかな。
[佐々木0:02:36]そやなあ。住処がのーなったやな。んで、ほんでも、おれんたの小さいときにはあれやった、あの…6年生か中学校くらいは、あの~ここらへんの用水も沖釣りかけると鰻も釣れたでな。
[稲葉0:02:51]ほんで…川の一部だけが、昔のまんまの川でもだしかんのやんな。
[佐々木0:02:58]ほやなあ。やっぱ、そんだけ、今…釣り人口も多いし、あと魚取ったりするもんも多いもんで、余計あれでないかな。
[稲葉0:03:13]あの~…なんやな、クソンボか。やっぱり、クソンボが多かったんかや?
[佐々木0:03:22]そやなあ。クソンボが多かったなあ。あの時分は、ここらへんの前の川でも、昔はおむつ洗うとこが一番川の下やったんなあ。んでそこでおむつ洗うと、やっぱクソンボがボーっと出てきたで、その時分からクソンボ、クソンボっていうくらいやもんで、そのクソンボは食わなんだでなあ。
[稲葉0:03:38]名前…そうゆうのでクソンボっていうんやろか?
[佐々木0:03:40]そうやろ。本当はヌルバエ、ヌルバエっていうんやけどな、あれは。
おむつの…からが流れる、あのうんこをこう…下でくったもんで、クソンボ、クソンボそういったし、ほんで、よけとれても食わなんだ。
[稲葉0:04:01]ほんであの~…おおかわっていうんか。この裏に、牛道の川があるやけど、あの~…小学校くらいの時から、でーな魚がおったってのをちょっと思い出しながら、
[佐々木0:04:17]やっぱおれんた、おれんた川ガキって言われたくらいやもんで、夏休みになると毎日川に行っとったけど、やっぱ、あの~牛道川では、アジメが多かったなぁ。アジメ、カブ。そいて、鮎はあんまり放流せなんだもんで、数はおらなんだけど、今組合員がよけ多なったもんで、あの~鮎の放流もよけするけど、昔はそんだけしなんだもんで、数はおらなんだ。
んで琵琶湖の鮎を入れよったもんで、お盆時分に、あの~水はけるともうすぐおらんでなった琵琶湖の鮎は。今はもうしきんじょの鮎やし、あれが変わってまったもんで、10月や11月でも鮎はおるけど…
[稲葉0:05:01]ほうと、小学校時代も、ある程度は鮎は入れとった?それは琵琶湖と?
[佐々木0:05:08]入れとったんや。琵琶湖や。今あの~イナバヒサシ君のとこの前に前カゴを置いてなぁ、あそこにこう…トラックかなんかで持ってきてや、あそこに一時期置いといて、そいて、うちの親父んたが組合員やったもんで、バケツで持って川に放流しに行ったんなあ。あの時分で恩地でも、どうやろ4,5人、4人か5人くらいしか、そんに魚釣りか鮎をするものはおらなんだもんでなあ。
[稲葉0:05:36]ほんで、そん時、鑑札ってあったんか?
[佐々木0:05:37]あったあった。おれんた中学校でもあったな。あの時分には、今あの春になると、雑魚そういって、あもうつりやそうゆう雑魚の鑑札。そいで6月頃になると鮎掛けの鮎の鑑札ってべっこやった。
[稲葉0:05:56]いくらくらいやった?
[佐々木0:05:58]1,500円くらいなかったかな、中学生は。
[稲葉0:06:27]ほんで、鮎の鑑札とアマゴなんかとは違ったわけか?
[佐々木0:06:09]違ったんや。今はもう組合員のしょうと一緒になってまったけど、昔は雑魚そういって、あもう今のその雑魚やんな、鮎掛けがはじまると、友釣りのしょうそいって、鑑札がべっこやった。
[稲葉0:06:27]ほんで、その~…やっていい期間っていうんか。それは?
[佐々木0:06:34]まったく今とそ~変わらんなぁ。
[稲葉0:06:37]ていうと、1月?
[佐々木0:06:39]いや、2月の1日やったかな。昔のことははっきり覚えがないけど、アマゴは2月から、鮎はやっぱり6月頃かやと思ったけどなあ。
[稲葉0:06:52]そしゃ、アマゴはその、6月7月と釣ってもええんかや?
[佐々木0:06:55]ええんや。ええんや。
[稲葉0:07:00]最近あの~…禁漁区とかってやるや?昔はあーゆうのはあったんかや?
[佐々木0:07:06]あった。昔からあった。今のあの、阿多岐の1の滝から3の滝まで禁漁区やった。昔からやったなあ、あれは。
[稲葉0:07:19]おいたらその~…昔のアマゴと今のアマゴってのは、違うんか?
[佐々木0:07:26]今のアマゴは放流が多いでな。養殖。ほんで、この頃有名なったサツキマスか、昔はそれほど~、あの、ほんっとのここらへんで育てた天然なアマゴやもんで、下らなんだけど、今のアマゴは養殖でした放流のアマゴやもんで、11月頃水がでると、いっぺん川を下るんや。あの全部ではないけど。そいつが海で大きくなって昇ってくるやつが今のサツキマスになる。
[稲葉0:07:59]んで、そのまた1年経ったら、それが下ってくんか?
[佐々木0:08:04]いや、どうやろ。ここらへんで産卵してそれは死ぬ。ほんで、そいつらが下るんかどうかは俺は魚でないでわからんけど、放流したやつの今ようするにあのかけ合わせ、かけ合わせやというもんで、今あの、しらめ系統とあもうけいとうのかけ合わせみたいな感じやもんで。あの、そうゆう川へ下る性質が戻ってきたんでないかな。
ほんで今いうあの、九頭竜の周りで釣るサクラマスもあれも、ヤマメの小さいやつが海に下ってって昇ってきたやつがサクラマスになるんやな。
[稲葉0:08:41]んで、その大きくなるにしたがって名前が変わるんか?
[佐々木0:08:46]いや、あれは、サクラマスは、たしかカジワラタクさんかなんかのあれが名付けた。今のサツキが咲く時分に昇ってくるもんで、サツキマスってそう言ったんや。
たしか俺、自分の県知事のカジワラタクさんか誰かがつけたんでないかと思ったけどな。
[稲葉0:09:10]昔あんまりその~おってもその名前を言わなんだってことか?
[佐々木0:09:13]そりゃーせなこと知らなんでないかな。みんな今みたいなええ竿も糸もなかったもんで。大きいやつを釣れても、あの切られたり、なんかして、取り込むことがあんまりできなんだもんで。八幡のまわりではちろちろ大きいやつが釣れよったんやよ。ほやけど、サツキマス、サクラマスとは言わなんだでなあ。あの時分には。あまごの大きいやつって言いよっただけで。
[稲葉0:09:36]ほいたらその当時、竿ってのは、ようするに今とどうゆう風に違ったんや?
[佐々木0:09:40]昔はこうゆう、おれんたが小さい時には、せな竿を買ってもらえんもんで、あの~今のどこやった為真のまつい時計店に売っとる一本の延べ竿みたいなもんでやりよったけど、ちょっとよおなってくると今度はつなぎ竿やんなぁ、竹でできた。にほん、にほんのもとにこうずいぶん詰まってある奴や。今みたいな良い竿ができたのってまだ最近やでなぁ。
[稲葉0:10:05]あの、郡上竿はどう違うんや?
[佐々木0:10:06]あれ、郡上竿は竹竿やでなぁ。あのあれがええってもんもおるけども、あれはまた重たいもんでなあ。たしかに、かかった時には飛んでくるにはいいけども、重たいんよ。
[稲葉0:10:29]ってことは、あんまり長い竿でもないんか?
[佐々木0:10:23]ほんで、今あの郡上竿っていうのは重たいもんで長さはないんや。アマゴ釣りでも、6mある竿はないんじゃないかな。ほとんど短い竿でやりよったんや。
[稲葉0:10:44]ほんで、牛道と川と本流の川ではまた竿は違う?
[佐々木0:10:49]いや一緒やけど、ほんでもやっぱ、あの~…おれんたの小さいころの若い人はやっぱ、今の郡上竿でも、あのもっと長いやつを持つ人もおったけど、それに9mってやつはなかったなぁ。まず、よおわたって8m、ほいて7m、6mなぁ。
[稲葉0:11:11]ほんで長靴っていうんか、ほら川に入ってく、胴長っていうんか。あれが主流やった?
[佐々木0:11:18]あれはまだ最近やな。おれんたが小さいときは藁草履やったでなあ。藁草履を履くか、ほんで、今あのおれんた美濃市におる時分あしながそいって、あの、うしおが履くこんな小さい藁草履よ。ほんここまでのなぁ。あいつをここらへんにはなかったけど、俺が美濃市におる時分には、あれを履いてやりよった。
[稲葉0:11:42]ってことは、冷たい川やと、そうおれなんだってこと?
[佐々木0:11:46]ほうや。ほんでも、長靴履いてやったこともあるけどなぁ、やっぱさぶいで。今みたいにカッパをそうええものがなかったし。
[稲葉0:12:01]ほんで、牛道の場合に、鮎はどの辺まで、釣れるっていうんか?
[佐々木0:12:10]やっぱ牛道小学校の下のまんせきくらいやったなあ。
[稲葉0:12:16]はらぐちのほうへ入っていくとだめか?
[佐々木0:12:18]あれ昔、今のあの県会議員の、「のじまいくちゃん」がいっぺん入れてくれんかすったもんで阿多岐のけいじの周り入れたことあった。やっぱ数いれなんだもんで大きい鮎がおったけど、数はおらなんだ。
[稲葉0:12:33]水が冷たいもんでやっぱ、下りてくんか?
[佐々木0:12:35]そんなことはないと思う。
[稲葉0:12:39]アマゴはどうなんやろ?
[佐々木0:12:41]アマゴも今あーゆう、あの養殖して放流したやつはある程度弱いで下るんでないかな。昔はほんと、ここらの川でも十分アマゴがおったやな。俺とうちの親父と兄貴と、7月頃そこらへんの用水へ夜アマゴつきにいくとずいぶんつけたで。鰻も入ったことあるしよぉ。今こうち整理で用水をみんなあーゆう風にしてまったで、あかんけども、昔ほっとにおった。
[稲葉0:13:19]ほんで、あの~、牛道だと、阿多岐ダムできるわあ。んで、そのあとに、長良かこうぜきができるんやけど、その…なんていうんかな、川がそうやって変わってくると、やっぱ魚ってのもちょっと違ってくるんかな。
[佐々木0:13:37]違うと思うけどな。やっぱ今牛道小学校のとこいくと阿多岐川と六ノ里の川と、こう交わったとこでやっぱ阿多岐のダムの関係で水が死ぬっていうんかな。あれしとるもんで、あそこではや水の温度差がどえらい違うでなぁ。阿多岐の方はぬくといし、六ノ里の方から流れてくる水はほんっと冷たい。
[稲葉0:14:02]ちちことか、かぶなんか多少?
[佐々木0:14:05]やっぱだいぶ少のうなったなぁ。おれんた小さいときにはほんとに、夕方になるとかぶなんか大きいかぶが石の間から頭出しとったでなあ。あれは夜行性やもんでよ。
[稲葉0:14:21]んで、やっぱりだいぶ最近は少ないんか?
[佐々木0:14:25]少ないなあやっぱ。あんだけ川を工事して、構うとやっぱ魚もおらんよぉになるし、鰻も住むとこがないしなあ。おれんた小さいとき夏になると、下島って橋があるが、あそこから中西のお宮まで水泳にくるやら。あそこ道路やったもんでなぁ。ほんで、あそこで水泳パンツ履いて、下島の橋から宮の下まで足を川のなか一回もつけずに、こう、いけたでなあ。そんだけ大きい石がごろんごろんしとったけども、今そんなとこは、ひとつもないでなぁ。あんだけ大きい石を持っててまったもんでよ。どっか持ってたか壊してまったんかどうなんしらんけど。
ほんで今、ここらへんの牛道の川なんか大体、下のばんが出てまっとるわなあ。今ひどいめでかけると、もう下のばんが出て待っとるもんで、砂利は持ってく、石は持ってくもんでよ。おれんた小さいときと比べると川がものすごい低くなってまったもん。
[稲葉さん0:15:27]ダムの影響やろうかえ?
[佐々木さん0:15:28]ダムじゃないと思うよ。工事で大きい石をどかしてまったもんであれでないかな。
[稲葉0:15:37]ほんでほら、昔は桶釣りを入れて、鰻をとったけど、今でもどうなんや?
[佐々木0:15:44]今でも去年はやらなんだけど今年もやるつもりはないけど、まぁ釣れんようになったもん。
[稲葉0:15:54]で、それは鰻がおらんよーになったんか?
[佐々木0:15:56]おらんくなったんでないかな。じき5,6年前ものすごい釣れたよ。いっぺん俺こっさで大きいやつ鰻がこのくらいあったあの2kgあったでな。このくらいあったで。
[稲葉0:16:11]んで、鰻ってのはやっぱ、ほら海からくるわけやろ?
[佐々木0:16:14]おお、それもあるし、今あの、放流もする。よけではないけど。
[稲葉0:16:22]ほと、その桶釣りを入れる人も最近はおらんよーになったってこと?
[佐々木0:16:26]ほやなあ。釣れやぁみんな入れるんやけど釣れんもんでいれんもんでないか大体なぁ。
[稲葉0:16:34]ちょっと桶釣りの話を、仕掛けをちょっとしてほしいんやけど、そもそも桶釣りってどうやってやるんやっていう話が。そこちょっと話をしてほしい。
[佐々木0:16:45]話っていうのは?
[稲葉0:16:47]ちちこ、かぶを
[佐々木0:16:49]おれんた小さいときには被せ網でちちこをとって、ちちこをさいて、こういれといたけど、今はもうクソンボばっか。あれは、なんでやしらん生臭いにおいがあるんかしらん、あれが食いつきが一番いいいなぁ。
[稲葉0:17:04]ほんで、そのクソンボを、ちょっと大きめな針に刺いて、その針をなんや、あの~柳の木かなんかに縛っとくんか?
[佐々木0:17:15]それは昔は差し込みってやつやな。あれは今そう使うものはおらん。おれんた、あのなんていうんかなすてばり、そいって糸を長くして、重りをつけて、それで、鰻のおりそうなとポッポッと入れておくんや。
[稲葉0:17:28]そしたらその、反対の糸はどこにするんや?
[佐々木0:17:31]反対側の糸はこう石の上に持ってきて、あの、この、その糸にこう巻いてあるやん、板に巻いて、石の上に置いて、重石をポッと載せるんや。
[稲葉0:17:42]なるほど。板まいた板をまぁ、置いて
[佐々木0:17:46]置いて、その上に、鰻がひっぱってかなんように大きい石をポンっと載せておくんや。
[稲葉0:17:52]それは前の日に何時ごろ入れるんや?
[佐々木0:17:55]夕方やな。暗くなってから。
[稲葉0:17:57]とるんか?
[佐々木0:17:58]おれんた、若いころ4時ごろ、暗いうちには行ったなあ。ほんでなければ、まいて死ぬってそいってなぁ。暴れるもんで。暗いうちにいった。
[稲葉0:18:12]どのくらいとれたんや?
[佐々木0:18:15]子どもの頃はそう鰻の針はあったけど、糸のええやつが無かったもんで、まず、どうやろな…4割とればいいほうやったな、切られてまって、あの時分うちのお袋が働きにあの、土方にいきよったもんで、せめんの袋の糸なぁ、あいつしかなかったもんで大きい鰻は切ってくもんでよぉ。まずそう大きい鰻はとれなんだ。切ってってまうもんで。
[稲葉0:18:47]針と糸を縛るすこぶり、とかなんとかって言ったけど、
[佐々木0:18:52]あぁ、それは重石を要するに餌だけでは流れていくもんでちょっとこのくらいの長細い石を見つけて、それにすこぶりで、餌よりそれくらいの上のところにすこぶりで、置いて鰻がくるとスッとくると抜けるようにしとったんやなぁ。すこぶりやもんで。
[稲葉0:19:19]ほと、この辺でもまぁ、天然の鰻っていうんか。そうゆうのはあんまり食べれんようになったってこと?
[佐々木0:19:25]ほやなぁ。昔はここらへんにおったやつは、ほとんど天然やったけどなあ。ここらへんにおったやつは、今もう太短いこのくらいの鰻やったけど、今はもうこんなに長い鰻が放流しとるもんでなぁ。かにくい鰻ってそういってよ。大きくなるやつや。
昔ここらへんで釣れるやつはごま鰻そういってこのくらいで、このくらいで、大きいてもこのくらいやった。あれほんっと昔からおる鰻やったでなぁ。一時期、だいぶ前になるけど鰻の病気がでて、一時期粥川の鰻でもおらんようになったやろ。あれからもうここらへんの用水にはおらんくなったってまったなぁ。
[稲葉0:20:09]じゃああとなにがおったんや昔は?昔おって今おらんなったもんってあるんか?
[佐々木0:20:14]昔おって今おらんような、おれんた、今のなんやらクロイカってもんはここらへん牛道にはおらなんだでなぁ。
[稲葉0:20:21]クロイカって知らんけど?
[佐々木0:20:23]アカダスは赤いでクロイカっていうと黒いんよ。また種類が違うけど、あれは今の大和の周り安久田行けばちろちろおるっていうけど、クロイカは。
[稲葉0:20:45]ほと、今のあの鮎掛けっていうと、まぁ、放流したのがほとんどで、そのなんていうんか鮎で伊勢湾から上ってくるような鮎ってのはそう?
[佐々木0:20:58]やっぱここらへんまでは来るっていうけど、俺はほんと分からんけど、美濃市の周りやあそこらへんはまだ天然は昇ってくるわなあ。
[稲葉0:21:13]よう、あの水が冷とうて死んだとか…?
[佐々木0:21:17]あぁ冷水病かぁ。あれはまた、水の冷たさと関係無いらしいよ、どうも。今の、豚コレラや今のコロナ渦と一緒で、やっぱあーゆ病気がぴょこぴょこ出るもんでそうゆうものは、やっぱ養殖やらなんやらしとるとでるんやないかな。あのものは。
[稲葉0:21:42]ほしたらよ、昔の鮎掛けの方法っていうんか、なんか喧嘩せんようになったみたいな話を聞くけど、その辺なんかちょっと。
[佐々木0:21:51]やっぱたしかにそうやな。昔のここらへんで川の中を見ると、やっぱ縄張りのある鮎はまっ黄色で石をこうバカーンバカーンってこうやって餌をはむんよ。やっぱそこへ死にかけみたいなおっといても、すっとかかってきたけど、今は縄張り意識がないもんで、群れで動きまわるもんで、おっても早ぉかかってこんのやなぁ。
[稲葉0:22:19]で、それってのは養殖の鮎やもんで群れになっているんか?
[佐々木0:22:23]そうやと思う。やっぱあのそうゆう風な鮎をこう循環送りさせるもんで、そうゆう風になってくるんでないか。
[稲葉0:22:32]ってことは、友釣りっていうのは、まぁ喧嘩をさせる釣り方なんやろ?ほと、他の方法は良くなってくることはあるんか?
[佐々木0:22:44]あれ下の周りで今のなんじゃやあれほれ、毛鉤で釣るあれもあるけど。あれもあんまり小さいうちは釣れるけど大きくなると、あんまり毛鉤では釣れんやろなあ。
[稲葉0:23:03]あとなんや、魚で何がおるんや?鮎とアマゴと、で、イワナっていうのはこの大川にはおらんのか?
[佐々木0:23:15]今は結構増えたってことはないけど、やっぱあれ、ちったー混じって入るでないかなと思うけど、ちろちろは釣れるらしい。
[稲葉0:23:25]ほしゃあ、アマゴとイワナとはどう違うんや?
[佐々木0:23:30]アマゴは、どう違うっと…
[稲葉0:23:37]模様は一緒やら?
[佐々木0:23:38]模様は全然違う。
[稲葉0:23:39]まぁ楯にこう?
[佐々木0:23:44]いや全然ない。アメマスやらアマゴとイワナと掛け合わせみたいなやつはあるけど。イワナはまたちょっと違うなあ。
[稲葉0:23:53]で、イワナってのは、虫を食べるんやろ?
[佐々木0:23:57]虫でも蛇でも食べるっていうなぁ。流れてくるものは。
[稲葉0:24:02]その辺が結局、アマゴはもっと、何を食べる?
[佐々木0:24:08]アマゴはやっぱり、イワナと一緒やけど、イワナはもっと冷たいとこにおるもんで、餌がそんだけないんやなぁ。ほんで、おれんた中学校に入った時に阿多岐のもんと一緒になったやな学校が。その時に阿多岐の山越ってやつがイワナを釣りにいかんかってそいって俺を誘ってくれたんよ。ほんで、阿多岐はこっちに板倉の川があって、左側ひゅんぼの川や。板倉の川の方へ釣りに行くと、イワナしか釣れんのよ。ほんで、ひゅんぼの川の方釣りに行くと、アマゴしか釣れんのよ。奥にはアマゴ、こっちのひゅんぼの谷はアマゴしかおらんし、板倉の谷はどんたけ奥まで行ったってイワナしかおらなんだ。どうゆう関係なんやしらんけど。
[稲葉0:24:52]水がのくとい、つめたい関係ある?
[佐々木0:24:54]大抵そうやと思うやけどなぁ。NHKのテレビなんかでも、イワナは水のないところでも上がっていくで、どうゆう関係なんや知らんが、たしかにイワナはちょっと生命力が強くて、こうゆう陸に出とたって、ちいとの内は生きてるでなぁ。
[稲葉0:25:15]イワナは何で釣るんや?
[佐々木0:25:17]餌や。
[稲葉0:25:19]その餌は?
[佐々木0:25:20]おれんたが阿多岐行きよった時には6月頃やったもんでキャベツの蛆とか、大根の葉っぱにつく黒い蛆、あーゆうのを持って行ったなぁ。
[稲葉0:25:31]それは、アマゴは無理か?
[佐々木0:25:33]アマゴでも食うと思うよ。
[稲葉0:25:37]ほんで、お前よぉやりよる金箔かや。あの話、金箔とは何ぞやっていうのを?
[佐々木0:25:44]金箔ってのは、今あのおれんた使いよるナデムシとはまたちょっと少し違うんやなぁ。
[稲葉0:25:51]それは何?川におるんやろ?
[佐々木0:25:53]川におるんや。
[稲葉0:25:54]どうゆうとこにおるんや?
[佐々木0:25:55]金箔っていうのは砂利わらにおるんや。砂利わらを足でごそごそっとすると流れて網にかかるんやけど、今おれんた使っている毛虫ってやつは流れの強いとこの石にへばりついているの毛虫ってそう。
[稲葉0:26:16]へちまでとるんか?
[佐々木0:26:17]へちまでとるんや。
[稲葉0:26:20]で、金箔はどうやって?
[佐々木0:26:21]金箔は金箔獲る専門の籠を作って、ほんで下方へ流すように足でこう砂をかいてく。
[稲葉0:26:32]毛虫も金箔も、そのアマゴを獲るときには餌として使えるんか?
[佐々木0:26:37]使えるけど、時期が違うんやなぁ。
[稲葉0:26:40]ほー、それはどうゆうことよ?
[佐々木0:26:41]金箔は、解禁時分に獲れるけど、餌で。
[稲葉0:26:45]解禁ってのは2月頃か?
[佐々木0:26:47]2月の15日か。から3月の15日まで獲れるけど、それ過ぎると今度羽化してしまうもんで、もう獲れんのよ。ほんで、獲れんようになると、今時分になると、今今度ケムシがおおきぃなってくるもんで、獲って釣るんや。
[稲葉0:27:02]ほと、まぁアマゴなんかも川におる時は、そうゆうのを食べているんか?
[佐々木0:27:06]そやそや。
[稲葉0:27:12]なんで金箔っていうんや?
[佐々木0:27:13]金箔、銀箔っておるんやで。金色をしとるで金箔っていうでないか。ほんで、オデムシの大きいやつは銀箔ってそいうわ。銀箔はまた、今のイワナやあーゆうもんしか食わ。んアマゴはあんま食わんなぁ。金箔はアマゴが食うけども、銀箔は食わん。
[稲葉0:27:33]ほったら、昔はほら、ミミズをどうのこうのしたけど、もうそんなことはやらんのか?
[佐々木0:27:38]今ミミズで釣るものはそうおらんのでないかなぁ。ほんでも今のサツキマス釣るものはもうミミズがいいとそいって、は大きいミミズ使う。シマミミズの大きいやつを。
[稲葉0:27:58]今までに後ろにあるけど、一番大きい魚でないけど、どこで何釣ったんや?
[佐々木0:28:06]こっちにあるやつは、あれは今の荘川のとこで釣ったあれヤマメの大きくなったやつや。こっちがサクラマスのアマゴの大きくなったやつやな。
[稲葉0:28:21]それやっぱ、おおかわやんな?
[佐々木0:28:23]ほやほや。あれは見頃から上がってきたんやなぁサクラマスは。
[稲葉0:28:27]それ、何月頃や?
[佐々木0:28:29]あれ秋やったな、たしか。やっぱあの見頃でもヤマメがダムに入って大きくなって産卵に上がってくるんやなあれなぁ。
[稲葉0:28:48]ほと、こっちの長良川水系では、あんまりそうゆうのはおらんのか?大きいのは。
[佐々木0:28:52]いや今のサツキマスはやっぱ大きくなる。大きいやつは50cmぐらいになるんでないか。あれで42cmやで、こっちも42cmやったやなぁ。
[稲葉0:29:09]鰻なんかはどうやった?
[佐々木0:29:11]どうと?
[稲葉0:29:12]大きいっていうか、
[佐々木0:29:14]俺は今まで最高に獲ったのはこっさで2キロってやつを獲ったけど太かった。ビール瓶くらいあったよ。
[稲葉0:29:22]そうゆうのっては、何年くらい経つ?
[佐々木0:29:25]どれくらい経つんやろうなぁ。結構経つんでないかな。あれは。
[稲葉0:29:22]ほんで、お前はある程度そのなんや、魚獲ったやつを、要するに市場かどっかの料理屋に持ってって、っていう話なんやな?
[佐々木0:29:46]おう、昔は。
[稲葉0:29:49]それは結構なんや、金にはなったんか?
[佐々木0:29:52]結構なったなあ。もう今やっぱそんだけ需要がないもんで、鮎はやっぱあの冷凍がきくもんで、わりかし人気があるけど、アマゴは冷凍が効かんもんで、冷凍はできるんやけど、戻した時に鮎みたいに固くない。クタクタなんよ。
[稲葉0:30:22]ほしたら、その食べ方としては一番どんな方法がいい一番いい?
[佐々木0:30:25]そりゃあアマゴが大きいやつは、素焼きにして醤油かけて食うと一番美味いなぁ。そうか、ちょっと小ぶりのやつは今の山椒と一緒に煮るとか。
[稲葉0:30:38]アマゴは?アマゴでない、あの鮎は?
[佐々木0:30:41]鮎はやっぱあの…塩焼きか、小さいやつはフライ。でちょっとあれなやつは開きにして食べると美味い。
[稲葉0:30:57]ほんで、イワナとアマゴではやっぱり、アマゴの方が美味いんか?
[佐々木0:31:02]そりゃ美味いなあ。ほんでもイワナは味はあるんやろな骨酒にすると美味いやでなぁ。
[稲葉0:31:10]骨酒ってのは、どうゆう風にするん?
[佐々木0:31:12]あれはあの、素焼きに、カリカリになるくらいまで焼くんや。
[稲葉0:31:18]ほして、それをなに、あの皿に置いといて、
[佐々木0:31:23]皿に置いといて、熱い酒をだってやるやろ。
[稲葉0:31:26]熱くなければだしかんのや?
[佐々木0:31:27]熱くなければあかん。
[稲葉0:31:29]ほいて、それを飲むという?それ、アマゴでやったってだしかんのか?
[佐々木0:31:33]アマゴはあんまり美味くないなぁ。
[稲葉0:31:35]どうしてや?
[佐々木0:31:37]やっぱ味が違うででないかなぁ。
[稲葉0:31:39]油があるんか?
[佐々木0:31:40]油はあんまりないと思うけども、独特な味があるんでないかな。アマゴとイワナでは。ほんで、アマゴとイワナを釣ってきて、一緒に煮て食ったって、やっぱイワナは美味くない。アマゴのほうが美味い。今骨酒の話をせやぁ、ここらへんで今でもおるけど、カブでも骨酒にできるんやなぁ。あれ美味いもん。カブの骨酒も美味い。
[稲葉0:32:10]ほしゃあ、今そのカブとチチコなんかはどうやって食べたらいい?
[佐々木0:32:14]チチコはやっぱ、今あの山椒のあれで煮て食うと美味いなぁ。
[稲葉0:32:21]カブも大体?カブは違うんか?
[佐々木0:32:23]カブもいいけど、カブは頭ばっかで骨が固いもんでなぁ。今のあの唐揚げに二度揚げにして食うか。今のあの海の魚のなんや、ガシラでなんやらと一緒でよ、味はあるけど頭が大きくて身があんまり無い。あの今いうアカダスも刺されると痛いけど゙、あれも煮て食うとわりかし美味い魚やよ。
[稲葉0:32:55]どじょうもあんまり記憶にないけど、食べ方ってのは?
[佐々木0:33:01]昔はめっちゃ食ったなどじょうは。俺ちょうど恩地の田んぼでうちのお袋が昔やもんで、ぬまたの田んぼ耕しにいく。あれについてって、田を興すと、どじょうがおったもんで獲ってなぁちょっと1日か2日、飼っといて、煮て食ったことある。あかごの方の田んぼはぬまだんごがおったもんでなぁ。
[稲葉0:33:23]結構おったもんなぁ?どじょうがな。
[佐々木0:33:27]おったおった。随分お袋に付いていったなぁあの時分に。
[稲葉0:33:37]そして、あのほら、タマゴを持っている…なんや、
[佐々木0:33:42]アジメか。
[稲葉0:33:44]おう。とか、あーゆうのは、まぁいろんな魚でも卵を持っとるが。
[佐々木0:33:52]アマゴもあれ秋やし、アジメも秋やでいいけど。今いう、なんじゃ、チチコやカブはもう産んでが生きるくらいやなぁ。種類によって、春先に卵産むやつと秋に卵産むやつがおるでなぁ。アマゴや鮎やイワナは秋やし。
[稲葉0:34:26]で、あのどこにいるんよ?
[佐々木0:34:30]石の隙間やな。自分が入れるくらいの、あのとこ隙間に産み付けとる。石の空洞なったわっかに。昔はカブの卵で随分アマゴが釣れたもんで、カマタマって獲りってええ金になりよったらしいけど、今はもう禁止になったもんで。カブも大分増えてきたんでないか。
[稲葉0:34:57]もう1つ、あのかんのしみに、あの石かつで、あの魚獲りの方法をちょっと知っとりゃ。
[佐々木0:35:04]あれはあの、ここらへんではあんまりでんけど、俺が美濃市におる時分には、あの美濃市の河原であの石カチはしたなぁ。
[稲葉0:35:15]いつ頃、どうゆう風に?
[佐々木0:35:17]寒い時よ。寒いときに河原の水ザーッと流れてくる浮いてる石を大きいハンマーでドーンとふさぐと、あの気絶するんか浮き袋があれするんかどうかな、ポッと出てきた。
[稲葉0:35:34]それは、そのハンマーの、こうゆう大きいハンマーやろ?
[佐々木0:35:37]おれんた小さい石やもんでこのくらいの重たいハンマーでやったけど、前いっぺんテレビ見とったら白鳥のものがこんな大きいハンマーで大きい石叩きよったけど、あーんなことでは出んと思ったけども。
[稲葉0:35:49]あれは結局その石がこうなんていうの、地震でないか、なんや?こう、
[佐々木0:35:56]あれ俺脳震盪を起こすんでないかなって思うなぁ。
[稲葉0:35:58]石から出てくるなんていうんや、その振動が魚に伝わるんか水を通して。
[佐々木0:36:07]ほんで、このくらいの石を叩いて、出てこなその石をポッと起こすと、中でポッと腹を上にして浮いとる。びっくりして息のないやつはスッと出てきて浮くけど。ここら辺ではあんまり石カチなんていったって、そんだけあーゆう浮き魚がおらんで。チチコやカブやあーなものは、まずあれでないでなぁ。
[稲葉0:36:29]で、それは今禁止されとるやろ?
[佐々木0:36:34]禁止ってのは書いてないで、ええんでないかな。あれは雑魚しか獲れんでなぁ。アマゴやあのものはそう浮いてこんで。
[稲葉0:36:47]じゃ、この辺でしかない獲り方ってなんかあるか?
[佐々木0:36:53]この辺でっていうと…?
[稲葉0:36:57]あっ。あれを頼むわ。あのなんや、小さい水をダムでないけど、止めておいて、
[佐々木0:37:01]たけわか。
[稲葉0:37:02]あれはどうゆう風にする?
[佐々木0:37:03]あれはやっぱ、どうゆう風にするって、やっぱ普段でーなとこかけとって入るもんでないで、例えばふちの頭で魚がこう登れんようなとこを、登れんようなところに作るんや。ほんで要するにその、なんていうんかな、たけ、たけわけってそうんか。登れないとこにその仕掛けを作って、ほんで登れるようにして、んで、この…なんていうんかな、魚のこう落ちるとこに水がこう流れてく方にしといて、そうと、板、たけわけの板に伝わってこう登ってくるわけよ、ほいて、そこの落ちるところが竹を分けたみたいにしとるもんで、たけわけ、たけわけってそうんや。
[稲葉0:38:01]じゃ結局上ってきよって、ポンポラリンって落ちていくってことなんか?落ち込むとこがもう二度と出てこれんように、
[佐々木0:38:08]また下に箱があるんや。
[稲葉0:38:11]ほんで、それは結局魚のなんや水を登ってく風習を利用しとるんか?
[佐々木0:38:17]習性を、ほんでこう板を当てて、その板に沿って、あの、こう板に沿って、あの、ずーっと流れていくと、その水に登れんもんで、その水がダーッと伝ってきて、ポロンと落ちるんや。
[稲葉0:38:41]あれって、ほんで、鑑札でないけど、縄張りがあるんか?
[佐々木0:38:46]あれは、おれんたも今申請出したけど、やっぱ毎年かけるとこ申請して受けるんや。
[稲葉0:38:56]獲れるときは結構獲れる?
[佐々木0:38:58]獲れる。大和の周りはどえらい入るらしいけど、牛道は、そうざっこがおらんもんで、そんだけ、たんとは入らんけども。ただ、牛道でたきがけ、あれはアジメが多いもんでなぁ、入るに。チチコも入るけども。アジメも入るし、アカダスも入るし。
[稲葉0:39:27]そういやぁ、ほんで1日とか2日ごとに見に行くんか?
[佐々木0:39:31]ほや、朝晩見に行くなぁ。
[稲葉0:39:36]聞いた話では、昔その、ある程度その清水のような水が湧き出ているとこがなんかええみたいな話を、
[佐々木0:39:42]あれは、アジメ穴やぁ。アジメ穴は要するにあの秋にアジメが卵産みに入る伏流水へ入れると、アジメが入るんやけど。
[稲葉0:39:56]もう、そうゆうとこがわからようになった?
[佐々木0:39:58]今もう下の川のガンが、バンが出てまっとるでないなあ、もう。ほんでも、あんだけ増えるってことは、どっかで産むことは間違いないで、ただ伏流水ばっかでないかもわからん。砂利の中に産むんかもわからん。
[稲葉0:40:23]あと何の魚がおった?獲り方をちょっと聞いときたいんやけど。
[佐々木0:40:28]ここらへんでは、それくらいやなぁ。おれんた小さい時にはもう、川へ、川っていうか用水、今の田んぼのあぜ道の横のとこで、クソンボ釣りやあーゆうもんには行ったけど。
[稲葉0:40:51]今ふせあみってもうせんのか?
[佐々木0:40:53]ふせあみ、あるよ、売っとるよ。売っとる、売っとる。
[稲葉0:40:56]子どもはやらんのか?
[佐々木0:40:58]いや、夏になると結構やりよるよ、子どもが。
[稲葉0:41:05]あの、ふせあみってのはやっぱりチチコとかカブの要するにその石に止まってるやつを、
[佐々木0:41:10]かぶせて
[稲葉0:41:11]かぶせて獲るもんで、ふせあみっていうんか?
[佐々木0:41:15]おん。ふせあみ、かぶせあみっていうなぁ。
[稲葉0:41:17]あっ、かぶせあみか、そうか。鯉はどうなんや?
[佐々木0:41:27]鯉はおらんなぁ、ここらへんは。ようあの本流いくと川鯉はおるけどな、川鯉に黒鯉はおるけど、ここらへんはおらんなぁ。
[稲葉0:41:42]ほと、やっぱり一番大きい魚っていうと、なにか?
[佐々木0:41:46]アマゴかイワナやな。ま、川魚で一番大きいっていうと、川でおると川鯉くらいやろなぁ。
[稲葉0:42:04]あの、イグイってのはどうなんや?
[佐々木0:42:07]イグイはあんまり大きくならんなぁ。大きくなったって30cmもなるようなやつはそうみん。
[稲葉0:42:15]で、イグイってやつはそう食べんのやろ?
[佐々木0:42:18]ここらへんでは食べんけど、信州のまわりでは食べるんやろな。信州のまわりで、今あの、卵産みに上ってくるやつをヤナっていうんかあれでせき止めて、食べるとこができるでなぁ。ここらへんはもうイグイ食うもんは、そうおらんな。ほんでも川魚の好きな人は食わっせるらしいけど。
[稲葉0:42:38]あれはどうなんや、あの、骨が多いでだしかんのか?
[佐々木0:42:41]生臭いでじゃないかな?
[稲葉0:42:45]魚にしてみると一番可哀そうやな、バカにされてなぁ。せっかくあんだけ大きい普通なら喜ばれて食べてもいいんやけど。次で、魚でないけど、山の、猪と鹿と、あのあたり最近なんか豚コレラっていうんか。あれどーゆう風になってきたんや?
[佐々木0:43:17]豚コレラはもうだいたい収まってきたんでないかな。死ぬがとも死んだけど結構山行くと、猪のあの、はめあとがチロチロあるでみんなが死んでまってはおらんと思うけど、生き残っとるやつもおると思うけど。
[稲葉0:43:35]あれは、ほんで今の人間と一緒であの、あのーなんていうんか伝染病なんか?
[佐々木0:43:40]そうや、伝染病やな。
[稲葉0:43:42]んで、山いくと、死んでもおるんか?
[佐々木0:43:46]あれは病気にかかると、水が飲みたいんかしらん、谷むろや水の飲み場で死んどるっていうで、山の中であんまり死んどるやつは見たことないなぁ。
[稲葉0:43:56]ほんで、やっぱりかなり減ってまったんか?
[佐々木0:43:59]減ったなぁ。一時期どえらいおったでなぁ。
[稲葉0:44:04]ほんで、獲ろうとしても、あんまりもう獲れんのか?
[佐々木0:44:07]獲ったって、売れんもんで獲らんのや。
[稲葉0:44:13]ほいたら、そのカモシカとか、なんやニホンカモシカとか、まぁそうゆうのはどうなんや?
[佐々木0:44:20]ニホンカモシカは特別天然記念物やで撃っていかんけど、今日の新聞でも、どこやらでカモシカ撃って捕まっとった。肉は持ってきて、食った。角はアクセサリーにするやらどうやらで捕まっとったけど、今の鹿は、やっぱ角は持ってくるけど。
[稲葉0:44:41]それは、その、伝染病は関係ない?
[佐々木0:44:46]関係ない、鹿はなぁ。
[稲葉0:44:50]ほしたら、熊はどうなんよ?
[佐々木0:44:52]熊も結構減ったんでないかな。餌が、あの、秋になると、餌があるとないとどえらい違うで。
[稲葉0:45:05]で、やっぱり熊はなにを食べとる?
[佐々木0:45:07]熊はやっぱ、今はよぉ、俺はほんと見たことないでしらんけど、よぉ春になると、あの、なんや、春にはよぉ咲くヤマゼン。こぶしの花を食ったり、ほんで、新芽を食ったりするらしい。ほと、ドングリや栗がなる時分にはそれを食うらしい。熊ってのは雑食性やもんで、あの、鹿の倒れたやつやなんかも食うって話や。
[稲葉0:45:39]ほんで、なんやこの、里へ下りてくるっていうんか、あーゆうのは昔とは違って?
[佐々木0:45:46]やっぱり餌がないでやろなぁ。
[稲葉0:45:50]ってことは山が荒れとるってこと?
[佐々木0:45:52]荒れとる。ほやろなぁ。
[稲葉0:46:00]一時には、あの、猪、おまんた、結構な数、獲ってきとったけど、あれどれくらい獲った?
[佐々木0:46:09]どのくらい?小さいやつ入れて、7、80獲ったんでないか、あの時分で。
[稲葉0:46:16]5,6人でか?
[佐々木0:46:17]ほやほや。あの時分、穴場のまわり、巣の潜り、いくと、いくらもおいでたもん。おった、ほんで、増えすぎたもんで、それから豚コレラが流行ったんやなぁ。いっきに減ってまった。
[稲葉0:46:30]逆にいうと増えすぎたんか?
[佐々木0:46:31]増えすぎたんや、大抵。んで、増えすぎて、食うもんないもんで、今のあの豚小屋のまわり来て、豚コレラにかかって、死ぬもんで厳しくなったんやなぁ。
[稲葉0:46:51]キヨミさん何分経った?
[キヨミ0:46:53]45分。
[稲葉0:46:55]45分か。他になにか言っておきたいことはございませんか?
[佐々木0:47:00]言っておきたいことか。
[キヨミ0:47:05]聞いときたいことがある。河口堰ができた後と前でだいぶ変化あるか?
[佐々木0:47:12]ここらへんはあんまり関係ないなぁ。
[稲葉0:47:16]それはなに、魚を放流するもんで、関係ないんか?
[佐々木0:47:21]あのサツキマスもサクラマスも、サツキマスも来ることは上ってくることはくるんやで、そう河口堰は関係ないと思うけど、たしかに数は少ないかもわからんな、上がってくる。
[稲葉0:47:34]ほんで、いや、鰻なんかは、あれは放流はしとらんやろ?
[佐々木0:47:39]鰻放流するんや。
[稲葉0:47:41]するんか。あぁ、ほすると分からんよな。
[佐々木0:47:43]ほんでもやっぱ、あの海岸へ、こうゆうシラスが来るくらいやで、上ってくることは上ってくるとは思うよ。ここまで来るうちにどうにかなるかもわからんしな。俺んた、あのー、美濃市におる時分に6月頃かな、あの、鰻の笛があるんや、このくらいの、鰻笛ってやつが。あいつに鉄砲ミミズを詰めて、あのー…夕方、美濃市の長良川とこ、こう入れとくと朝、網に入れると、これくらいの鰻いっくらも入ってた。そいつが大きくなって上ってくればここらへんにおると思うけど。うじゃうじゃ入っとったよこのくらいの鰻が。
[稲葉0:48:32]ほいたら、魚釣りの昔と今では違ってきたってのは、なんや?
[佐々木0:48:41]道具がいいやつと、あの、道具がいいやつと、そして、なんていうんかな、どこでも行ける車があるし、そうゆうことやな。
[稲葉0:49:04]お前あんまり提灯釣りはやらなんだんかな?
[佐々木0:49:06]提灯釣りはせん。癇癪が起きるもな。引っかかってばっかおるで。
[稲葉0:49:16]あの、エンドウエイチさんかや。あの人提灯釣りって、まぁあの
[佐々木0:49:22]よぉ奥行きよざったなぁ。あの今の久沢の周りの奥や、きよみの周りよく行きよざったなぁ。
[稲葉0:49:26]今あーゆう人っておるんか?
[佐々木0:49:29]あーゆう人まずおらんな、今。あの、エンドウさんは、ゆきしろかんすいかなんやらって、俺持ってざって、新聞もよぉ出しよざったけど、よぉ遠いとこ行きよざった。単車で。
[稲葉0:49:44]あの人は、大体白山の、大体あのー、周辺って山を全部行っとる感じやったもやな。それも50の単車で。
[佐々木0:49:53]あそこの娘がそう言ったん。朝さぶいもんで、父ちゃんカッパの下のここに新聞紙を当てて、単車で行きよったって。よぉあの時分な、50の単車でひるがのまでよぉ上って行ったわ。
[稲葉0:50:07]俺、九頭竜ダムでよ出会ったぞ。「おーい」っていうで、誰やしらんって思ったら、エンドウさんやった。
[佐々木0:50:12]あの久沢の、あの奥の周りも行きよざったもん。しまいには、もう歳とらしたんかしらんが、あそこで泊まる魚釣りのお客が来るもんで、うちの俺んた、結構アマゴ頼まれたもんあの人に。焼いて食わっせるんか、どうなんかしらん。しまいにエンドウさんも歳とったもんで、行かっせんようになったもんでな。好きやったあの人も。
[稲葉0:50:43]そしたら、この辺の川でちょっとおい、ここだけ違う魚おるぞってとこはないか?よぉ獲れるとか、
[佐々木0:50:52]せなとこあったら、俺が気付く。
[稲葉0:50:57]あの、九頭竜の、ほら面谷川って、まったく魚がおらんが。やっぱ、あそこはほんとになんもおらんのか?
[佐々木0:51:04]おらんと思うよ、やっぱあれ。ほんでも今だいぶ経つで、ダムに直結しとるで、鰻くらいは、上ってくるかもわからんな。まるっきり水が悪いわけでないで、あれは鉱山の水が流れたっていうやで。
[稲葉0:51:22]綺麗な水なんやけど、やっぱり魚おらんで。
[佐々木0:51:28]あれ、久沢の周り行くと、川にあの、今のあそこらへんにほれ、ワカサギがおるもんで、ワカサギがよぉ川に上ってきとるけど、面谷の川で一回も見たことないな。随分冬になると、面谷の周りに行くけども、まず見んな。鹿や猪が川の中入っとるくらいで。
[稲葉0:51:58]特に、まぁあーゆう深いとこ行ったとこは、やっぱ穴場が多いか?それとも…
[佐々木0:52:04]深いとこって?
[稲葉0:52:05]いや、まぁ遠くっていうんか、山の中の川よ。お前も昔あのほら、勝山から上ってって、
[佐々木0:52:14]あぁ、手取か?1回行ったことあるな。
[稲葉0:52:19]ほいて、もう1つは、その手前の谷、谷峠とか谷部落とかって、お前なんか山芋掘りにあかうさぎ山のどうのこうのに行きよったが、
[佐々木0:52:31]あれ谷流れとったかや?
[稲葉0:52:34]おん。なんか、あかうさぎ山いくほうにジンとなんか話をしよったら、あっち行ったって言った。
[佐々木0:52:39]あの、勝山から今手取抜けてく道のダムの温泉のへんから右入ってった谷かな。まだ壊れかけみたいな家があった。
[稲葉0:52:50]おぉ、そうそうそう。昔、人が住んどって、あれ、あの~…谷、谷なんとかっていう。
[佐々木0:52:59]地名はしらんなぁ。いっぺん行ったことがある。あの手取も遠くてえらかったもん。手取も行ったし、今のあそこのどこや、かみおかのあっちも、びわ側の方行ったけど、ヤマメが多いもんであかんのやな。ヤマメが多いし、魚が美味くないもん。
[稲葉0:53:28]じゃあ石徹白の川もあんまり
[佐々木0:53:30]あんまりうもぉない。
[稲葉0:53:32] 冷たいでダメか。じゃあおがみは?
[佐々木0:53:37]おがみもあんまり。とにかく、俺は人から聞いたけど、この日本海に流れる川と太平洋流れる川では魚の種類が違うんよなぁ。ほんで、日本海側で流れる谷には、ヤマメ系統が多い。ほんで、こっちの太平洋側流れる川はアマゴ系統なんや。ほんで向こう行くとみんなヤマメやわ。あのパールマークはあるけど、赤い斑点がないんやな。赤い斑点があってもヤマメでも、ここのなんていうんかな線のそばに赤い斑点がスっとあるだけで、ほんで釣ってきても、腹を裂くときに身が柔らかいもんでうまいこと裂けんのよ。
[稲葉0:54:27]それやっぱり水が冷たいから?
[佐々木0:54:29]冷たいでや。あの、あれやったよ白鳥の魚釣りの上手な人が今のあの、あそこよ、久沢。久沢でないむくみか。むくみのあの、今のあの、むくみのほうの谷へイグイがどえらい獲れたもんでイグイ釣って持ってきて、うちで煮て食ったら、誰も食わなんだ。猫も食わなんだってって言わっしゃる。水が冷たいもんでなぁ。今ちょうめ行くと、九頭竜の今のにぐれや、今の、ほれ、いちののの周りの川に大抵ツキがついとるわ。このくらいのツキが。ダムから上がったやつがなぁ。川がきれーいに動きよる。ツキがつくもんで。
[稲葉0:55:16]ほしたらよ、あの、アマゴは魚籠入れるやん。ところが、あのー…なんや、鮎よ。魚籠入れるってことはないや。あれはまぁそんなようなもんなんか。
[佐々木0:55:31]鮎は生きた囮で、鮎を引っ掛けならんが。ほんで、生かしておかないかん。アマゴは釣ったって、そのアマゴで釣るわけでないで、要するにこうゆうとこ、魚籠入れるんや。
[稲葉0:55:48]そうか、いやー。あのー…はよぉダメになるで、生かいておくってことやないか。
[佐々木0:55:54]それもある、それをみんなやりよるな。みんなあしばこ持って、アマゴ釣りしよる。
[稲葉0:00:00]ほしゃ、アマゴをそうゆう風にしたら、またせーなことはめんどくさい話か。
[佐々木0:00:00]生かして、そりゃめんどくさい。昔、アマゴで商売しとった人はよ、釣れると、あのー…1匹1匹タオルで水を拭いて、入れよざった。どうしても水がつくとクタクタになるでなぁ。商売にする人はそうやってやりよざった。
[稲葉0:56:42]キヨミさん、なんか、ご質問はございませんか?
[キヨミ0:56:50]せっかくやでその、餌入れの説明をしてもらえるか?餌入れよ。
[稲葉0:56:56]これか。
[キヨミ0:56:57]これ作ったんやろ?
[佐々木0:56:58]これ自分で作った。
[稲葉0:56:59]ちょいちょい。
[佐々木0:57:00]なんじゃよ。
[稲葉0:57:01]いやいや、これなんよこれ、あのこれ、
[佐々木0:57:02]竹や。
[稲葉0:57:05]ほんで、これは節で?
[佐々木0:57:09]これ節でない。これ、あの、うん。
[稲葉0:57:12]下へ入れて、で、その中でさっきのそのなんや、
[佐々木0:57:18]うん。けむしを入れとくんや。金箔も。金箔はまたこれに入れるとよ、伝ってきて逃げていくんや。モゾモゾモゾモゾ。ほんで、やるとき、こぉポンポンポンって下落としといとく。ほんでなければ、上上がってきて,
ポコっと出ていってまう。今そんだけの入れとるもん、そうおらんわ、みんなプラスチックのな、あれをしとる。
[キヨミ0:57:54]網の角度ってなんかあるんか?
[佐々木0:57:56]これは好きずきやな。俺はあんまり角度つけんけども、角度つけとる人はここやってしとるでな。
[稲葉0:58:02]そこ入れるために角度あるんか。
[佐々木0:58:04]俺はこうやって、この角度は好きやもんで、ここへ入れるけど、このくらいの角度のやつもある。
[キヨミ0:58:15]これ自分で作られたんか?
[佐々木0:58:17]枠、これ、網は違うけど、枠とこれは自分で作った。今、この、ここに鹿の角の流行りでな。みんな鹿の角をここに入れとる。
[稲葉0:58:31]まあええわ、ほら、なんていうんやな、ここが木で
[佐々木0:58:35]枠で。木枠で。
[稲葉0:58:36]あれは何の木で?
[佐々木0:58:39]あれは、モミの木と、あの、ガヤが一番ええっていうけど、ガヤはあんまり無いもなぁ。モミの木は、ポキっと折れるけど、ガヤはねばいもんで、ポキっと折れんっていうけど。
[稲葉0:58:57]これは?これなにに使うん?
[佐々木0:59:00]これは、アマゴ釣りや。まぁ俺歳取ったもんで、これ2本見えとらん。はかま作って。もう歳取ったら重たいもん持てんもん。
[稲葉0:59:19]目は見えるか?これ、つけると。
[佐々木0:59:21]目はもうほんで、老眼鏡かけとる。
[稲葉0:59:23]あぁ、そうか。ふーん。
[佐々木0:59:22]食い散らかすと、10分か20分捕まっとらんと、目が見えんで。
[キヨミ0:59:34]釣れる仕掛けなんてあるんか?釣れる仕掛け。
[佐々木0:59:37]いやーそれは別にないな。食い気があるときに行くと誰でも釣れるけどなぁ。食い気がないとだしかん。やっぱ、水の、昔からいうに水での3日そいって、3日過ぎるとだしかん。降り始めが一番釣れるなぁ。3日続くともう釣れんっていうもんで、もう餌食って腹いっぱいになるかどうなんかしらん。
[稲葉1:00:05]ほいたら、天気の、いや雨降りのどうのこうのっていうやん、あれいつが?
[佐々木1:00:11]あれ雨後に釣れるそういうもんで、アマゴアマゴって言っとるんよ。雨後に釣れるもんで、アメゴアメゴっていう人もおるなぁ。
[稲葉1:00:24]ほしゃあ、朝と夕方とか、そうゆうの?
[佐々木1:00:27]そりゃ、朝早いほうがええ。ほいで夕方と。若い時にはもう3時半頃行って川で待っとったよ。ほんで。
[稲葉1:00:39]それは、普通の虫が飛ぶやつを食べるもんで、っていうそんなような関係なんか?
[佐々木1:00:45]それもあるし、やっぱ明るくなってくると、食いたいもんで食い気があるんでないか。
[稲葉1:00:54]風のある時はだしかん?
[佐々木1:00:56]だめやな。ほんでも上手なもんに言わせると、川の中が風が吹いてないと、っていうものがおるでな。釣るものがおるで。あれやっぱ重りをだいぶ重とぉして、やっとるんよ。ほんでなければ、風でブーっと浮いてまうでなぁ。
[稲葉1:01:13]魚は関係ないわけか。釣る方が風が、
[佐々木1:01:21]それから今のサツキマスを釣るにはあの、重たいもんで、深いとこへせを流すもんで、風が吹いとったって、水の中風が吹いとらんもんで、重たい重りで流すもんで、詰まる率も多いんかなぁ。
[稲葉1:01:37]ほいたら、雪が降っとるときはどうなんや?
[佐々木1:01:39]雪は降っとるときはもうあれやもん。禁漁の時期やで。
[稲葉1:01:54]あっそか。そういやぁ、あの100年後にお前の子孫がこれを聞いた時に、えーちょっと、100年後のお前の子孫にちょっとメッセージを入れてみてくれんかぁ。
[佐々木1:02:08]子孫はたいていおらんわなぁ。
[稲葉1:02:09]いやわからんで。
[佐々木1:02:11]おらんなぁ。今の長男に子どもはないし、
[稲葉1:02:14]いや意外に。まぁ、あの、なんや娘からいろんなところからまた周り回って、それがお前のような、あの、魚釣りになったとするとやよ、ちょっとなんかアドバイス。
[佐々木1:02:30]100年後なんて、わからんで。
[稲葉1:02:35]いや、まぁ、魚はこうなんよっていう。
[佐々木1:02:47]まぁ、メッセージもなにもないですが。コロナが落ち着いてくれんことには。今年の鮎の解禁も近こぉなってきたけど、どうなるわからんしな。商売がみんな休みやでなぁ。料理屋が。
[稲葉1:03:06]あぁ、そうか。料理屋が休みなもんで、まぁ魚の商売がならんってことが、まぁ1つか。
[佐々木1:03:10]そやなぁ。
[稲葉1:03:13]あ、新聞にも載っとったもなぁ。あの鮎の。
[佐々木1:03:17]4万やったか、1キロ。
[稲葉1:03:19]結局売れんのやろ?
[佐々木1:03:21]ん?あれは競り。競りで買っとったんや4万円。
[稲葉1:03:26]あ、そうか。いやなんか、その出しても売れんっていうのは新聞に載っていたような気がした。
[佐々木1:03:39]やっぱ飲食業があれでなければ、鮎も売ったって出るにかぎらんよ。
[稲葉1:03:49]はい、まずはありあとうございました。
[佐々木1:03:52]いえ、こちらこそ。
[稲葉1:03:53]えーっと、今日は2021年の5月の13日、木曜日です。で、わたくしと佐々木は現在69歳。えー…佐々木は10月やった?
[佐々木1:04:11]俺9月。
[稲葉1:04:12]9月か。俺の方が8月で、まぁ70なるやら。まあそうゆうときにちょっと収録をしました。以上です。あっ、場所が、ここが岐阜県郡上市白鳥町恩地。
[佐々木1:04:32]593番地。
[稲葉1:04:34] 593番地です。まぁ100年後にここがあるか、どうか。
[佐々木1:04:40]大抵ないと思います。
[稲葉1:04:42]まぁ、そゆことです。以上、終わります。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[佐々木1:04:46]ありがとうございました。
[稲葉1:04:48]はいまぁこんなようなことで。いやこれが化けるんや。すごい資料になってく可能性がある。
[佐々木1:04:56]何にもならん資料かもわからん。
[稲葉1:05:00]いや、おれんたが今100年前の時に、この話があれば、
[佐々木1:05:20]どーやろな、サラッサラの川になってまわんか、大抵なぁ。
[稲葉1:05:26]いや、その前にどこの家に住んでいるよって話で、おまんとこはどうやろ、うちの前はおるおらんって、はやよ、結構なところがよ、嘘やろって思うくらいやで。
[稲葉1:05:47]はい、ご苦労さんでした。
④朝日澄雄さんのオーラルヒストリー
[稲葉0:00:03]こんにちは。今日は、朝日澄雄さんのオーラルヒストリーを録る、ということで、えー、朝日さんの、朝日さん、ここなんといったらいいですか?あの別荘?
[朝日0:00:20]あぁ、そうだね。私の隠れ家というか。
[稲葉0:00:25]そこへお邪魔をしまして、色々と話を伺いたいと思います。今日は、3月の22日なんですが、まぁ、そんなことと、朝日さんにまぁ、秘密やら名前やらからまず伺いたいと思います。朝日さん、よろしくお願いいたします。早速ですが、自己紹介をちょっとお願いいたします。
[朝日0:00:51]はい、分かりました。朝日澄雄です。よろしくお願いいたします。
私は1944年、えー昭和19年8月27日生まれです。私の産まれたのがちょうど戦時中でありまして、名古屋の北区で産まれました。で、あの、ちょうど戦時中で、ですね、僕が産まれた時は、ほんとに食べ物があの頃無かったもんですから、今日死ぬか明日死ぬかっていうくらいのほんと、栄養失調で産まれたそうです。で、僕も生まれて、うちの家族は、あのー、親父、お袋、それから兄弟、7人兄弟ですけれども。僕が産まれた時は、あの私が5男で産まれて、僕の上に1人、姉さんがいてですね、6番目だったんですね。そうゆうことで本当に、それも僕が産まれて9年間で、6人ということですから、ほんとに、あの、両親もですね、随分苦労されたと思うんですけれど。そうゆう中で、まず戦時中でありましたので、親父もその出身地が、郡上市大和町の大間見です。で、大間見で、あの親父がちょっと、こっちの方に来まして、そして疎開先を探しにきたんですけれど、郡上では、大間見の方では無かったもんですから、今の美並村の所の昔カッパラっていったんですけど、そこに見つけてですね、そこへ疎開を致しました。で、僕のすぐ1個下の妹がいるんですけど、そうゆうことで、僕が、その来た時には、まぁ、うちのお袋の親戚のカワシマヨシコって人がいたんですけれど、その人が愛知県中島郡の祖父江町の森下の生まれです。その人に私は面倒を見てもらったと、いうことですね。ほんと、僕も親父の話を聞くと、生まれた時はほんと栄養失調で、今日死ぬか明日死ぬかっていうような、そうゆうことだったんです。
そうゆう中で、その、美並の所に朝鮮の人がみえて、その人が豚を飼っとって、その豚汁の上みの、あの脂だらけのとこをちょっと流して、それで、飲ましたらちょっと肥えてきたっていうことで、そうゆうことも親父から聞きました。
で、僕も生まれた時に、あのお袋の在所の中島郡祖父江町のところで、えー、お坊さんにみてもらったんらしいです。その時は、「あっ、この子は、あの、坊さんに縁がある。」と、で、坊さんになると、この子は出世するようなことを、親父から聞きました。で、そうゆうことを親父から僕の小学校の頃に聞いたんですけど、そうゆうことで、それはまだ僕も小さかったもんですから、うわの空で聞いとったんですけど、まぁ、そうゆうことは親父から話を受けました。
で、私も小学校の頃、に名古屋でまぁ友達同士で遊んでた時でも、親父がちょうど鉄工所を、やっていましたもんですから、親父もですね、えー、今の大間見から10歳の時に、えー、こぞうに出かけたのが中島郡の祖父江町の方の鉄工所に行ったらしいんです。で、それで、工場へ行って随分、こう苦労をして、ですね、そこの親方の紹介で、今の、あのーお袋、朝日カズコですけども、で、お袋は名古屋の方で看護師、看護婦をやっとったようなことを僕は聞いたことがありますけども、そうゆうご縁で、えー紹介してもらってですね、そして親父は結婚したと。
[稲葉0:05:17]お父様の名前はなんていうんですか?
[朝日0:05:19]あの、朝日シゲジです。はい。ほんで、お袋の名前が朝日カズコ。
で、小学校の時にですね、僕がちょうど小学校6年生の時にそろばん塾に行っとりまして、そろばん塾から帰ってきたら、12月の5日やったんですけど、その場で倒れとったんです。で、その日に亡くなったんです。で、病名は脳溢血ってことで、両方のこの血管のこれを大動脈を切ってですね、頭にバーッと血が上っちゃって倒れたということで、その時は名古屋は寒かったですね、12月5日ですから、ほんで、それで倒れて、僕が帰った時にはもう寝とったんです。で、あのー顔が真っ青で寝とって、そして、あのー医者を呼んで、あの、やってもらったら、まだまだ医学は進んでいませんので、で、注射を打ったんですね、そしたら、打ったらすぐにもう早く亡くなったんです。もう、あの、僕が帰ってきたそろばん塾から帰ったのが、6時ごろ帰ってきて、ほんで、僕がお袋が9時半か10時頃亡くなった、その日の。
僕はすぐそれを聞いて、みんな、ちょっと近所に連絡してこいって言われて、僕が連絡ずーっと回ったんですけど、その時「いや、さっきまで話しとった。さっきまで話しとった。」って話ばっかで、なんであんな元気な人が亡くなったんだってことで、近所の人みんなびっくりしとった。
[稲葉0:07:00]それは、あの何年ごろ?
[朝日0:07:02]えーっと、僕が小学校6年生ですから、えー19年で生まれて、小学校6年生やと7つ上がり13歳ですか。ね、そうゆうことで、で、いってですね、で、すぐ、こう亡くなって、そんで、お袋もですね、すごく信仰心が深かったんでね、で、前から、こう、あのー血圧は高かったんらしいですけども、で、あの、よく、あのー京都の伏見稲荷だとか、それから、今のあのーなんだ、えー、「どっこいしょじょどっこいしょじょ」って上がっていく、あのー、ちょっとお待ちください。どこだったかな?
[稲葉0:07:56]それは名古屋ですか?
[朝日0:07:58]いや名古屋じゃないです。あのー、山を、あのー、あっ御嶽山だ。御嶽山の山を登って、そうゆうところで白衣を持ってですね、白衣にかんバンバンした。僕が見たんですけど。で、わしが死んだら、この白衣を着させてくれ、着させてくれって言って、あのいったんですね。そして、我々兄弟が名古屋におった時に長男次男がこんな、ねぇ縁起の悪いこと言うなって言って、あのー、お袋によく言ってたんです。そうゆう風なお袋で、まぁ、今思い出したと。そうゆうことですね。
[稲葉0:08:43]ほと、お父さんは、その後は1人だったんですか?
[朝日0:08:47]そうですね。ほんで、うちも兄弟はたくさんいますので、で、その中で、あの、お手伝いさん、昔でいうと女中さんですけど、今でいうとお手伝いさんを1人雇って、そして、あの、面倒みてもらった。で、それで、うちのおかあも会社をやっていますので、そうゆうなかで郡上の方からも何人の人が来て、一緒に食事してですね、で、まぁおったんですけど、そうゆうことが僕の小学校時代の思い出っていうのがね。僕もほんとに親父、お袋、それから兄弟みんなに可愛がられて、まあ育ってきた、ということで。
また、僕の友達もですね、あの頃まだ、昭和20何年ですから、日本のみんなが生活が苦しい中で、うちは仕事やっていましたので、みんなから財閥の子だとか、それから、社長の息子だとか、そういう風に、こう言われたりね。だけど、僕は、その頃、もうそうゆうこと言われること自体嫌で、ねぇ、親父は偉いけども、俺はもう、ただの普通の人間だと。んで、親父が褒めてくれるのは嬉しいけれど、その息子であって、ねぇ、だから、そうゆうのはまた、別問題ということで、よく友達にそれは言い返していたんですね。
で、そして、みんなと一緒に田んぼだとか、いろんなところ飛び回って遊んだり、それから、よくザリガニ、今でもね、ザリガニを釣ったり、カエル捕まえてそれを餌にしてザリガニ獲ったり、それから、田植えが終わったときに、ところにモコモコっと出てくると中に穴が空いとるんやね、そこ手を突っ込んで、獲るとザリガニが獲れたり。まぁ、そのようなことをして、あとは庄内川でしゅわい釣りやったり、そうゆうようなことをして、あとは友達同士でソフトボールやったり、そうゆうようなことして遊んどったっていうことが記憶にありますね。よく、あの庄内川へ夏は泳ぎに行ったり、で、ついたちに1回ナマズの大きいやつ釣ったことがあるんですけど、それをナマズを釣ったり、そのようなことをして、あの頃は、今と違って、遊ぶものもないですから、そうゆう外で、いろいろ、こう遊ぶというのが、我々の日課みたいだったんですね。
そして、小学校卒業して、お袋が亡くなった。そうゆう寂しさもあって、今度あの、中学校入ったんですけど、最初僕は、野球が好きだったもんですから、野球部入ったんですね。1年生の時に。そしたら、やっぱし先輩の人がね、まぁ厳しい先輩がおってですね、それで、もうちょっと言われたんやねいろいろと。僕は小学校の頃は、そうゆうこと言われたことはあんまないもんですから、それでもう嫌になって、すぐ辞めちゃったんですね、野球をね。で、野球辞めて、まぁ、普通の、あの、中学生みんなで遊んどったんですけど。僕が中学2年生になった時に、あの、やはり、こう、あのー中学校入ったらやっぱし、こう放課の時にサッカーをね、やってましたもんですから、サッカーおもしろかったもんで、んで、ある1級上の先輩の人が、僕に「おい、お前サッカー部入らんか。」ってことで、まぁ誘われて、そして僕がサッカーをやったんです。
[稲葉0:12:35]それは1年生ですか?2年生ですか?
[朝日0:12:37]2年生の時。2年生上がってからね、であの、サッカーやって、そしてまた、僕の友達もサッカーやって、で、サッカー部はね、あの頃おおちゃくかったんですね。いろいろとね、おおちゃかったもんですから、んで、1年間やって、ほんで、愛知県大会でも、優勝は志賀中は、僕は志賀中学、ねぇ、北区の志賀中学ですけども、優勝してですね。名古屋市大会で。そうゆうこともあったんですけど、あまりにも、サッカー部おおちゃくいもんですから、3年生の時にサッカー部解散なっちゃって。で、なっちゃってですね。そして、その時は、僕もやりませんので。で、後はまた元に戻ってですね。そして、まぁ友達と遊んだり、いろんなことして、あったんですけども。まぁとにかく、あの、中学校2年生の時は、おおちゃくなるので、やはりそうゆう時期ですから。まぁ僕もそう仲間にちょっと入ったこともあるんですけども。まぁ、そうゆうことで。
まぁ、あのー今の3年生の時過ごして。そんで、高校進学する時にですね、その時ちょうど名古屋市の中学の3年生ですけども、名古屋市のその、みんなの、サッカーの人達集まって、そしてチーム作って、他の愛知県だとかいろんなところで試合やるってことで、選抜チームがあったんです。で、その時に話があって、僕もその中学2年生の時にやっとったもんですから、僕と友達、ねぇ、タナカカズユキくんだけども、その人と一応メンバーに入って、で名古屋市の選抜チームの1回試合をしたと。それも憧れの、あの頃は名古屋の鶴舞公園、今でいうと、鶴舞(つるま)ですけども、そこでやったと。
で、卒業して、で、あの、まぁ、今の野球の名門校、名古屋のね。中京商業高等学校ですけども、今はそっから名前が変わって、中京高校、今、中京大学中京、中京大附属中京高校というように名前がどんどんが変わって、そこの僕は中京商業の時に卒業したんですけども。まぁ、あの頃は野球は名門ですから、野球部はプロ野球へどんどんいったよね。で、中日も入ってるし、それから、あの巨人にも入ったり、それから南海だとか、いろんなところに先輩だとかそうゆう人達が活躍されたということは聞いております。で、僕の中京商業入った時には、甲子園で1回優勝すると、応援歌ができるんです。その応援歌が、僕の時は9番まであったんですね。ってことは、甲子園で9回優勝したということです。春夏合わせて、とにかく全国優勝すると1つの応援歌ができる。それが9回、で、あってですね。で、僕の時には、あの、ちょうど、甲子園の時にもキャッチャーは木俣、木俣は中日ドラゴンズ入ったんですけども、もう1人は、ピッチャーは林ってピッチャーおって、その人は南海、あの頃南海ね、大阪のそこに入って、で、やってきたんです。
僕もサッカーで、僕は1年生の時にサッカー部入ってですね。えー、やったんですけども、とにかくその、初め、僕も入って、とにかく先生が、全日本の先生だったもんですから。その友達が、「こうゆう、いい先生がいるから」中商来んかってこと言われて。ほんと僕は、あのうちの会社は、鉄工所ですから、ほんと僕は工業高校行こうと思ったんです。で、工業高校行こうと思って、その時には、僕の兄貴が、レスリング部入っとったもんですから、僕はそこで、レスリングやろうと思って、おったんですけども、僕の友達のカトウマサカズっていう子が、こうゆう先生が来たんだから、朝日お前も中商行って、サッカーやらんかってこと言われて、んで、僕も気がそうかってことで僕も気が変わって、中商に入って、で、サッカーやったんですね。僕も1年生入った時には、サッカー部は40人くらい、こう来るんですね、サッカー部にね。それも今の三河の方っていうのはサッカーみんな、盛んだったんですから。で、大府高校だとか、かるいざきだとか、いろんなところの三河の学校から同じに入ってきて、そうゆう中で、僕もサッカー部入って、で、一生懸命やったんですけど。
最初、入学してから5月の時にちょうど鶴舞で、鶴舞公園でその、サッカーの試合があって、その時に、今からメンバー選ばれた人が、あの、明日鶴舞来いってことで、メンバーずーっと呼ばれたんですね。僕まだ1年生ですから、当然名前は呼ばれないと思っておったんですけど、最後に「朝日」って言われたんですよ。「えっ、誰?」って、びっくりして、で、僕も呼ばれて、鶴舞公園、で、1泊して、あくる日に試合だったんですけども。その日はちょうど雨がじゃんじゃん降って、暑かったです。じゃんじゃん降って、前の日にね。で、それであくる日は雨が止んだんだけど、ほんとにね、暑くて。その時、先生は、ちょうど試合が前半終わって、後半の時に、「おい、朝日お前出ろ。」って言うんですね、試合に。僕もびっくりして、当然僕も鶴舞まで行けん、そうゆう風で、僕は思っとって、それが行って、すぐに試合に出させてもらえるなんて、ほんとに僕もびっくりして、嬉しかったんですけども。で、いざ、後半になって、行ったら、心臓はドキドキドキドキしてくるわ。ねぇ、ほんで、足はガタガタガタガタ震えてくるわ。もうほんとうにね。まぁ後半のキックオフなったんだけども、初めの5分か7分くらいまで、全然、もう、浮足だっちゃって、全然できなかったんだけど。そうゆう中で、まぁ、それでも段々試合にのめり込んで、まぁ一生懸命やったんですけども。
[稲葉0:19:30]その時のサッカーのポジションは?
[朝日0:19:31]ポジションは、昔はフルバックっていって、今でいうとディフェンダーですね。ゴールキーパーの前です。の、前で僕は右のフルバック。んでフルバックで、今は、右のディフェンダーの方でおったんですけど。そこで、やってですね。そして、それがもう6月に入ってきて、あの、あとたいが試合がちょこちょこあったんですけども、その時、初めは前半出たり、後半出たり、ちょこちょこしとったんですけども、もう7月に入った時には、レギュラーで定着しまして。そして、その、8月になると、あの国体予選があるんです。国体予選ね。で、その時も、僕はレギュラーで出てですね。その時は、もう、愛知県であの頃強かったのが、刈谷高校だとか、それから豊田西高だとか、熱田高校、半田高校、それから僕たちの中京商業と。だから、僕らいつも、準々決勝か準決勝、の、だから僕は準決勝で負けたんかな。で、その場で負けまして。で、国体は、1年生の時はダメで。その次の大きな大会というと1月の正月から始まる、全国高校サッカー選手権大会、それも、その年の時は、準決勝で負けたんですけど。僕が、まぁ1年経って、2年生になった時に、今度は、3年生がたくさんおったですから、その時は強くて、愛知県でもいろんな大会出ては、優勝したり、いろんなことして。
でも国体を、まぁ、国体は出たんですけど、決勝で刈谷高校と試合やって、で、あの時は3-2で勝ったんかな。それで、愛知県で優勝して。その後は東海4県なんです。東海4県は、愛知県は、中京商業。それから、三重県は上野高校。それから岐阜県は、岐阜工業高校。それから、あの、静岡県は、藤枝東高校と。ほんで、その内4高出て、3高しか出れないです。国体は。1回勝たないとダメですから。最初に戦ったのは、あの、岐阜の岐阜工業高校と中商と戦ったんですけども。その時に僕たちは勝って、で、まぁこれで国体決まると。決勝戦は、藤枝東とやって、その次は3-2で負けたんですけども。僕たちもそれだけの実力はあったんですね。で、その藤枝東がその年の国体の優勝校なんです。国体のね、僕も国体でいけるってことで、ほんとに、まぁ嬉しかったですね。もうほんとに、ねぇ、サッカーやってて、よかったなぁと思って、で、まぁ僕も帰ってきて、家帰って、実はこうやって出れるんだということで。
10月のまぁ、10月入った時に、今度は、国体へ行ったんですけども、その頃は今と違って、新幹線が無いんです。ねぇ、だから名古屋駅へ朝、たしか、あれ9時半か10時やったかな集合して、東京まで8時間くらいかかったですから。で、東京へ行って、そっから上野まで行って、時間を待ち合わせて、国体列車に乗って、そして秋田まで行ったと。で、秋田へは朝着いて、そして、あのまぁ、秋田駅のところの食堂入って、食事して、それから今度電車乗り換えて、それから、西目村まで行きました。西目村は、今の僕の記憶では、そんなに大きな町ではなくて、まぁ白鳥と白鳥駅みたいなあんなような感じです。で、そっからちょうど電車降りてから、100mくらいパレードしてくれるってことで、ブラスバンド前に来て、僕たちはそこずーっと歩いてですね、左右の2階から、ね、「おーい」とかっていう声もみんなやってくれて、そうゆうイメージがものすごく強いですけど。で、それから歩いてから、バスが待っとって、そのバス乗って、宿舎まで行きました。
それから今度は、練習をしてですね、ちょうど国体行った時にですね、先生が言った言葉が、ほんと国体やと、開会式があるんですよ。開会式が僕ら出れると思ったら、出れなかったんです。で、先生が、「オリンピック行ってもなぁ、開会式出るとなぁ、僕たちすぐ試合があったから、試合があるときは、開会式行くと疲れるから、んだから、開会式は出れない。」ってとで、ほんとあの時は、ガクッときたですね。もう、そうゆう開会式のお客さんいっぱいおる中で、開会式の練習までしていきましたから、そうゆうことで、ちょっと、まぁ寂しかったんですけど。
それで、終わって、あくる日に試合があったんですね。それが、今の秋田県の西目村っていうとこですね。今でいうと本荘西目村かな、そこで試合をやりました。1回戦でやったのが、北海道のモヌマヒガシ高校、と試合をやりまして、その時出たんですね、試合に。まぁ通常どおり。で、やった時に、前半の時に、ボールが高くバーっと上がった時に僕がその場でジャンプして、ヘディングをやったんですけども、相手が僕にバーンとぶつかってきて、後ろバーンと倒れたんですね。その弾みで、今と違って、下が土ですから、ですから、それで、あの、手をバンッとついた時に激痛が走ったんでね。ほんで、走っても「痛い!」と思ってやったけども、それでも5分くらい頑張っとったんだけど、まぁ先生が気がついて、「朝日、出てこい。」ってことで、出たら、フラーっと、こう、ね、脳震盪を起こして、手がちょうどこうね、くの字になっちゃって、骨折だったんです。で、そのまますぐに行ってですね、病院行って、ギブスはめて、帰ってきたんですけど。1回戦は勝ったんです。で、勝って、2回戦は、大阪の明星高校とやってですね、それは今度は、会場が変わって、本荘っていうところ、秋田県の本荘市、そこで試合やって、その時、ちょうど雨降りだったんやね。その2回戦では負けたんですけど、そうゆうことで、まぁ国体行って、で、まぁ僕たちの先生は、あの名古屋クラブでやっていましたから、で、名古屋クラブが出て、だから僕は決勝まで、秋田国体のいいところ見させてもらったんだけど。そうゆうことで、後は、帰りは、また僕は手は左手ですから、左手をまぁ三角につって、帰ってきたんですけど、そして、帰ってきたと。
[稲葉0:27:33]その時は、今の日本のサッカー界の、「釜本」も、その大会におったんですか?
[朝日0:27:41]そうですね。あの人は、京都の山城高校、の出で、僕と同じ歳なんです。で、その時は、もう秋田国体の時に一緒だったんです。あの人は、その頃からものすごく有名だって、で、あの人は、その、ユースってあるんですね、高校生の上手い人が集まってくるユースがあるんですけど、そのユースのメンバーにも入っていたんです。だから、非常に優秀な選手で、その人が、まぁおったってことは、僕も知っています。はい。
で、そうゆう中で、それから、また名古屋に帰って、今度は国体終わりましたから、今度、全国大会の予選がある。すぐね。僕左手つっとって、で、先生から、ねぇ、「左手つっとっても、足は動かせるだろ。サッカーは足でやるんだから、ねぇ、ボールは蹴れるだろ。軽くなら。」ってことで、練習出てこいってことで、もうほんとに左手つりながら、ボールは軽く蹴っとったんですけども、で、その時にも医者行って、もうギブスはめ込み、それから、取ってからも、またリハビリせないかんですから、そんなような状態で、で、11月後半かな、終わりから12月にかけて、あの、全国大会の予選があるんですね。それはもう、1回戦で勝てば、シード校ですから、2回戦から始まったと、2回戦で勝って、当然勝ちますけども、2回戦、3回戦、準々決勝までは、僕は、もうベンチにおったたんですけど、準決勝から出よってことで、僕はもう左手にサポーター巻いて、もうガンガンのサポーター巻いて、試合に出ました。で、準決勝は、愛知県の熱田高校に勝って、決勝戦は、刈谷高校に負けたと。それも、僕たち優勢だったんだけども、延長、延長で負けたんやね。延長戦、延長戦。で、とにかくゴールキーパーがちょっと弱かったですから、ゴールキーパー、トンネルされるわ、そうゆうことで。まぁそうゆうね、苦い経験があったんですね。だから、ゴールキーパーだけ上手かったら、僕たちは完全に全国大会も出てます。で、先生も、その僕たちの、その技術的なものは、もうほんとに評価は、されてましたしね。
[稲葉0:30:25]当時のルールは、今のルールとちょっと違って、オフサイドがなんか違ったんですか?
[朝日0:30:30]いや、あのオフサイドは今とちょっと違う、かなだけども、よく似てます。はい。よく似てます。あの、だから、あの、まぁ今とね、全然フォーメーションは全然違うんだよね。フォーメーションがね。んで今は、もうバックでも前行ったり、いろんなことをして、やるんですけども、もう僕たちは、大体、こうルールが大体あってですね。サッカーの面白いのは、ボールどこ蹴ってもいいんですよ。前蹴ろうが、横蹴ろうが、後ろ蹴ろうが、要は相手のゴールにその、どうゆう風に攻めていくか、ねぇ、それは、その学校、学校のやり方ですよ。で、熱田高校は、キックアンドダッシュでボールをバンバン前蹴ってきて、我々はパスを回しながら、相手を、こう躱して攻めていくっていう、そうゆう戦法ですね。学校によって、全然違うんです。で、僕たちはそうゆうことで、先生から教えられたことを忠実に守ってですね。そして、まぁ決勝戦で、延長、延長で負けたんですけも。まぁそれで、僕の高校2年生は終わってですね。
今度3年生になった時には、その、もう僕たち、1年先輩の人が、もう7人ゴソっと抜けたんですね。7人。その時に僕たち最初40人入ったんだけども、途中やめる、どんどんどんどんサッカー部辞めたり、ねぇ、ほんで、レギュラーなれんって、やめたり、いろんなことあった。練習も厳しいですから。ほんで、結局残ったの3人しか残ってなかった。で、2年生も、まぁ30人ほど来たんですけど、みんな辞めちゃって。で、2年生はレギュラー1人、で、3年生3人。あと全員1年生ですよ。で、だから、僕たちの先生、ミズノ先生がその、ずーっと、こう見てもらって、僕が2年生まで見てもらったんですけど、先生は3年間の約束のあれが終わってですね、僕は知らなかったですよ。で、僕が3年生になった途端に、来なくなったんですよ。で、今と違って、コーチがいないんです。で、まぁおったの、キャプテンとマネージャーと、あと副キャプテンだとか、そうゆう人がおって、やってたんですけど、前は先生が毎日こう練習を見に来てくれたんだけど、先生がいなくなって、で、あとは僕は3年生になった時には、副キャプテンの役で。キャプテンはオカモトっていう子がキャプテンだったんだけど、ちょこちょこ休むんですよ、練習をね。ほうすると、やっぱり下級生に示しがつかん、っていうことで、今のミズノ先生が僕に「お前、あの、ほんとはキャプテンやってほしいんだけど、オカモトに責任を持たせれば、あれも当然練習出てくるだろうと、自覚持って。」ということを言ってたんやな。でも、相変わらず、まぁ昔とそう変わらんと。あの、サッカーは上手かったんですよ。で、そうゆうことで。
で僕もまぁ、あの副キャプテンなったけども、ほんと僕がキャプテンだった。1年生が40人くらい入ってきて、そして、まぁあの、練習をやったんです。先生はいない。だから僕はもう、全部僕とマネージャーで、練習のスケジュール作って、やったと。で、その時に僕もやっぱし、そのゴールキーパーが弱いと、もう、ね、あの大きい大会には出れないということで。とにかくゴールキーパーをしごこうと。と、いうことで、あの、センターフォワードでおった1年生のね、シロヤマってのがおったんだけど、それはよく体がちょっとガッチリして、大きかったもんですから、それを、あのゴールキーパーにしようと思って。で、僕はそれに話したんやね、で、「お前、あのゴールキーパーやらんか?」って言ったら、「僕は、もうゴールキーパーなんて。」って言うもんで、「ほんならお前サッカー部やめろ!」「ほんなら、やります!」ということで、で、そうゆうことで、強引にサッカー部に入れた。いやいや、強引にゴールキーパーやらした。その時に、すごく僕はしごいたんだね。で、ちょっと体が硬かったもんですから、柔軟体操、柔軟体操でも、僕はその前に、あの体操部の、ねぇ、こと知っていて、「ササキ」っていうんだけど、それに、「柔軟体操、上からやっても大丈夫か?」って言ったら、「大丈夫だよ、絶対に、あの骨なんか折れんせんし、筋も切れんで大丈夫だ!」ってことで。ほんで、体硬いもんですから、やはりスポーツは体がねぇ、やっぱし硬いと、あの、まぁいろんな、ねぇ、ことで怪我をするもとになるし、だからまずは柔軟体操で、5人くらいで、バーっと押さえてね。足はバンっとつかえて、後ろへガーっとして、もう足を広げて、もうほんとに、もう悲鳴が出たよ。ほんで、あとは、あの、練習の時に、ゴールポストをね、ゴールポストをこう触るんだけど、ジャンプしてね。それをあの、「50回やれ!」ってことでやって、1回でもかすったら、また0から。0からで。ほんで、それで1回かすった、はい、また0!また1!2!それでやって、ほんとにね、もうフラフラ。あとは、今度は砂場に連れてって、で、セービングの練習、横跳びのね。で、ボールをこっちやったり、こっちやったり、上やったり、いろんなことしながら、もうしごいたんやね。それで、ほんとにね、あの今OB会で、もう2年前亡くなったんだけど、OB会で会うとね、「朝日さん!今朝日さんとこれだで!」もういつも会う度に。そのかわりに、もう僕のいうことは絶対に聞いたからね。「何言っとる?!」っていうことで言うとパッと、そのねぇ、引き下がったりしとったんやけど。まぁそうゆうことで、ゴールキーパーをとにかく、あの上手なゴールキーパーしなかん!ってことで、ほんで、しごいたんです。
で、1年生が7人、3年生が3人、2年生1人で。僕も3年生の1人ですけど。とにかく僕は、1年間で愛知県で優勝のできるチームにするんだ。と、ね、で、みんなの前で誓って、ですね。「やる気があるものは出てこい!」と、「やる気の無いものはサッカー去れ!」と、ということを言って、それから猛練習を始めたんですね。まぁ、とにかく1年生はまぁ、主ですから、その中で、その、たまたまボールをね、あの無くなったことがある。で、1つか。で、あんまりボールも無かったもんですから、あの頃ね。ほんで、1年生たるんどると、もう叱りつけてやったんですね。ほんで、ある時、1回全員30分くらい正座させて、それも、あの土の上で正座して、で、その土を払って座るもんなら、全部そこへ石ころ集めてきて、「座れ!」ってことで。まぁそうゆうようなことで、んで、「立て!」って言って、立って、すぐそのままグラウンドをバーっと走るんですね。みんな、もう足が痛いわ、それでも僕も千頭きってですね、心を鬼にして頑張ったですね。で、ある時は僕の同級生のもんが、やはりこう後輩から、言われて、僕に言ってくるわけですよ。だけど僕もとにかく、全国大会行けるだけのチームにするんだっていう気持ちがあってですね。その、まぁ同級生のもんと口論になったり。で、それで、まぁ、あの最初のうちは2回戦、3回戦、負けたんだけど、だんだん力を付けてきて、そして、くれには、あのほんとに全国大会の決勝まで行きました。で、あの、初めは弱かったですから、普通はシード校で組むんだけど、4校ね。シード校ではなく、1回戦から、ずーっといって。で、1回戦で勝って、2回戦ずーっといって、決勝までいってですね。で、決勝の相手が刈谷高校です。で、前半は、0-0で。もう、その決勝戦に、ミズノ先生は招き入れたんですね。それまで全部、自分たちでやったんです。今と違って、監督おって、コーチおってって、こうゆう風じゃなくて。全部自分たちの練習スケジュールから全部作って、もうやったと。2年間のことを思い出しながら、練習をやってですね。そして、まぁ、ちょうど全国大会の愛知県の決勝で、僕たちは負けたんです。その時は、後半にバタバタっと入れられて、5点入れられちゃって、で5-0になった。前半は五分だったんですよ。で、このままやと、やったんだけど、やはり、向こうの実力は1枚も2枚も上で負けたんですけどね。それで僕はサッカーを卒業ですから、そこで終わり、と。
で、そして、ちょうど、まぁ年が明けて、1月の後半になってくると、今度は、就職か、ねぇ、進学かってことで、あって、その時に、僕と一緒の先輩の人がトヨタ入って、サッカーで、ですね、その時に僕にも声がかかって、お前トヨタ来て、サッカーやらんかってことがあったんですけど。ちょうどミズノ先生と、ハシモト先生がみえて、で、「朝日、お前どうするんや?」と、で、僕が「就職します。」と言ったら、「ほんとはな、大学行くんか。」と、中京大学ね。「大学来て、そして卒業したら、高校のサッカーの監督やらんか。」という風に言われたんです。で、僕は先生に向かってですね、「先生、大学は、特待生ありますか?」って聞いたんですよ。その頃、あの中京大学そう強くなかったですから、「いやー、特待生無いんだぁ。」って言って、「じゃあ、先生、僕は就職します。」っていうことで。それで、もう先生にトヨタへ、あのトヨタ自動車に就職したんですね。
試験も受けて、で、トヨタ入って、で、まぁサッカー。その頃は、ねぇ、当然、あの部活やってると、当然、その練習がありますので、だから、3時頃から練習やるんかなぁとか思ったんですよ。まだ高校生ですから、甘い考えを持っていて。そして、就職したら、なーに、みんなと一緒です。朝8時から、トヨタはあの頃、4時が定時で。朝8時から4時までで。それから残業が2時間くらい。で、6時まで練習して、で、それから、そのまんま7時から練習ですから、で、着替えて、それで歩いてグラウンドまで20分くらいかかったもんですから。で、行くと、もう着替えて、すぐ練習ですわ。で、昼にご飯食べて、そしてあの頃食べ盛りですから、で、その、練習終わって、終わると、9時、9時過ぎる。で、練習終わって。それから寮まで帰ると、寮はもう食堂が閉まっとるんです。で、閉まっとるもんですから、中は入れない。もう腹が減ってる。それで、外へ出てって、あの頃は、スガキヤのラーメン、1杯20円の3分でできるやつが、湯かけて、ねぇ。あれを買って、で、それを作ってもらって。それから、オダマキだとか、ソーセージだとかを、ちょっと食べて。給料も安いですから、ねぇ。だからそうゆうのを、ちょっと食べて。まぁ空腹、もうほんと空腹だったんです。で、たまたま練習終わって帰ってきて、食堂空いていると、今度、2人分の、全部ご飯もおかずも、全部2人分持ってきて、もうそれ食べたり。もうそうゆうようなことであったんですけど。朝も、まぁあのどんぶりで飯食べるんですけども、もうパンっとすくって、キュッと取られるのね、ちょっと、そうゆうようなことがあってですね。
で、昼も、トヨタはもう時間は厳しいですから、8時にピシッと、ほんで5分前にサイレン鳴って、で、サイレン鳴ったらすぐ、手袋はめて、ラインに待っとると。で、8時になったら、サっと並んでいく。それも今度は、あの午前中の12時まで。その間に、トイレ行きたいとか、なんかあるじゃないですか。そうすると、その班長来るまで出られないんですよ。班長来ると呼んで、代わってもらって、その間トイレ行ってくると。終わって帰ってくると、班長と交代して、またずーっと作業。それで、今度は12時まで。12時のサイレンが鳴るまで、ずっと仕事。で、今度は、12時から1時まで休憩。55分なるとまた、サイレン鳴るんですよ。そうしたらまた、全部職場へ戻って、手袋はめて、1時になるまで待っとって、1時になったらサっと仕事。ということで、それから4時、5時、6時まで、ほんとに、みなさんの普通の作業と、全く変わらないことやっとってですね。こっちは体力がだんだん持たなくなって、練習をちょこちょこ休むようになるんやね。で、休んで、そんでご飯食べて、あとはねぇ、ちょっとパチンコ行ったり、なんかして、あったんだけど。そうゆうことしながら、8月ぐらいまで、2月の、3月ちょっと一週間前から、あのいろんなことありますので、それから、ずっといったんですけど。で僕もこれはダメだと。で、これでは体が持たんから、だからもう辞めようと、ということで、で、もう腹を決めて。9月に、あの頃、あの、全国の、実業団の、サッカーの大会があるんやね。で、それに向かって、今度あの8月、9月、8月じゃなかったかな、9月に入ってからかな、愛知県で予選があったんです。で、そのこと分かって、僕毎日練習したんですね。で、行くとまた、レギュラーすぐなれて、僕も、とにかく、まぁやるだけのことはやって、みんなから惜しまれるくらいで、ねぇ、成績を残して、辞めようと。いう決心してですね。で、毎日いったらすぐ、レギュラーなれて、決勝までいったんです。愛知県で。実業団でね。で、そこまでやって、で、あの1位、2位が全国大会、東京のとこで試合するってことで、その時点で僕は、辞める決心したもんですから、それで僕はもう辞めると。そうゆうことでそれで言ったら、みなさんから惜しまれて、「なんで朝日、お前辞めるんだ。」と。ねぇ。「お前、せっかく実業団の試合できるのになんで辞めるんだ。」と、言われて。でも僕の決心はここで辞めると。そうゆうことで、潔く辞めて、名古屋へ帰ったんやね。
で、名古屋の地元へ帰って、その時には、まぁ、僕も、親父が僕が中学校2年生の時に再婚をしたもんですから。だから、その、まぁお袋との、その、折り合いもちょっと悪かったもんで。僕が帰ってくると分かっとって、んで、親父とお袋と、姉さんと妹、それから連れ子が1人いましたもんですから、僕の2つ下のね。で、その人たちと石川橋行っちゃったんです。で、僕が帰ってきて、名古屋におって、今度僕は、兄貴夫婦のところでまぁ、世話になってですね。で、そこで、まぁお世話になったんですけども。まぁそうゆうことで、ちょっと、やはりお袋がいなかったままってことで、その頃ほんと僕も厳しかったですね。うん。人生がね。
で、そうゆうことであって、ほんで、僕もちょうど、名古屋帰った時に、僕の1年先輩のマネージャーをしとった「スザキ」という人がいたんです。その人がミシン会社、ねぇ、「シンガーミシン」というアメリカの会社ですけども、そこに務めていたんです。で、僕も、その、辞めることをあの人知っていたから、僕に声掛けて、「お前うちの会社来んか。」ということで、言われて、いったのが、シンガーミシン。で、うちが鉄工所ですけども、全然はちゅじゅ違い、のところで、で、そこで、就職して、初め1年間は事務をしとったんですね、事務員で。
で、1年経った後に、マネージャーから呼ばれて、「明日から営業に回れ。」と、いきなりです。明日から行けと。どこ行って、いいか分からんし、で、今みたいに、いろんなことを講習を受けてからやるんじゃなくて、あの時は明日からやると。で、僕もその先輩方の、僕はあの頃シンガーミシンはね、あの部品運びしたり、それから、あの集金を全部その、お客さんを全部事務がやらないといけないし。それもあって、僕もどこ行っていいか分からんし、で、その、大須を名古屋駅からずーっと、こう東西に切って、それを港の方、が僕の担当やと。と言われて、先輩のそうゆうお客さんのところへ回ったり、いろんなことしながら、まぁ集金、集金先を教えてもらって、集金したり、時間があったら、今度はどこへ行っていいか分からんもんですから、喫茶店入って、職業欄の電話帳。あれ引っ張ってきて、縫製工場のあれを出して、そこで、あとは、あの、ネーム屋さんとか、シャチ屋さんとか、それからスーツだとか、ベビー服だとか、婦人服だとか、いろんなとこが、テント屋さんとか、ネーム屋さんとか、いろんなところがあるんです。そこへ全部手帳に移して。で、あの頃は名古屋は、あの、スーパーカブ、乗とって、それでスーパーカブであちこち回ったと。 で、あと僕も学校じゃサッカーやっとって、そうゆうようなことあんまり無いですから。そうして、一番最初に行った時に、ねぇ、カタログを持って、行ったんですけど、「こんにちわー。」って言ってですね。そしたら、上がっちゃってねぇ。向こうの人出てきた時に。もう、言葉はうわずっちゃうわ、顔はポーっと赤くなるわ、もう、ね。だから最初は名刺置いて、カタログだけ置いて、もう営業っての逃げてきたような感じだったんね、初めはね。それで、まぁ置いて、もう、すぐ逃げたくらいにして、あとはお客さん集金回ったり、部品を届けたり、まぁ、そうゆうことをしながらやったんですけど。
で、ちょうど、3ヶ月か4か月経った頃に、今度僕も、電話かかってきた、ねぇ。電話かかってきたやつを僕に貰って、僕の1台売った、2台売ったって。自分の実力で売ったのって、1台も無いです。電話かかってきたやつで、こうやったってことで。それで大阪からねぇ、その営業マンのベテランをまぁ、派遣してもらって、そのベテランの人に2週間付いてもらって、1週間は休みやったかな。それを3回くらい繰り返して。で、それで、ベテランの営業マンですから、まぁ上手ですよ。で、そうやって、こう付いてもらって、回って。そうしてその中で、自分はだんだん覚えていくと。で、そうゆうことですね。で、教えてもらって、終わって。その、しばらくした時に、あのー、僕も豊橋のまわり、こう行ったり来たりしてましたので、その時に、そこへ、部品だとかなんか、いつも電話の注文あって、そこへ届けたり、いろんなことしとったんですね。そこは大きな縫製工場だって、そこへ通ってたんですね。んだら、ある日行ったら、ミシンが20台ダーッと新品になってるんですよ。僕は、ビックリおこして、「何ですか?」って言ったら、同じシンガーミシンの中でも、商売やってる人がいて、そこから入ったみたい。で、部品だけうちから買った。そうゆうことで、もうそれでショック受けてね。すぐマネージャーに言ったら、マネージャーもそこへ行って、やって、んだら、もうね、もう入っちゃってるから、全然ダメだよね。で、その時はね、ほんとに人生灰色だったですわ。ずっと売れないとこへ、そんなことあったら、ほんとにね人生灰色で、ガクッてきて、もう辞めようかな、って思ったくらい。そうゆうことあってね。で、しょうちに今度は、愚痴をね、こぼしてたんですよ。
で、それでまたある時、まぁ、ずーっとね、回っとって。ある時、百貨店に、帽子を、ねぇ、卸せる会社があったんです。名古屋市やで。で、そこへ、たまたま僕は飛び込みで行ったんですよ。で、ちょうど社長さんとお会いできて、「おい、ちょうどうちもな、ミシンがな変えようと思ったとこなんよ。」で、話したら、「おう、6台買うわ!」って、話やった。えっ?!6台っていったら、ほんとにね、1台でも売れんのに。ほんで、棚からぼたもちが落ちたみたいな、そんなね、もうほんと嬉しかったですね。ほんで、それで、もう急いで帰ってきて、で、マネージャーに報告したら、「ほ?!嘘だ?!」ってことで、やー褒めてもらって、そうしたら、「朝日!お前な、こうやって売ったんだから、祝ってやる。出前取れ!」って話やった。そん時僕はね、ええかっこしたんですよ、あん時。「僕1人なら要りません。」と、ほんで、あの時8人か9人営業所にいたもんですから。「みんなに奢っていただけるんなら、私も喜んでいただきます。」と、そう言ったらね、ほんで、そうしたら、みんなも喜んでくれて。ねぇ。みんなでこう祝ってくれた、ってのは、ほんとに僕は嬉しかったですよ。で、それで、まぁそうゆうことがあって、それから、また、ねぇ。また、こう、あの営業に回ったりするんですけど、玄関払いだとか、いろんなこと、こんなんしょっちゅうですから。そうゆうことがほんとに繰り返しあって。で、1年経って、2,3年の時に、だんだん自分の力ですよ、1台、2台と売れるようになって。そして、あの、うちの、その営業の、ねぇ。セールス会議があって、その時に「朝日くん、お前今月何台売るんや。」こうあるんです。ノルマを自分で言うんですよ、何台、何台。で、それを全部出しちゃうと、もうこの次はオッケーでも、あくる月はダメですから。だから2,3台ちゃんと持っとらないかん。ほんとに。で、そうゆうことで、初めは3台とか、5台になって、で、だんだん7台になって、ほうすると必ずね、売れん時もあるんですよ。12月売れるんだけど、2月だとか、ねぇ、ニッパチっていって、8月だとか、売れないんですよ。こうゆう時は。ほんで、その営業は、売れないでは済まされないんです。そうすると、ミシンがありますので、会社のね。これを自分で売ったことにしたんですよ。このミシンは僕は、売ったことにして。それをあれを全部、伝票に書いて、ほんでエフを付けて、ベタンっ貼るんです。ほんで貼って、3ヶ月以内に、これ償却しないかん。売らな。それを、やって最高12台くらいまで、こう、倉庫に積んだんですよ。こうやって。会社の、営業所の中倉庫があって、そこに積んだ。僕の名前書いて。それを、だから、それをどうしても売らないといけない。で、だけども売れない。ほんとに悩んだんですよ。
それで、僕も、そうこうしているうちに、僕も立正佼成会、入って、僕の友達は、佼成年やってましたから。で、その友達はもう悪でね。僕もちょっと中学時代悪だったけども悪で。そして、その子と、まぁ正月、3日間ずっと飲んで。で、それから、まぁちょっと会わなかったですね。その間に、彼が立正佼成会に入ってたんです。で、会った時にね、ほんで、僕はちょうど中学校2年生の先生が創価学会やってたんです。その先生から電話あって、僕も創価学会のとこ行って、行ったらね、すぐ、こうみなさん入信ですよ。それで一応僕はおまんださんだけ貰ってきたんだけど、それをやる気は全然無くって、タンスに入れとったんです。で、入れとって。で、それで僕の友達は立正佼成会へ入って。で、夜ね、ちょうど青年のリクリエーションがあった時に、守山の瓢箪山の方まで、レクリエーションってことで、ちょうど僕は、夜そこの家に泊まって、話をして、「じゃあ俺佼成会入るわ。」と、「やるわ。」と言って、それから、その皆さんと一緒に行ったんやね。そこでは、もう男女の若い青年がおって、もうみんな元気よくやっとって、ほんで一緒に瓢箪山行って、そこでいろんなゲームやったりして、遊んで、帰ってきて。そうして、「じゃあ佼成会やるわ。」ということで。それが、4月の10日、4月の10日の時、僕は19歳、だから昭和38年ですね。昭和38年の4月10日に。いや、39年だ。39年の4月10日、に、入会させてもらって。僕は19歳、で、佼成会へ行くようになったんですね。で、その佼成会は名古屋の今の、あれはどこだったかな、ちょっと忘れたんですけど、中川区のとこなんですよ。そこへ通うようになって、その中で講座があったりなんかして、青年部の。その中で、男女が、同じいろんな境遇の話をしたり、悩みなり、悩みごと話したり、いろんなことで、こうあったんですね。
[稲葉1:00:06]それって週に1回くらいですか?
[朝日1:00:07]いやー、あの頃はね、週に2回くらいあったんですね。で、毎週日曜日は、もう名古屋協会まで、しょっちゅうこう行ったんです。そうゆうことで、その中でだんだん、あのいろんなことを教えてもらうようになって、ある時、その、やはり、こうね、人様のお付き合いの中で、僕のお袋のことが話が出てきたんやね。で、やはり、僕とお袋の間ちょっといろいろありまして、上手くいかなかったと。ほんで、僕も石川橋の方行っちゃって、それがその法座の中でのテーマになって、んで、自分が変われば相手が変わるということを、主任が言うんですよ、男の人がね。何で俺が変わらないかんのやと。俺何にも悪いことしてないよと。お袋が死んで、後からきたんだけども、何で俺悪いことしとらん、何で俺が変わらないかん。俺のどこが悪いんやって、いうことで、いやそうじゃないんだと。ねぇ、やはり自分が下がって、相手と接することによって、相手はこちらの鏡なんやということを、教えてもらって、そうして、そうなのかなってことで、半信半疑、あの今まで話もしたことなくて、それを自分は石川橋まで行って、そしてお袋と直にね、話をするんだけど、なんか初めはね、なんかね、おかしなもんですよ。ねぇ。そうゆう気持ちで行くんだけど、いざ面と向かうとね、言葉が出てこない。今まででこうゆう風にね、あったのが。で、それが、とにかく自分で努力して、こう自分が変われば相手は変わるんだということで、『いちげんさんげん』ということを教えてもらって、自分の1げんが3げん世界まで及ぼすんだと、ということを教えてもらって、それで2回、3回繰り返して行く内に、今まで行ったこと無かったんですよ。ほんで行く内にだんだん打ち解け合って、話ができるようになって、ほうして、あっ、多少は良くなったんですね。ほんなら、お袋から、ある時ネクタイ送ってもらったんですね。あっ、そうゆうことなんか、ということで、ちょっとは自分でもね、自信になったちゅうのかね、こうゆう風に変わってきたってのが、そうゆう心のあれが出てきて。
それから今度は、いろんな青年の悩みだとかそうゆうことをずーっと話は聞いてますので、そうゆう中である時また、きょうがくわんだいね、きょうがくわね、きょうがくがあって、そうゆう中で仏教のあれをだんだん勉強してきて、で、仏教の『三法印』ってことで、『諸行無常諸法無我涅槃寂静』。『諸行無常』ていうのは、世の中常に変化しとるんだと、全然変わらないものは無いんだと。『諸法無我』っていうのは、自分1人で生きていけれないんだと、みんなと一緒に共存の中で、生きていくんだと。それも、その人間ばっかでなくて、すべてがそうなんだと。この2つを自分が理解すると、その『涅槃寂静』苦しみの無い境地に行けるよ、この2つを無視すると、『一切皆苦』だよ、すべてが苦だぞと。とゆうことを教えてもらって、やはりそれはお袋と自分の間でも、自分が拒否しとる内は、なかなか交わらないんですよ。だから、自分が努力して、初めは上手くいかないんだけど、接することによって、相手はこちらの気持ちがだんだん分かってくれて、こうなるんだなぁってことは、ほんとにこう、まぁ薄々とそうなんだなぁということを思うようになったんですね。そうゆうことを、そうこうする内に、法座の中で、手取りに行くんですね、同じ仲間をね、手取りにいく。青年は青年のとこにね。そん時にうちの家内がね、僕は名古屋北区でいましたので、んで、家内も北区におったんですよ。で、それで法座の中で知り合って、そうゆう中で、今度手取りに行くようになって、一緒にスーパーカブ乗ってね、ほんであちこち行きよったんだけど、それも自分のカブでなくて、会社のスーパーカブで行ってそれで家内と一緒に。
[稲葉1:05:13]で、奥さんを後ろに乗せて?
[朝日1:05:14]後ろに乗せて。後ろに乗せて、ほんで、僕が運転して、あちこち行くようになって。用事が無ければ僕が1人で行ったり、来れる時は一緒に行ったり。そして家内と仲良くなってったというのは、そうゆうことですね。で、そうゆうことをやっとって、とにかく、営業、会社の営業の時にも、いろんなことがあってですね。そうこうしている内に僕が家内と結婚しようということになって、で、家内と、ねぇそれでプロポーズして、その時に僕が思ったのが、今のまんまでいいのかな、と。今のままミシン会社で営業しとっても、ええかなと。僕はあん時ちょうどね、帰りに、たまにはスーパーカブ会社置いて、バスで帰ってくる時もありますので、その時にちょうど栄でちょうどバス待っとって、で、ずーっと周り見ながら、ちょうど僕はね、やっぱしね、その、よくねピラミッドを思い出すんよね。頂点にいける何でもそうだけど、底辺はたくさんあるんですよ。ずーっと上がって、頂点にいけるのはほんの一握りの人が頂点にいけるんだってことをサッカーを通じとって思ったんやね、で、サッカー部高校でもたくさんサッカー部ある。その中で頂点、愛知県で1位になるのは、そりゃあもうなかなか難しい。また全国いくと、また底辺があって、そうゆうことをよく先生からも教えてもらって、で、その頂点へ行く、その為には自分努力しないかんし、自分には向いとるか向いてないかもよくね、ある。ある時先生がね、こうゆうことをおっしゃったんやね。高校の先生がね。高校の先生が僕もあの、まぁミズノ先生だけど、あの頃トクヒロタカシだったんだね。その先生がオリンピックの話、ほんで中学校の時に僕がオリンピックの選手になるっていったら友達から笑われる、と。絶対、背は僕とそう変わらんから低いですから。お前んたなにがオリンピックいけるだ、とみんなから逆に言われると。だから、そうゆうものはここに潜めてこう。胸にちゃっと入れて、そうしてと俺はオリンピック選手になるんだ、というそうゆうあれを持って、そうすると自分は努力すると、ほんで夢が無いと、努力のあれが違うって。で、夢を持てと。と、言われて、そして、そうゆうことを教えてもらって、あぁそうかと。それを僕はフッと思い出して、そうやなぁ。俺もとにかく、その、人生生きるような自分になりたいということで、やはりそうゆう夢を持って、で、家内と結婚する時に、僕はこのまま営業しとったら、どうかと。
ちょうどうちの会社があの頃朝日炭鉱だったんですけど、朝日炭鉱が、その今名古屋とそれから扶桑町、扶桑工場あって、いやいや岐阜工場、岐阜工場あって、その時に親父が、僕に「おいお前な、朝日フォージ手伝わんか。」と。という話があったんですよ。で、ちょうど岐阜工場は出来たばっかで、それで、お前ちょっとやって手伝わんかってこと言われて、で、その事聞いてたから、僕も親父にそう言ったんですね。会った時に、僕は実はこうゆう風で結婚したい、と。親父もその話が出てきて、帰ってこいと。で、僕はそれで帰る決心をして、まぁ朝日炭鉱に帰ったんですね。それが25日。あれは僕はたしか23歳だったかな、23,4だったかな。24で結婚したから、23歳だったね。の年にまぁ帰ってきて、2月の20日で会社辞めて、で、うちが締め切りは25日だったから、26日から、うちの会社を名古屋でね。そうしたら今のあの頃専務しとった長男です。長男が僕に「おい!澄雄ちょうどな運転手が1人辞めたから、お前トラックの運転手やれ!」って言われてさ、まぁ2,3ヶ月やれば運転手もくるやろうで、2,3ヶ月やらんかって話で、2,3ヶ月ならええわってことで、ほんで引き受けたんやね。ちょうどヒノレンジャーの3トン半だったんですよ。それで、まぁ引き受けて、運転したんやね。そしたら今と違って、パレットとかなんかがあんま無いんですよ。製品はバラバラにバーバーっと、トラック荷台開けて、仕切りは角材ね。長いやつで角材をこう仕切って、そんなとこでこう入れていくんですね。卸すのは全部スコップで。スコップで。で、それを3トン半とかね、多い時はまぁ5トンくらい積んで、走ったこともあるんだけど。それでまぁ岡崎だとかいろんなとこで配達するわけですわ。まぁそれで、大同メタル、ねぇ、美並にあるんだけど、あそこ本社黒川なんですよ。名古屋北区のね。で、そこへ、メタルとかなんかをね、積んで、あそこに卸したり、手で卸ろしたり、ベアリングメーカー、あの頃昔は東洋ベアリング。今のNTNだけど。そこの時にも、番線で縛ったやつを下からみんな放り投げて、荷台積むわけですよ。もーほんとにえらかったですね。で、それもやって。
[稲葉1:11:54]腰は大丈夫やったかな?
[朝日1:11:55]腰は痛かったですね。ほんで、全部卸さないかんし、積まないかんし。ほんで、それからあの、バラバラのやつはね、番線縛れんやつはバラで卸すわけですよ。今度スコップでやらないかんですよ。ある時あの岡崎のとこへ行くと、それを、田んぼ道通ってかなかんもんですから道が狭いんですよ。僕はヒノレンジャーで通れないから、だから今度はしゃーない向こうの2トン車をこう来てもらって、それを移し替えなんですわ。まあこれもえらくてね、あんまり僕もえらいもんですから。あの頃長男が今会長ですけど、専務やった時にまぁ話して、とにかくこれえらいと、ダメだと、なんとかこれをねパレットにしてくれんかと、パレットにね。で、それを頼んで、そうしたら、NTNにお願いしたら、そこへ台を借りるようになって、持ってったら、台を積んで帰ってくると。今度そこに台を積んで、リフトで載せるように、僕はこうお願いしてやってもらったんやな。そしたら今度他のところも全部パレットだとかね、ドラム缶とかね。そうゆうものに積んで、持っていけるようになった。また向こうで開けるようになって。でそうゆうことでちょっとずつこう改善を。あまりにもえらいですから、1人では。で、そうゆうことをやって、家内と結婚して、その時に親父が今の岐阜の御嵩町、御嵩はあの可児郡御嵩町ですわ。そこへ新築の家を作ってもらって、その隣が次男の兄貴夫婦。こっちは僕と家内と新居ということで、で御嵩町に新居を。
[稲葉1:14:05]朝日さんは5男でした?
[朝日1:14:06]5男です。
[稲葉1:14:08]と、3男と、4男は?
[朝日1:14:11]名古屋は3男、今本社、前あった本社が3男。4男が、可児の広見ってとこに4男がいて。長女は、まぁお袋と一緒におったけども、結婚して愛知県の方にいっとったんですね。で、次女はまだ結婚してない。で、僕はそれで、まぁおって、それからレンジャーに乗ってヒノレンジャーに乗って、通っとったんですね。名古屋行って製品積んで、扶桑行ったり、岐阜の工場行ったり、お客さんのとこ行ったり、いろんなことやっとったんですけど、でその時に、ちょうど僕は、ちょうどもうね、家内のお母さんも家内も僕がトラック運転してるのをやっぱ心配するわけですよ。事故をね。事故を心配するもんで、何とか僕に、トラックを降りてくれんかと、なんとか他の仕事やってくれんかと。ということを再々言われとったんやね。そん時に僕もそうだなぁそうだなぁってことで、僕も結婚してですね、ちょうど長男が腹に入った時に、僕もまぁほんとは3ヶ月のつもりでやったのを3年くらいやったんだから、十分これは言うことはできるんだからってことで、今度兄貴にそう言って。
僕はちょうど現場にね、扶桑工場の現場でオオツボさんって人がおって、あの人はね短気なんですよ。うちはグループでやってるから、3人グループで仕事やるんやね。そん時にオオツボさんは鉄を焼いて、プレスをきってやるんだけど、手が遅いから、生産性がどうしても低いわけですよ。あの頃は、受け取りで作った分だけお金もらうような、そうゆうシステムだったもんですから、それで、僕はオオツボさんとは仲良かった。よく話したりね。で、それで、そうゆう話は僕は聞いて、ほんなら俺ちょっと現場やろかなぁ、とそう言ったらね、ならオオツボさんがね、「おっすぐやってくれ。」ってことで言われて、ほんで僕はちょうど兄貴に、兄貴は専務だったんですから専務に実はこうゆう風で、俺もちょうど現場をやりたいなって言ったら、ちょうど専務もですね、オオツボさんがいろんなことで罵ったりするもんですから、悩んどったんやね。そこへ僕がそのことを言ったから、すぐ乗り気になって、「うん。お前すぐやってくれ。」って話になって、7月の1日から僕はプレスを現場でやるようになった。その時に愛知機械のゼロヨンイチというギアだったんやね。ギアのあれはホンダのスーパーカブ、スーパーカブの一番大きいギアだったんですよ。それを月に5万個か4万個か5万個か。毎月やったんやねずっと。それで手が遅いもんですから、あの頃生産性も悪かったもんですから、いつもいつもピンチピンチでこうきとったのを、僕は現場入って、やっぱしこう若いし、前スポーツしとったから、手も早かったんだね。それでもう僕も1週間か2週間くらい経ったら慣れてきて、早くバーっと打つようになってですね、今扶桑工場の中でも、生産をね上げた数字が出るわけですよ。会社の中トップになっちゃって、ほんで同じ人たちおるんだけど周りに、僕に言うんだよね。「お前には勝てんなぁ。」ゆうて。やっぱり僕もそうゆう小さいころから仕事場みとるし、そうゆうことで、ある程度は分かってるし、そうゆうことで運動もしとったから、運動神経も良かったんでないかなぁと思うんだけど。まぁそうゆうことで生産をずーっと上げるようになった。
ほんでそれでやっとって、そしたらちょうど、8月だった1年経った、ちょうど1年経った時やね。1年経ったに僕の友達から電話あった。僕のサッカーのあゆみやから電話かかってきて、そん時ちょうどねいつもだったら事務員がいろんな話でくるんやね、兄貴がくるわけです。俺にね。「おいお前アユミから電話だぞ。」ってことで、「はい!」ってことで、ちょっとライン止めてもらって、そして電話口いって、電話してから戻ってきたんやね。戻ってきて、そん時ちょっとアラジエがちょっと寸法がちょっと大きかったもんですから、やっぱりこう中に変えて、ちょっとね。だからそれを直そうと思って、ちょうどこう左手パッと置いて、そん時にペダル踏んじゃったんやね。ほんとはいつも切ってからいくんだけども、切らずにいっちゃったんです。それを手を置いた時に、プレスがバンッと下りてきて、そして薄いですから、これを8ミリくらいに潰しちゃった。手をこう、こうね。そしてここに手袋2枚はめてるから軍手を。それひっくり返って。それで僕はちょっと脳震盪みたいなの起こして、それを3人組でやってますから、それですぐに兄貴のとこへ、専務のとこへ連絡とって、僕を扶桑工場の神尾外科ってとこへ、すぐ近いですけど、そこへ行って、向こうでハサミで軍手を切って、そして見たら、ここ潰れとったと。手がね。それを今度はすぐに僕の家内の御嵩のね兄貴のとこに連絡入って、兄貴がすぐいって。僕に怪我したと、いうことですぐ印鑑無いと手術できんので、印鑑持ってすぐ来てくれってことで兄貴と一緒に神尾外科へ走って、僕はその頃もう、すぐ寝て、ベットにいて、もう手術。
[稲葉1:21:20]そん時意識はあったかな?
[朝日1:21:22]あのね、あったね。ほんで、やった瞬間はね、ブワーっと熱かったんです。手がね。ブワーっと熱くて。痛いんだってのは無い。うわーっとこうきたんやね。それからしばらくしてから、ガーッとこうきたんやね。しばらくしてから、その場はそうではなくて。それから医者へ行って、切ってもらって、軍手を切ってもらって、まぁ手術してですね。んだら、その終わったら、もうとにかく全身麻酔ですから。全身麻酔やってもらって、で、手術終わって、気が付いたらベットにおったと。気が付いてからが、もうすごく痛かった。ほんとにね。手が包帯グルグル巻いて、全然見てないですもん、どんな状態か。包帯グルグル巻きで、そうして、もうとにかくちょうどね海のこう波がね、ザバーっときて、スーッといって、またザバーッとこの繰り返しなんですよ。手がガガガガーっとこうくる、うわあってやつが、スーッと引いてって、またガガガガーっと、こうゆう、この繰り返し。もう痛くて痛くて。そりゃあねこんなもんやったらね、少々どんなことやられたって、この痛みに勝るものはないと思ったねこれは。ほんとに痛かったね。それで、手術した夜も寝れなかったんです。寝れなかったです全然。痛み止めの注射を打ってもらうんだけど、効かないんですよ。もう5分も効かんから、すぐまたグワーってくる。看護婦呼んではね、家内に言ってさ、呼んではね。とにかく痛み止めの注射を打ってくれと。もう打てないんですよね、あれですから。だから打ってくれない。もう痛くて痛くて痛くてね。ちょうどその時は、僕の長男が産まれて1歳の時ですね。1歳。7月の、ちゃう8月の1日ですから、長男が8月2日生まれですから、ちょうど1歳の時に、こうなって、そしてもうほんとに痛くて、1週間、違う違う違う1週間ばかりじゃない、2,3週間眠れなかったですね。で、その時に、いつも手袋とって、包帯とって、洗剤するじゃないですか、洗剤して、ザーっと縫ってるですから、その時に最初はね、看護師さん手を見るなっていう。見ると何でやとショックをうけるから。で僕は、ショックうけるから手見るなって言われて、だけどたまにパッて見たらね、ほんならもう指が無いわけですわ、2本ね。これであるのは親指と人差し指と小指です。ほんで、中指と薬指が無いんです。これがあって、ここにね、もうザーッとこれはみんなそうだけど、ずーっとこう縫ってるね、こう。こう縫って、こう縫って、ここもこうね。これはベロンとめくれたんですけど、これはもう動かない。それで、あって、それからもう手を見た時に、手はボンボンに腫れて、もうグローブはめてるみたいに。パンパンに腫れちゃってね。で、そうゆうことがあって。
で、ちょうど1ヶ月ぐらいを過ぎた時に、ちょうどあの僕の名古屋協会の佼成会のことあって、本部のだんさんがあったんですよ。だんさんね。1ヶ月経った時にだいぶ痛みもだいぶね、収まったから先生に「がいやくしても、いいですか?」って言ったら、「いいですよ。」ってことで言われて。僕も東京まで行く、佼成会の本部、東京なんですよね。名古屋からね。僕はそれに行くつもりでおって、ちょうど扶桑町からタクシー乗って、電車乗って、名古屋駅に来て、名古屋行ったんやね。そのタクシーに乗った時に、また微妙な振動があるんやね。微妙な振動。普通は元気だったら全然感じないんですよ。微妙な振動がある。ものすごい痛いんですこれが。それでもうグワーって痛くて、そして今度僕は電車乗って、栢森から名古屋駅まで名鉄電車乗ったんだけど、これも痛いんですよ。もうこれはとてもでないが、東京まで行けれん、ということで、家内にそう言って、東京行きは僕は辞退したと。ちょうど家内のお姉さんが名古屋におったもんですから、そこへ泊って。家内だけ東京に行ったんだけど、それは僕は行かなかったです。もうほんと痛くて痛くて、普通元気良かったら、何の関係ないですよ。だけど、こうゆう怪我をするとものすごく感じるんですよね。
[稲葉1:26:58]今ではどうですか?
[朝日1:27:00]今はもうおかげ様で。どうってことないです。
[稲葉1:27:03]あのよく無くなったところが痒いとかそうゆうことはあるんですか?
[朝日1:27:10]あんまり無かったですね。ちょっと痒いとここう掻いて、初め指がね、こっちだんだんだんだんこっちずーっと引っ張られるんです。こうゆう風に、で、これも自分でくっくっくっくっ下して、自分でこうやって、ここへこうやって、それからマッチをここへやって、挟んで、今度広げるように広げるようにこうやったんやね。今度マッチをやって、それをやったら、今度は茶わんを縦に持って、ほと縦のとこ開かないかん。ここ持って、力入れんでもここ落とすくらい、こうやって。ここはね、ピシーピシーって割れるんですよ。離れるんですよ。離れては、またやって、また治っては、またこれをやって離れては、こうゆうことの繰り返しだった。ほんで僕は恥ずかしいから包帯巻いてたんやね。いつも包帯巻いて、包帯巻いておって。そうゆうことがあって、それから僕も1ヶ月ちょっと過ぎてから、職場へ復帰して、現場はできませんので、だから今度は生産の、生産管理ですね。お客さんから仕事のあれを全部帳面に移して、みんな割り当てて、生産をするようにそうゆうものを、予定を作ってね。そうゆうことをやったんですね。で、そん時に僕も営業を前やってたから、お客さんのとこ行っては、打ち合わせ行ったり。仕事のね、次のお話をしたり、こうゆうことを出来たんやね。今まで自分がやっとったんだけど、今度は人にお願いをせないかんわけですわ、生産をね。なんとか納期優先ですから、納期間に合うようにせなかん。中にはね「お前やってみろよ。」とこうやって言われたりさ。僕前はね、すぐそうゆう売り言葉に買い言葉、であったんだけど、そうゆうことあったんだけど、手があってからやっぱしお願いせないかん。前みたいにこうゆう自分のね、「何?!」ってこうゆうことじゃなくて、話をして、相手を納得して、やってもらうように。だから随分自分のあれとは、葛藤があったんですね。葛藤がね。で、それでお願いしながらお願いしながら、下がってお願いして、佼成会でも下がり指導があるんですけど、また下がって、お願いしながらお願いしながら、そうゆうことでまあやったんやね。
そうしとる時に、たまたま親父がね、招集かかったんですよ。ちょうどやって1年か1年ぐらい経ってるかな。昭和でいうと49年か、昭和48年の暮れにオイルショックあったでしょ。オイルショックがね。ほんで49年。49年の時に、何月頃やったかな、あれ秋くらいだったかな、号令がかかったんですよ。我々兄弟に。ちょっと名古屋集まれって。
[稲葉1:30:37]家族会議ですか?
[朝日1:30:38]家族会議。家族会議。そん時に男連中みんな、来い。で、僕たちも行ったんやね。何事が始まるかしらん思って。なら親父が、ワンマン社長ですから。ね。「実はなぁ。」で始まるんですよ。いつものあれだわ。実はなぁ、っていうとなんか突拍子もない話なんよ。ほんでそん時に「実はなぁ、俺のなぁ。」その在所やね、うちの親父は大間見ですから大和町のね。あっちにな、白鳥のとこでな、あそこで工場をな、買ったんだわ。で、そうゆう話なんですよ。誰もみんな知らんですよそうゆう話。我々男兄弟5人誰も知らん。それから始まるんですよ。ほんで、誰がいくって話よ。そうすると、長男が扶桑工場の専務、次男が岐阜工場の工場長。普通でいくと、3男だから、3男、俺あんな田舎やだって言うしさ。田舎だし、雪は降るし、とてもでない、やだ。名古屋におるでしょ、やだ。次4男だわ。4男も俺もやだって。ね。ほんで次5男だから、僕のところなんよ。俺後ろ向いてもおらんよ誰も。で、ねえ。それで、もう渋々、僕はもうね断れん。後ろいないから。僕は来るはめになったんやね、こっちへね。それが昭和49年、昭和49年の10月くらいやったかな。ほんでその時に来るはめになって、僕は家内にそう言った。「実はな、こうゆう風で。」家内知っとるから、一緒におったからみんなね。会議の中に。家内も行きたないんだって。僕は名古屋生まれの名古屋育ちで、結婚して御嵩の方へ行って、今度は郡上でしょ。だんだん山奥になってる。まぁそうゆうことで、それで、まぁ親父が言うことだし、佼成会でも親孝行の話をよく聞いてたから、だから自分で引き受けたんやね、で、引き受けて、そうしてまぁよっしゃなら行くと決めて、そうしたらね、話聞いてからね、1週間以上僕は寝れなんだね。言ったことはいいけど、失敗して、ノコノコ帰れんしさ。みんなの手前があるでしょ。お前行ったから、何だお前ようやらんのかとかさ、そうやって言われると、それ嫌で嫌でさ。上手くいけばいいんだけど、失敗したこと、悪いことばっか考える。失敗したらどうしようなぁ、どうしようかなぁとかね、家内にも言えんしさ。あんまり不安なこと言うと、また益々嫌になっちゃって、ダメだから、それで自分自身にぐっと堪えて、で、とにかく口出しせんなと、先生のことを思い出した。ここに秘めよと、いうことで、それでおったんですね。
ちょうどその年その年が変わってから、親父のとこへ、正月に毎年毎年親父のところみんな集まるんだね、兄弟全部ね。で、そうゆう時に親父から、実はな、1月7日からうちは仕事始まるもんで昔はね、その時に郡上からな、5人、5人だったかな。ミノシマ君と、カワイクニオと、フルタケイイチと、それからオカダ君と、それから、4人か5人か、5人。岐阜工場へ、研修に来るわけですよ。こっちへ来ないかんもんですからね。初めは3月からこっちに来る予定だった。それで研修で3ヶ月間くらい岐阜工場へみんな行ったんやね。そしたら、年開けてね、こっちの人はみんな酒を飲むんだわ。酒を。ね。ほんで4男が、4男のミツヒロっていうんだけど。それが、その寮行ったらしいの、寮ね。工場の中にあるから、パッて開けたら、押し入れ開けたら、酒の一升瓶がズラーっと並んどったっていう。もう毎日あれは酒飲んどるぞって話で。
[稲葉1:35:50]ところで、朝日さんは酒はどうですか?
[朝日1:35:52]飲まないあんまり。
[稲葉1:35:54]そうですか。もしなんだったら、僕は飲んでいますから
[朝日1:35:59]僕はまぁ飲まんのだけど、酒がね、ズラーっと並んどったっていうから、それ聞いてさ、えらい。まぁそんなようなことあって、ほんで、そんで3月の予定がですね、今のオイルショックで、仕事が無いときてる。だから伸びたんやね。3月から5月に。
[稲葉1:36:21]それは、昭和40?
[朝日1:36:24]昭和45年。で、3月までやったけど、これを5月まで伸びたんやね。そうしたら郡上のね、カワイクニオおったんだけど、それが俺にね、僕がちょうど岐阜工場の方へ、今度そのこっち工場長ってことで来るから、いろんなね仕事の内容違ったから、来とったんやね岐阜へね。ほんなら僕をね、ちょっと呼ぶんよ。「今度来るのお前か!」って「工場長お前か!」ってこうくる。言い方こうやよ。「お前が工場長か!」ってこうゆう話なんよ。ね。そうすると、「そうや。」ほんなら、「俺はな、お前な3月まで、いつまで、いつになったら帰れる。」ってこう話よ。ね。ほんで、俺知らん言うてね。「俺はよ帰れんと百姓があるで、百姓せなかんで、はよ帰らせてくれ。」って話でしょ。そんな事僕に、俺に言われても分からんで、それはまあ親父に聞かんと分からんですもん。俺帰るぞって、そう言ってた。それはまた僕は親父に言って、親父から話あったんだよね。で、それでこっさのイヌイさんって人、イヌイコウタロウさんね。その人を通じて話をやって、一応5月まで、で、岐阜工場でやって、で5月の連休明け、ゴールデンウィーク、明けから白鳥へ来ると。
で、来た事はいいけど仕事は無いってやつよ。あの頃うちは底だったからね。で、十分扶桑と岐阜工場で十分間に合うし、それでも仕事が足らんくらいだから。ほんで、お客さんもだよ、今度NTNからこれだけちょっと出すわって1万個くらいくれたんやね。あと何にも無い。すぐ終わっちゃう。3日まで終わっても。あと次の仕事無い。それで僕は、やったことはいいけど、仕事は無いもんで、だから、みんな言うんだよね。俺らどうしたらええんや、どうしたらええんやって、僕も困っちゃう。で、だからその当時はちょうどね、ローリングのね、リング作ったんやね。大きいリングをね。その時にツーシーターやったんよ。いっぺん焼いて、あだちを作って、冷まして、もっかいそれを焼いて、それを今度ローリングかけてバーッと伸ばす。こうゆう仕事やったんやね。それを岐阜工場でやったもんで、岐阜工場でそれを、それを行って、そしてそれをもらってきて、担当者と話しながら、あだちはこうだこうだってことで図面書いて、これを何個何個何個ってことでその仕事を貰ってきて。鋼材も岐阜工場取りに行って、それこっち運んできて。で、そうゆうことで、もうほんとにあの頃何をやっても、で仕事は無い。で、今度当然仕事無いと給料に跳ね返ってくるわけですわ。ね。ほと、みんなから、ね。給料が安いもんで、何とかしてくれ、貯金がどんどんどんどん減ってくってちゅうわけよ。これ聞いてもさ、僕もどうすることも。で、俺はね、無い袖は振れんちゅうんやね。仕事の無いものはどう探しても無いんだと。これはね、我慢せないかんのやと。んだら、いつまで我慢せればいいって話よ。で、それ分かればいいですよ、分かればいいですよ、分からんですよ。世の中全体が衰退ですから、だからほんとに1年間えらかったですね。1年間。ほんとに。いつも岐阜工場行っては、新しい仕事貰ってきては、ねえ。また僕はここで寝泊まりせないかんですから。1週間に1回くらい帰ってきては、こうきて、ずっとここにおって、また帰ってきてやね。そうして経費かかるわけですよ経費というのは。新しいからね。いろんなもんやるとみんな金になるんですよ全部ね。
で、それとあと親父がたまに来ると、みなさんから僕のとこに面接来るんじゃなくて、イヌイコウタロウさんのとこいくわけよ。俺工場長やっているんだけどさ、向こうへいくわけなんよ。ほんで電話かかってきてさ、実はってこうくるんだよね。僕のところにね。イヌイさんと話して、オッケーもらったから、使ってくれって話なんだ。「何?!」で、それをイヌイさんと親父とツーツーで話してるから、俺も逆らうことはできないわけだわ。そうかといって仕事はない。どうしたらいいか、ってことでね。ほんっとにあの時はえらかったですね。もう。ほんなら今度は売上が上がらないから、今度経費がしっかりかかるからね。で、今度は兄貴から電話かかってくるわけ、「お前な、こんなことしとったら会社潰れちゃうぞ。何とかせぇ。」何とかせぇったって、無いものはね、何にもできないんだと。ね。出来んでは済まされんで何とかせぇ。だからあとは、時間短縮だとかね、休みを増やすとかね。それしかできないすよ。ほうするとそれが、ほんとにね、えらくてね。
で、それでもう思ったね。そうしたら僕はその時フッと思ったのは、佼成会の開祖様。佼成会作った時に、ちょうど妻子、自分の奥さん、子どもを新潟のとおか町に預けて、そして自分は法華経を、僕ら法華経ですから、法華経をこうせいりょくだって、その広めないかん。しんに様に。それを会長先生は男で、副会長さん女のわくそさんだけど、妙佼先生っていう人なんだけど、妙佼先生が副会長、の時に、会を作った時に、今の先生に向かって、汝はお前は法華経をこうせい部分の親子あるんだと。で、妻子を全部自分に最初全部預けろと、で、10年間法華経一本にやりなさいと。それからその時にはマスコミのテレビだとか、新聞とか、こうゆうのは一切ダメだと。三部経をこれをしっかりと読誦してやりなさい。あとは、一生懸命、こうせいるふしなさいというごしんじがかかったんやね。ごしんじというのは、神からの、ね。あれがかかったんやね。開祖様を通じて。その事を思い出した。立正佼成会の開祖先様も、開祖先様も昭和13年の3月5日ですよ。ほんで、アサヒフォージも昭和13年の1月の7日なんですよ。一緒なんですよ。出来たのがね。ほんでそのこと僕も思い出して、開祖様も会も作った時には、その10年間ですよ。10年間こうゆう修行しなさいってこと、僕ちょうど青年で入ってたもんで、研修会とかれんせいかいあるんですよね。聞いてたんですよ。協会長から、その話をずーっと。だからそれを思い出した。佼成会の開祖様もこのような修行をされたんだと。まだ、開祖先様のことを思うと、俺はまだ足元にも及ばんぞと。だったらこれは、僕はねやっぱし仏様から与えられた試練だなぁと僕は思ったんだよ。試練だと。これを乗り越えないかんと。で、その為には、やはり自分はね、しっかりと今の生活、従業員のみなさんのこれ、いろんなことをしっかりと自分がと心に秘めて、頑張らないかんってことをほんとに思ったんですね。ほんで、だから、自分が、もうとにかく自分は縁があって、ここに来たんだから、郡上へ。だから、俺は親父に、親父の顔に泥塗っちゃいかんと。この事をものすごく思ったんですね。で、初め僕は失敗してノコノコと帰れるか、と。こうゆう事をね、頭の中でパーッと渦巻いたんですね。ほんとにそう。それで、もうそうゆうことばっか思いながら、で、家内は御嵩でしょ。僕は単身で来とったからね。そうこうする内に、年が明けて、人はもう25人くらいになったのかな。もう、だんだんだんだん人が。僕のめいせい工場他のところから来るやつだから。もうそれで親父はどんどん人入れるし、僕たちずっと入れんけども、親父は入れてくるもん、なんともならんし。ほんで、だから、面接うちいくと、イヌイさんのとこいっちゃうからさ、あそこからこう回ってくるから。親父が来る度に、俺は愚痴をこぼしよった。
ほんで、親父が来る時は、親父扶桑工場だとか、岐阜工場来るもんで、そこへ僕は迎えにいくんだね。で、迎えにいって、親父載せて、そして帰ってくるわけですよ。それで、来る。また僕はまた親父載せて帰る。そうすると今度は、車無い時は、越美南線で帰ってくる。美濃太田からこう帰ってくるとかね。まぁ、そんなようなことを繰り返していた。ほんとにあの時はね、もう前途が暗かったですね。前ね。でも、これもやっぱし仏様が、俺に与えてくれた試練やと、ね。これをどう乗り越えるか。ここを乗り越えると、また明かりが見えてくるんやで、この試練をどう乗り越えるか。絶対甘い考えなら、全然ダメなんですよ。で、それで、それから、そうゆうことで、1日1日がほんとにね、暗かったですね。
で、僕は鮎釣りが好きだったからね、魚釣りがね。だから、5時になったら、5時前に帰ってきて、仕事帰っちゃってさ、5時のサイレン、ウーって鳴ったら、単車ブーンって、すぐ川へまぁ、走ってってね。あの頃、川へ逃げたっていうんかな、そうだったんですね。そうやって、朝は6時半頃には、川に行って、7時半頃帰ってきて、8時から仕事と。こんなようなことを繰り返しながら、そのシーズン終わっちゃって、夜はまた、あの、踊りですよ。ねぇ、踊りも、白鳥踊りあちこちあったから、でその従業員の1人ホソダって子がおって、その子が踊り上手かったんやね。ほんで、一緒に踊り行っては、最後まで踊って、で、帰ってきてから特訓ですわ。手がこれが悪いとか足がいかんとか、もういろんな特訓受けながら、そうゆうことやったんですね。で、すべて終わって、そうしたら今度は、その年冬が来たら、雪が今度ブワーっと降ってくるでしょ。雪がね。なんじゃこの、雪は降ってくるわ、年開けて、もっとどんどん降ってくるわね。ほんなら、今度従業員の1人のオカダっていう子がおってね、最初からおった子。僕に「工場長、心配しんでも春になれば消える。」って言わっせる。な。じゃあお前、春は分かるけども、春いつ来るんや、って。もう、ほんとにあの時はね、もう、仕事は無いし、雪は降ってくるし、ほんとにね、心細かったね。
[稲葉1:49:56]それは、ほんで、オイルショックと、まぁ創業したてということで、まぁ両方でなかなかスタートがしにくかったってこと?
[朝日1:50:04]そうそう。仕事じゃないです。ちょうど、今、ねぇ。コロナで、あったでしょ?もっとひどいから。うん。もっとひどい。で、だから、仕事も無い。そうかといって、ねぇ、従業員やらんわけにもいかんし。ほんで、ぎんこうちょうももらった。ほんで、だんだんだんだん今度仕事が、だんだん、ちょっと、こう、ちょっとずつ増えてくる。で、また、あの、白鳥工場で、お客さんから、あのスーパーカブ、あの、あのね、シビック1台買うと、ねぇ、ほうすると、あの、スクーターみたいな、スクーターじゃない、ローラー、スローローターっつって、こう持ってって、後ろへ足を蹴って、あの走るやつあったんですよ。で、あれがちょっとこうあって、ねぇ。それが1個10円なんですよね、加工費がね。1個10円。で、それ一応さんに変わっとる数値がね、昔のやり方だと。それをね、やらんか、って話や。で、ほうすると、赤ってこと分かっとるんやけど、ねぇ、やらんわけにいかんですよ。仕事無いから。それで、僕は、このやったんやね。従業員からさ、小さいもんで、やれはせんわね。で、線が取り出せんそう言うん。ほんで、どうしたらいいんだってことで、こう、僕に電話かかってきて、ちょうど親父がいたもんですから、親父にこれどうやって作ったらいいんやって、僕も現場体験短かったから、親父に相談したら、ほんだらなに、これをこうひっくり返してやったらどうだ。と、こうゆう話があって、前は従来通りだと、ここに段差があるもんで、出す時引っかかるんやね。これひっくり返すことによって、こっちが平になって、上から被せてくるもんで、上手くポンポンとつくだけだから、そのことがその発想で、フッとこう思って、あっそうかってことで。それで、あの、すぐ、フォルダーをまぁ、せんばんこ巻いて、すを作らせて、それに変えたんや。そうしたら上手くできるようになったんです。で、制作費もちょっと上がって。
だから、その時に、親父が言ったのが、「お前な、あの、安い仕事はバカの仕事。ね。んで、儲かる仕事誰でもやるぞ。だから、それはな、みんな競争相手がたくさんおって、そんなことしとったら、その、会社がね、上手くいかんよ。で、安い仕事だとみんな手を出さないから、だから、これを、儲かるように、安いから安いんじゃない儲かるようにするためにはどうしたらいいんかってこと考えろ。」と。これをね。だけど、単価は変わらんですよ。生産性上げるか、人件費を抑えるか、ね、材料ぶるまにもっとよくするか、そうゆうことしか無いわけですよ。値段決まってるから。で、だから、そうゆうことで、親父から言われたこと、ピーンときて、これを、カバーひっくり返ることによって、その製品出すのを簡単に出せるようになるから、生産性上がるなぁと。ほんで、あの、あまりにも軽いから、うち鋼材を切って、こうせんたんきゅうでやっとるですよ。ほうすると、3本、普通は6本とか10本いるんだけど、3本入れたら1日以上あるからさ、3本か4本にしといて、だんだんそれでも半日あるわけですよ。4時間くらい。ほんで、またそれを昼からと、そうゆうことで、とにかく、なんでもいいからやると。ということだったんですね。で、それが、ほんとにね、その初めのころはそれで、それでなんとか、1年経った頃には、だいぶ景気がずーっとこう上がってきた時に、ちょうど、うちのね1年経った昭和51年の6月に、竣工式をやったんですよ。竣工式をね。で、それから、今度は、白鳥の町長さんとか、白鳥の今の区長さんとか、いろんな人を呼んで、ほんで、お客さんも来てもらって、ほんで、をやったっていうのが6月だったんですね。で、それが、きっかけですね。今回のなんかあります?
[稲葉1:55:06]いや、あの今の話で十分で。で、後は、その会社の経営が、まぁ波に乗っていく?
[朝日1:55:15]そうそう。まだ、これでもってとこで。
[稲葉1:55:18]まぁ、とりあえず離陸をしていく、という?
[朝日1:55:20]そうそうそう。まだ、離陸っていうか、ちょうどエンジンがかかって、スタートのしかけですね。そうゆうことですね。
[稲葉0:00:02]それでは2回目を始めますが、今日は4月の15日です。2021年の4月の15日。前回に引き続きまして、2回目として、また続きを朝日さんに話をしていただきたいと思います。朝日さん、またよろしくお願いいたします。で、前回あの、途中でしたが、またあのダブってもいいんで、ちょっとゆっくりとその辺りの工場の話からお願いいたします。
[朝日0:00:39]分かりました。前回は、工場が競売にかけて、それで、たしか郡上ガスに落としてもらって、で、その後をうちが買ったと、いうことですね。それが、昭和55年だと思うんですけど、55,6年か。そうゆうことで、今の工場を使わせてもらって。で、それから、うちも従業員がおかげ様で順調に増えてですね、まぁ今日に至ったんですけど。そうゆう中でも、たかさごふじさんのことでもあったり、最初に工場を買った時に来た、祈祷師ってのが美並のヤマダさんですけど、その人は最初に今の白照神社ですね。神社を直せと。ということを言われて、そん時は神社はもっと小さくてですね、ぺんぺん草が生えとったんですよ。だから、ぺんぺん草が生えるということは、やはりそれだけ神仏を台無しにするっていうか、そうゆうような感じですから、まず神社を直すってことで、神社を直しました。それが今の白照神社です。白照神社ってのは、名前は、白鳥を照らす神社、ということで、ほんとは祈祷師さんは、朝日神社でもいいっていわれたんだけども、やはり僕はそれは会社の名前を神社に使うってことは僕もあんまり賛成はしなかって、僕も佼成会やってましたもんで、佼成会の協会長に頼んで、アソウ協会長やったんですけど。頼んで、名前みてもらう時には、白鳥を照らす神社で、照らすというのは、アマテラスオオミカミ。あそこ元々伊勢神宮伊勢神宮入っとったんですね。んで、伊勢神宮のアマテラスオオミカミを取って、白鳥を照らす神社で、それで神社を直したんです。その時に神社と、それから今の神社の中はいってるあれは、すわこ、すわこの方は農業の神様です。白鳥というのは、農業とか林業が盛んなところで、だから白鳥を照らすってことで、農業の神社で、農業の神様。うちは、鉄をやって、鍛冶屋ですから、それは大垣の南宮大社、南宮大社はそうゆう、鉄をね、だからカンナとか、それからノコギリだとか、そうゆうものの神社ということで、それで今の大垣南宮大社、だから3体入ってるんです。あそこにね。それを祀ってですね、やってたら、仕事の方も順調にずーっと増えていきまして、ほんとに、まぁありがたい話で、きたんですけども。そうゆう、やはり神仏を敬うってことも、非常に大切なことでないかなぁという風に僕は思いました。
で、それで、だから工場がこちらの方も広く、たしか7,500坪くらいあるんですよね。坪数とすると。だから工場の、材料置き場なんかも、こっち側に持ってきたり、そうゆうことで、環境は随分良くなってきました。で、やってた中で仕事の方も順調に増えてきてですね、で、お客さんが来てもほんとにお客さんも喜んでいただけるようになったと。で、そうゆうことですね。で、やはりね、駐車場もどんどんどんどん、従業員も増えていきまして、駐車場もできたし、そういう点では、今の住民のみなさんにも迷惑をかけなくなったし、そうゆうことで、ありがたいなという風にやっとったところで、今度設備の問題ですね。で、設備で、働く環境が悪いと、ある従業員が言ってきて、これは人間が働く環境ではないってこと言われて、そこで今のCT炉。CT炉というのはセラミックチューブ炉ということで、そのセラミックスのパイプね、パイプがあって、その中へ材料通すことによって、加熱して、それでスケールが付かない、先切っちゃいますので、環境も良くなって、熱いあれも無くなって、非常に良くなったんです。
それをやったことはいいんですけど、今度は金型がもたなくなっちゃって。金型がね。従来と全然変わっちゃったもんですから、それでその金型も探すのに、あっちこっち探してですね。ほんで、トライしてはエラー、トライアンドエラーとの繰り返しの中で、やったんです。やったことはいいんだけども、それでも従業員が、もう頼むよ、と。型作っても作っても全部ダメになっちゃってるんで、なんとかしてくれって言われても僕も今探している最中です。その時にちょうど岐阜工場の兄貴が富山の不二越、の材料があって、その鋼材のね金型材の。これを使ってくれってってこう貰ってきたんですね1mずつ80マルと100マルを1mずつ貰ってきたんですよ。そのふじこしっての僕も全然信用無かったです。そこの会社は。だけどもそのことで、いろんなね鋼材やっても全部ダメだったから、僕もやぶれかぶれで、それいっぺん使ってみよってことでそれでやったんやね。そしたら、あ、これいいよって話だったんですよ。いいぜ。そうかってことで、それに目を向けてやったんです。だら、もちが良くなったんです。前とは全然やり方は変わりましたから、良くなったんだけども。
今度は、大体、こう鍛造屋とかこうゆう仕事っていうのはね、みんなね職人の仕事なんやね。で、勘でやってる仕事が多かったんです。そうゆう中で今度は、もつ時はものすごくもつんだけど、もたん時はダメだという話になってきて、これは金型の熱処理に問題がある。だから今度は今まで勘でやっとったものを今度は全部データ化して、そしてきちっとやろうってことで。今度あのロムを扶桑工場にあったロム持ってきて金型の、焼き入れる、それでうちの方でちょっとそうゆうこと詳しい人がいたもんで、カニヤっていうものだけど、それでそれを作って、そしてみんなデータ化して、温度管理して、時間もキープして、やったんですね。で、油に入れて、なましろも、きちっと時間かけてなましてきた。そしたら非常にこうね、良くなって、それであー良かったなぁと。シーティーロを入れたことはいいんだけども、親父はもっと入れろ、もっと入れろって言われたんだけど。だけど僕も金型のことと、いろんなことあったもんですから。ちょっと渋っとったんやね。もう2台発注しちゃって、それちょうど間に合ったんです。で、間に合って、金型も変えて、今までは大きい製作所のやつ使ったけども、不二越材に変えたら良くなった。それでうちの生産性もグッとこう上がってですね、そして品質も非常にこう良くなって。お客様にもこう喜ばれて。で今度それをどのように横広げにもってくるか、ということになってきて、それをある品物からベアリングだとか、いろんな自動車部品にも、どんどんこう広げていったんですね。そうゆうことでまあほんとに良かったんです。
で、そうゆう中で次は金型は良くなった。ほんで今までは旋盤でこう作ったんだけども、NC旋盤出てきてですね、そして金型をNC旋盤作れば、いつも同じ金型が出来るんでないか、ってことで。で、それで親父にもそうゆう話したんですね。そしたら親父に叱られてね。こんなカチンカチンの金型がね、そんなNCで削れるか!ってことで、そうゆう事言われて、いや削れんなと。ということで、今までやったことのないことですから、で、それで無理やり頼んで、1台入れてもらったんだよね。そしたらうちの従業員中でフルタって子がいて、その子にこのMCせんばんのことをこうね来て教えてもらって。その人も、全然ねやったことないもんで、もうXとかXYプラスこうこうゆうことになるもんで。で、その時ちょうどね北海道の方へ慰安旅行あったんだけど、フルタ君に話したら、慰安旅行行ってもね、そのことばっか頭になって、慰安旅行ちょっとも楽しくないと。で、そうゆうことでそれから帰ってきて、その子がやるようになって、そしたらそのあくる年に今大和のタナカ君って子が名古屋の専門学校でてきて、その子がNC旋盤をタナカ君が引き継いで、やるようになったんやね。その子はもう向こうで勉強してきているから、スムーズにこう上手くこうね、バトンタッチできたんです。それで金型を作って、だから非常に良い生産性もグーッて上がってきて、コストも下がってきて、だから今度は親父はそのシーティーロを2台入れろ、また次から次へとこう入ってきたんんですね。そうすることによって工場の環境がどんどんどんどん良くなってきて、そしたら今度はやはりそうゆう風になってくると仕事の環境も変わったもんですから、求人も入ってくるようになったんです。今までは求人もね、いくら募集しても人が入ってこなかったけど、環境が変わって、ね。そして仕事もやりやすくなる。そうすることによって、すごくこう従業員も入ってくるし、学校からも従業員が来てくれるようになったと。いうことで、非常にこうありがたい改革ができまして、そしたら次はまた金型のうちはね、いろんな異形品がありますので、形状が複雑な。それを今度はNCのNCフライスの削るやつですね。その話をまた親父に持ってったら、こんなあれでドリルで削れるかってこと言われたんだけど、いっぺんに削れなくても、ねえ。少しずつ削ればいいんでないかと。で、これ自動でプログラム組めば夜中でも削ってくれるんだから、ということでそれもなんとか親父に入れてもらって、そしてそれでやったら上手くいったと。今度はそれを組むプログラム、プログラムの自動プロとかあるんですけど、それを今度はなんとかコンピューターで出来ないかってことで、またその話になったんよ。ほすると今度はそれを使う事はいいんだけど、プログラム組むって人もいなかったもんですから、今のタナカ君にそれやってもらって、そして今の自動のNCフライスは別の人にこう、その子が指導しながらやってもらうと、ゆうことで、ほんとにね初めは綱渡りみたいなことをやっとったんですけど、それがだんだん当たり前になってきて、そしてまぁ今日にダーっときたんですけどね。なにか僕は1つこうやろうとすると必ず新しいことですから、やったこと無いことばっかをこうやるもんですから、いろんなことがね非常にこうね、僕も心配するんだけども、そうかといって、なんとか工場の中を改革して、なんとかもっともっといい物をできないかなぁということで、まぁやってきたっていうのはほんとですね。そのおかげ様でお客様からも信用を得て、仕事はどんどんこう受注が入ってきて、新しい仕事に取り組むことができたんですね。そして切断工場も足らなくなって、新しく工場できて、そこへ今度は切断機入れて、それで材料切ってやるようになった。だから僕も考えてみると、1歩1歩、1つ1つを確実にそれをこなしていく。きちっとなったら、もう次のステップ。でステップをこう階段上るみたいに、きちっきちっと踏んでやってきたっていうのはほんとですね。
[稲葉0:15:58]ほんで、今度新しく工場が大島の方、そこで結局切断をするんですか?
[朝日0:16:05]いや、今のところで。だけども今度新しいね、大島のね、工業団地があるんですけども、そこは今の工場をみんな向こうへ鍛造工場を向こうへ移そうと、という息子の計画ですね。今のここの工場は、今度は機械加工しようと。鍛造品というのはあくまでも完成品ではなくて、鍛造した後には必ず、制作って旋盤加工ですね。旋盤加工して、そして焼き入れて、研磨して、そんで組み立てて、カーメーカーにいくわけです。そのうちの一番最初のところですから、それプラス今度機会加工までやって、焼き入れまでやって、そしてお客さんに提供しようと。今はおかげ様でね、ハブユニットといって、ハブベアリングですね。タイヤのところにつくハブです。それもメーカーによって全部違うんですね。それを今のNCフライスであったり、そうゆうことで全部できますので、機械も小さい機械をだんだん大型にしてきて、で、やはり今一番大きいプレスでは、2,800トン。それから2,000トン、1,600トンという風にだんだんだんだんプレスも大きくなって、そしてまぁ良い製品ができるようになると。今でもハブといってもタイヤは車の部品ですから、タイヤのとこ付くんです。で、タイヤは4つありますので、だからそれも外輪と内輪とあるとね、×2だよね。だからすごく量が多いんです。よく売れる車というのは、月に何万台と作りますから、×2ですから、2万台作って、4万個あるとか。全然量がバッとこう増えてますので、それを今うちが鍛造したやつを今度は機械加工持ってって、そこで制作して、焼きいれて、それからベアリングメーカーはいって、組み立てたらカーメーカーいくと、ということで、毎晩みんなね日産だとか三菱とかマツダだとか、こうゆうところがあって、トヨタは入ってなかったですね。トヨタっていうのは、やはり光洋精工がありまして、そこはまあやってなかったもんですから。でも、ホンダさんとかそうゆうところで、十分間に合って、やるようになってですね。で、それでうちも実績作ったんです。で、うちはなぜハブがこれでグッと伸びたかというと、まあうちの社長命令でですね、もう試作品を1週間で作れと。1週間で。図面が来て、図面こうゆうものできないかってことで加工図面がきて、それでうちで鍛造図面書いて、プログラム全部作って、試作作って納めるまで1週間。ということで、そんな鍛造メーカーさんいないんですよ。無いんですよ。だいたいもう1ヶ月だとか、金型作るのみんな外注先でやるとか、いろんなことがあったんだけども、うちの場合は全部社内で作りますので、だからそれで1週間で納品して、で、出す。そうすると早いもん勝ちなんですよね。ほんでうちでやったやつもすぐやって、ベアリングメーカー持ってって、そして全部試作で全部テストやって、それでオッケー出るまで大体半年くらいですけども、その間にまたお客さんとの、カーメーカーがね、向こうがね、やって決まるんですけど、あとコストだとか、コストも非常に数が多いですから、コストは厳しいわけです。それをいかにね、コストを安くして、そして良い物を作って、お客さんに満足してもらうものを届けると、いうのを真剣にやってましたね。
[稲葉0:20:39]今あの会社の従業員って何名くらいみえるんですか?
[朝日0:20:42]今現在は185名くらいいますね。で、今度は今の大島工業団地ですけどもそちらの方へいくと、またこちらの方もまた加工の方にいきますので、加工は全部NCとかそうゆうライン組んでやらないかんですから、まだまだ従業員も100名とか150名とか、それくらいは増えてくる、まぁ将来的にね、と思います。
[稲葉0:21:13]1番最初は何名からスタートされたんですか?
[朝日0:21:17]1番最初は9名からスタート。僕入れて9名です。でそれもみんな郡上というところはこうゆうね、工業ってのは少なかったですね。大体まぁ百姓とそれから今の山のね山仕事だとか土方だとか、大工さんとか、こうゆうことが主だったんですけど、うちみたいな工業が来て、やる時にも、あんまり無かったと思うんですけど。そうゆう点で。でも一番僕はね、前あの30代の時に青年がくしょ入ったんだけども、その時に郡上は北高と郡上高校と和良みんこうとみんな普通科なんですよね、あっても農業と林業とそうゆうことで、工業高校無いんですよ。だからね、うちは工業ですから、その辺のところは非常にね、厳しかったんですね。でも郡上の人は高校卒業して、そして専門学校行って、名古屋のね。電気工業高校あったんだけども、そうゆうところ行って、また帰ってきてって人もいて、で、そうゆうことで非常に助かってですね、で、その人は優秀ですから、郡上の人はみんなね、ほんとにね仕事は真面目に取り組んでくれるし、優秀な子が多かったもんですから、そうゆう点にはありがたかったですね。
で、そうゆうことで今順調にきて、そして僕は、僕の思いってのは、まず1人の人を徹底的に育てると。だから例えばメンテナンスの場合でも1人の人をしっかりと育てて、そして今度育ったら、次へいくと。だから遅いんですけども、それは確実なんだよね。で、例えば保全もそれから生産技術も、1人の人にやってもらって、その人にしっかりと勉強してもらって、それから次の人をこう入れてく。だからうちは郡上は非常にね、さっき言ったように工業高校だとか電気科だとか、いろいろありませんけども、でもうちは白鳥とそれから美濃と土岐、それから岡山、アメリカに3つ、それからインドネシアとありますけど、うちの保全だとかそれから今のメンテナンスね。そちらの方は白鳥がトップですよ。アサヒフォージの中で、トップです。だからうちもそうゆう子がアメリカ行ったり、あっち行ったりして指導したり、なんかしましたね、過去にね。それで郡上市は優秀なんですよね。だからやはりそうやってしっかりとね、仕事に対して打ち込んでもらうと非常にありがたいなぁという風に思っています。
で、そうゆう中で今度は次は、今度は音の問題ですね。工場のね。もう前も言いましたけど、音がやかましいとか、煙が出るとか、それから振動がくるとか、洗濯ものにシミがつくだとか、いろんなこう苦情があってですね。で僕は次にやったのが、離型剤ですよ。どうしても鍛造ってのは打ちますから、その時に離型剤といって、金型から製品を出さないかんですから、それをかけることによって、金型を冷やし、製品をスムーズに取り出せる、そうゆう物が液があるんですね。それ前は油でやってたんですよ、油で。油だと熱がありますから、煙がバーッと出るわけですよ。で、それを水溶性に変えたと。で、水溶性でも黒煙だと、黒煙で前やった、普通はみなさん黒煙でやってたんですよ。黒煙だと作業着が真っ黒けなっちゃうし、工場も真っ黒けなっちゃうし、こりゃいかんとってことで、僕は2,800トン入った時に、水溶性の黒煙にしようかなぁ、白にしようかなぁと、白色。ねえ。そのことを迷って、僕も半月くらい迷っとったかなぁ。いやぁもう白で!ってこうなって、で白から黒は簡単に変わるんですね。黒から白になかなか変わらんわけですよ。新しい機械ですから、工場設備全部新品ですから。基礎も全部。だから白から黒は変えれるけども、黒を使っちゃうとなかなか白に変えれないから。だから僕は白でいけってことで、白でやるということを決めて。そしたらみんなから絶対失敗するぞと。みんな黒に慣れてるからね。絶対失敗すると。いや失敗したら黒に変えればええってことで、そして僕は白にバンッと挑戦したんですよね。そして僕もその立ち会ってですね、濃度を薄めて、やはり水溶性ですから水で薄めれるんやね。でそうゆうことでやったら、そしたら上手くいっちゃったんです。これは作業者に聞いたら、調子ええよってこう言ってくれるから、これは良かったってところで、ほんとホッとしたんですけど、そのことをやることによって工場の環境が良くなるんです。それを僕はそう出して、じゃあ他の工場はみんなね、信用せんから、白鳥だけをどんどんどんどん白に変えてったんです。今まで黒の離型剤から白に変えて上手くいっちゃって、そして僕のちょうど次男がちょうどその頃岡山に工場作ったんですね。でそれで次男が、僕は白鳥工場の白鳥方式でやるってこうゆう宣言したんだよね。だから、あそこも新しい工場ですから、最初から白でやると、いうことで、白鳥も岡山も上手くいっちゃったんですね。そしたら今度はアメリカの工場を、黒になったやつを工場の中をみんなクリーンにして、綺麗に洗って、そしてそれを白に変えたんです。なら上手くいったから。そしたら今度は他の美濃だとかそれから今の土岐だとか、今は土岐だけど、昔は岐阜の御嵩にあったんですけども。その工場もだんだんだんだん白に変えて、今アサヒフォージでは、白が主流です。だから1つの挑戦がですね、ほんとにやったことやったことが成功して、ほんとに良かったなぁという風に思っています。
[稲葉0:28:55]それは周辺の住宅にも影響があるんですか?
[朝日0:28:58]それも今まで煙が出とったやつが油でやっとったやつを水溶性に変えた。それからそれを白に変えた。で、従業員の作業服も綺麗な作業服で通勤できるわけ。そうするとそうやってくるとみなさんの工場周りの環境も当然良くなってきて、で、その苦情がガッと減ってですね、あとは工場の音の問題。音の問題も前はスレエトでやっとったのをヘーベル50、100ミリとかそうゆうもので囲ってやることによって、音のあれも出なくなって。だから1つ1つの、だから振動もですね、その機械入れた時に下にゴムのパッキンを入れて、ゴムでも厚いね、高圧に耐えれるパッキンに変えて、そしてやったら振動も無くなって、んでその今まででとったところも、ちょうど5月の連休だとか、それから夏のそうゆうお盆休みだとか、そうゆう時にひいて、そしてだんだんこう解決して。今ではおかげ様で振動も無くなって、そして音もあんまりこうやかましい音じゃなくて、で、日直で夜も寝られるようになって、非常にありがたいですね。ほんで煙も出ないし。そうゆうことで順調にこうずっと上がってきて。
[稲葉0:30:38]朝日さん、そこにあの特許証があるんですが、その特許の話をちょっとしてもらえませんか。
[朝日0:30:44]その特許今これここにちょっとね、ショットブラストのシステムの、システムですから。ショットブラストというのは金属を鍛造して製品作るとどうしても酸化されるわけですね。熱を加えてやっていますから。その酸化鉄をとらなかんですよ。酸化鉄ってのはね、砂みたいで非常に硬いんです。で、そのままでやると今度は機械加工でバイトをぬかないとか欠けるとかいろいろとありますので、加工する時には必ずショットをかけるんですね。それをかけると小さい、ほんと小さい鉄の玉をぶつけて、ぶつけてこう回転させながら、で、それをショットというんですけど、それをそれをやると、製品をワンパレット、ガーっと開けますから、開けると音が出るんですよ。またショットかけてからまた音が出る。その音が前いっぺん測ったら、120~150ほうくらいの、ものすごいやかましいんですよ。傍におれんくらい。で、それを今度はやると、周りが住宅ですから、必ず苦情がもうくること分かってるんです。で、それでうちもハブの最後のショットを美濃工場でやったんだけども、白鳥で全部やらないと、なんか問題が起きた時にね、すぐ来いって言われてもなかなかね行けんから、僕は社長に「白鳥で完成までやりたい。」と言ったら、会長がですね。「お前な、やることはええけどもな、24時間やれるか。」って話だわね。ほんで「お金がお前いくらかかると思っとるんだー!」ってこと言われて、お金の問題もあるしね。その生産性の問題もあるし、だから僕はそこでちょっと議論したんですね。で僕は売り言葉に買い言葉で、やったるわぃ!ってことで、まあそれでやったんですけど。その時に、もうこれはね、どうしたらいいかってことで、その帰ってきてから、で、加工はヤマシタ工務店に頼んで、それからショットブラストのメーカーは、あるんですけど、そのメーカー呼んできて、それから棚も作って、まぁみんな呼んできて、4社で話したんやね。ショットブラストは新東工業。棚は村田機械。それから加工はヤマシタさん。それから僕と、4社で話をして、僕はこうやってやりたいんだと。俺やるんだと言って作ったんやね。ほんで例えば24時間じゃなくて、12時間だと2台いるわけですよ、ショットがね。だけど1台で24時間できれば1台ですんじゃうと。24時間できるから。そうすれば、2台買う、その時出なかったのがお金の話が出なかったんですよ。費用いくらかかるってこと、それだけ出なかった。それが非常に良くて、で、それで設備やったら大体いくらだったかな、全部で9,000万くらいかかったかな。1機がね。で、それでやったんですね。で、やったらうまくいっちゃってですね、それでもう、あのダッコも使わなくてよくなったし、それからその時ちょっとだけ問題点があったんです。その鍛造に入れたそのパレットのまんま開けますので、そのパレットをその台の上載せる。台がね。台があって、台は別のやつに移し変えてやってたんだけども、そうすると移し替えるだけの手間がかかるし、移し替えるとまたね傷が付くんですよね。どうしても鉄と鉄ですから、1個あの1.5キロだとか2キロありますので、それを無くさないかんと。いうことで、そのまんまをちょっとね台を工夫して、上にあげて、パレット載せても開けてもおってかないように。だからちょっといろんな工夫してですね。上にバーザイこうやっといて、それに引っかかってパレット下に落ちないとか。いろんなことを工夫してですね、で、やったんやね。そしたらほんとに上手くいっちゃって、で、それでやったら上手くいって、移し替えもないし、だからそうゆうことでそれもできて。
そして今の近くの松井特許事務所の人が、ちょうどその前に僕は友達で、近くの白鳥のところにかねこふとん店のかねこ社長と僕は仲良かったもんですから、話とったら、ちょうどカネコ布団店も特許とったんやね。その話聞いて、そうかと、松井特許事務所は近いもんですから話してすぐ来てくれて、僕はその人も面識はあったんです。で、それで、これ特許とれるかって言ったら、「あっやれますよ。」ってことでさ。じゃあやってくれるか。ってことで、そしてやったら上手く特許を取れて、その話僕は役員会で出したんやね。そしたら社長もですね、同時にきよるんですよ。あのニキとバリニキとね。普通は2工程でやるんです。それを1工程でやるってこと。そのことは前からうちもやってたんだけど、じゃあこれがとれないかってことで、それでやったら上手く図面書いてやって、社長もとったんです。そしたら今度は朝日工業の社長もですね、ローリングのやつをこれもうちも取れんかって、みんなやったら、朝日工業もとってですね。うちには僕と社長と朝日工業と3つ特許がうちもね、おかげ様で取れて、あるんですけども。ほんとにね松井特許事務所のおかげ様で、そうゆう風で特許も取れて、だからお客さんが来ると、これはどうですか。これうちの特許ありますよ、という話はするんですけども、お客さんもみんな感心して、帰ってかれるんですよ。みんなそれで悩んでるんです。もうどうしても音は出る、環境だとかいろんなことやって、全部自動ですればいいし、それを上手く24時間もできるようなそうゆうことを考えて、だからいろんなねことを言われることはプレッシャーを受けるんだけど、人間っていうのは困らないことにはね、発想は出てこないんですよね。順調でやってる時にはね、上手く発想は出てこないです。だからもうどうしても住民の人達のそうゆうことがあったり、いろんなこと考えて、みなさんに迷惑をかけないようにはどうしたらいいんかってことを真剣に考えないとできないっていうのは現実ですね。今このショットブラストもそう。これもほんとに今、今ではもうそれがもうだんだん量が増えますから、白鳥では2機あるし、で岡山にも2機あるし、全部24時間でできますわ。今の自動棚で、棚から自動的にもってきて、またかかったものを、またその棚にもっていくと。いうことでほんとに今のところはおかげ様で上手くいったなぁという風に思ってますね。はい。
[稲葉0:38:58]今出た社長というのは、朝日さんの息子さんのことなんですか?
[朝日0:39:02]いや、社長って僕の長男ですね。今長男は、今年は2021年の3月の27日に亡くなったんです。ほんでその社長が会長やったんだけどね。親父の、僕ら兄弟の長男ですから、今年の3月の27日に亡くなったんですけど、その頃にはずっと名誉会長で頑張っとって、85歳で亡くなったんですけども。3男の朝日工業の社長もだよ。今年の3月の5日に亡くなったんです。ほんで3月に、2人とも亡くなったんですよ。でそうゆうとで、まぁね亡くなって、今ではまぁ名誉会長やってたんだけど、僕らの現役の頃は社長だったから、社長社長って話したんだけど。
[稲葉0:40:02]そうしますと、今度朝日さんのお父さんはいつまで?
[朝日0:40:09]親父は、とにかく今の大和町の大間見を出て、そして中島郡祖父江町の方へ行ってですね。そして丁稚奉公して、10歳の時に行ったんかな。でそれからそうゆう農機具の昔の鍛冶屋ですね。そこへ、丁稚奉公いっとって、22くらいの時に、20歳くらいかな。時に一応奉公明けってことで、そこを辞めて、そして久保田鉄工入ったんですね。で、久保田鉄工入って、そしてそこで班長までやったらしいです。班長やっとって、そして班だから自分の部下がいるわけですよ。で、給料の話になって、交渉行ったら、生産上げたら給料を上げてやる、というそうゆう約束をしたらしいです。で、生産上げたら、「あっ、もう出来たんか。」って言われて。そしたらコストを下げると言われてさ、給料上げるどころか、ね。受け取り制度ですから、下げると言われて、それを言うたら、みんなが怒っちゃって、その責任をとって、僕は辞めると。いうことで、久保田鉄工辞めて、名古屋で自分で企業を起こしたと。それが昔の朝日です。朝日鉄工、それから朝日炭鉱になって、朝日炭鉱有限会社になって、それから株式会社になって、名前を変えて今カタカナのアサヒフォージになったと。いうのがこうゆう歴史あるんすけどね。
[稲葉0:42:00]いつまで元気だったんですか?
[朝日0:42:02]あれはね、親父は平成10年に亡くなったから。
[稲葉0:42:08]あっそうですか。何歳ですか?
[朝日0:42:10]ほんで、だからちょうど還暦、違う違う還暦でないは、米寿。米寿で85歳だったんかな、86歳。ちょうど、そうゆうことで、ちょうどその時はねうちがね、60周年だったかな。で、やった時にその犬山のホテルで、ね。米寿の祝いこうやってやりおったら、「あのな、米寿の祝いするとな、死ぬからいかん。」と言われたんですよ。で、それは迷信だって僕は騒いどったんやね。その年に亡くなっちゃった。ちょうど犬山の観光ホテルでやったんだけど、その時にちょうど60周年やった時に、米寿のこともやって、それが4月にやったもんですから、で、6月に亡くなったんです。そうゆうことで、親父が言ったとおりになっちゃったなぁってことで思ったんですけど。それが平成10年だったんですね、6月の5日に亡くなったんですけど。はい。よく覚えています。
[稲葉0:43:23]そうすると今朝日さんの兄弟では、あのーー、次男。
[朝日0:43:29]次男は、もう全部、今は2021年ですけども。僕の兄弟は全部会社を退いて、今3代目。親父が初代で、我々が2代。今3代目になったんですけどね。次男もそれから3男が、朝日工業の社長がさっき言ったように亡くなって。あと4男と僕と。うちは7人兄弟ですから、長女はもう3年前に亡くなって、今は次女は半田にいますけど、今、だから7人から3人家族、4人になったんですけど、はい。そうゆうことですね。
だから、今ほんとに考えてみても、いろんなことを挑戦する時ってのは、僕もね、自分のね頭の中でシミュレーションするんですよ。これをやって、自分でいろんなことをこう考えるんです。いろんなこんな、郡上店のね、こうなったらどうだ、こうやどうやとか、そうゆうことを考えて、これはいいなと自分で判断したら、それを役員会に持ってきて、話するんです。必ずね、反対者が必ずあるんですよ。何をやるにしても。満場一致ってことはまず無かったですね。僕は5男ですから、ね。いつも上からダンダンって言われる。でもそれに対して、ね。それを言われるから真剣に自分もやろうというそうゆう気持ちになってね。やはりプレッシャーはかかりますけども、それを上手く克服できて良かったなぁと。だから今の工場も今綺麗になったし、すべてがそうゆう中で、すべてにもう何をやるにしても必ず横やりが入ってですね、あったんですけども。それはあくまでも仕事上の上ですから。仕事とプライベートはまた別ですから。僕もそれを従業員に言うんですよ。やはり仕事とプライベートは別だから、仕事は仕事。プライベートはプライベートと。だから今どうしてもね、僕が見てると郡上の人たちというのは、横のつながりがありますので、こんなこと言ったらね、後でこう言われやせんかとかね、あーだこーだ言われやせんかとかね、そうゆうことがね僕はこう思うんだよね。というのは1つあるのは、いやらしいとか、そうゆう言葉をつかうんですよ。あくまでも仕事ですから。仕事はやはりお金を稼ぐとこですから。それとプライベートは僕はよく朝礼の中でも別にせえと、僕はよく言いました。
で、そうゆう中でやはりね、僕らもそうだったけど、僕はスポーツやってたから。スポーツの場合でも、個人スポーツと団体スポーツとあるんだよね。で、個人ってのは、自分だけ良ければ良いんよ。ボクシングにしてもそれから水泳にしても。こうゆう個人のスポーツは自分が強ければ、あとどうでもいいんですよ。だけども団体スポーツというのは、みんながレベルアップせないかんのですよ。そうすると、例えば僕はサッカーやってたからそうだけども、サッカーでも1人でずば抜けたって、周りがダメなら全然ダメなんですよ。だからみんなのレベルをなんとか上げてきて、そしてそれの集まりが、試合でこうやるんですけど、やはりまず個人個人のレベルアップをはかる野球もそうだけど、はかってきて、それを束ねるのがキャプテンであり、監督であり、ということで僕はね、やはり高校時代に、中学高校そうだったけど、サッカーやってきて非常に良かったなぁと。だから自分だけね、ええかっこしても、ダメなんですよ。だからみんなの底上げをはかってきながらはかってきながら、やってくと。それを束ねれば、ものすごく強い、そうゆう会社になるんでないかなという風に僕は思っています。会社は雰囲気が非常に大事なんでないかなと僕は思いますね。おかげ様で白鳥工場はみんな育ってますので。
で、もう1つは、よくあるのは、よそからこう呼ぶんだよね。例えば会社の中でも部長級だとか、そうゆう風の役職の人達をよそから連れてくるんですよ。それは、僕はあんまり好きじゃないんですよ。その会社にいなければ別ですよ。で、ある中でよそから来た人いきなり部長になっちゃうと、じゃあ今まで頑張ってきた人達はどうなっちゃうんだと。自分が出世が止められちゃうんですよ、そこでパパパパッと。僕はそれはね、僕は嫌ですね。だから僕は全部下から育てて育てて、そしてその次を入れて、そしてこの人が下の面倒見ながら、育てていくと、僕はこのやり方ですね。他の工場は違うんですよ。よそから連れてきたり、こうすると、やはりね、僕はあんまり好きじゃないですね。だから、育てろと。その代わり自分も真剣になっていろんなね。だから僕はね人を育てるには4つある。1つは、その人が向いてるか向いてないかっていうことがね、まず1つ。2つめは、時間がかかるんですよ。時間がね。だからすぐできることと難しいことはずーっと時間かかる。3つめは、お金がかかるんですよ。講習に行ったり、いろんなことでお金がかかるんですよ。4つめは、こっちは我慢せないかん。こっちの我慢。いつになったら、どうなんだろ、だからそれをグッと我慢して、その人を信じて、そして育てていく。だから僕は人を育てるには4つのこれをね、やらないと人は育たんなぁという風に僕は思っています。
だから僕も岡山に、1人あの電気3種とった子いるんだけど、岡山の工業高校あったんやね。津山工業高校。で、僕はその子を1人採用したんだけど、採用する時に「電気3種取りたいか?」って聞いたら、「取りたいです。」って言われたの。そうかと。じゃあ行くんなら名古屋来るかと。名古屋の朝日工業あるので、そこで働いて夜間行けと。夜間の電気学校行けと。分かりましたってことで名古屋来て行ったんやね。あそこ2年ですから、卒業して、電気3種は取れなかったんです。取れなかったんだけども、2年行って、そして帰ってきて、そしてうちから白鳥工場から、その人いって、そこで3年くらいかかったかな。で、そこで電気3種とったんですね。うちはどうしても電気2種3種いるもんですから。とったんですね。だからものすごく本人はね、感謝して、で、今その気になってですね、今岡山の課長で頑張ってますけど、若いですから、そうゆう頑張ってやっていますわ。僕が行くと、いつも挨拶きますわ。「こんにちわー!」って挨拶きて、「おっ頑張っとるかー?」って言うと、「頑張ってます!」って言って、元気良くね。だからやはり人のやる気を起こすってのは、下積み生活必ずありますので、それを克服して、そして次のステップ次のステップということで。だから岡山の電気けんとった人も、あちこちのそうゆうねセミナーだとか研修とかこうゆうこと行きながら、やっとったんですけどね。だからやはり僕はさっき言ったように、4つ。その人がまず素質があるか。2つめには、やっぱし時間がかかるよ。3つ目は、お金がかかるぞ。4つ目には、こちらが我慢せないかんと。ということをね、これを僕はそうゆう風に信じてやっています。はい。
[稲葉0:53:17]朝日さん、ここに本をおさえたんですが、本の話は大体これで入りましたかね?
[朝日0:53:24]まだかどうか。ね、やっぱしね、ここの中でパッと見て、逆境に勝る教育は無し。やはりね、いろんなことそうだけど、逆境ってのはじゃあなにが逆境だと。やはり自分の家のいろんなこともあるだろうし、それに対して、逆境に負けるのか、それを乗り越えるのか。だけど神仏はだよ、その人にとって、乗り越えない逆境は与えないんですよね。神仏は。それをそうゆう風にとるのか、これあかんと最初から辞めちゃうのか、だからいろんなね、例えばサッカーでもプロ目指してる人もいるだろうし、いろんな人がいると思うんだけど、やはりその中には、スーっていく人ってのはまず稀ですよ。みんなね。例えばスポーツの世界でも、入って順調にずーっと出れる人ってのは稀で、みんなね、1回や2回3回ね、もう辞めようとかね、もうねこんなん続かんとか、そうゆう人は必ずいるんですよね。だから今ではね郡上のね、あそこの辻下さんの、ね。池江璃花⼦。あの子の場合でも良かったんだけど、白血病にかかって、そしていっぺんグーっとこうきたんだけど、それを克服して乗り越えてきた。素晴らしいよね。そうゆうね、池江璃花⼦もそうだけど、だからみんなね、そうゆうね、だから僕はこれ、逆境に勝る教育無しと、このことによって、みなさんの感謝ってことでみんなのね。だから俺1人じゃないんだと、みんなが協力してくれたおかげ様でこうなったんだというね。だから僕は会社でもそう。僕個人は大したこと無いんだけど、みんながね、みんながそれに協力してやってくれたおかげ様で今日があるなという風に思いますね。だから、ここに逆境に勝る教育無しって書いたんですけど、こうゆうことはね、ほんとにそれに負けずに、その為には自分も反省もせないかんし、自分のどこが違うんだと、もっと自分はこうせないでないかとか。
だから僕は、この本の中で一番最初に書いてあるのは、まずね、夢。夢ですね。まず自分は夢を持つ。まぁねクラーク博士じゃないけど、『青年よ、大志を抱け』じゃないけど。やはり夢を持つ。ほんで夢を持ったら、それに対し今度自分の気ですね。気=エネルギー=心ですけど、やはり気というのは、やっぱし病気でね、見舞いに行くとさ、気をしっかり持ってねとかさ、そうやって励ましてくるんだけど、まず気ですね。だから夢を持って、その気になって、その気になってはじめて、次は向上心ですよ。現状に満足しない。必ず、ね。次のステップ次のステップ、ステップを踏んでって、そして向上心を持って、やっていく。ということが大事だから。僕はここで7箇条こう書いてあるんだけども、最初にでとるのは夢ですよね。夢から次なんだったかな、夢から今の気。気ね。
気から、1番最初かな。本にあるんだけど、温故知新ですね。温故知新は古きは温めて、新しきを知れ。温故知新でもね、今の若い子は、過去はどうでもいいって言うんだよね。過去はどうでもいい。今、それから未来に向かっていくんだと、いうことを僕は聞いたことあるんだけど、これ大きな間違い。自分は産まれたってことはね、産まれて成人しても、産まれた時は過去ですよ。現在ってのは、ほんの一瞬ですよ。ほんの一瞬。過去がいっぱいここにねあって、その過去の中には、失敗もありゃ、成功もありゃ、頭にきたことありゃ、嬉しいこともありゃ、楽しいこともありゃ、いろんなこと過去なんですよね。それを温めて、だから過去で失敗をしたことを、じゃあ次はこの失敗をあれにして、未来に向かっていくと。だから過去を壊しちゃったら全然ダメですよ。だから僕は温故知新ってことこれ書いたんだけど、やはり過去を大事にして、それをバネにして、そんで未来に向かってくと、現在未来という風に、という意味で、温故知新なんやね。
次は継続は力なり。それをもう3日坊主はダメなんですよ。それをずっと心に持って、その気持ちをずーっと持ち続けると。僕がちょうどサッカーやってた時に、ちょうど僕が先生がその僕と背が一緒くらいで、167くらいの痩せた先生でね。その人が、俺はね中学校の時に先生から話聞いたんだけど、僕はとにかくオリンピック選手になりたいと。口で言うと、みんなからバカにされるんですよ。お前がオリンピック出れるわけないだろってこう言われる。だから口に出すんじゃなくって、胸に秘めよ。秘めてそれを持ち続けろと。持つから努力する夢があって、夢があるから努力するんだって。僕はこれね、北高で話したんです。たしかあれ70周年の時にちょっと講演してくれんかって言われて、郡上北高で講堂でねこのことを話した。だからみんなに、ね夢を持て。口で出すな。出すとみんなから言われるから。言われるの嫌だったら黙ってろ。それで自分の夢をその中でどうしたらいいか、こうしたら、もっとこうしたらいいかな、もうせないかんかったな、お金かかれば貯金せないかんなとかさ、いろんなことで努力するんだよね。だからそうゆうことで僕は継続は力なり。夢を持ってね。で、あとは神仏を敬う。やはりね神仏を敬うってことは、現自分がここにいるってことは、両親がいるわけですよ。自分のね親の。その親もまた両親がおるわけですよ。3代遡るとすごく人数おるでしょ。10代遡ったらもう、ものすごくすごい人数なんですよね。だからそうゆう中で、やはり神仏というのは、目に見えないけども、だけどもその中にその教えがあるんですよ。教えね。神と仏と書くんだけど、仏様は、あくまでも元祖はお釈迦様なんよね。釈迦如来。神は、日本でいうとアマテラスオオミカミさんとかそうゆう。そうゆうやはりこう自然界。人間っていうのは、目で見えるものは信用するけど、目に見えないものに左右されてくんやね。1つ例を挙げると、じゃあ空気見えるか空気。空気見えないです。でも空気が動くということは、風ですよね。空気が動いて風なんですよね。風がこうくると、ヒューっとくるから、冷たい風だ暑いなとかいろんなことが分かるんだけど、これをじゃあ目に見えるかっていったら、まず見えないです。そこの中に酸素があったり、いろんなことがあるんですけど。そうゆうことで学校で習ってわかるようになって、だけど空気がじゃあ目に見えるか。そうゆうものに左右される。水もそうですよ。水蒸気が上がって、それが冷気に触れて、またおってきて、雨になるんですけど。そうゆうこの自然の動きってのは、これじゃあ引力もそうやね。宇宙行くと初めて分かって、引力無いもんでフワフワフワフワこう浮くんだけど。だけどもここに地上におるってことは、引力があるから、みんなおれると。そうゆうことで、人間は目に見えるもの信用するんだけど、目に見えないもの、だけどその中に真理があるんやね。僕は真理をやはり自分は学んでもらいたいなという風に思います。最後にそれをやったら今度社会貢献です。社会に貢献する。やはり僕もカンボジアに学校をね、中学校ですけど、作ったんですけど、あの何年前かな。前にカンボジアで作った。
[稲葉1:03:45]それ場所の名前は分かりますか?
[朝日1:03:47]名前はどこだったかな。これありますけど。それからこれ、ちょうど白山のところが1300年祭。泰澄さんね。1300年祭あった時に、僕はちょうど長男次男がおって僕は5男ですから、おった時に、今度1300年祭あるでなぁ。僕が「100万やろかな。」って言ったら、次男の人が、「お前な、1300年祭だぞ。100年でないぞ。」って言われてさ、その時に「0が1つ足らん。」って言われて、ほんで僕も1,000万にして、まあねそれを寄付させていただいて。そしたらそれがあるところに話したら、これはやっぱし郡上市の、郡上市に出した方がいいっていう話を聞いて、郡上市に持っていったんですね。そして市長さんに話をして、まぁやったんですね。そしたらそれが教育委員会に来て、教育委員会が今の韋駄天と善財童子とこの2つのレプリカを作るということで、それにお金を使ったと。それのあれで僕も紺綬褒章を頂いたんやね。そうゆうことで、令和元年10月30日にいただいたんだけど、それが宮内庁が作って、それが岐阜へ来た、県庁に、岐阜県庁。岐阜県庁から郡上市きたんですね。郡上市から連絡あってそして、日付は令和元年の10月30日だけど、僕がいただいたのは令和2年にいただいたんですね。そうゆうことで、うちに置いてありますけど、おかげ様で、そんな気持ちは何にも無かったんですよ。とにかく1300年祭ってことで、やったんだけども、それがおかげ様でいただけたということで、ほんとにありがたいな。自分が思わなくても、周りのみなさんがね、そうゆう風に助けていただいたり、いろんなことを評価していただけるなぁということを思います。
僕がもう1つあるのが、あそこの大島工業団地。これは2023年を目標に、今2021年ですから、あと2年後を目標に工場を作ってですね、そして鍛造をいっぺんではなくて、徐々に徐々に向こうへ持っていって、で、やっていきたいなと。それ今僕の世代ではなくて、次の世代の3男の息子がそうゆう気持ちで頑張っているから、それを陰ながら応援していきたいなぁという風に思います。
[稲葉1:07:00]朝日さん今の長滝白山神社ですが、そこは泰澄大師が由来があるんですが、泰澄大師とちょっとあの次の話をちょっとしてもらっても。
[朝日1:07:15] 泰澄大師のタイっていうのは、泰という字書くんですね。それは僕の、僕のお袋は小学校6年生で亡くなったんです。朝日カズコっていうんですけど、亡くなって。で、親父が再婚したんですね。したのが僕の中学校2年生の時にきたんだけど、その人の名前がヤスエっていう名前。ヤスは泰澄大師の泰っていう名前だったのね。江は江戸の江で。で、僕は澄雄ですから、澄っていうね、こうゆう字書いて泰澄の澄ですよ。なんかね、そうゆうことで、僕が郡上へ来た時に僕は5男ですけど、ここは3番目の工場で、本当は3男が来なかん。まぁ日本の伝統からくるとね。僕はここ来たこと、おかしいなぁと思ったんだけど、今となって考えると縁があってきたなぁという風に思います。泰澄さんが1300年祭のことあって、僕はあの白鳥の薬王山正法寺の人と親しいもんですから、その話したら、福井県の鯖江の方に、泰澄大師さんの出があるってことで、僕はそこ行ったんですね。そこ行ったら本人もこう書いてますけど、朝日山観音ってあるんですよ。ね。で僕はそのお寺に行って、朝日山観音って書いてあるんですけど、朝日という苗字はたくさんいますかってこう聞いたら、いないっていうんだよね。じゃあどうして、これ朝日山観音ですかって聞いたら、ちょうど観音様の御開帳した時に朝日がパーッと照ったんだって、ほんで照ってそれを縁で、これは朝日山観音、観音菩薩という風につけたんだってこと。あぁそうかってことで。やはり僕は朝日という苗字あんまり好きじゃなかったんだけど、だけどそうゆうことを聞いてくると、朝日という苗字も、ね、いい苗字だなぁと。澄雄との澄というのも、今の泰澄さん。それから今の比叡山。比叡山の延暦寺を作った人は最澄さん。最澄さんが比叡山の延暦寺を作った。だから澄っていうのはやっぱしね、初めから作るような人というのは僕のイメージで、フッと思ったんだけど、考えてみたら、僕も白鳥工場来てよ、5男で産まれたんだけど、白鳥工場はゼロからスタートですよ。親父の出身地である、ここを立ち上げてきた。それから今のCT問題もそう。NCフライスもそう。いろんなことがね、みんな立ち上げてきた。今度ショットブラストもそうだけど、僕はそうゆうものを、そうゆう因縁があるんかなぁと僕は最近ちょこちょちょこ思う時があるんやね。だから俺はそうゆうね、0スタートの、0からスタートの人間かなぁと。僕はそうゆう因縁で産まれたんかなぁという風には思いますけどね。だから今の澄という字も、その泰澄さん、それから比叡山には最澄さん。みんな作った人ですから、そうゆうことを思います。
[稲葉1:11:15]朝日さん。この映像を我々は100年残したいんです。100年先に朝日さんの100年後の家族になんかメッセージがありましたら、ひとことお願いしたいんですが。
[朝日1:11:39]いや、僕もね、それをね、100年後の家族どうなっているか分からん。日本そのものがどうなっているかも全然分かりませんけど。その時に、じゃあうちがやってる車でもね、もう今のこうゆう時代なのか、車も空飛ぶ時代なのか、電気になっちゃうのか、分かりませんけども。でもその100年先には、みんなさっきも言ったけど、ブワーンとしてるから分からんですよ。だから、その年その年をしっかりと頑張ってやっていく。それから時代の流れ、今ちょうどコロナが、去年、一昨年か、一昨年の暮れにコロナが中国武漢で始まって、で去年日本に来て、で、今年と。ちょうどこれ思うとね、僕が白鳥工場来たのが、30歳ですから。30ってことは、1975年か。に、白鳥工場来たんやね。1973年はちょうど、オイルショックですね。第1回オイルショック。オイルショックは、73年の暮れにきて、74年で5年が一番そこだったんですね。僕は75年にこう来ているから。で、1年経って、76年の6月に今の会社の竣工式あったと。思うと、ほんとにそうゆうね、ちょうどオイルショックから今日にまでにちょうどね、何年になるんかね?
[稲葉1:13:27]75年からですか?
[朝日1:13:28]75年で、今21年。
[稲葉1:13:31]48年くらいですかね。
[朝日1:13:32]46年。46年47年前がオイルショックだったんですね。そうすると、ほんとにね、こうゆうことってのは時代は繰り返していくから、今のコロナ、100年前は、スペイン風邪なんですよ。スペイン風邪あった時はみなさん肺炎で亡くなってるんやね。僕も親戚を大間見なんだけど、大間見の人肺炎で亡くなってる人結構いる。調べたら。ちょうど3代遡った時に100年くらいいっちゃうから。大間見で肺炎で亡くなっている人いるんですよ。だから、そうゆう時代ってのは移り変わってくるかなぁと。ちょうど今コロナで、あの変異したコロナとか、いろんなことがあって、やっと今年、我々もワクチンが打てて、これが収まってくるのはまだ来年くらいかなぁとは思うんですけど。ちょうどオイルショックみたいなこうゆうようなことかなぁと、僕はそうゆう風にちょっと思うんですけど、だからこれから50年先、ねぇ、また100年先。今言われたように、どうゆうような世界になるか。
だからあのね、大変という、オイルショックも大変だったんだけど、コロナ渦でも大変ですよ。大変という字を漢字で書くと、大きく変わると書くんですよ。大きく変わると書いて、大変なんですね。だから、これによって、世の中ガーっと変わるんやね。だから今学校でも、鞄持って学校行きよったけど、今パソコンで、そうゆうことで、学校の授業全部受けるとか。また企業もだよ。会社行かずに、自分の家からやるとか。いろんなもんにこう変わりつつあるんだね。前はそうゆう想像もしてなかったことですよ。してなかったことが大変という字のごとく、大きく変わる。で、例えば努力という字、努力という字は、女へんに又の力と書く。これをね、僕なりきり分解するんですよ。そうすると、女性のお産の意味しとるせんかなぁと。女性のお産。努力というのはそれくらい自分の子どもを産む時に、ガーっと力んで、その際苦しんで、ある人は生死彷を徨う人もいるんだけど、それぐらいやって、それのまた力と書くんですから、よっぽど頑張らないと努力に入らんなぁ、という風に思いますね。それから、青年。青年っていう字は、青い年って書きますよね。これは僕は、僕なりきりですよ、稲穂に例えると、ツンツンになるんですね。田植えしてから、スーっときて、ツンツンですよ。だから、これが青年なんですね。だんだんだんだん実ってくると、いろんなものが、米が出来てくると、頭を垂れてくるんですよ。だから、『実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな』ということわざがあるけど、あぁそうだなぁと。僕も自分なりきりね、そうやって字を分解するんだよね。ほんで男っていうのは、田んぼの田に力と書くんやね。昔は百姓があったから、だから、あっそうか男は田んぼの田に力か。そうゆう風にね、字をバラすと面白いんです。その字の意味がね、ある。ということを僕は思うねぇ。だからいろんなことをバラしてみるといいですよ。だから徳という字、徳という字ね。徳という字は、彳に十書いて、四書いて、今は心だけど、昔一入ってたんですよ。だからあーゆう会議だとかは、一入れる。一書いて心。これバラす、面白いよ。四十、四十。四の上が十だから、四十一、いっしんに一の心だから、いっしんに行ずること、これは徳だよね。その徳の上に悪と書くと、悪徳商法になるんすよ。悪いことは一生懸命考えてくる。人を誤魔化すことも。ほんで善と書くと、ねぇ善と。こうと書くと、徳を積むとか。こうゆう字になる。だから徳という字をポンと書いても、徳でも良い徳と悪い徳とあって、悪徳商法なんてほんとにそうやないですか。なんとか相手を誤魔化そうとかさ、そうゆうことを一生懸命、あれも努力しとるんすよ。あれ。どうしたら相手ひっかかってくれせんかとかね。だから僕はそうゆうね、字の上にこれをつけたり、これをバラしたり、いろんなことをすることをね、ある人から教えてもらって、そうゆうこと考えるようになったね。だから字は面白い。徳という字、ほんで、功徳ってあるでしょ。そうゆう風に、やはり漢字というのは上手くできとるなぁと僕は思いますね。はい。
[稲葉1:19:33]あと、なんかあの話ならんことは、無いかなと。
[朝日1:19:37]いやー、だから僕はこの中でね、まぁ、いろいろあるんですけども。僕もほんとに、あの、なんか僕はもうねやっぱしね、現場第一主義だったね。現場。だからね、その僕は常に現場を見てる、で、現場の中で人の動きを見たり、いろんなことね。そんで、やはりね、みんなから苦情が来たり、いろんなこと来るから、その場はほんとに嫌ですよ。頭にきたりね、何でこんなこといちいち言われないかん。嫌ですよ。だけども、それをぐっと飲み込んで、で自分は冷静によーく考えるってことが大事じゃないかなぁと僕は思いますね。そりゃあみんな勝手なこといいます。なんだけども、それに腹を立てて、あーじゃこうじゃなくて、それを自分でいっぺんドーンと受けて、そしてそれを自分なりきり解釈して、それを悪い方悪い方でいくと、悪い方いっちゃう。良い方行けば良い方行くし。だからね、人生は、心の1つの置き所。喜べば、喜びが、喜びながら、喜びを集めて、喜びにくる。これを逆にいくと、ねぇ。悪いことは、ねぇ、頭にくると、ねぇ、それが来ちゃうんですよ。で、やはり物事をええ方に考える人と、悪い方に考える人では、出発が違いますので、こっちいくと、こっちいっちゃう。だから、ねぇ人生は心1つの置き所。全部心から発信しますから、何もかも全部心から。だから、心1つの置き所で、喜べば、喜びが、喜びながら、喜びを集めて、喜びにくる。良いことばっかですね。これは逆に、悪に出たら、そんなこと、こう、ぞーってくるしねぇ。それから、やはりね、その、人っていうのは合う合わんがあるので、顔を見るのも嫌って人もおるしさ。声を聞くだけでも嫌っていう人もおるしさ。それは、やはり仏教でいくと、いんがかほうってね、いんといん。それが結果となって、それを報いとして、くる。最後は自分に返ってくるということですね。僕はそうゆうことで、だから、僕はそうゆうことを思いますね。はい。後はなんか?
[稲葉1:22:52]はい。いいえ。あの、1時間、半でしたか、今回2回目は。前回2時間ほど。3時間、あの約3時間半、録らせていただきました。ありがとうございました。いや、なかなか貴重な意見を聞きました。ありがとうございました。ぜひともこれを100年残しますので。
[朝日1:23:23]なんか参考になればね。ぜひね、参考にしていただきたいなとゆう風に思います。
[稲葉1:23:29]いや、今のも参考ですが、100年後も参考にするために、やってますんで。
[朝日1:23:33]はいはい。まぁそうゆうことでね、だからみなさんが、こうゆうことを、まぁちょっとしたことでもいいから、欠片でもいいから、自分に受け止めてもらって、そしてそれを活かしてもらいたい。要は、人生は自分1人では生きていけないからさ。みんなと共存の中で生きているんだから、そうゆうことで、自分だけが良ければいいってもんじゃなくて、やはりみなさんと共々に生きて、ねぇ、人生を楽しんでもらいたいなと思うんですね。
[稲葉1:24:11]今日はどうもありがとうございました。
[朝日1:24:12]ありがとうございました。足りないもんで、ほんとに申し訳なかったなぁ。これでよろしいでしょうか?ありがとうございました。
資料
白山御師の研究プレゼンデータ
☆郡上白山文化における御師の歴史的役割の研究20230617













































































































































































































































































































































































































