行事-2 丹生川のくだがい神事
管粥神事(くだがいしんじ)は高山市丹生川町旗鉾にある伊太祁曽神社で600年前から続く伝統神事で、高山市無形文化財に指定されている。
令和2年1月14日午後1時より行われ、神事後には、参拝者にもお粥が配られ、これを食べると一年間無病息災で過ごせると言われる。
約6cmの麻ガラ(麻の茎)に、農作物の作況・気象・社会景気・プロ野球ペナントレースなど約140項目の占い事を記した木札をつけ、粥の材料となる米・大豆・小豆等と一緒に大釜で煮立てる。
釜揚げし神前にお供えしたあと、麻ガラを一つずつ切り開き、粥の入り具合で一年の吉凶を占う。
資料
⑤行事-2 丹生川のくだがい神事
行事-1 二十四日市
高山では、野菜を中心にした朝市のほかにも市がある。
旧暦を使っていた江戸時代から明治時代の初期までは、「歳の市」として、上二之町で12月24日に開かれていた。田中大秀は『飛騨年中行事記』に、二十四日市では、「こぶ・みかん・はごいた・たつくり・数の子など正月用品が売られていた」と記している。明治5年(1872)に新暦に切り替えられても、正月を今まで通りの日に行なう家があり、新暦の2月1日(旧暦では正月にあたる)に正月行事を行なった。そのため、二十四日市は新暦の1月24日に行なわれても「歳の市」としての性格を持っていた。
しかし、1月1日に正月行事が行なわれるようになるにつれて、二十四日市で売るものの内容が変化し、正月用品は姿を消した。現在1月24日に売られているものは、桶類・竹製品・一位笠など、数・種類ともに旧来のものが少なくなり、現代的な物の店が多くなった。場所も本町へと変わった。当日は、近郊から目当ての商品を求めて、あるいは特に欲しいものがなくても、その雰囲気を味わおうと、訪れる人で大変賑わう。朝市と同様、何か目ぼしいものはないかと見学して歩くのは楽しいものである。
二十四日市と言うと雪が降ることが多く、「やはり雪が降ったか!」という挨拶が飛び交う。伝統工芸のショウケ、江名子バンドリ、宮笠、有道シャクシの店も出店していて、訪れる市民、観光客のお目当ての店となっている。出店している店はさまざまで、魚貝類から花餅、鈴カステラ、お好み焼、タコ焼など多種多様である。
二十四日市の場所は本町1~4丁目で、その地区の商店もこの日は自分の店の前にコマ台を置いて販売する。
二十四日市は、近郷の人たちが出かけてくる年中行事であり、歩いていると何人もの知人と出会い、「まめなかな(元気でしたか)」という飛騨弁があちこちで聞かれる、誠に微笑ましい冬の風物詩である。
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⑤行事-1 二十四日市
史跡-10 吉野朝時代の伝説地
高山市滝町集落の中程に小さな丘があり、その頂上に古い4基の五輪塔(写真)が残っている。ここには昔、遍照寺(へんしょうじ)という寺があり、その寺は滝町に住みついていた和田氏の菩提所であった。五輪塔は和田氏累代の墓と伝わっている。
そばには「大楠公師瀧覚御坊遺跡地」と刻まれた石柱があり、京都・真言宗総本山東寺の管長であった松永昇道(丹生川町町方出身)が書を書いている。そのほか、周辺には和田屋敷、西南に離れて塔洞屋敷跡など、ゆかりの地がある。
和田氏は先祖に和田義盛という武将がいて、鎌倉幕府侍所の重要な別当職にあった。北条義時の謀略にかかって北条氏を襲撃(和田氏の乱)してしまい、敗れて和田氏は滅亡した。和田氏の一族は各地に流れて高山の滝町や朝日町上ヶ見(あげみ)に移り住んだと伝わっている。
和田義盛の孫で、和田氏の乱でも活躍した和田朝盛の四男に朝正という人がいた。幼少の頃、滝町の遍照寺で修行をしている。後に瀧覚坊(ろうかくぼう)と名を変え、京都に上って後宇陀院に仕え、河内国観心寺中院の総務となった。その時に瀧覚坊と少年時代の楠正成(幼少の時は多聞丸といった)との歴史的な出会いがあった。正成は8から15歳まで観心寺中院で学んだ。
瀧覚坊は正成に弘法大師の『心地観経(しんじかんぎょう)』の中にある四恩(しおん)の教えなど四書五経、宋学、国史を教えた。
四恩とは、父母、衆生(しゅじょう・多くの人々)、国王、三宝(仏、教典、僧)のことで、天皇のために一命を捧げて忠誠を尽くした正成の生き方は、この四恩の教えによるといわれている。正成の生き方は、後に、「忠孝」の祖として坂本龍馬ら明治維新の志士たちの拠りどころとなってゆく。
瀧覚坊は高山ではあまり知られていないが、観心寺では非常に重要な高僧として扱われ、墓も楠正成の首塚のそばにつくられている。昭和12年、大阪の「大日本楠公会」冨賀鹿蔵らが、観心寺の瀧覚坊は高山市滝町の出身だと研究成果を発表し、地元滝町の人々に教えてくれた。滝町の人たちは、和田氏の伝承地と瀧覚坊がつながったことに大変驚いた。
〈和田氏の乱〉
和田義盛は鎌倉幕府の創設以来、重要な職にあった。源頼朝の死後、執権となった北条義時の計略にはまって、建保元年(1213)に北条氏打倒の兵を挙げたが、敗死し、以後義時は幕府の中で最高の地位をかためていった。
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④史跡-10 吉野朝時代の伝説地
史跡-9 石工高原忠次郎
石工高原忠次郎は、日枝神社の狛犬や玄興寺の親鸞聖人像の石像など多くの作品を残している職人である。忠次郎は明治25年生まれで吹屋町に住み、石工職人を使って石工の請負業をしていた。29件の作品がわかっている。
高忠と刻んである石像は狛犬が9対、石像等が7体、灯篭が7対、石碑等が3か所、その他3か所、合計29件となっている。
日枝神社の北側入り口に設置されている狛犬は、台座も含めて高さ3㍍余りで、その表情には力強さと独自性がある。重々しさ、優れたデザインに感銘を受ける。忠次郎が36歳の時に製作し、台座には「昭和4年 還暦記念田近房太郎 石工高原忠次郎」と刻まれている。
狛犬は他に護国神社、日枝神社内富士社、新宮神社、大八賀神社、辻ケ森三社、萩原諏訪神社、桜ケ丘八幡神社、生井白山神社にある。また石像は宗猷寺の観音像と布袋像、玄興寺の祖師(親鸞聖人)像、東等寺の聖徳太子像、国分寺の弘法大使像、一之宮町大憧寺の地蔵様、安房峠の地蔵様がある。灯篭は護国神社、日枝神社、大八賀神社、辻ケ森三社、一本杉白山神社、杉箇谷神明神社内秋葉神社にある。そのほか、山王公園にある富田豊彦の短冊を模した歌碑も作製している。
神社の狛犬や灯篭、寺の石像は境内の風景に溶け込んでいて、優れた石の造形として個別に拝見しないことが多いが、足を止めて石を楽しんでほしい。
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④史跡-9 石工高原忠次郎
史跡-8 上木甚兵衛が流された新島(東京都)
〈 甚兵衛流罪の年譜〉
江戸永代橋(通常、帆船で10日)→ 品川沖 → 浦賀(神奈川)→伊豆下田 → 新島 →
前浜に上陸 → 島役人の改め → 7日間の寺入り(長栄寺の下寺東要坊)→
年寄又右衛門の組下彦三郎組へ預け → 名主青沼元右衛門の隠居所預け → 2間9尺の小屋
当時 新島には360戸、1800人の島民が居住。
甚兵衛流罪(1775) 15年 中風(1790) 8年 死亡(1798)
勘左衛門渡島(1791) 8年 離島(1799)
安永2年(1773) 6月 甚兵衛(60) 江戸へ呼び出され手錠宿預け
安永3年(1774) 2月 甚兵衛(61) 江戸より高山に移され入牢
安永3年(1774)12月27日 甚兵衛(61) 江戸へ護送
安永4年(1775) 3月22日 甚兵衛(62) 新島へ
寛政2年(1790) 4月 甚兵衛(77) 中風で倒れる
寛政2年(1790)12月 勘左衛門(42)江戸へ向かう
寛政3年(1791) 4月 勘左衛門(43)新島で父と再会
寛政10年(1798) 8月19日 甚兵衛(85) 生涯を閉じる
寛政11年(1799) 8月19日 勘左衛門(51)は父の一周忌法要
寛政11年(1799) 9月22日 勘左衛門(51)は新島を離れる
寛政11年(1799)10月20日 勘左衛門(51)江戸に着
寛政11年(1799)11月10日 勘左衛門(51)流人の身分を解かれる
寛政12年(1800) 1月26日 勘左衛門(52)高山に帰り歯骨で葬儀
寛政12年(1800) 3月 8日 勘左衛門(52)荘川一色村に帰る
天保 3年(1832)12月28日 勘左衛門(84)死す
〈 流人船〉
安永4年(1775)(新島送り) 上木屋甚兵衛 宮村・治八 宇津江村・三郎右衛門(船牢で死亡)
〈新島の史跡、記録〉
史跡
・長栄寺 開祖日英上人は日蓮宗を布教、長栄寺を建立。日英は飛騨国の海老島で亡
くなったと歴祖次第に書かれている。現 海元上人。甚兵衛の位牌がある。
・甚兵衛の墓 文字は長栄寺日養上人
・勘左衛門自刻像 石工石松の助けで完成した。
・治八の墓 宮村往還寺に生まれ、内木家を継ぐ。大工の心得あり。
・十三神社の門 寛政7年の棟札に治八の名がある。
・前田長八胸像
・旧郷土館
・句碑
・天佑法印墓
記録
・新島流人帳
・『三松山長栄寺歴祖次第』東京都重文
流人の身で 次第に名が載るのは天佑法印と甚兵衛のみ
・長栄寺過去帳 甚兵衛の名がある。
・深山世婦子鳥 船を待つ間、和歌48首を集めたものに、挿絵を描いた。
「さくらばな つらなる枝も散りぢりに 風はいずこの土と消ゆらん」などがある。
・『天明水滸伝』 75巻にわたる長編小説
・「くもの巣にかかりて二度の落葉かな」 甚兵衛
・「こればかり残る涙や石の露」 勘左衛門
・他の流人 折敷地村・喜平次、宇津江村・三郎右衛門、中ノ宿村・十右衛門
・『新島追慕編』『伊豆七島風土細覧』『白川年代記』『飛騨白川記』『白川奇談』『新島和歌だより』
・「新島見聞記」『飛騨春秋』昭和43年
・「新島紀行-義民配流の島へ」丹生川町正宗寺原田道一師手記、昭和48年。打江村三郎右衛門の子孫
・「新島墓参紀行-先人のふところの温み」上木礼子、昭和53年
・児童向け小説『新島の飛騨んじい』赤座憲久、昭和51年
・版画集『わたしたちの飛騨んじい』新島小学校卒業記念、昭和52,53年
・『流人』江馬修
・『海鳴り』高山市民劇場が平成5年に上演
〈参考文献〉
林格男執筆 荘川村教育委員会編集 『義民甚兵衛と孝子勘左衛門』大野郡荘川村発行 平成7年
資料
④史跡-8 上木甚兵衛が流された新島(東京都)
史跡-7 寺と神社の桜(高山地域)
高山の桜の開花は遅い。雪が3月まで残り、4月上旬にも雪がぱらつくこともある。梅も桃も同時期に開花する。
臥龍桜(一之宮町)
宮川緑地公園
西光寺(清見町)
青屋神明神社(朝日町)
浅井神明神社(朝日町)
荘川桜(荘川町) 2016.4.24
荘川桜(荘川町) 2020.5.1
天満神社(朝日町)
宝蓮寺(朝日町)
薬師堂(朝日町)
資料
④史跡-7 寺と神社の桜(高山地域)
嘉念坊善俊、雪の白川村
<鳩谷の嘉念坊善俊上人(白川村)>
・嘉念坊善俊は奥深い山地に浄土真宗の教えを布教しようと、宝治年間(1247~49)、鳩谷の地に入った。
善俊は鳩谷に嘉念坊道場を建てて布教したが、弘安5年(1282)3月3日に白川村鳩ケ谷の地で亡くなった。毎年4月3、4日の2日間、御忌法要が鳩谷法蓮寺で行なわれている。
<嘉念坊上人の御火葬・旧墓地遺跡>
善俊上人は、この場所で火葬にされ、埋葬されたと伝えられる。その後、永正元年(1504)第10世明心の時代に至って、荘川町の旧中野村に照蓮寺を再興した際に、ここにあった善俊上人の御墓も移された。
老杉の根元に埋もれ周囲をめぐらしている、わずかばかりの石積みの遺構に往時の霊地をしのぶことができる。白川村史跡指定年月日昭和53年6月15日
<嘉念坊善俊上人の道場遺跡>
諸国行化の後に飛騨白川郷に入り正嘉2年(1258)44歳の頃にこの地に道場を創建。終生この道場を本拠として広く御化導につとめ、飛騨における真宗教団発展の端緒を開いた。遊場号を嘉念坊と称した。
この道場は、第三世善教の時代に飯島に移って正蓮寺と称するようになった。当時の道場の規模は礎石の現況から推測するに、ほぼ11m(約6間)四方程であり祖師親鸞上人の御意志に従い簡素なものであった。白川村史跡指定年月日昭和53年6月15日
※1嘉念坊善俊→後鳥羽天皇(1180~1239)の第12皇子、「道伊」といい承久の乱で父は隠岐(島根の沖合い50㎞)流罪。皇子らは連座して配流、出家をした。善俊は園城寺に出家した。
※2寛喜3年(1231)、善俊(18歳)は箱根で親鸞に出会い、弟子となった。
※3その後大津の園城寺(三井寺)を出て白鳥へ、その後、白川村へ。
<豪雪の白川村>
白川村の合掌造り建物の雪下ろしは大変で、特に棟の雪を降ろさないと棟が傾いて破損するので早めに降ろす必要がある。高所のため、業者に委託することが多くなった、降ろした雪はすぐ下の池に落ち、消雪される。
資料
④史跡-6 嘉念坊善俊、雪の白川村
史跡-5 岩船の滝(丹生川町)
この滝の名前は、滝が落ちる岩盤のくぼみが船に似ていることに由来する。落差20mで、昔は不動滝、白糸の滝と呼ばれ、この滝に打たれて祈ると目の病気や頭痛が治ると伝えられている。大きな岩盤に圧倒され、量の少ない滝の落ちる水音に癒される。
滝の壁となっている岩石の基盤は、昔浅い海であった飛騨外縁帯の森部層という地層で、その上に丹生川町と上宝町の境にあった大雨見火山の宮川谷層と言われる溶岩が堆積している。
資料
④史跡-5 岩船の滝(丹生川町)
史跡-4 杖石(長倉)
高さ約70m、下部の周囲は250mの岩壁の丘である。歩道が整備されていて、鎖を頼りに登ることができる。
昔、弘法大師がこの地を訪れた時、自分の持っていた杖を道行く人に差し上げようといって地面に立てたままでその場を立ち去った。それがある日みるみる大きくなって今見るような岩になったと伝えられている。
上宝地区内吉野の笠石、岩井戸の蓑石とともに、この杖石は高原の三奇跡と言われ、弘法様にちなんで崇敬を集めている。
頂部には弁財天がまつられ、参詣すると良縁が授かるといわれている。
資料
④史跡-4 杖石(長倉)
史跡-3 長倉集落、棚田、桂峯寺
長倉地区は上宝町にあって、南向きの日当たりのよい集落である。かなり急な道路が建物の間を縫うように通っていて、最頂部に棚田があり、焼岳が正面に見られる。そこから少し下ったところに桂峯寺がある。寺からは長倉集落が見下ろせ、眺望がよい。
桂峯寺は釈迦如来を本尊とする臨済宗妙心寺派(龍泉派)の寺院で、山号は仁月山。飛騨三十三観音霊場28番札所である。
江馬氏2代当主の江馬朝方が鎌倉建長寺の夢窓疎石を招いて鎌倉時代の弘安年間に上宝町本郷の地に桂月庵として建立した。建立時は建長寺派であったが、室町時代の永承年間に江馬時直が越中国泰寺の正雲和尚を中興開山として寺基を現在の長倉の地に移した。江戸時代に妙心寺派となった。
寺宝として江戸時代に高山宗猷寺から当寺に渡った仏師竹内右門作の子安観音像のほか、幕末に高倉在靖により描かれた本堂の天井の龍の墨絵がある。他に竜頭観音など、いくつかの円空仏も所蔵する。
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④史跡-3 長倉集落、棚田、桂峯寺
史跡-2 荏野文庫と田中大秀墓
荏(え)野(な)文庫土蔵は国学者田中大秀の文庫蔵で、荏名(えな)神社の境内にあり、弘化2年(1845)、火災と鼠(そ)害(がい)に備え池の中に建てられている。天保15年(1844)6月29日釿(ちょうな)始(はじめ)。京都神楽が岡の土を運び、飛騨国内各社の注連縄を集めて苆(すさ)(つた、すたともいう)に使ったと伝えられる。上階の前面に明り窓をつけ、窓の上に大秀自ら「荏野文庫 弘化乙巳秋」としたためた木額が掲げてあった。
階下の正面に大秀の木像を安置する。木像は高さ45㎝、膝幅36㎝の坐像で左の背銘がある。
荏名神社再興斎主六十三翁田中大秀之像
天保十年己亥五月 京都田中松慶刻
田中大秀の墓は荏名(えな)神社から1㎞南方の小丘にある。大秀が生前松室岡(まつむろおか)と名づけ、墓所と定めた。3段の石段をのぼり、切石道を進と左右に春日燈籠1対があり、正面に大秀好みの、雅た標碑が立っている。「田中大秀之奥城」と刻まれた文字は、大秀の筆跡である。大秀の遺体は、標碑の後ろの小円墳に葬られている。
右側面には
齢六十二に成ける天保九年戊戌九月十日ここを墓所にさだめ松室岡と名づけて今日よりは我まつむろに蔭しめてちよのみどりを友とたのまむ
左側面には
大人の歌を聞て言ほぎけらく
いまよりは千代のあるじと松枝のあせぬ翠の色にあえませ
又後世人にいはまほしくてよめる
こころあらば植はそふとも我大人のしめいます木立きりなあらしそ
山崎弘泰
背面には
弘化四年丁未九月十六日歿
嘉永三年庚戌九月 田中弥兵衛寿豊建
大秀は、安永6年(1777)8月15日高山一之町薬種商弥兵衛博道の2男に生まれた。初名紀文、粟田知周・伴蒿蹊(こうけい)・本居宣長等に師事し、家号を湯津(ゆつ)香木(かつら)園と名づけた。弘化4年(1847)9月16日没、享年71、法号松室了郭居士。「養老美泉弁註」「竹取翁物語解」「落窪物語解」「土佐日記解」「蜻蛉日記紀行解」「荏野冊子」等の著述がある。
荏名神社の前、江戸街道と村道との分岐点に、大井帯刀郡代の元締手代菊田秋宜(あきよし)の建立(こんりゅう)した道分灯籠(みちわけどうろう)がある。風流な灯籠で、「左・江戸・みのぶさん ぜんこうじ」とある。
資料
④史跡-2 荏野文庫と田中大秀墓