古い町並(三町伝統的建造物群保存地区)
高山は、金森氏により商業経済を重視した城下町として形成され、城を取り囲む高台を武家屋敷、1段低いところを町人の町とした。この町人町の1部が現在の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)である。
町人地は武家地の1.2倍と広く、全国の城下町の平均が武家地7割、町人地3割であることから考えても町人地の広さに特色がある。商人の経済力を重視した金森長近の姿勢が現れている。城下町の中へは東西南北から街道が引き込まれ、飛騨における政治、経済の中心としての機能を持っていた。金森氏が治めた時代は107年間で、以後幕府直轄地157年間の時代が続く。
明治初期の高山は、周辺の村々が貧困にもかかわらず豪商を中心として栄え、人口1万4000人、岐阜県下1番の都市であった。しかし、都市化は他の地区より大幅に遅れ、昭和9年の高山線開通を機にようやく高山の近代化が始まったのである。
昭和30年代後半には観光客が目立ち始め、汚くなりつつあった宮川や町を、美しくしようという気運が高まった。川に鯉が泳いでいれば、大人は川にゴミを捨てないだろうと考え、子どもたちが宮川に鯉を放流し、それが市民運動へと発展していった。昭和41年、「上三之町町並保存会」が結成され、その規約には「会員が地域内において新築、改築する場合、前側だけでも町並にふさわしいよう自主的に創意工夫する」とされ、住民主導の町並保存の姿勢を示した。その後、昭和48年から49年にかけて奈良国立文化財研究所により高山市三町が調査され、昭和54年、同町は重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
町並みがのこされた背景には、次のような要因がある。高山線開通を境に商業発展地域は別の町内に移り、三町はしもたやが増えた。サラリーマン家庭が増えるにつれ建替えの必要もないためか、建造物がそのまま現在も残った。例えば、造り酒屋など間口14間(1間=約1.82メートル)と広い建物が改築されないままであるため、周囲の建物もそれに合わせるような結果になったこともある。敷地割がキチンとしていて、母屋、中庭、土蔵の配置が使いやすく、昭和前半まで、当時としては、部屋数が十分であった。国産の良材を使って、しっかりと建てており、今では材料、資金面からとても同じようなものは建てられないから壊すのはもったいないというわけである。三町はこのようにして、極端な変化を好まない風潮の中に残されてきた。住民が建物の確かな良さと、町並みを守る誇り、三町景観の価値観を認識した結果といえよう。
道路に面した部屋をミセと呼ぶ。屋根高は4.5メートルと低い。建物の間口は3間から4間と狭く、奥に深い。この町並みの保存には、生活する上での苦労話も多い。現代のライフスタイルから考えれば当然かもしれないが、例を挙げれば、部屋数が少なく、子ども部屋の確保が大変であるとか、軒高が低くて2階の部屋が窮屈であるということなどである。また、採光出来る部屋がわずかで、冬は大変寒く、ほおかぶりしをして寝なければならないほどであること、土産品を販売している家にとっては、間口部が狭く商品販売に影響があることなどの話も聞く。だが一方、不便なことばかりではない。中に入って見上げてみると吹き抜けの天井は今にも通ずる空間を利用した建築手法である。息苦しい感じがせず、自然光のよさ、光の帯が差し込む様はすばらしいものがある。
伝建地区内には町並保存会が4団体あり、研修旅行、自衛消防隊の防火訓練、町並み保存に関する話合いなどが自主的に行なわれている。
伝建地区内は、高山市伝統的建造物群保存地区保存条例により規制をされているが、上一之町など伝建地区内の外側でも市街地景観保存条例により景観保存地区を定めて緩やかな規制を加えている。
様々な規制、課題は多いが、三町伝建地区は高山の人たちの誇りである。住民が実際に生活しながら町並保存を持続してゆく活力を持ち合わせている。
(引用:https://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1001005/1001006.html)
じゃんがら念仏踊り
じゃんがら念仏踊り(じゃんがらねんぶつおどり)は、福島県いわき市を中心に分布・伝承する郷土芸能で、鉦、太鼓を打ち鳴らしながら新盆を迎えた家などを供養して回る踊念仏の一種である。
いわき市内では、単に「じゃんがら」と呼ばれ親しまれている。主に毎年8月13日から15日までの3日間行われ、いわきの夏の風物詩として知られる。いわき市の無形民俗文化財に指定されている。
起源は江戸時代にまで遡るが由来は諸説あり、江戸時代前期の浄土宗の高僧祐天上人(現在のいわき市四倉出身)が、村人達の慰安と念仏の普及を兼ねて南無阿弥陀仏の称名を歌の節にあわせて踊りと共に唱えさせたのが始まりとする説、かつて市内各地にあった、老人たちによる月念仏講から派生したとする説などが伝わっていた。なお天保年間に鍋田三善が記した「晶山随筆」では、じゃんがらの起源につき、祐天上人起源説の他に、やはり現在のいわき市出身の袋中上人が関与していたのではないかという憶測も併記されており、すでに江戸時代末期には、その起源が不明確であったことがうかがわれる。
かつては祐天上人起源説が通説として広く語り継がれてれていたが、それを裏付ける資料が無く、言伝えの域を出るものではなかったところ、近年の調査研究により発見された磐城平藩家老職・穂高家に伝わる『御内用故実書』に「利安寺(澤村勘兵衛が開基したと伝えられる寺)よりほうさい念仏始まる… じゃぐわらじゃぐわらと鉦をたたき立、念仏をかまびすしく唱え候は磐城の名物也、此古実なり」とあることが、『小川江筋由緒書』に、讒訴により切腹させられた澤村勘兵衛の一周忌(1656年、明暦2年)に10ヶ村余の農民が供養のため念仏興行をしたとの記述とも一致することから、磐城平藩の郡奉行で用水路の工事を指揮した澤村勘兵衛勝為の霊を慰めるため、当時江戸で流行した泡斎念仏を村人たちが始めたことがじゃんがらの起源であることが確実視されている。なお「じゃんがら」の語源は『御内用故実書』にも「じゃぐわらじゃぐわら」とあるように鉦の音の擬音と考えられる。
カンカラ三線の制作工程
世界第二次大戦では沖縄の地は住民を巻き込んだ、壮絶な地上戦がおこなわれた悲しい歴史があることは皆さんも見聞きしたことがあるかと思います。
戦後、米国の統治下に置かれた沖縄では、奇跡的に難を逃れた多くの人が米軍の収容所での作業に従事し、作業後の合いた時間の先の見えない沈んだ気分を、唄うことで気持ちを紛らわせたと言います。
米軍の上陸時には、沖縄の唄者は先祖の位牌と三線の棹を持って戦火から逃げ回ったという話も聞きますが、それでも多くの三線は灰となってしまい、物資の無い戦後はカンカラ三線があっという間に広がったそうです。
カンカラ三線自体は、戦前から既にあったそうで、子どもたちが久葉の葉の堅い部分を棹にして、胴は空き缶、麻の皮の繊維を紡いで弦として遊んでいたんそうです。
![](https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2022/07/d45bb9bb38e3692094c2ca492bf6e207-150x150.jpg)
建仁寺
建仁寺は建仁二年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えます。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。
(引用:https://www.kenninji.jp/)
祇園祭(八幡山)
町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれる。水引は今までの金地花鳥仙園図唐繍にかわって昭和61年より十長生図の刺繍が用いられている。「十長生」とは不老長寿を意味する。前懸は慶寿群仙図で元禄3年(1690)に寄進されたものを昭和62年に復元新調したのである。見送は日輪双鳳人物文様の綴錦と藍地雲龍文様蝦夷錦がある。欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝えられ、朱塗鳥居の上には左甚五郎作の木彫胡粉彩色の鳩が飾られる。その他に美術品として海北友雪(1598~1677)筆の祇園会還幸祭図屏風(京都市指定文化財)を所蔵している。
The object of worship of the small Shinto shrine which located on this float is Hachiman, one of the most famous Japanese gods.
The miniature shrine on the float is decorated with gold foil, and it is said to have been made in the Tenmei period, between 1781 and 1788.
(引用:http://www.gionmatsuri.or.jp/)