県指定・荘川桜、御母衣ダム
<荘川の概要>
荘川町(旧・荘川(しょうかわ)村)は農林業が主な産業で、昭和30年代には、養蚕が盛んであった。しかし、昭和36年白川村地内に御母衣(みぼろ)ダムが完成すると、ダム湖の南半分が荘川地域にかかり、主要集落のいくつかが水没してしまった。中野にあった照蓮寺(現・城山公園に移築)や岩瀬にあった若山家(現・飛騨の里に移築)が水没前に移築され、国の重要文化財に指定された。
また、照蓮寺と光輪寺にあった巨桜(おおざくら)2本も水没地点から、現在の「荘川桜公園」へ移植された。この2本の巨桜は樹齢500年、老桜の移植にまつわる秘話が語り継がれていて、関係者のふるさとを偲ぶよりどころとなっている。
河川は、荘川町内の谷、小さな川はすべて御母衣湖に注ぎ、庄川(しょうがわ)となって北へと流れている。庄川の源流は、荘川町と郡上市の境界である「山中(やまなか)峠」にある。この峠は、黒谷(くろだに)から寺河戸(てらこうど)方面へ南に登ったところにあり、ミズバショウで有名である。また、庄川へは、一色(いっしき)川、町屋川、野々俣(ののまた)川などが合流し、さらに尾神郷(おがみごう)川が加わる。一方、松ノ木峠と軽岡(かるおか)峠の中間に位置する「六厩(むまや)」から、北流する六厩川も荘川町と白川村境辺りで庄川に合流するのである。六厩には昔、金山があり、繁栄した。
町内を流れる綺麗な水、広葉樹林帯の山間を通る郡上街道と白川街道、中世からの長い歴史を秘めた町である。
<御母衣ダム建設>
昭和30年代の荘川村を、大きく変えた出来事は、御母衣(みぼろ)ダム建設工事である。村のおよそ3分の1にあたる岩瀬、赤谷、中野、海上の全地区と、牛丸、尾上郷の一部が湖底に沈み、長年住み慣れたふるさとから、人影が消えていった。
地区の人口はおよそ1,200人、戸数は230戸余りで、その中には照蓮寺をはじめ民俗学上貴重な建物もあった。田畑およそ140haは、村の経済を支えるほどの豊かな生産地域であった。日本の産業のエネルギー源となって、湖底に沈むことになり、地元の愛郷心と嘆きの気持ちには辛いものがあった。
<御母衣ダムの完成>
庄川(しょうがわ)の上流にある荘川村と、隣の白川村にまたがって御母衣(みぼろ)ダムがあり、尾上郷川の上流には、大黒谷(おおくろだに)ダムがある。
御母衣ダムの建設工事は、電源開発株式会社によって、昭和31年(1956)から始められ、昭和35年(1960)10月に完成した。それは、戦後、日本産業が立ち直ろうとしていた時期で、工事用機械などが今のように進んでいなかった。そのため、アメリカの技術者を招き、最新式の建設機械を輸入して仕事を進めた。5年間に延べ600万人の人がダムの仕事に携わったと言われ、難しい工事のために、68人もの尊い命が失われた。
工事費用は、当時のお金で400億円かかったとも言われ、高さ133m、幅405mの世界でも数少ないロックフィル式ダムが完成し、当時は東洋一と言われていた。
発電量は、最大出力21万5,000kwで、送電線で遠く関西地方に送っている。
大黒谷ダムは、昭和46年に完成したアーチ型ロックフィルダムである。尾神郷字大黒谷にあり、高さ34m、長さ140mである。
<荘川桜と御母衣ダム建設>
① 荘川桜公園に立って
荘川桜公園は、国道156号沿いにあり、御母衣湖畔に、荘川桜が移植されている。
昭和35年のダム建設を境として、ふるさとを離れ、岐阜市をはじめ各地に移住した人たちが、年に1度、お盆の頃に荘川桜のもとに帰ってきて、かつての生活を語り、互いの健康を確かめ合う。地元民は、いつもここを通るたびに、満水したダム・渇水したダム、そして荘川桜を眺め、この湖底に沈んだ中野・海上・岩瀬・赤谷地区などに思いをはせる。
大地に根を張って、そびえ立つこの荘川桜は、当時、電源開発総裁であった高碕氏が、住んでいた人々の金に替えられない純粋なふるさと意識に打たれ、その発案によって移植されたものである。樹齢およそ500年(平成30年現在)と言われる。この2本のアズマヒガンザクラは、水没した中野の照蓮寺(建物は高山市の城山公園へ移転)と、光輪寺(建物は関市へ移転)の境内に立っていたものである。
② ふるさとが湖底に
庄川水系の最上流に、発電所建設の計画が国の施策として発表されたのは、昭和27年のことである。
水没予定地の人たちにとっては、過去数百年の間、父祖伝来この地に住み、あらゆる困苦に耐えて互いに助け合い、平和な村を作っていただけに、先祖の墓もろとも湖底に沈むなど、思いもしないことであった。
一方、村全体にとっても、水没地だけの問題として考えることはできなかった。村をあげての計画の中止や、計画の変更運動が進められ、国や電力会社に対する反対運動は、昭和27年から始まった。
昭和33年6月、岐阜県議会電力特別委員会が調停役となり、当時の下田村長ら代表と電源開発株式会社側代表らが席を並べ、両者の話し合いがなされた。その結果、覚書が取り交わされた。
昭和34年11月、8年間に及んだ反対運動も終わりを告げた。そして、翌35年10月には、御母衣ダム建設が完了した。
関連資料
1-2-19 県指定・荘川桜、御母衣ダム
資料集
034_243_荘川桜、御母衣ダム
重要文化財(昭和34年11月16日指定)円空作仏像(聖・千手・龍頭)
円空は江戸時代前期の僧で諸国を遍歴し、その彫刻を通して庶民の教化につとめた。かれは室町時代以後、皮相な自然観に落ち入ってきたわが国彫刻の世界に、独自の天才を発揮し、偉大な人間の力をしめしてきた聖者でもある。
山嶽宗教に徹した円空は、つねに山間へき地を巡礼し、人々の幸福を願い多くの仏像を彫刻して、末永く人の世をうるおしている。
したがって円空の彫刻はそれ自身個性的であり、端的に、強くまた烈しくその真髄を表現し、仏教と芸術の世界に生きぬいている。
しかし円空は、教土の文化人長谷川庄五郎にも富田礼彦にも理解されなかったが、加藤歩簫の蘭亭遺稿によると、京都の画家三態思考が千光寺に来遊した際、かれの彫った立木の仁王を写し帰り、伴蒿蹊に話してその価値を認め、畸人伝に載せたといわれている。
今日ようやくその隠れた力作が各地に発見され、その芸術の高さと感動の深さが、新しく見直されてきた。
清峯寺の円空作3体は、元禄のころ清峯寺が字寺山谷にあったころ円空上人がこの地に滞在し、桧材に一刀彫りしたものと伝え、その代表的名作ともいうべきものである。
昭和40年には12万6千余円を費して修理を施し、はるばる海を渡って西ドイツの博覧会へ出展されたこともある。
昭和34年11月16日、3体とも県指定の重要文化財となった。
国府町観光協会
説明板より
関連資料
1-2-18 清峯寺・重要文化財 円空作仏像
資料集
033_242_清峯寺円空彫刻
旧三島家住宅
岐阜県重要文化財(昭和47年12月13日指定)
白(しら)川(かわ)郷(ごう)一(いっ)色(しき)村(むら)(現在の荘(しょう)川(かわ)町(ちょう)一(いっ)色(しき))の豪農の住宅として宝暦13年(1763年)に建てられたものである。当初は寄(よせ)棟(むね)式(しき)入(いり)母(も)屋(や)合(がっ)掌(しょう)造(づく)りの萱(かや)葺(ぶき)屋(や)根(ね)であったが、明治11年(1878年)榑(くれ)板(いた)葺(ぶき)切(きり)妻(つま)屋(や)根(ね)に改造されその後瓦(かわら)葺(ぶき)屋(や)根(ね)となり、昭和60年(1985年)現在地に移築された。また、江戸時代の明(めい)和(わ)・安(あん)永(えい)・天(てん)明(めい)にかけて飛(ひ)騨(だ)一(いち)円(えん)に起きた大(だい)規(き)模(ぼ)な百(ひゃく)姓(しょう)一(いっ)揆(き)「大(おお)原(はら)騒(そう)動(どう)」における「義(ぎ)民(みん)上(うわ)木(ぎ)甚(じん)兵(べ)衛(い)自(より)賢(かた)」の生(せい)家(か)であり、父の看病に新(にい)島(じま)に渡(わた)った「孝(こう)子(し)三(み)島(しま)勘(かん)左(ざ)衛(え)門(もん)正(まさ)英(ひで)」の家である。
三島勘左衛門正英像
東京都新島村に、義民、孝子の墓として東京都史跡に指定されている孝子像の複製である。
新島のコーガ石を使い、平成7年11月、東京都新島村の村長以下15名の訪問団が荘川村を訪問した際に寄贈された。義民甚兵衛と孝子勘左衛門の遺徳を偲び、三島家住宅の傍らに安置されている。
平成7年11月15日 荘川村
説明板より
関連資料
1-2-17 旧三島家住宅
資料集
032_241_三島家
県指定・三重塔
〈県指定〉昭和49年11月13日
〈所有者〉国分寺
〈所在地〉総和町1丁目83番地
〈時代〉文政4年(1821)
〈員数〉1棟
三重塔(1棟)桁行、梁間ともに4.24m、塔の高さ礎石上端より宝珠上端まで22m、屋根銅平板葺
天平13年(741)の詔勅により建立された塔(とう)婆(ば)も、弘仁10年(819)に炎上し、斉(さい)衡(こう)年中(854~857)に再建した。応永年間(1394~1428)さらに兵火にかかったと伝えられる。その後再建されたが、戦国時代金森が松倉城の三(みつ)木(き)攻めに際し損傷し、元和元年(1615)、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺大平釘図」に記録されている。
現在の塔は、寛政3年(1791)大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜(き)捨(しゃ)浄(じょう)財(ざい)金800両と大工手間5,500人工をかけて、文政4年(1821)ようやく竣工を見たものである。棟梁は3代目水間相模(みずまさがみ)であった。昭和53年には屋根の修理と自火報設備、保護柵を設置した。屋根は、建立当初杮(こけら)葺(ぶき)であったが、大正11年に桟瓦銅板葺に変更され、昭和53年には銅平板葺となった。
飛騨では唯一の塔建築で、金剛界(こんごうかい)、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。
参考文献
『高山の文化財』33~34頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-16 県指定・三重塔
資料集
031_240_三重塔
県指定・飛騨東照宮
〈県指定〉昭和47年3月17日
〈所有者〉東照宮
〈所在地〉西之一色町3丁目1004番地
〈時代〉文化15年(1818)
〈員数〉1棟
本殿(1棟)方2.73m、霊廟建築、銅平板葺
唐門(1箇所)桁行1.82m、梁間3.94m、向唐門造、銅平板葺
透塀 延長62m、亜鉛鍍鉄板葺
金森第3代重頼(しげより)が元和2年(1616)、高山城内に徳川家康を祀った東照宮を奉(ほう)祀(し)したが、延宝8年(1680)現在地に遷座した。諸国が勧(かん)請(じょう)した東照宮は、全国で100数十箇所を数え、寛永年間(1624~1644)家光の東照権現に対する崇敬と幕府勢力の伸張に伴なって建立されたものが多い。その後金森氏が元禄5年(1692)に出羽へ移封になってからは、荒廃してしまったが、これを嘆いた金森の子孫重任が神社の再建を志した。時の郡代芝与市右衛門正盛(18代)がこれに賛同し、町人の協力を求め、神社を再建したのである。大工棟梁は水間相模宗俊、彫刻は谷口与鹿の師である中川吉兵衛が受け持ち、文化15年(1818)4月上棟が行なわれた。
東照宮は再建の時から高山の町人が深くかかわり、景勝の地にあるため祭礼だけでなく遊覧の場所としても親しまれてきた。明治の初めに書かれた『斐太後風土記』には、東照宮での遊覧の図が描かれている。
昭和36年、本殿と唐門の屋根を杮(こけら)葺(ぶき)から銅板葺に改修し、昭和50年には石垣と石段を修理した。
建物外観を見ると、唐門を取り込んでイチョウ透かしの透塀が巡らされている。この一連の配置と建築様式は桃山時代に完成した廟建築の典型であり、飛騨では唯一の建物である。本殿は切妻造りで平側に唐破風造りの向拝をつけ、正面屋根に千鳥破風をすえる。千鳥破風とは、屋根面にのせる小形の入母屋破風のことで、破風の三角形を千鳥とみなしている。透塀や唐門、独立した本殿の建築様式は、全国の東照宮と似た形式である。
権現造りは本来、拝殿と本殿とを石敷の相の間で連結し、屋根は連続する形式だが、本建物の形式は簡略化されたものと考えられている。地方藩主や寺院が建立したものには、権現造とならず本殿を拝殿・石の間から切り離して独立させたものが見られる。
参考文献
『高山の文化財』30~31頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-15 県指定・飛騨東照宮
資料集
030_239_飛騨東照宮
県指定・田中大秀墓
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈管理者〉荏名古史跡保存会
〈所在地〉江名子町上使畑2115番地
〈時代〉江戸時代(19世紀)
〈員数〉300㎡
墓(1基)盛り土径3.3m、高さ1.9m
荏名(えな)神社から1㎞南方に大きな松樹の生い茂る小丘がある。大秀が生前松室岡(まつむろおか)と名づけ、墓所と定めたところである。曲折した参道をのぼると、芳賀矢一撰文「田中翁贈位記念碑」の立つ広場に出る。3段の石段をのぼり、切石道を進む。左右に春日燈籠1対を並べ、正面に大秀好みの、雅た標碑が立っている。「田中大秀之奥城」と刻まれた文字は、大秀の筆跡である。大秀の遺体は、標碑の後ろの小円墳に葬られている。
標碑の銘
正面 田中大秀之奥城
右側面 齢六十二に成ける天保九年戊戌九月十日ここを墓所にさだめ松室岡と名づけて
荏野翁
今日よりは我まつむろに蔭しめてちよのみどりを友とたのまむ
左側面 大人の歌を聞て言ほぎけらく
いまよりは千代のあるじと松枝のあせぬ翠の色にあえませ
又後世人にいはまほしくてよめる
こころあらば植はそふとも我大人のしめいます木立きりなあらしそ
山崎弘泰
背面 弘化四年丁未九月十六日歿
嘉永三年庚戌九月
田中弥兵衛寿豊建
大秀は、安永6年(1777)8月15日高山一之町薬種商弥兵衛博道の2男に生まれたが、兄休(よし)明(あきら)の夭折(ようせつ)(若死)により家督を相続した。初名紀文、粟田知周・伴蒿蹊(こうけい)・本居宣長等に師事し、家号を湯津(ゆつ)香木(かつら)園(ぞの)と名づけた。文化15年(1818)隠居の後、自ら再興した荏名神社の傍らに隠棲し、荏野(えな)翁と称して国学の研究と門弟の指導に専念した。弘化4年(1847)9月16日没、享年71、法号松室了郭居士。「養老美泉弁註」「竹取翁物語解」「落窪物語解」「土佐日記解」「蜻蛉日記紀行解」「荏野冊子」等の著述がある。
参考文献
『高山の文化財』176~177頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-2-14 県指定・田中大秀墓
資料集
029_238_田中大秀墓
荏野文庫土蔵
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈所有者〉荏名神社
〈所在地〉江名子町1290番地
〈時代〉弘化2年(1845)
〈員数〉1棟
土蔵(1棟)桁行3.47m、梁間3.47m、カラー鉄板葺、2階建
国学者田中大秀の文庫蔵で、荏名(えな)神社の境内にあり、火災と鼠(そ)害(がい)に備え池の中に建てられている。天保15年(1844)6月29日釿(ちょうな)始(はじめ)。京都神楽(かぐら)が岡(おか)の土を運び、飛騨国内各社の注(し)連(め)縄(なわ)を集めて苆(すさ)(つた、すたともいう)に使ったと伝えられる。上階の前面に明り窓をつけ、窓の上に大秀自ら「荏野文庫 弘化乙巳秋」としたためた木額が掲げてあった。
階下の正面に大秀の木像を安置する。木像は高さ45㎝、膝幅36㎝の坐像で左の背銘がある。
荏名神社再興斎主六十三翁田中大秀之像
天保十年己亥五月 京都田中松慶刻
文庫内の蔵書は、大秀没後高弟山崎弘泰の花里文庫に移され、大正元年(1912)売りに出たのを吉島休兵衛ほか5氏の援助で高山町教育会が購入した。現在、519部1,516冊が県の文化財(典籍)に指定され、飛騨高山まちの博物館で収蔵している。
関連資料
1-2-13-1 荏野文庫土蔵
1-2-13-2 県指定・荏野文庫 1516冊
1-2-13-3 千種園跡
1-2-13-4 荏名神社神橋
1-2-13-5 荏名神社標碑
1-2-13-6 田中大秀大人之碑
1-2-13-7 田中大秀木像
資料集
028_237_荏野文庫及び隣接の荏野神社
県指定・大雄寺鐘堂
〈県指定〉昭和48年6月13日
〈所有者〉大雄寺
〈所在地〉愛宕町67番地
〈時代〉元禄2年(1689)2月
〈員数〉1棟
鐘楼(1棟)地の間寸法3.45m正方形、木造入母屋造、銅平板葺、斗栱3ッ斗(と)組、間(けん)斗(と)束(づか)、天井鏡天井、基壇上に建つ
大雄寺記に、「鐘楼 第十世超誉白翁大和尚 元禄二己巳二月建之 四月屋根葺終 棟梁松田又兵衛、古橋長左右衛門、松山孫太郎、松田長次郎、古橋九右衛門、葺師越中富山橋本甚兵衛、橋本次右衛門、橋本忠右衛門」と記載されている。屋根は昭和49年、杮(こけら)葺(ぶき)であったのを修理し、銅平板葺に改めた。
二軒(ふたのき)・繁(しげ)垂(だる)木(き)の軒廻りでありながら、他は簡素な手法で建てられる。木割が太くて柱転びもよく、柱頭(かしら)貫(ぬき)端の唐草彫刻も力強い。3斗組の組物上に勾配(こうばい)、反(そ)りともによくまとまりを持った入母屋造りの屋根を持つ堂々たる建物である。
この地方最古の鐘楼である。
参考文献
『高山の文化財』32頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-12 県指定・大雄寺鐘堂
資料集
027_236_大雄寺鍾堂