史跡白山平泉寺旧境内と平泉寺墓地
古代末から中世の白山・平泉寺
山岳寺院として出発した平泉寺は、比叡山延暦寺末となることで越前国内での地位を不動のものとし、中央にも知られるようになった。在地有力武士団である斉藤氏、さらには中央の二大勢力である平氏や源氏、といった新興武士勢力とも状況に応じて関係を結んだ。一方で、牛ケ原荘など大野方面に進出しその勢力を広げていった。
1368年に室町幕府が成立すると5代将軍義教から平泉寺造営費用として、7ケ国棟別銭を充てる権限を得るなど、中央政界とのパイプは健在だった。越前国内での地位はより強固なものとなり、九頭龍川河口域にまで進出し金融活動を活発に行う。寺領に加えこうした得た経済収益などにより、寺領9万石(貫)とまで言われるようになった。
1467年から11年間にわたる応仁文明の大乱を経て、越前国内で急成長してきた朝倉氏とも手を結んだ。こうして「白山平泉寺境内絵図」に見られるような、平泉寺はまさに中世宗教都市として全盛期を迎えたのである。しかし天正2年(1574)、七山家を中心とする一向一揆に攻められ平泉寺は灰燼に帰してしまった。
平泉寺は全国66の霊場の一つに数えられ、大永2年(1522)に回国聖が奉納した経筒が、禅定道の一ルートであった経ケ岳で発見されている。
天正の焼亡から近世の白山・平泉寺
天正11年(1583)顕海が美濃から帰還し、平泉寺再興に向けての取組みが始まり、同年豊臣秀吉から禁制も与えられた。白山天嶺及び平泉寺の諸社の社殿・本尊も、諸領主の寄進により順次再興再鋳されていった。慶長6年(1601)福井藩から寄進された200石の寺領は、寛永元年(1624)改めて幕府から朱印地として与えられた。その後、福井藩・勝山藩から寄進された分と合わせると330石の寺領を所有することになった。平泉寺玄成院は「国家安穏」「五穀豊穣」の祈祷を行うことでこれに応えた。幕藩権力は平泉寺を通じて白山神の加護を期待していたことがうかがえる。こうしたこともあり平泉寺は寛永寺末となる。
白山麓村々をめぐる加賀・越前の争い、天嶺における平泉寺と山麓村々との度々の争いは、おおむね平泉寺の言い分が認められた。諸社殿・本尊は破損・焼失を繰り返したが、主に平泉寺の主導のもとに再建・再鋳された。
平泉寺の主な宗教活動は中世近世を通じてほとんど記録が残らず不明な点が多い。しかし数少ない史料から護摩供養、毎月17日の開山堂での逮夜法楽などを行っていたことがわかる。白山の雪が消える6月になると役人が市の瀬に詰め、院主も登頂し祈祷を行った。福井に出向いてのものも含めてお開帳行事、諸国勧進も宗教活動の一環としてあげられる。
平泉寺は参拝客も少なったと思われるが、お開帳は大勢の参拝客でにぎわった。白山天嶺・平泉寺参詣の嚆矢となったのは慶長10年の福井藩主松平秀康である。これ以降福井・勝山の藩主はしばしば平泉寺に参拝する様になる。また中世の修行者に代わり一般庶民が湯治を兼ね白山に登り、行き帰りに平泉寺を訪れるようになった。
平泉寺墓地
平泉寺の坊院に居住していた僧侶たちを供養した室町末期の石仏・五輪塔・宝篋印塔が約550点残されている。その他、元正天皇や顕海にかかわる石碑も立つ。墓地は市の指定文化財となっている。
元正天皇御歯髪塔
塔は平泉寺町の字向三昧に昭和15年(1940)に修補された。
碑には次のように刻まれている。
(側面)皇紀二千六百年七月二十日奉修之
(側面)元正天皇勅願所 霊應山平泉寺
呉石 西脇 静 謹書
地元住民は古来よりこの地を「御歯髪さん」と称し、高貴な方のお墓があった場所として畏れて近寄らず保存されてきた。竹内鉄也氏らは平泉寺を開基した泰澄大師と密接な関係がある元正天皇の御歯髪と考えた。こうして当地に御歯髪塔が建てられることになった。
元正天皇御歯髪塔奉修記念碑と顕海墓
碑がこの場所に建てられた所以は、向三昧の東端の約百坪の地が古来「オハガミ」「オハミサン」と称し、高貴な方のお墓があった場所として畏敬されてきたことによる。昭和15年(1940)、歯髪塔の近くに「元正天皇御歯髪塔奉修記念碑」も建てられた。裏面の会員氏名は判読できないが、表には以下のような趣旨が記されている。 本年は昭和12年の日中戦争開始から4年が経過し、皇紀二千六百年を迎えさらに平泉寺中興の祖顕海上人三百五十回忌の年にもあたる。そこで有志が相図って奉賛会を結成しこのような事業を実施することになった。
元正天皇にかかわる碑はもう一つ建てられている。「元正天皇御歯髪塚」で、その由来についてはよくわからない。裏面に昭和58年10月吉日 平泉寺区と記されている。この碑の背後には「御経台」の碑も建つが元正天皇に関係するものかどうかはわからない。
少し離れた場所には賢聖(玄成)院の再興にかかわった顕海・専海・日海三人の墓が建てられている。天正2年(1574)、平泉寺は一向一揆に攻撃され焼亡するが、顕海は弟子の専海・日海とともに逃れ、美濃国(岐阜県)桔梗原に移り住んだ。そして顕海ら三人は10年ぶりで焼け跡に戻り平泉寺を再興する。中央の顕海墓には「當山再興僧正顕海法印」とあり、裏面には「天正十七己丑二月廿七日」とある。昭和15年はこの年からちょうど350年目にあたった。
境内
かつての境内には48社36堂が建ち並び南谷・北谷には6000人の僧が住んでいたとされる。その繁栄の様子は「白山平泉寺境内図」からもうかがえる。現在は本殿・越南知社・別山社の三社を中心に三ノ宮社・剣ノ宮など往時に比べればその数は少ない。
堂舎は少なくなったが開祖泰澄大師を祀る泰澄大師廟、女神が降り立ったとされる御手洗池、南朝の忠臣楠木正成の墓、中世の石畳道が発掘された南谷など見学スポットは多い。何より観光客が目を奪われるのは境内を覆うコケである。コケを目当てに訪れる観光客も多い。拝殿の慶長から寛永期(1596~1644)に福井藩主や勝山藩主が寄進した絵馬は市の指定文化財となっている。同じく宝物館には絵図類始め中世の宝物が所蔵されているがこれらは公開される機会は少ない。
菩提林
下馬大橋を渡り約900メートルの間は菩提林と名づけられ、林の中央を2本道が並列して走る。右側は石畳道ではっきりした年代はわからないが、平泉寺が殷賑を極めた頃に衆徒が九頭龍川から手送りで造ったと伝える。石裏には法華経の文字を記し埋めたとも伝える。この道は当寺の学頭(別当)や賓客のみ通行が許され、一般人は一段下の道を通行した。
旧参道は日本の道百選に選ばれている。大正15年(1926)の河上御前のお開帳にあわせ、野辺自動車は勝山駅からの多くの参拝人を運ぶためバスを走らせた。その際にこの道も改修された。
17世紀初期に成立した「慶長国絵図」は中世の景観を描いているとされる。そこには平泉寺が描かれ天正の兵火から徐々に立ち直りつつある建物群が描かれている。17世紀後半の「貞享国絵図」には多くの建物群が描かれ、大門入口から奥の院に向かいかなり広い道が続いている。そこには「菩提林」と記され杉の大木がその両側に見られる。
奥院からは白山に向かい禅定道も描かれている。菩提という言葉は煩悩を断ち切り悟りを得るという意味なので、鬱蒼と茂った林を歩きながら徐々に煩悩を断ち切り、神聖な白山に向かう道として名づけられたのであろう。その歴史の古さをうかがわせる。この禅定道は歴史の道百選に選ばれている。
慶長8年には本多富正が「菩提林禁制」を出し伐採等を禁じ、翌年には福井藩から賢聖院に宛て「平泉寺菩提林御寄進状」が出されている。
昔の写真
関連資料
九頭龍川
源は油坂峠あたりで大野市を流れ勝山市下荒井附近で真名川と合流し下流の三国で日本海に注ぐ。ここでは勝山市域内を流れる九頭龍川を紹介する。平泉寺町壁倉区・大渡区・遅羽町下荒井当たりを上流、勝山橋附近を中流、荒鹿橋・市荒川橋附近を下流とした。
勝山橋の東の弁天堤には桜が植えられており、越前兜・法恩寺山・経ヶ岳をバックにした景色は絶景である。河畔では夏の花火大会、奥越に春を告げる勝山左義長のどんど焼は行われる。かつては鮎・鮭などの漁獲資源に恵まれていたが、最近は鮎釣りの人も少なくなった。国の天然記念物のアラレガコもほとんど見かけなくなった。九頭龍川にかかる橋や渡しについては各項目の解題を参照のこと。
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中流
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九頭龍川にかかわる絵図
九頭龍川にかかるはし
大野方面・福井方面から勝山に入るために九頭龍川を越える必要があり渡舟が利用された。渡場として大野方面からは箱の渡が、福井方面からは小舟渡の渡が利用された。遅羽・鹿谷から勝山町へは中島(鵜の島)渡や比島の渡が利用された。
近代に入ると渡舟を並べた舟橋も利用され小舟渡や下荒井が知られている。越前電鉄が開通すると九頭龍川左岸と右岸を結ぶ橋が相次いで架設された。大正元年(1912)下荒井橋が同4年勝山橋が、同12年小舟渡橋が完成した。平成に入り勝山南大橋が、28年には勝山恐竜橋が完成した
小舟渡(昔)
(現在)
勝山橋(昔)
(現在)
下荒井舟橋(昔
(現在)
大用水
立会用水とも言われる。九頭龍川から大渡区で取水し勝山町と猪瀬地区の7ケ村の田地を潤した。勝山(袋田)城の濠水をまかなうためもあり恐らく慶長年間(1596~1615)には完成していたものと思われる。田畑を潤すだけでなく勝山三町の生活用水としても利用された様子は、元禄勝山町図に町中に張り巡らされた用水網からうかがえる。
「筥(箱)ノ渡」と3つの渡し場
「筥ノ渡」は「鵜ノ島渡」「小舟渡渡」「比島渡」とともに、記念物として市の文化財に指定されている。この渡は平泉寺町大渡と九頭竜をはさんで遅羽町下荒井とを結んでいた。『霊応山平泉寺縁起』に「養老元年(717)四月朔日当山麓、大野隅筥川東来伊野原」とあるように、泰澄大師が白山禅定のため渡ったとされる。『太平記』の「牛原地頭自害事」には「平泉寺衆徒箱の渡を打越」と見られ、古代・中世にかけて渡し場として重要な位置を占めていた。
大永4年(1524)の「臨時祭礼入用帳」に「渡守 大わたり こふなと なるか」とあり、箱の渡は大渡とも呼ばれ九頭竜川の3大渡として知られていた。近世の資料である『越前国名蹟考』には以下のように記されている。筥渡旧跡「大渡は昔泰澄白山禅定の時、此川を助清と云う百姓筥の蓋に乗せ渡したるに依り筥の渡と云」「此村の西方黒竜川の流を筥渡と云」。とある。
近世においては「箱渡船組」として九頭竜川両岸の、幕府領・郡上領・小笠原藩領・大野藩領の村々百余か村が船組を結成。船米を出し合い、新艘を仕立てる場合も村高に応じ負担して運営されていた。近代に入り架橋計画があったが明治29年(1896)の大洪水で流れ、同35年橋長約95m、幅3mの舟橋が完成した。その後、大正元年(1912)に木造の吊橋が架設された。以後洪水の度に流失を繰り返した。
昭和14年(1939)、下荒井で九頭竜川の水を取水する発電所計画が具体化し、あわせて下荒井橋も改修された。戦後になり橋の鉄骨化が図られたが大野勝山間の交通量の増加、車両の大型化に対処するため、橋の架け替えと下荒井トンネルの掘削が認められ、同44年工事が完成した。筥ノ渡の碑は2つあり文化財碑は下荒井の「線刻大日如来像」の近くに、平泉寺町づくり推進協議会の碑は大渡の大用水の水門近くに建てられている。
なお、『朝倉始末記』には、朝倉景鏡が「壁倉ノ渡」を通り平泉寺の逃げ込んだことが記されている。
九頭龍川に流れ込む河川
ここで紹介しているのは九頭龍川右岸の白山山系から流れ込む河川を紹介している。すべての河川を取り上げているわけではない。また町ごとになっているが複数の町を流れるため大まかな区分になっている。あわせて流域にあるダムや発電所も紹介してある。
岩屋川
今は廃村となった岩屋地区に源を発し、北郷町の上野、伊地知区を通り九頭龍川に流れ込む。岩屋区にはキャンプ場があり清流は憩いの場として利用されている。流域は景勝地として知られる。川の下流左岸にある上野区には国の重要文化財の木下家住宅が建つ。
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皿川
大日岳山系に源を発し荒土町内を流れる川。新道、朴ノ木区を通り細野口で日谷川と伊波区で野津又川と合流し森川区で九頭龍川に流れ込む。周辺地域の農業用水として利用されてきたが、暴れ川として知られ沿岸村々に数々の被害をもたらした。
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中・下流
日谷川
大日岳山系に源を発する河川の1つで皿川の支流。西ケ原、戸倉区を通り細野口区で皿川と合流する。
女神川
おながみと読む。法恩寺山・経ヶ岳に水源をもち平泉寺町平泉寺の南を流れ猪野口区を通り九頭龍川に流れ込む。享保11年(1726)、雪解け水による土石流で周辺地域に100名近い犠牲者を出した。
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女神川洪水絵図
弁財天川
女神川の支流で岩ケ野区当たりから流れ出て九頭龍川に流れ込む。
浄土寺川
勝山町の飛地芳野から流れ郡区から勝山中部中の南を通り九頭龍川に流れ込む。中部中の生徒はこの川の清掃活動を行っている。上流には浄土寺ダムがある。
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暮見川
法恩寺山に水源をもち暮見区・寺尾区を流れ郡区・滝波区を通り九頭龍川に流れ込む。
大蓮寺川
大用水は勝山町に入り大蓮寺川となり九頭龍川に注ぐ。以前は浄土寺村から取水した猿鼻用水の一部と大用水の水源が勝山城の濠に流れ込み大蓮寺川へ流れ込んでいた。
滝波川
小原区当たりから大きな流れとなり木根橋区から国道157号線に沿い流れ、中尾・栃神谷区から薬師神谷区で大河となる。木根橋区には滝波発電所が薬師神谷区に新薬師発電所がある。野向町・村岡町を流れ九頭龍川に流れ込む。
杉山川
杉山区を流れ中尾区で滝波川に合流する。
定川
菩提林の北側から片瀬区・毛屋区を流れ九頭龍川に注ぐ。丈川・浄川とも称し平泉寺の菩提林に入る手前で身体を清める意味で名づけられたのであろう。
野津又川
大日岳山系(越前兜)に水源をもち横倉区・北野津又区を流れ伊波区で皿川と合流し九頭龍川に流れ込む。横倉区、北野津又区、荒土町別所地域の農業用水として利用された。上流地区はあわなだれ頻発地域でもあり横倉区は38豪雪で多数の死者を出し慰霊碑が建てられている。
上流
下流
牛ケ谷川
高尾山に水源をもち牛ケ谷区から薬師神谷区で滝波川に合流する。
関連資料
勝山市の伝統行事・祭礼
走りやんこ
その起源は火消勢揃駆出と考えられる。近世の19世紀中頃から3月20日下河原で股引をはき火事装束で勢揃駆出しが行われるようになる。
近代に入り『大野郡誌』に「やんこ」として紹介されているのが従来行われてきた勢揃駆出しと思われる。そこには毎年春季演習が終った後、勝山町で余興として行われる消防の走り合いと紹介されている。春季演習とは消防の演習を指し、明治29年(1896)4月13日、全町の六割を焼いた勝山大火を契機に、この日を消防演習日とした。勝山大火のあと、江戸時代の勢揃駆出しの伝統を受け継いで「やんこ」が始められたものと思われる。現在は「走りやんこ」といわれ毎年4月13日に行われ勝山の春の風物詩となっている。朝方、消防署の鳴らすサイレンを合図に演習が始まり、引き続いて「走りまとい」をバトンにして分団対抗リレーの形で行われる。長淵の茶所橋をスタートし本町を通過し長山公園がゴールである。
『郡誌』の記述が幕末期の勢揃駆出しの姿をよく伝えていると思われるので一部抜粋してみる。旗振りといって子供が旗を振って先駆けをする。出発点は町の北端の長渕区で、予め定められた通過順路を通り到着点は長山講武台である。選手には火消(消防)各組から選ばれた選りすぐりの機敏な者が選ばれる。競技に先立って選手に元気をつけるため雛卵が与えられ、脚には酒を吹きかける。号鐘を合図に半裸体の姿で頭には色手拭の鉢巻を巻き、四尺の柄のついた「走り纏」を持って走る。纏は次々とリレーされ最後にトップでゴールについた者が決勝点にある標旗を纏で突き刺す、これをブンデン突ちという。競技が終ると着順で各組が行列を整えて町内を巡り歩く。行列の先頭になることが最も名誉なこととされた。勝山市の指定文化財。
花火大会
花火を打ち上げる記述は近世の史料にも見られるが定期的なものではなかった。新聞に花火の記述が見られるのは昭和8年(1933)である。但しこれも現在のお盆の時期ではない。始められた時期ははっきりしないが、旧盆に九頭竜河畔で打ち上げ花火が定期的の行われるようになるのは昭和20年代後半と考えられる。
観音さまのおすすめ
現在行われている行事を簡単に紹介すると次のようである。行事そのものは2月11日に行われる。前日、子供たちは「観音さまのおすすめー」と高唱しながら各家を回り玄米を集めて歩く。婚礼など慶事のあった家が宿になり、その家に青年たちが集まり臼と手杵で米をかつ。その際囃し歌が歌われる。つきあげた米は鉄の大鍋で男たちによって仕草おかしくかしかれる。そのあとは塩味のお粥に炊かれ男が給仕して宿に集まった女性に振舞われる。男たちが女性に給仕してまわるが、その際も「観音さまのおすすめー」と囃し、何杯も無理やりお代わりさせ常に山盛りにする。以上が行事のあらましである。
お粥をつくるのは小正月の「小豆粥」行事の名残と思われる。男性が臼で米をかちお粥にし、それを山盛りにして女性に腹一杯食べさせる風習は、安産・豊穣を祈る「粥杖」行事の変形かと思われる。子供が「観音さまのおすすめー」と集落内を米を集めて歩くのはまれびと訪問を思わせ、いずれも小正月に行われる行事と関連している。
このように白山信仰から出発しながらも江戸時代においては村人の精神的紐帯として、近代に入ると村の伝統行事として、観音祭礼が位置付けられていることがわかる。勝山市の指定文化財。
御前相撲
令和元年の神明神社での相撲大会は9月15日に行われた。現在は昭和29年(1953)の市制施行を記念した市民体育大会、最初の国体開催の翌年に始まった勝山市地区対抗相撲が合わせて開催されている。この相撲の起源は御前相撲に始まる。享保14年(1729)8月15日、「神明角力之節入道様(小笠原信辰)山田団之丞屋敷ニ御見物」と史料に見られる。史料上では左義長より古い歴史がある。
神明社は勝山町の惣社として長い伝統を持ち、祭礼日は旧暦8月14~15日だった。相撲は興業として行われるのではなく「湯の花相撲」として、神明社への奉納相撲として行われてきた。一方、小笠原家の鎮守である八幡社でも同日に相撲が行われていたが、怪我人が多いとの理由で、天明期(1781~89)の末以降は神明社でのみ行われるようになる。また、八幡社の祭礼日と神明社の祭礼日が重なっていたため、文化11年(1814)以降は17~18日に固定された。相撲は18日に行われ藩主直々に観覧されたことから御前相撲と称されるようになった。
御前相撲は明治以降も続けられ昭和18年に戦争激化で一旦中止となり、戦後再度復活したが出場者が少なくなったため43年に中止された。ところで戦時下の昭和17年体力増強の意味もあり、勝山町主催の町内対抗相撲が開かれるようになった。こうした伝統を踏まえて市体協を中心に44年から形を変えて神明相撲が復興されたのである。
村岡山ちょうちん登山
昭和46年(1971)村岡青年団による登山道の整備が行われ、翌年から「かちやまちょうちん登山」が始められた。例年お盆の8月17日に村岡小学校グランドに集合して行われる。
村岡の地名は、「朝倉始末記」に「…村岡山ニ城郭ヲ拵テ寺門ヨリ持ナラバ…」と見られ、中世山城跡と知られる村岡山に因んでいる。長尾山と並んで松茸を多く産し、元禄4年(1691)に勝山に入部した小笠原氏は、藩の直轄林(おたてやま)とした。以後「御立山」を通称とした。
天正2年(1574)一向一揆勢は平泉寺攻撃の際、戦術的に拠点となるこの山に城を構え、平泉寺を焼亡に導いた。この戦勝を記念して村岡山を勝山と名付けた。翌3年柴田義宣は城を構え北袋(勝山盆地)を支配し、その一族の勝安も在城したが、同8年袋田村(現勝山)に城を移した。
大師山たいまつ登山
昭和43年(1968)に開催された第1回目の福井国体を契機にその前年、猪野瀬公民館と勝山公民館が地元片瀬区の協力を得て市民に呼びかけ実現した。毎年8月13日に行われ市民みんなのたいまつ登山として発展した。
滝波のお面さんまつり
滝波地区には「お面さんまつり」といわれる三百年近く続く伝統行事が現在も受け継がれている。お開帳と称し現在は2月11日、旧暦では1月11日に行われてきた。祭礼は三つの翁面の開帳と烏帽子着(名替え)祝いの二つの行事から成る。この二つの行事がいかなる理由で結びついたかはよくわからない。史料のうえでは宝永6年(1709)には現在の形に近い行事が行われていたようである。貞享2年(1685)に著された『越前地理指南』の滝波村の項に、「児権現の社アリ 古キ翁面三アリ」とある。
三体のお面が滝波村に伝えられるまでの経緯について、享保4年(1719)の「お面さん由緒書」(滝波区有文書)により。言い伝えも援用しながら述べる。
七山家の一つ小原の一揆が平泉寺から奪った神宝のうちに七つの神面があり、子供がもて遊んでいたところ村中に疫癘が起こった。そのため一旦はこの面は滝波川に捨てられたが、たまたま天正15年(1588)1月11日に滝波村の村長がこのうちの三体を拾った。村ではこのお面を敬い祭っていたところ数々の奇瑞が起こったので、百年前から祭礼を行うようになった。普段は穢れをふせぐため筺に納めておき、それぞれ翁面は天照太神社に、尉は春日社に、三番そうは住吉社に分置してきた。中世以来平泉寺では能楽が行われておりその面を戦利品として村に持ち帰ったと考えられる。翁面が戦利品かどうかは別にして、平泉寺を中心とした白山信仰の一つのよりどころとして信仰されていったものと思われる。勝山市の指定文化財。
谷のお面さん祭
2月16日区長宅(現在は谷教会)で金屏風を立て、これに面をかけ、〆縄を張り、酒、するめ等を供える。部落民は豊作を祈り区長が参拝してお神酒をいただく。使用するのはお面(4面)金屏風である。沿革は天正2年(1574)平泉寺焼き討ちの時小原村民が持ち出したお面7面のたたりを恐れ川へ捨て、このうち4面を谷村民が拾い祀ったといわれる。残り3面は滝波で祀られている。勝山市の指定文化財。
谷のはやしこみ
8月15日に、地区の中心の谷教会(寺)から村社伊良神社まで、様々な仮装をして練り歩き、境内で謡、三番叟、神楽などの芸能を奉納する。本来は2月16日に行われる「お面さん祭り」のときに五穀豊穣を祈願して行われていた。村の過疎が進み昭和47年(1972)に途絶えたが、平成12年(2000)に復活した。区の出身者が帰省しお盆に行われるようになった。
『勝山市史 風土と歴史』によれば、16日は谷の「いんねん」に当たり区長宅で午後、青年は変装してお神楽の用意をして伊良神社の境内に雪で二間四方位、高さ2尺ほどの壇を作り、その上にむしろを敷いてお神楽を舞う。はやしはつつみ太鼓と笛である。その後、赤色の帷子高烏帽子姿のお稚児さん(男子1人)が三番叟を舞う。舞は片足をあげて舞う、柴田義宣が谷の大西宗左衛門に最初の一突きで馬の脚を刺され、馬が脚をあげたため義宣は討たれたという。この所が殿切原といい、稚児の舞ともいう。片足をあげて舞うのはこの伝説から出たという
年の市
例年1月の最終日曜日に行われる「年の市」について、『大野郡誌』は次のように記している。「師走の26日に本町通りで年の市が行われ、近郷山家の素人商人・町商人・旅商人を交え、早朝より定めの場所に忙しく店を出す。神仏の棚飾、年頭の縁起物、台所用具、下駄、その他食料品に至るまで街上に陳列する。これらを買求め四方から多くの人が集まり喧噪を極める」。
正徳3年(1713)の史料に「当村近郷の市場は小笠原様の城下勝山と申所である」。文化8年(1811)の史料には、「勝山城下では月に6回の市が立ちそこで万事諸商事が行われる」。以上のように記され、勝山町が近郷農村の経済の中心であったことがうかがえる。町内の延享5年(1748)の史料には1年を通しての市について記している。そこには「三月朔日之市」「半夏生」続いて6月1回、7月3回、8月1回、「十二月廿一日」「十二月廿六日之市」と9市が挙げられている。
「年の市」はここで言う「二十六日市」と当初は呼ばれていたようである。始まった時期は明確ではないが、相当古い時代から旧暦の12月26日に開かれ、近郷から多くの人たちが集まるようになったのは幕末期と思われる。市は農間稼として作られた藁製品や木工品を売り、一方で正月を迎えるための日用雑貨を買い整える役割を担っていた。明治末期の年の市の風景を『鹿谷民俗史談』を以下のように描写している。
「書出の来ている店々を支払に回るが、この日は支払が殺到するので、店でも玄関に鼎という大きな五徳を据え、甘酒の鍋をかけて沸かし、支払人に甘酒の供応をする。…本町通りには中央を流れている川の上に桟敷を作り、戸板を掛け渡したりして、色々の品を並べて売っていた。北谷あたりから出した木製品を販売する店が賑っていた。…香具師も大勢来て今の神明様の前あたりから、長淵の新保屋さんの前まで、ずらりと露店が並び身動きの出来ない程の人通りであった。」
弁天桜
雪を頂いた大日連峯を背景にした弁天桜のその美しさはまさに絶景である。この弁天桜の起源をたどると以下のような経緯を経て現在のような景観となった。
大正12年(1923)~13年、関源右衛門町長は町会の承認を得て吉野桜三百本を購入。二百本を九頭龍川堤防上に、百本を長山公園に植えたのが始まりである。しかし雪害と肥料不足で5~6本のみ助かり残りは枯死してしまった。その後昭和2年(1927)に下後区の世話役をしていた市橋定吉氏が、私財で吉野桜五百本を堤上に植樹。同5年に更に堤上の下に二百本、長山公園に百本植樹した。
市橋氏と下後区青年会の施肥と手厚い保護で樹はすくすくと育ち、昭和8年以後は同青年会の大々的な宣伝効果もあり県下でも知られるようになった。同9年の新聞によると4月26日満開となり連日7千~8千の花見客が訪れた。
戦後昭和24年、桜の樹齢も26年で見頃となり、4月10日~16日迄「はなまつり」が開かれた。花火の打ち上げ、長柄おどり、歌合戦など各種の催しが長山公園も含めて開催された。昭和42年の記事には、お国自慢もあり名花として弁天桜を県下一とし、次いで城を春景とした丸岡城の桜をあげている。
関連資料
勝山市の神社
白山への越前側の登山口(馬場)をひかえる平泉寺町は、地元であるだけに村社の4分3が白山神社である。しかし市内全体での割合はほぼ5割である。数の上では白山神社は48社、次いで八幡神社が11社、神明神社が6社と続く。その他は2~3社に過ぎず1社のみの名称もかなりの数にのぼる。町別に見ると村岡町の白山神社の割合は3割と最も低い。
勝山町の光明院にはかつて白山社が祀られており町の北の守り神として創建された。白山登山の際は先ずここにお参りしたが現在は神明神社境内に移された。十王堂は閻魔堂とも言われ平泉寺の祭礼の前日にここで祭礼が行われた。平泉寺町については別項に譲る。
勝山神明社
荒土町の景観
荒土地区は市の北西部に位置し背後に越前兜やそれに連なる水無山などを控え、西には九頭龍川が流れる。最大の河川は皿川で流域村々は度々洪水に見舞われた。東から西に流れ九頭龍川に注ぐ。堀名区の背後の水無山には堀名銀山が幕末期に栄えた。銀山の近くに天正2年(1574)平泉寺と戦った島田将監が籠った壇ケ城跡がある。
伊波区の白山佐羅宮は白山七社の一つで唯一平泉寺白山神社の境内の外に置かれ、「霊応山平泉寺大縁起」に次の様に記されている。「平泉寺から2里(8キロ)離れた伊波邑に、御旅所である佐羅早松大明神を祭神とする佐羅堂がある。毎年4月1日に三所(白山妙理等)の神輿を僧俗千余人が供奉し移し奉る。2日は八乙女の神楽、3日は衆徒全員の法楽、4日は皿川で神輿洗いが行われ、5日に還御される」。
近世には神社前の道を通り白山に向かった。ほぼ荒土地区全体から白山をながめることができる。
伊波白山一の宮神社
関連資料
荒土町の景観
勝山市の神社解題
表2勝山市の神社
勝山市
明治22年(1889)の市制・町村制の施行で現勝山市域(大野郡北部)は、平泉寺・猪野瀬・村岡・野向・北谷・荒土・北郷(以上九頭竜川右岸7村)、鹿谷・遅羽(九頭竜川左岸2村)の9村と勝山町の1町9村体制となった。しかし昭和6年(1931)に猪野瀬村は勝山町に合併した。その後、昭和29年に1町8村(現在の町)が合併し現在の勝山市となった。
明治初期には存在した村でその過疎化で廃村となったものがいくつかある。表1は神社や伝統民家が残る区(近世の村)の有無で作成したもので、近世の江戸時代の村をすべて含むものではない。以下は表1の町・区の区分に従い分類してある。猪野瀬はそのまま残してある。九頭竜川右岸の7町が広い意味での白山山麓に立地している。
平泉寺町
町名は平泉寺に由来する。表1の赤尾・岡横江・経塚は平泉寺村の枝村で本来は8村から成る。史跡白山平泉寺旧境内の発掘調査が進み国内最大の中世の石畳道が見つかり、杉の大木、コケの美しい境内は人気スポットとして注目を集め、最近は観光客が大幅に増えてきている。大矢谷区の白山神社の巨大岩塊も同様に注目を集めている。歴史探遊館まほろばで平泉寺・白山の歴史・文化を学ぶことができる。平泉寺の詳細は平泉寺白山神社解題を参照のこと。
猪野瀬地区
この地区は表1の10村が該当する。近世の若猪野・猪野・猪野毛屋・下毛屋・上高島・下高島・北市の「四至内七ケ村」に、片瀬・畔川・猪野口を加えた「四寺内十カ所」に当たる。平泉寺の支配が最も強かった地域である。特に片瀬は隷属的ともいえる村であった。伊野原は泰澄大師の母が生まれた地で旧下毛屋区には泰澄母の墓所が建つ。昭和6年に勝山町に合併した。
村岡町
町名は村岡山に由来する。七山家の一向一揆はこの山に砦を築き平泉寺と対峙した。その後、平泉寺を亡ぼしその戦勝を記念して村岡山を勝山と名付け麓には館もあった。その後、勝安は村岡城を袋田村の七里壁の上部に移したのを契機に、勝山の名が吉兆であるとして勝山町と称するようになった。表1の10村が該当するが猿倉区は長山町に三谷区は昭和町に編入された。滝波区のお面様まつりは一向一揆が平泉寺から奪った面の内、3つが滝波川に流れついたことに由来する。
野向町
表1の8村が該当する。近世になると白山への登攀は北谷から牛首を通るルートがメインとなり、深谷村の平野家は宿泊や馬が準備されここで旅装を整えた。平野家の庭園は当時の繁栄を伝え県指定文化財となっている。薬師神谷の薬師神社には無事に白山参を終えたことを感謝した絵馬が残る。また当区には平泉寺に因んだ遺蹟がかなり残されている。竜谷の比良野家は大庄屋を勤めた家柄でしばしば小笠原藩主が訪れ長屋門・離座敷は市の指定文化財となっている。
北谷町
表1の8村が該当するが中野俣村は廃村となった。当町は豪雪地帯のため過疎化が著しく他の区でも無人化が進んでいる。小原村など七山家の一向一揆は背後の三つ頭山から平泉寺に攻め入り滅ぼした。略奪したお面の3つは村岡町滝波区に4つは谷区につたわり毎年2月に谷のお面さん祭が開かれる。近世には白山参拝の道筋に当たり近代になると白山に荷物を運ぶ歩荷が活躍した。牛首村と間の牛首道の石畳道が一部残る。同じく小原の石畳の道や石垣は絶景である。昭和57年北谷町杉山で恐竜化石が見つかったことが恐竜王国勝山の出発点となった
荒土町
表1には18区記載されているが境・西ケ原・戸倉・新道は細野村の枝村である。水無山は鉱物資源に恵まれ麓には堀名銀山や細野口鉱山があり、幕末期に反映した堀名銀山には橘曙覧も訪れた。堀名中清水区の日吉神社の背後には一向一揆の指導者島田将監が立て籠った壇ケ城跡が残る。白山七社は平泉寺白山神社境内にあるが残る一社は伊波区の白山一の宮社である。中世までは白山社の御輿がここまで行幸した。
北郷町
表1の11村から成るが上野は伊知地村の枝村で岩屋区は廃村となった。伊知地区の鷲ヶ岳は南朝の武将畑時能が立て籠もり壮絶な死を遂げた。伊知地古戦場は市の文化財で畑時能公例祭が毎年開かれている。上野区には国の重要文化財に指定された木下家住宅が建つ。天保10年(1839)頃に建てられた庄屋の家で普請帳も含め指定を受けた。現在は廃村となっているが岩屋区にはかって霊厳寺があり、豊原寺から平泉寺に道筋に当たる白山修行の場であった。当区には中世期作の岩屋観音が祀られていたが盗難にあった。樹齢千年をこえる大杉が残る。桧曽谷区には中世から近世初期に北袋銀山がさかえ、新町は鉱山町として出発した。
鹿谷町
四つの谷から鹿谷の名が生まれたのであろう。九頭龍川の左岸に位置し右岸地域とは異なった文化風土が培われた。表1の10区から成る。一乗谷に本拠を構えた朝倉氏と平泉寺を結んだ阿波賀街道は、下城戸を出て当町の北西又区に入り遅羽口村から蓬生坂を通り箱の渡につながっていたと思われる。保田区から眺める白山は県内の絶景地と言える。当区の九頭龍河畔あるいは区内の上道場当たりから、12月あるいは4月頃に白雪を頂く白山は神秘的で、まさに女神の住む山にふさわしい。
遅羽町
大野郡北部で荘園として知られるのは遅羽荘のみである。郡北部は平泉寺の強い勢力下にあったことや九頭龍川が障害となって開発が遅れ中央の支配が及ばなかったのであろう。従って大野とのつながりが強い地域である。下荒井と大渡を結ぶ箱の渡しは泰澄が白山に登るに際し渡ったことに由来する。鹿谷地区の人たちは比島の渡しが不安定であったため蓬生坂を越え、中島(鵜の島)の渡しを利用して勝山町に出向いた。当区には箱の渡・中島の渡・比島の渡の3つの渡し場があり交通の要衝でもあった。北山区の観音さまのおすすめは女性を接待するユニークな行事で市の文化財に指定されている。
勝山町
町の起源は袋田村で袋田の名は16世紀の「平泉寺賢聖院院領目録」に見える。この地は九頭龍川を通じ福井・大野とつながり、白山麓の村々と谷道を通じて交わる交通の要に位置する。勝山の名の由来は一向一揆が村岡山を砦として平泉寺を滅ぼした山として「かちやま」と称し村岡山城を築いた。城はその後袋田に移されたため「勝山」と称された。
最初は「北袋」などとも呼ばれたが慶長期以降は「勝山三町」の名が使われるようになる。三町は「袋田町」「郡町」「後町」の3つから成り、袋田町の枝町として沢・長淵町が発展した。町は七里壁の上部に城が建ち家臣が住む家中と下部の町人が住む町屋に別れ、こんば坂・神明坂・大手坂・お種坂で結ばれていた。
元禄4年(1691)に小笠原氏が入部し城下町としての歩みを始め、当時の様子は「元禄勝山町図」でうかがうことができる。勝山城は完成を目指したが結局未完に終わり明治に廃城となり、昭和42年(1967)市民会館建設にともない城跡も壊された。現在は勝山城址の碑のみが残る。
勝山町も含め大野郡北部の地は九頭龍川の洪水との戦いの歴史であり、町は幾度もの火災にも見舞われた。左義長の祭礼は鎮火祭として町民たちのつながりを強める町行事として定着していった。町の三大行事はこの左義長と御前相撲・顕如講が知られ長い歴史を持つ。
勝山市は千メート級(東部の白山など)の山々に囲まれ、中心部には県内最大の河川九頭龍川が流れる。気候は内陸性で湿潤だが気温の寒暖差が大きく多雪地帯である。2007年にアメリカの経済誌「フオーブス」電子版で世界9位のクリーンな都市に選ばれた。また「恐竜渓谷ふくい勝山ジオパーク」は2009年に加盟を許され、2019年再認定を受けた。メインテーマ「恐竜はどこにいたのか?、大地の動き、大陸から勝山へ」に、「恐竜・恐竜化石」、法恩寺山および経ヶ岳の「火山と火山活動」、九頭龍川などの河川による「九頭龍川などの河川のはたきとその地形」、この3つのテーマが設定されている。
2019年には「400年の歴史の扉を開ける旅~石から読み解く中世・近世のまちづくり越前・福井~」のタイトルで福井市・勝山市が日本遺産に認定された。勝山市は白山平泉寺と勝山城下町が対象で、それぞれ「白山平泉寺旧境内・旧玄成院庭園」と「旧城下町の街並景観・七里壁」が構成要素になっている。「県立恐竜博物館」「白山平泉寺」「スキジャム勝山」が三大観光地である。
ふくいの伝統民家
福井県は、平成18年(2006)4月1日から「福井県伝統的民家の保存および活用の推進に関する条例」を施行し、この条例に基づく施策の一つとして、「福井県伝統的民家認定制度」を開始した。この伝統的民家認定制度は、所有者の申請に基づき県が「ふくいの伝統的民家」として認定を行うもので、伝統的民家に誇りを持って住み続け、後の世代に継承していくことを目的とする。
認定基準は県内のそれぞれの地域で受け継がれてきた「妻壁を柱と梁で格子状とした漆喰塗の切妻屋根の農家」や、「格子戸等町家の伝統的意匠を基調とした切妻屋根の町家」等、外観を地域の伝統的民家の意匠を基調とした木造の建物、 または知事が地域固有の伝統的民家と認めたものである。
勝山市内では現在までに101の家が認定されているが、内2軒は取り壊され99軒が現存する。詳細は表 1参照。
表題 ふくいの伝統民家
大項目 家数 数
平泉寺町 14 44
猪野瀬 3 12
旧勝山町 32 58
村岡町 2 4
野向町 12 31 景観11
荒土町 25 64 景観17
北郷町 12 37 景観18
遅羽町 1 2
平泉寺町平泉寺
平泉寺町平泉寺は国の特別史跡白山平泉寺旧境内が立地する地区である。こうした歴史風土下にあるため区全体が歴史的景観に恵まれている。石垣を廻らせた家々が立ち並び非常に美しい景観を構成している。
福井県の伝統民家として14の民家が指定されている。その他にも勝山藩の大庄屋を勤めた梅田治右衛門家(備荒倉は市の指定文化財)を始め、指定されないものの伝統的な大型民家が数多く残る。典型的農家型民家として指定され、屋根はすべて切妻、玄関は妻入り・平入りが半々である。
関連資料
勝山市の解説
旧枝村含勝山市域の地区
ふくいの伝統民家解題
平泉寺地区の伝統民家
法輪寺・聖徳太子の御子山背大兄王が建立
法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、三井(みい)という土地の名によって三井寺とも呼ばれています。
三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。
法輪寺の西北、歩いて3分の場所には、聖徳太子が掘られたという国史跡の井戸(「史跡 三井」)が遺されています
法輪寺の創建には2説が伝えられています。
ひとつは、推古30年(622)、聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)がその子・由義王(ゆぎおう)らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)。
もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。
昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西院伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似することが判明しています。
薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり寺観が整っていたであろうと考えられます。
創建から江戸時代中期まで、当寺に関する史料は乏しいため、奈良時代の様子はほとんどわかりませんが、十一面観音菩薩立像・弥勒菩薩立像・地蔵菩薩立像・吉祥天立像・米俵毘沙門天立像など、平安時代の仏様を多く伝えることから、平安時代には寺勢はなお盛んであったようです。
延長6年(928)の『寺家縁起』には、当時の檀越が高橋朝臣であり、寺域は、東は法起寺堺、南は鹿田池の堤、北は氷室池の堤、西は板垣の峰を限ると伝えています。
鎌倉時代の様子は、金堂・講堂・塔・食堂等が建っていて「建立の様は法隆寺に似たり」と『聖徳太子伝私記』に記されていますが、『大乗院日記目録』には、南北朝時代の貞治6年(1367)正月三日に法輪寺が炎上したとあります。
室町時代末頃の『大和国夜麻郷三井寺妙見山法輪寺縁起』には、金堂・講堂・塔・中門・北門・鐘楼・鼓楼・経蔵・宝蔵・四面廻廊・僧房・温室等があり、塔の四面に塑像群を置くと伝えますが、上記の火災の記述から疑問視されています。
資料集
121_330_法輪寺・聖徳太子の御子山背大兄王が建立
近江神宮
天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、天智天皇を祭神として創祀された。
太平洋戦争の終戦後である神道指令が発令された1945年(昭和20年)12月15日のまさにその当日に、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定された。
例祭は大津宮に遷都された記念日の4月20日に勅使が参向して行われる。このほか主な祭典として、6月10日時の記念日の漏刻祭、7月7日(年により5日)の燃水祭、11月7日の御鎮座記念祭、12月1日(年により2日)の初穂講大祭、1月前半の日曜日のかるた祭(かるた開きの儀)などが行われる。また、日本古式弓馬術協会による武田流鎌倉派流鏑馬神事が11月3日に行われていたが、2015年(平成27年)から6月第1日曜日に変更された。
天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置した歴史から境内には各地の時計業者が寄進した日時計や漏刻などが設けてあり、時計館宝物館と近江時計眼鏡宝飾専門学校が境内に併設されている。
小倉百人一首 第1首目を詠んだ天智天皇
また、『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている。このほかにも高松宮記念杯歌かるた大会・高校選手権大会・大学選手権大会なども 開催されるなど、百人一首・競技かるたとのかかわりが深い。競技かるたに取材した漫画・アニメ『ちはやふる』の舞台ともなった。
天智天皇の百人一首の歌の歌碑も設置され、柿本人麻呂・高市黒人の万葉歌碑、弘文天皇(大友皇子)の御製漢詩碑、芭蕉句碑、保田與重郎の歌碑など多くの歌碑・句碑が作られている。
資料集
120_329_大津京・近江神宮(飛騨匠の都造り)
飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡
国指定重要文化財(建造物)国分寺本堂
単層入母屋造、銅板葺
四方廻縁
桁行12.4メートル
梁間8.66メートル
向拝3.33メートル
奈良時代当時、七重搭、金堂、仁王門などを備えた壮大な伽藍があったと伝わる。『類聚国史』に「弘仁十年(819)八月飛騨国国分寺災」とあるが、その後、近世まで記録がない。昭和29年(1954)、本堂の解体修理時に、建築様式と手法は室町時代中期以前、正面向拝と東側は桃山時代の修理であることがわかった。向拝等は金森氏が国分寺の再興を助けた際の大修理と考えられる。地下45センチメートルには、南北4間、東西7間の金堂と推定される建物の礎石が確認された。
建物の柱、垂木、構造材は太い。外陣の虹梁は絵様がなく、板蟇股の断面も逆バチ型で室町期の様式を示す。
昭和42年4月5日指定
高山市教育委員会
説明板より
国分寺八日市
岐阜県指定重要文化財(建造物)三重塔
屋根銅平板葺
桁行、梁間共4.24メートル
高さ22メートル
(礎石上端より宝珠上端まで)
天平13年(741)の詔勅により建立された塔も、弘仁10年(819)に炎上し、斎衡年中(854~857)に再建した。さらに応永年間(1394~1428)には兵火にかかったと伝えられる。その後再建されたが、戦国時代の金森氏が松倉城の三木氏を攻めた際に損傷し、元和元年(1615)、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺大平釘図」に記録されている。
現在の塔は、寛政3年(1791)の大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜捨浄財金800両と大工手間5,500人工をかけて、文政4年(1821)ようやく竣工を見たものである。棟梁は3代目水間相模であった。
昭和53年(1978)には、屋根の修理と自動火災報知設備、保護柵の設置を行なった。屋根は、建立当初柿葺であったが、大正11年(1922)に桟瓦銅板葺に変更され、昭和53年(1978)には銅平板葺となった。
飛騨では唯一の塔建築で、金剛界、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。
昭和49年11月13日指定
高山市教育委員会
説明板より
関連資料
6-4-1 国指定重要文化財(建造物)国分寺本堂
6-4-2 岐阜県指定重要文化財(建造物)三重塔
動画資料
資料集
119_328_飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡
田中大秀翁
田中大秀翁は、安永6年(1777)8月、高山一之町の薬種商に生まれた。現在、下一之町鍋島茶舗になっている場所である。
幼少より学問に長じ、25歳の時、伊勢松阪の本居宣長に入門し国学を研究した。国学とは、江戸中期に興った復古主義的文学運動で、我国の民族精神の根元である古道を「古典」の中に追求しようとしたものである。大秀翁はたくさんの研究書を著し、当時の国学者番付では、最高位に位置付けられるほどの評価を得ている。代表著書は『竹取翁物語解』で、現在でもレベルの高い注釈書として学会に通用している。当時、大秀翁を慕って全国各地から入門者があり、多くの門弟を育てて郷土の教育文化に大きく貢献をした。
大秀翁の著述本や、手択本、古今珍籍名著本など1,516冊は、「荏野文庫」として岐阜県の文化財に指定されている。
リーフレットより
田中大秀の住居(生家)
<香木園跡>
叢桂園(そうけいえん)扁額は、2面とも江戸中期の著名な南画家池大雅の書。楷書額41.1×197.0㎝、行書額42.9×130.0㎝。
叢桂園はかつて高山下一之町田中家の家名とされた。伴蒿蹊宛書状のなかで大秀翁は次のように述べている。
いまカツラといえば楓(オカツラ)のことで、桂(メカツラ)ではない。タブ(クスノキ科)は寒国には育たないので、薮肉桂同類の俗称キョウの木を庭に植えたい。キョウは桂の訛(なまり)か、又は楿(国字)の音読か。古事記に湯津香木(ゆつかつら)とある。「叢桂園」をユツカツラゾノと読むか、「香木園」と書いてカツラゾノと読むことにしたい。
樹皮を乾燥させた肉桂(ニッキ)は健胃剤に、肉桂油は香料や医薬用に使用される。生薬屋にふさわしい家名と言えようか。
薬種商田中家は、高山でも有数の資産家であった。座敷も立派であったに違いない。寛政元年(1789)には巡見使比留間助左衛門、文政11年(1828)には代検見勘定方武島菅右衛門の宿所を引き受けている。
香木園跡は現在鍋島茶舗になっている。
<八幡宮桜山庭碑>
高山桜山八幡宮の社務所前にいまもささやかな庭園を眺めることができ、池畔に西面して小さな石碑が立っている。翁の父博道が当神社の神官として在職中、境内に造庭したその由来を大秀が記したもの。碑面高さ91.2㎝。
桜山は大町(下一之町)の田中家に程近く、鎮守の森でもあった。庭造りが趣味であった大秀翁実父博道は、八幡社境内に庭が欲しいと考え、しばしばここを訪れては独り酒を酌みながら、あれこれと工事を指図した。急ぐことでもなかったので、10余年をかけて享和2年(1802)秋ようやく小園が完成した。
翌3年夏杖を曳いてここに遊んだ父翁は、上機嫌で供の家僕に「手入れを怠らず、冬に備えよ」と命じた。その日を最後に翌日から父翁は病の床に伏し、6月18日、ついに帰らぬ人となった。71歳であった。大秀翁は時に27歳。
リーフレットより
田中大秀の住居
錦山神社の前を通って旧街道を進むと、やがて荏名(えな)神社がある。飛騨を代表する国学者・田中大秀が再興したといわれるこの地は、また大秀の住居でもあった。
大秀の功績はその代表的労作としての『竹取翁物語解』をはじめ『蜻蛉日記紀行解』、『土佐日記解』など多くの古典の注解を果たし、特に竹取は、今日でもその研究の基本となっていて高く評価されている。一方、富田礼彦(いやひこ)、山崎弘泰など多くの門弟を育て、維新前後の飛騨の文化的・精神的中心人物を生み出した。
『広辞苑』の中で、飛騨出身の人名を拾って目にとまるのは、この大秀と金森宗和の二人しかない。そのことをもって大秀の業績をはかるわけではないが、飛騨の歴史の中で全国に通用する第一級の文化人であったことは間違いない。
大秀は、本居宣長(もとおりのりなが)が死ぬ半年前に入門し、宣長の死後は、養子の本居大平(おおひら)について学んだ。紀文から大秀と改名したのもこの年で、盲目の長子・本居春庭(はるにわ)と二派に分かれた鈴門の中で、大平を師と選んだことになり、大平への傾斜の過程がうかがえる。松阪市の本居宣長記念館の加藤清太郎さんが「宣長に五百人以上の門弟があっても、その多くは和歌が上手になりたくて入った人で、国学をやろうとした弟子はきわめて少なかった」と語られるが、大秀は、そのきわめて少ない弟子の中に入るのであろう。同館には、大秀の『住吉物語校異』の稿本がある。
飛騨における大秀の活躍には目ざましいものがあったが、その業績の中には、時として正鵠(せいこう)を欠くのではと思われるものもある。たとえば荏名神社の再興について『紙魚(しみ)のやとり』で加藤歩蕭(かとうほしょう)は、
「延喜式(えんぎしき)飛騨八神の内、荏奈明神の社地むかしよりしる人なし、しかるを田中屋弥兵衛(おおひで)という人、江名子村いな桶といへるちいさき祠を荏奈明神なりとて、文化十一年(1814)新たに荏奈の神名を鋳たる神鏡を納め、文化十二年八月初て神事を行いける、古来より社地の詮議文明ならざるをいかなる証拠を見出したるや、もしくはおしはかりにて荏奈の社地なりといふにやしられず、御検地帳にもなければ宮地とは仕(つかまつり)がたき所なり・・・いな桶とはえな桶の転語なり、大むかしは胞(えな)を納る地にして所々にあり」
と記して、胞、つまり後産(あとざん)を捨てるところだったと言っている。このような敷衍(ふえん)の強引さは飛騨総社の再興にもとかくの論議を呼び、萩原町の浅水橋(あさんずばし)の地名考についても平瀬担斎と争っているし、車田の碑文の馬篭野(まこもの)の解釈にも無理が見られる。
偉大な郷土の先覚に何をつける気は毛頭ないが、学問上の功績とは別に、大秀の人間像には、ところどころ衒(てら)いがみえる。
大秀の歌の心に、宣長のめざした「もののあはれ」「歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也」という境地はやや乏しい。
小鳥幸夫『飛騨百景』市民時報社 昭和58年発行より
関連資料
6-2-1 田中大秀翁という人
6-2-2 田中大秀の住居 その1 (生家)
6-2-3 田中大秀の住居 その2
資料集
118_327_田中大秀の生家
高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻
<立川和四郎の「五台山」の獅子彫刻>
春の高山祭の屋台「五台山」の獅子彫刻は、長野県諏訪(下諏訪町、諏訪市)の立川和四郎(たてかわわしろう)が彫った。天保8(1837)年、与鹿16歳の時である。組内では祭礼の日まで制作を秘密にしていて、高山の人は新しい彫り物を見て仰天したという。谷口与鹿は和四郎の躍動する獅子彫刻を見て、強く影響を受け、その後、高山祭屋台の名彫刻を数々生み出すことになる。
諏訪の和四郎は長野、愛知、静岡で寺社建築彫刻に活躍した大工で立川冨昌(とみまさ)と言った。初代立川和四郎(冨棟)は江戸の立川流に学び、諏訪に帰って諏訪大社などの建築彫刻に腕を振っている。冨昌はその後を継いだ二代目で、初代は獅子、龍などをテーマにしていたが、冨昌は鳥や植物にテーマを広げた。
天保時代の高山は、屋台が大体今日のような様式に改造された時代でもあり、各屋台組では次々に競うように改修が行なわれている。従って高山の工匠たちは、腕を振るって存分の仕事をすることができ、屋台建造の名工が求められた時代であった。
<谷口与鹿の屋台彫刻>
飛騨の名工、谷口与鹿(よろく)が25歳の時に手がけた秀作に、麒麟台(春の高山祭屋台)の彫刻「唐子群遊」がよく知られている。である。与鹿はこれを彫るとき、組内の有力者の家にこもって構想を練り、毎日、城山へ子どもと一緒に遊びに出かけ、その姿と動作を観察した。その間、少しも仕事に取りかかる気配がなかったので、組内(くみうち)の人は気をもんだという。
この柱間(はしらま)の彫刻は1枚のケヤキ板から、水を飲む鶴、動く鎖を付けた犬、籠の中の鶏、遊ぶ唐子などを彫り出した。近寄ってよく見ると、ケヤキの木目が非常にきれいである。木目の年輪の円形になるところを、ひざの頭辺りに持ってきたり、顔の頬にも木目の円が来るように工夫している。選りすぐった木目をこよなく愛した飛騨匠(ひだのたくみ)ならではの所業である。
また、籠の中の鶏はくりぬき彫りという手法で、耳かきのような特殊な刃物によって、多くの時間を費やして彫ったものである。彫った籠をかぶせたのではなく、どうやればこんな彫りができるものかと感心する。細かく均一に籠の網目を細く彫り抜き、中で鶏が餌をついばもうとしている。ケヤキの良材の木目を生かした名彫刻である。
与鹿は代々大工の家筋であった谷口家の中で、五兵衛延儔(のぶとし)の次男(郷土史研究者池之端甚衛の説では、孫という)として、文政5(1822)年に生まれ、幼名を与三次郎といった。延儔と共に、高山市西之一色町の飛騨東照宮の造営に従事し、その彫刻を担当した中川吉兵衛の教えを受けた。そして谷口一門が請け負った屋台の改修に、吉兵衛とともに腕を振るってゆくのである。
また、与鹿は、19歳の時には琴高台の波間の鯉を彫り、その後、恵比須台の手長・足長彫刻、麒麟台の彫刻などを完成したが、嘉永3(1850)年、文人画家の貫名海屋(ぬきなかいおく)を頼って京都に出てしまう。やがて伊丹の酒造家岡田家の食客となり、ここで家庭を持った。
神部神社・浅間神社大拝殿(重要文化財)
徳川3代家光将軍時代、日光東照宮と共に大造営された社殿は、惜しくも火災にて焼失した。
現社殿は、11代家斉将軍時代・文化年間、幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜、最高の技術を駆使して造営されたもので、豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と称されている。殊にこの神部神社・浅間神社両社の大拝殿は、他に類のない特殊な重層楼閣造りで、世に「浅間(せんげん)造(づくり)」と称され、当神社の象徴的建造物である。
高さ81尺(約25メートル)もあり、外観は彩色絢爛。殿内は132畳で、天井には狩野栄信(ながのぶ)・寛信(ひろのぶ)の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が描かれている。
平成5年9月吉日
静岡浅間神社
説明板より
少彦名神社(重要文化財)
例祭日 1月8日
本社は、少彦名命を主神とし、他に神部神社末社14社の祭神を相殿とする。
もと神宮寺薬師社と称し、薬師12神を祀っていたが、維新後神仏分離に際し、臨済寺に遷され、現在は少彦名命をご祭神とする。社殿は入母屋造銅瓦葺、朱塗で、細部に彩色を施し、特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である。
古来境内社として、病気平癒の信仰がすこぶる篤く、御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある。
平成5年9月吉日
静岡浅間神社
説明板より
東雲神社「丸山東照宮」
東雲神社は、古くから「丸山の権現さん」として親しまれてきた「東照宫」である。創建は元(げん)和(な)8年(1622)と伝えられ、「駿国(すんこく)雑誌」や「安東村村誌」によれば、駿府城内にあった「東照宮」を現在地である府中浅間神社(現・浅間神社)の別当、惣(そう)持(じ)院(いん)境内に移したものと伝えられている。
惣持院は、明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となったが、「東照宫」は明治8年(1875)2月18日、村杜に列せられ、同33年(1900)、村内にあった八(や)雲(くも)神社を合祀し、「東雲神社」と改称した。
御祭神は「東照公 德川家康公」「速(はや)須佐(すさ)之男(のうの)命(みこと)」のほか、「天神社」「稲荷社」が祀られている。
宝物として、寛永20年(1643)に3代将軍家光公の武運長久と子孫繁栄を祈願して造られた「東照公御尊像」のほか、「慈(じ)性(しょう)親王(しんのう)筆東照宮額」「三十六歌仙額」「駿府城代武田越前守信村奉納釣灯籠」「備前長光作脇差」などがある。
「丸山」の地名は、家康公が大御所として験府城在城中の慶長年間、鷹狩のためにこの地を訪れ、その趣が京の円山に似ているとして名付けられたものである。
「駿府まちおこし」推進協議会
静岡市
説明板より
八千戈神社(重要文化財)
例祭日 10月15日
本境内社は、明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した念持仏の摩利支(まりし)天(てん)を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
維新後神仏分離に際し、金印木像は臨済寺に遷され、以後八千戈命をご祭神とする。
昭和5年(1930)5月29日、昭和天皇御親拝の折には、神部・浅間両社御修理中で、当社を仮殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いで行なわれた。
特に名工の誉高い立川和四郎富昌の彫物が、中国の24の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。
現在では、武神として信仰され、一般に勝負事の祈願所として広く信仰を集めている。
平成5年9月
静岡浅間神社
説明板より
関連資料
5-3-1 高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻
5-3-2 神部神社・浅間神社大拝殿(重要文化財)
5-3-3 少彦名神社(重要文化財)
5-3-4 東雲神社「丸山東照宮」
5-3-5 八千戈神社(重要文化財)
資料集