近江神宮
天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、天智天皇を祭神として創祀された。
太平洋戦争の終戦後である神道指令が発令された1945年(昭和20年)12月15日のまさにその当日に、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定された。
例祭は大津宮に遷都された記念日の4月20日に勅使が参向して行われる。このほか主な祭典として、6月10日時の記念日の漏刻祭、7月7日(年により5日)の燃水祭、11月7日の御鎮座記念祭、12月1日(年により2日)の初穂講大祭、1月前半の日曜日のかるた祭(かるた開きの儀)などが行われる。また、日本古式弓馬術協会による武田流鎌倉派流鏑馬神事が11月3日に行われていたが、2015年(平成27年)から6月第1日曜日に変更された。
天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置した歴史から境内には各地の時計業者が寄進した日時計や漏刻などが設けてあり、時計館宝物館と近江時計眼鏡宝飾専門学校が境内に併設されている。
小倉百人一首 第1首目を詠んだ天智天皇
また、『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている。このほかにも高松宮記念杯歌かるた大会・高校選手権大会・大学選手権大会なども 開催されるなど、百人一首・競技かるたとのかかわりが深い。競技かるたに取材した漫画・アニメ『ちはやふる』の舞台ともなった。
天智天皇の百人一首の歌の歌碑も設置され、柿本人麻呂・高市黒人の万葉歌碑、弘文天皇(大友皇子)の御製漢詩碑、芭蕉句碑、保田與重郎の歌碑など多くの歌碑・句碑が作られている。
資料集
120_329_大津京・近江神宮(飛騨匠の都造り)
飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡
国指定重要文化財(建造物)国分寺本堂
単層入母屋造、銅板葺
四方廻縁
桁行12.4メートル
梁間8.66メートル
向拝3.33メートル
奈良時代当時、七重搭、金堂、仁王門などを備えた壮大な伽藍があったと伝わる。『類聚国史』に「弘仁十年(819)八月飛騨国国分寺災」とあるが、その後、近世まで記録がない。昭和29年(1954)、本堂の解体修理時に、建築様式と手法は室町時代中期以前、正面向拝と東側は桃山時代の修理であることがわかった。向拝等は金森氏が国分寺の再興を助けた際の大修理と考えられる。地下45センチメートルには、南北4間、東西7間の金堂と推定される建物の礎石が確認された。
建物の柱、垂木、構造材は太い。外陣の虹梁は絵様がなく、板蟇股の断面も逆バチ型で室町期の様式を示す。
昭和42年4月5日指定
高山市教育委員会
説明板より
国分寺八日市
岐阜県指定重要文化財(建造物)三重塔
屋根銅平板葺
桁行、梁間共4.24メートル
高さ22メートル
(礎石上端より宝珠上端まで)
天平13年(741)の詔勅により建立された塔も、弘仁10年(819)に炎上し、斎衡年中(854~857)に再建した。さらに応永年間(1394~1428)には兵火にかかったと伝えられる。その後再建されたが、戦国時代の金森氏が松倉城の三木氏を攻めた際に損傷し、元和元年(1615)、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺大平釘図」に記録されている。
現在の塔は、寛政3年(1791)の大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜捨浄財金800両と大工手間5,500人工をかけて、文政4年(1821)ようやく竣工を見たものである。棟梁は3代目水間相模であった。
昭和53年(1978)には、屋根の修理と自動火災報知設備、保護柵の設置を行なった。屋根は、建立当初柿葺であったが、大正11年(1922)に桟瓦銅板葺に変更され、昭和53年(1978)には銅平板葺となった。
飛騨では唯一の塔建築で、金剛界、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。
昭和49年11月13日指定
高山市教育委員会
説明板より
関連資料
6-4-1 国指定重要文化財(建造物)国分寺本堂
6-4-2 岐阜県指定重要文化財(建造物)三重塔
動画資料
資料集
119_328_飛騨匠の史跡 飛騨国分寺、飛鳥~奈良時代の史跡
田中大秀翁
田中大秀翁は、安永6年(1777)8月、高山一之町の薬種商に生まれた。現在、下一之町鍋島茶舗になっている場所である。
幼少より学問に長じ、25歳の時、伊勢松阪の本居宣長に入門し国学を研究した。国学とは、江戸中期に興った復古主義的文学運動で、我国の民族精神の根元である古道を「古典」の中に追求しようとしたものである。大秀翁はたくさんの研究書を著し、当時の国学者番付では、最高位に位置付けられるほどの評価を得ている。代表著書は『竹取翁物語解』で、現在でもレベルの高い注釈書として学会に通用している。当時、大秀翁を慕って全国各地から入門者があり、多くの門弟を育てて郷土の教育文化に大きく貢献をした。
大秀翁の著述本や、手択本、古今珍籍名著本など1,516冊は、「荏野文庫」として岐阜県の文化財に指定されている。
リーフレットより
田中大秀の住居(生家)
<香木園跡>
叢桂園(そうけいえん)扁額は、2面とも江戸中期の著名な南画家池大雅の書。楷書額41.1×197.0㎝、行書額42.9×130.0㎝。
叢桂園はかつて高山下一之町田中家の家名とされた。伴蒿蹊宛書状のなかで大秀翁は次のように述べている。
いまカツラといえば楓(オカツラ)のことで、桂(メカツラ)ではない。タブ(クスノキ科)は寒国には育たないので、薮肉桂同類の俗称キョウの木を庭に植えたい。キョウは桂の訛(なまり)か、又は楿(国字)の音読か。古事記に湯津香木(ゆつかつら)とある。「叢桂園」をユツカツラゾノと読むか、「香木園」と書いてカツラゾノと読むことにしたい。
樹皮を乾燥させた肉桂(ニッキ)は健胃剤に、肉桂油は香料や医薬用に使用される。生薬屋にふさわしい家名と言えようか。
薬種商田中家は、高山でも有数の資産家であった。座敷も立派であったに違いない。寛政元年(1789)には巡見使比留間助左衛門、文政11年(1828)には代検見勘定方武島菅右衛門の宿所を引き受けている。
香木園跡は現在鍋島茶舗になっている。
<八幡宮桜山庭碑>
高山桜山八幡宮の社務所前にいまもささやかな庭園を眺めることができ、池畔に西面して小さな石碑が立っている。翁の父博道が当神社の神官として在職中、境内に造庭したその由来を大秀が記したもの。碑面高さ91.2㎝。
桜山は大町(下一之町)の田中家に程近く、鎮守の森でもあった。庭造りが趣味であった大秀翁実父博道は、八幡社境内に庭が欲しいと考え、しばしばここを訪れては独り酒を酌みながら、あれこれと工事を指図した。急ぐことでもなかったので、10余年をかけて享和2年(1802)秋ようやく小園が完成した。
翌3年夏杖を曳いてここに遊んだ父翁は、上機嫌で供の家僕に「手入れを怠らず、冬に備えよ」と命じた。その日を最後に翌日から父翁は病の床に伏し、6月18日、ついに帰らぬ人となった。71歳であった。大秀翁は時に27歳。
リーフレットより
田中大秀の住居
錦山神社の前を通って旧街道を進むと、やがて荏名(えな)神社がある。飛騨を代表する国学者・田中大秀が再興したといわれるこの地は、また大秀の住居でもあった。
大秀の功績はその代表的労作としての『竹取翁物語解』をはじめ『蜻蛉日記紀行解』、『土佐日記解』など多くの古典の注解を果たし、特に竹取は、今日でもその研究の基本となっていて高く評価されている。一方、富田礼彦(いやひこ)、山崎弘泰など多くの門弟を育て、維新前後の飛騨の文化的・精神的中心人物を生み出した。
『広辞苑』の中で、飛騨出身の人名を拾って目にとまるのは、この大秀と金森宗和の二人しかない。そのことをもって大秀の業績をはかるわけではないが、飛騨の歴史の中で全国に通用する第一級の文化人であったことは間違いない。
大秀は、本居宣長(もとおりのりなが)が死ぬ半年前に入門し、宣長の死後は、養子の本居大平(おおひら)について学んだ。紀文から大秀と改名したのもこの年で、盲目の長子・本居春庭(はるにわ)と二派に分かれた鈴門の中で、大平を師と選んだことになり、大平への傾斜の過程がうかがえる。松阪市の本居宣長記念館の加藤清太郎さんが「宣長に五百人以上の門弟があっても、その多くは和歌が上手になりたくて入った人で、国学をやろうとした弟子はきわめて少なかった」と語られるが、大秀は、そのきわめて少ない弟子の中に入るのであろう。同館には、大秀の『住吉物語校異』の稿本がある。
飛騨における大秀の活躍には目ざましいものがあったが、その業績の中には、時として正鵠(せいこう)を欠くのではと思われるものもある。たとえば荏名神社の再興について『紙魚(しみ)のやとり』で加藤歩蕭(かとうほしょう)は、
「延喜式(えんぎしき)飛騨八神の内、荏奈明神の社地むかしよりしる人なし、しかるを田中屋弥兵衛(おおひで)という人、江名子村いな桶といへるちいさき祠を荏奈明神なりとて、文化十一年(1814)新たに荏奈の神名を鋳たる神鏡を納め、文化十二年八月初て神事を行いける、古来より社地の詮議文明ならざるをいかなる証拠を見出したるや、もしくはおしはかりにて荏奈の社地なりといふにやしられず、御検地帳にもなければ宮地とは仕(つかまつり)がたき所なり・・・いな桶とはえな桶の転語なり、大むかしは胞(えな)を納る地にして所々にあり」
と記して、胞、つまり後産(あとざん)を捨てるところだったと言っている。このような敷衍(ふえん)の強引さは飛騨総社の再興にもとかくの論議を呼び、萩原町の浅水橋(あさんずばし)の地名考についても平瀬担斎と争っているし、車田の碑文の馬篭野(まこもの)の解釈にも無理が見られる。
偉大な郷土の先覚に何をつける気は毛頭ないが、学問上の功績とは別に、大秀の人間像には、ところどころ衒(てら)いがみえる。
大秀の歌の心に、宣長のめざした「もののあはれ」「歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也」という境地はやや乏しい。
小鳥幸夫『飛騨百景』市民時報社 昭和58年発行より
関連資料
6-2-1 田中大秀翁という人
6-2-2 田中大秀の住居 その1 (生家)
6-2-3 田中大秀の住居 その2
資料集
118_327_田中大秀の生家
高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻
<立川和四郎の「五台山」の獅子彫刻>
春の高山祭の屋台「五台山」の獅子彫刻は、長野県諏訪(下諏訪町、諏訪市)の立川和四郎(たてかわわしろう)が彫った。天保8(1837)年、与鹿16歳の時である。組内では祭礼の日まで制作を秘密にしていて、高山の人は新しい彫り物を見て仰天したという。谷口与鹿は和四郎の躍動する獅子彫刻を見て、強く影響を受け、その後、高山祭屋台の名彫刻を数々生み出すことになる。
諏訪の和四郎は長野、愛知、静岡で寺社建築彫刻に活躍した大工で立川冨昌(とみまさ)と言った。初代立川和四郎(冨棟)は江戸の立川流に学び、諏訪に帰って諏訪大社などの建築彫刻に腕を振っている。冨昌はその後を継いだ二代目で、初代は獅子、龍などをテーマにしていたが、冨昌は鳥や植物にテーマを広げた。
天保時代の高山は、屋台が大体今日のような様式に改造された時代でもあり、各屋台組では次々に競うように改修が行なわれている。従って高山の工匠たちは、腕を振るって存分の仕事をすることができ、屋台建造の名工が求められた時代であった。
<谷口与鹿の屋台彫刻>
飛騨の名工、谷口与鹿(よろく)が25歳の時に手がけた秀作に、麒麟台(春の高山祭屋台)の彫刻「唐子群遊」がよく知られている。である。与鹿はこれを彫るとき、組内の有力者の家にこもって構想を練り、毎日、城山へ子どもと一緒に遊びに出かけ、その姿と動作を観察した。その間、少しも仕事に取りかかる気配がなかったので、組内(くみうち)の人は気をもんだという。
この柱間(はしらま)の彫刻は1枚のケヤキ板から、水を飲む鶴、動く鎖を付けた犬、籠の中の鶏、遊ぶ唐子などを彫り出した。近寄ってよく見ると、ケヤキの木目が非常にきれいである。木目の年輪の円形になるところを、ひざの頭辺りに持ってきたり、顔の頬にも木目の円が来るように工夫している。選りすぐった木目をこよなく愛した飛騨匠(ひだのたくみ)ならではの所業である。
また、籠の中の鶏はくりぬき彫りという手法で、耳かきのような特殊な刃物によって、多くの時間を費やして彫ったものである。彫った籠をかぶせたのではなく、どうやればこんな彫りができるものかと感心する。細かく均一に籠の網目を細く彫り抜き、中で鶏が餌をついばもうとしている。ケヤキの良材の木目を生かした名彫刻である。
与鹿は代々大工の家筋であった谷口家の中で、五兵衛延儔(のぶとし)の次男(郷土史研究者池之端甚衛の説では、孫という)として、文政5(1822)年に生まれ、幼名を与三次郎といった。延儔と共に、高山市西之一色町の飛騨東照宮の造営に従事し、その彫刻を担当した中川吉兵衛の教えを受けた。そして谷口一門が請け負った屋台の改修に、吉兵衛とともに腕を振るってゆくのである。
また、与鹿は、19歳の時には琴高台の波間の鯉を彫り、その後、恵比須台の手長・足長彫刻、麒麟台の彫刻などを完成したが、嘉永3(1850)年、文人画家の貫名海屋(ぬきなかいおく)を頼って京都に出てしまう。やがて伊丹の酒造家岡田家の食客となり、ここで家庭を持った。
神部神社・浅間神社大拝殿(重要文化財)
徳川3代家光将軍時代、日光東照宮と共に大造営された社殿は、惜しくも火災にて焼失した。
現社殿は、11代家斉将軍時代・文化年間、幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜、最高の技術を駆使して造営されたもので、豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と称されている。殊にこの神部神社・浅間神社両社の大拝殿は、他に類のない特殊な重層楼閣造りで、世に「浅間(せんげん)造(づくり)」と称され、当神社の象徴的建造物である。
高さ81尺(約25メートル)もあり、外観は彩色絢爛。殿内は132畳で、天井には狩野栄信(ながのぶ)・寛信(ひろのぶ)の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が描かれている。
平成5年9月吉日
静岡浅間神社
説明板より
少彦名神社(重要文化財)
例祭日 1月8日
本社は、少彦名命を主神とし、他に神部神社末社14社の祭神を相殿とする。
もと神宮寺薬師社と称し、薬師12神を祀っていたが、維新後神仏分離に際し、臨済寺に遷され、現在は少彦名命をご祭神とする。社殿は入母屋造銅瓦葺、朱塗で、細部に彩色を施し、特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である。
古来境内社として、病気平癒の信仰がすこぶる篤く、御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある。
平成5年9月吉日
静岡浅間神社
説明板より
東雲神社「丸山東照宮」
東雲神社は、古くから「丸山の権現さん」として親しまれてきた「東照宫」である。創建は元(げん)和(な)8年(1622)と伝えられ、「駿国(すんこく)雑誌」や「安東村村誌」によれば、駿府城内にあった「東照宮」を現在地である府中浅間神社(現・浅間神社)の別当、惣(そう)持(じ)院(いん)境内に移したものと伝えられている。
惣持院は、明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となったが、「東照宫」は明治8年(1875)2月18日、村杜に列せられ、同33年(1900)、村内にあった八(や)雲(くも)神社を合祀し、「東雲神社」と改称した。
御祭神は「東照公 德川家康公」「速(はや)須佐(すさ)之男(のうの)命(みこと)」のほか、「天神社」「稲荷社」が祀られている。
宝物として、寛永20年(1643)に3代将軍家光公の武運長久と子孫繁栄を祈願して造られた「東照公御尊像」のほか、「慈(じ)性(しょう)親王(しんのう)筆東照宮額」「三十六歌仙額」「駿府城代武田越前守信村奉納釣灯籠」「備前長光作脇差」などがある。
「丸山」の地名は、家康公が大御所として験府城在城中の慶長年間、鷹狩のためにこの地を訪れ、その趣が京の円山に似ているとして名付けられたものである。
「駿府まちおこし」推進協議会
静岡市
説明板より
八千戈神社(重要文化財)
例祭日 10月15日
本境内社は、明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した念持仏の摩利支(まりし)天(てん)を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
維新後神仏分離に際し、金印木像は臨済寺に遷され、以後八千戈命をご祭神とする。
昭和5年(1930)5月29日、昭和天皇御親拝の折には、神部・浅間両社御修理中で、当社を仮殿としていたので、この大前で御親拝あらせられた。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いで行なわれた。
特に名工の誉高い立川和四郎富昌の彫物が、中国の24の親孝行物語を題材に社殿周囲欄間に飾られていることは著名である。
現在では、武神として信仰され、一般に勝負事の祈願所として広く信仰を集めている。
平成5年9月
静岡浅間神社
説明板より
関連資料
5-3-1 高山祭屋台の彫刻の原点・立川和四郎彫刻
5-3-2 神部神社・浅間神社大拝殿(重要文化財)
5-3-3 少彦名神社(重要文化財)
5-3-4 東雲神社「丸山東照宮」
5-3-5 八千戈神社(重要文化財)
資料集
高山祭屋台の祖型となった山車
<田安門をくぐった江戸の屋台>
江戸の神田祭、山王祭は、かつて屋台が江戸城内に入って天覧の栄を受けた。その経路が分かっていて(次ページ図)、伸縮の仕組みがある屋台であった。この構造が高山の屋台に継承されていると考えられている。江戸型の山車は、現在、栃木市の山車「静御前」として残っている。
かつて、江戸で山車がくぐったという田安門は、国指定重要文化財(昭和36年(1961)6月7日指定)で、九段坂上にある。門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていた。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点であった。門の名は、この台地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来する。
門は元和6年(1620)に建築され、寛永13年(1636)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物である。
現存する石垣は戦災により崩れ、昭和40年(1965)の北の丸整備に合わせて修復されたものであるが、地上から2~3段分は江戸時代の原型を保っている。
<江戸型から高山型へ>
高山市文化財審議委員であった大野政雄は『高山の屋台の祖形について』(高山屋台保存会・昭和35年発行)の中で、「頑強な封建性はここでは全く見られない。もっとも、そう窮屈に考えなければならぬ特別な『いわく』がくっついているわけでもなかった……」と結んでいて、高山の屋台は江戸型の祖形を失っていると考えられている。
高山の屋台が江戸の屋台を移して、それを次々と替え、200年ほどの間に全く江戸型を捨て、他にない完全な高山型の屋台を作り上げた。これは高山の町に優秀な工人がいたこと、その工人に仕事をさせるだけの教養と財を持った裕福な町人がいたことが、今日の華麗な屋台を造り出したのであろう。
男山(石清水)八幡宮(鳩峰車の主題手本)
栃木・山車(江戸型屋台の山車が残る)
屋台会館
関連資料
5-2 高山祭屋台の祖型となった山車
資料集
古川祭屋台
古川祭は毎年4月19日、20日に開催される気多若宮神社の例祭。「神輿行列」、「屋台行列」、「起し太鼓」という、“静”と“動”の3つの行事からなる。「古川祭の起し太鼓・屋台行事」の名称で国の重要無形民俗文化財に指定され、2016年12月にはユネスコ無形文化遺産に登録された。
古川祭は古くは旧暦の8月6日(太陽暦の9月上、中旬頃)に開催されていたが、1886年8月に疫病が流行し例祭ができなくなったことから11月に変更された。また1887年(明治20年)より春祭へと変更し4月16日、17日としたが、1889年(明治22年)より現在の日程となった。
◇起し太鼓と付け太鼓
文献の上では、1831年(天保2年)に初めて登場する。4月20日の本楽祭の開始を告げるために、19日の深夜から太鼓を鳴らして氏子地内を巡ったことが始まりである。太鼓を乗せた櫓を「起し太鼓主事」と呼ばれる当番組が担ぐ。その太鼓の上の両側に男がまたがり、その両側より交互に太鼓を鳴らす。この太鼓をめがけて各台組の付け太鼓(現在は12本存在する)と呼ばれる小さな太鼓が突入する。
この付け太鼓は幕末頃より加わったものといわれ、元来この地域の人々は「古川やんちゃ」といわれる激しい気性が有名であり、これによって起し太鼓も非常に荒々しいものとなった。そのため幾度となく「付け太鼓禁止」が出されたが、1901年(明治34年)に解禁になり現在に至る。
◇古川祭屋台
岐阜県指定重要有形民俗文化財 昭和45年指定
屋台9基
古川祭屋台 9基
■所在地 吉城郡古川町9町内
■所有者 古川祭保存会
■岐阜県指定年月日 昭和45年8月11日
現存する古川祭屋台9基は、起し太鼓で知られる古川町気多若宮神社の例祭に曳き出される。
・神楽台 明治16年(1883)に高山の一本杉白山神社から譲り受けたもの。
・青龍台 謡曲「鶴亀」にあわせて福禄寿と唐子が動くからくり屋台。
・白虎台 天保10年(1839)に竣工したもので、古川祭の屋台の中では最も古い。
・清曜台 かつて扇子台と称し、三之町一円の所有であったが、上組の所有となり清曜台と改称。
・麒麟台 下段前面の麒麟の彫り物、側面の龍と獅子の素木彫りなど多彩な彫刻が特徵。
・龍笛台 初代は安永年間(1772~1781)の製作とされるが、現在のものは明治19年(1886)竣工。
・三光台 かつて龍門台と称したが、日・月・星の三光にちなみ三光台と改称。
・鳳凰台 明治24年(1891)廃台となり、大正6年(1917)に製作。屋根には大鳳凰を飾っている。
・金亀台 天保12年(1841)の再建、明治30年(1897)及び大正15年(1926)の2回にわたり大修理を実施。
岐阜県教育委員会編集『岐阜県文化財図録』平成11年発行より
関連資料
5-1-1 古川祭り屋台
5-1-2 古川祭屋台9基
資料集
114_323_古川祭り屋台
笠ヶ岳
<生い立ちを秘める山体の縞模様>
高山市街地から北アルプス方面を眺めると、乗鞍岳の左側に蓑傘を伏せたような三角形をした山がみえる。これが山頂を他県と共有しない岐阜県の最高峰、笠ヶ岳(標高2,898ⅿ)である。
笠ヶ岳の山頂からの稜線はなだらかな連なりをもつのに対して、東側の山腹は険しく急峻な約1,400ⅿにおよぶ絶壁となり、そこにはほぼ水平に続く明瞭な縞模様がみられる。
笠ヶ岳をつくっている岩石は、笠ヶ岳流紋岩類と呼ばれ、濃飛流紋岩とほぼ同じ自亜紀末期から古第三紀へかけての時期(約7,000万年~約5,500万年前)に起こった激しい火山活動でつくられた。その火山活動は4回にわたって断続的に起こった。それぞれの活動では、大規模な火砕流や溶岩流の噴出と、陥没運動で生じた湖への砕屑岩類の堆積という経過を繰り返した。
山腹にみられる縞模様は、硬い溶結凝灰岩と軟らかい砕屑岩類との侵食の差が急な崖と緩斜面(かんしゃめん)の差となって現れたものである。どっしりと座った笠ヶ岳の山容と山腹の縞模様は、新穂高ロープウェーの終点から北西方の眼前にみることができる。
<引用文献>
岐阜県高等学校地学教育研究会編著『アース ウオッチング イン 岐阜』100頁 岐阜新聞社 出版局発行 平成7年
関連資料
4-4 笠ヶ岳
資料集
御嶽山
<山容が語る生い立ち>
御嶽山は、信仰の山として知られ、昭和54年(1979)10月28日未明には突然長い眠りからさめて水蒸気爆発を起こし、有史以来の活動として多くの人を驚かせた火山である。
御嶽火山の活動は30万~20万年前に始まり、数万年の期間をもつ活動期と静穏期を2回ずつ繰り返している。2回の活動期でできた火山をそれぞれ古期御嶽火山、新期御嶽火山と呼ぶ。
古期御嶽火山の活動は、安山岩質や玄武岩質の浴岩と火山灰などを大量に噴出し、現在の御嶽山よりも大きな成層火山を形成した。この火山体には、その後の静穏期に深い谷が刻まれた。
新期御嶽火山の活動は、約8万年前に始まり、約5万年にわたり断続的に続いた。活動の初期に大量の軽石を噴出してカルデラをつくり、このときの噴出物は約250㎞離れた関東平野まで飛んだ。このカルデラは引き続き噴出した火山岩類によって埋められた。その後は南北方向に火口の位置を移動させながら安山岩質の火山岩類を噴出させ、成層火山が南北に重なりあう現在に近い火山体になった。
<引用文献>
岐阜県高等学校地学教育研究会編著『アース ウオッチング イン 岐阜』85頁 岐阜新聞社 出版局発行 平成7年
関連資料
4-3 御嶽山
資料集
112_321_御嶽
乗鞍山麓 五色ヶ原の森
高山市乗鞍山麓五色ヶ原の森は、北アルプス乗鞍岳の北西山麓に広がる、中部山岳国立公園の南端にある約3,000㏊の広大な森林地帯で、山地帯から亜高山帯にわたる植生は、ブナ・ミズナラ・サワグルミなどの広葉樹林や、シラビソ・オオシラビソ・コメツガなどの針葉樹林が主体となり、可憐な花を咲かせる希少な山野草も多数確認されている。
また、乗鞍岳を源とする多くの渓流と滝・池・湿原、さらに多種の獣・野鳥・昆虫などの野生生物が生息し、四季折々、自然の多彩な表情を見ることができる。ひとたび足を踏み入れたら何度でも訪れたくなる偉大な自然の営みを感じることができる。
五色ヶ原は、「自然と人間の共存ゾーン」である。自然環境の保全と自然生態系の質的向上を基調として、自然環境に無理のない最低限の自然歩道と休憩・避難施設を整備し、自然探勝の聖地として公開している。
雄大な乗鞍岳の裾野に広がる神秘的な自然景観を巡る3つの体感コースがある。
① カモシカコース
② シラビソコース
③ ゴスワラコース
五色ヶ原の森案内センター
〒506-2252 岐阜県高山市丹生川町久手471-3
リーフレットより
関連資料
4-2 乗鞍山麓 五色ヶ原の森
資料集
111_320_五色ヶ原
乗鞍岳
<雄大な火山地形をみせる複成火山>
標高2,700ⅿ付近まで自動車で登れる乗鞍岳は、三つの火山体が重なりあってできている山の総称で、23個にもなる標高2,500ⅿを越える高峰が南北に延々数㎞も連なっている。
乗鞍火山の噴出物は、標高2,400ⅿ付近まで分布する基盤岩類の上にわずか500~600ⅿの厚さで載っている。また凝灰岩などの火砕岩類が少なく、おもに安山岩質~デイサイト質の溶岩からできていることを特徴としている。
火山活動は、第四紀中期の30万年ほど前から始まり、北から烏帽子、鶴ヶ池、権現池の三つの火山体がつくられた。それぞれの火山体は、古い成層火山体と新期の噴出物からなる。最も大きくて新しい権現池火山体は、乗鞍火山体の南半分を占め、主峰剣ヶ峰(標高3,026ⅿ)もこの火山体の一部にあたる。
標高が高い乗鞍岳の頂上付近には、地面の凍結と融解により砂れきが亀の甲羅状にならぶ構造土と呼ばれるものがみられる。ここは日本で最初に構造土が発見された場所である。
<引用文献>
岐阜県高等学校地学教育研究会編著『アース ウオッチング イン 岐阜』90頁 岐阜新聞社 出版局発行 平成7年
関連資料
4-1 乗鞍岳
資料集
110_319_乗鞍岳
江戸街道
飛騨から野麦峠を越えて江戸へ通ずるこの街道は、江戸まで43次85里(約337キロメートル)で、山口は最初の宿場になっていた。このうち山口町森下から水呑洞までの約6キロメートルは古い街道の姿をよく残し、史跡に指定されている。
高山を出て最初の山越の美女峠は、もと益田郡と大野郡の堺で郡上堺(ぐじょうげ)といわれ、それが「びじょうげ」から美女峠と変わったと言われ、また、この峠に伝わる八百比丘尼(やおよびくに)の伝説からこう呼ばれるようになったのかもしれない。今この道は、車も通らず昔のままの静かな道で、四季の美しい眺望が楽しめる。
江戸街道は飛騨と信濃を結び、さらに鎌倉・江戸へ続く道として、国鉄高山本線が開通するまで、飛騨で最も重要な道の1つであった。また、山口町周辺には、鎌倉時代の古道があったらしく、「鎌倉街道」の地名が残っている。戦国時代、甲斐の武田氏が飛騨へ攻めに入ったときも、この道が使われた。
江戸時代は、この街道が歴史の上で、最も価値を持ったときだった。金森氏、代官、郡代、そのほか公用の役人の往来のために、道の改修がおこなわれ、宿場には伝馬が置かれた。一般の人々の旅もようやく盛んになり、善光寺参りの通り道になった。江名子の荏名神社前にある「道分灯籠みちわけどうろう)」に「左、江戸、ぜんかうじ」とあるのは、飛騨人がこの道に感じていたイメージをよく示している。物の移動も盛んだった。日本海でとれた魚は、塩漬けにして高山へ送られて来る。それから信州へ運ばれ、「飛騨ぶり」と呼ばれたのである。
明治になって飛騨は岐阜県に編入され、それまで江戸街道がもっていた「政治の中心につながる道」という性格は、ほとんどなくなってしまったが、しかし、糸挽女工が岡谷へ行くために通ったことがよく知られ、高山線開通まではやはり大切な道だった。そして今、この道の近くを通る国道361号線は整備され、高山から木曽谷へ出る道筋として再び価値が見直されている。
旧江戸街道
<市指定> 昭和32年8月2日
<所有者> 高山市(市道)
管理者 山口史跡保存会
<所在地> 山口町森下より水呑(のみ)洞
<時 代> 江戸時代~明治時代(17~19世紀)
<員 数> 約6㎞
街道(1箇所)指定区域内に高札場・橋場・差手観音・雨乞平・幕の内・接待所跡・南無阿弥陀仏石・餅売場・比丘尼(びくに)屋敷・峠観音等の旧跡がある。
飛騨から野麦峠を越えて江戸へ通ずるこの街道は、江戸まで43次85里(約337㎞)で、山口は最初の宿場になっていた。このうち山口町森下から水呑洞までの約6㎞は古い街道の姿をよく残し、史跡に指定されている。
高山を出て最初の山越の美女峠は、もと益田郡と大野郡の堺で郡(ぐ)上(じょう)堺(げ)といわれ、それが「びじょうげ」→美女峠と変わったと言われ、また、この峠に伝わる八百比丘尼(やおびくに)の伝説からこう呼ばれるようになったのかもしれない。今この道は、車も通らず昔のままの静かな道で、四季の美しい眺望が楽しめる。
江戸街道は飛騨と信濃を結び、さらに鎌倉・江戸へ続く道として、国鉄高山本線が開通するまで、飛騨で最も重要な道の1つであった。また、山口町周辺には、鎌倉時代の古道があったらしく、「鎌倉街道」の地名が残っている。戦国時代、甲斐の武田氏が飛騨へ攻めに入ったときも、この道が使われた。
江戸時代は、この街道が歴史の上で、最も価値を持ったときだった。金森氏、代官、郡代、そのほか公用の役人の往来のために、道の改修が行なわれ、宿場には伝馬が置かれた。一般の人々の旅もようやく盛んになり、善光寺参りの通り道になった。江名子の荏名神社前にある「道分灯籠(みちわけどうろう)」に「左、江戸、ぜんかうじ」とあるのは、飛騨人がこの道に感じていたイメージをよく示している。物の移動も盛んだった。日本海でとれた魚は、塩漬けにして高山へ送られて来る。それから信州へ運ばれ、「飛騨ぶり」と呼ばれたのである。
明治になって飛騨は岐阜県に編入され、それまで江戸街道が持っていた「政治の中心につながる道」という性格は、ほとんどなくなってしまった。しかし、糸挽女工が岡谷へ行くために通ったことがよく知られ、高山線開通まではやはり大切な道だった。そして今、この道の近くを通る国道361号線は整備され、高山から木曽谷へ出る道筋として再び価値が見直されている。
『高山の文化財』より
江戸街道の史跡
この旧江戸街道は尾根道が多く、随所で高山市街地の眺望が良い。健康づくりに、そして、歴史を感じながらハイキングをするには良いコースであろう。
江戸まで43次85里(337㎞)
山口が最初の宿場で、金森長近が道普請をして本道往還筋とした飛騨唯一の公道。
①了心寺 山号を松(しょう)生(ぶ)山(さん)、浄土真宗大谷派、開基永正15年(1518)
②高札場 もともと現地より100m先の山手にあった。現在の公示、告示掲示板。
姉小路歌碑 おくふかく 華をたつぬる あけほのに 山口しるく 雲も かほれる
楠神社 明治36年頃、現高山病院地内で「嗚呼忠臣楠正成」と刻字された石碑を発見。桜ヶ岡八幡神社の末社
③橋場 山口谷川にかかる重要な橋、長さ8間
④関屋跡 関所の門番所があった場所
⑤梅村用水 梅村速水は、大島から山口へ水を引こうとしたが、もう少しのところで完成をみなかった。1,000分の1勾配
⑥のぞき城 のぞき新蔵という武士が在城したという。山頂に平地がある。
⑦蛇ぬけ 安永2年(1773)の山崩れ。大原騒動の年でもある。
⑧雨乞平 昭和中頃まで行なわれた。昭和43年の畑かん施設により山口の水不足はようやく解消。
⑨幕の内 永禄7年(1564)武田が飛騨を攻めた際の陣跡といわれる。
➉接待所跡 昭和の初めまで茶屋があった。
⑪南無阿弥陀仏の石 新八郎という若者がこれを刻んで自害したと伝わる。
⑫餅売場 八百比丘尼がこの辺りに茶屋を開いて餅を売ったという。
⑬比丘尼屋敷 伝説の八百比丘尼が住んでいたという。
⑭三角点 標高984.9m
⑮峠の観音 水呑洞にある。
⑯神力不動 以前清涼な水が湧き出ていた。高根にあった石仏不動尊をここに移して祀る。
菊(きく)田(た)秋宜(あきよし)建立 天保3年(1832)
「献燈荏名神社大前
左江戸 みのぶさんぜんこうじ 道
行列の見事乗鞍かさが岳
やりさへ高くふれるしら雪 秋宜
天保壬辰春3月 菊田秋宜」
<明治時代飛騨地図から>
明治8年、筑摩県時代には飛騨往還(松本、野麦、高山)と飛州往還(木曽福島西野、日和田、高山)を3等とし、道幅を9尺以上としたが、改修をされたところはあまりなかった。依然として江戸時代のままが続いたが、明治28年日清戦争が済んでから野麦街道が整備され、美女峠もその頃にようやく改修されたのである。
別紙「江名子~久々野の道図」は明治時代初期の地図で、山口から辻へ太い線で表されているが、これは旧江戸街道であり、山口谷川沿いの道ではない。
山口谷川沿いの道は、明治30~40年代頃に新しくつけられ(図の⑤)、馬車が野麦まで通れるようになった。ここに人馬から荷馬車へと交通形態が変遷したのである。しかし、荷馬車がすべて山口谷川沿いの道へと移ったのでもなさそうで、昭和初期に旧江戸街道を荷馬車がカラカラと通っていったのを記憶している里人がいる。さらに、旧江戸街道の山路は荷馬車が通るつづらおりの坂道と、人が通る直線的な近道があったという。その通り、現在も旧江戸街道の遊歩道を1歩はずれて山へ入ると随所に別の旧道が何本も遺存している。
<伝説等>
①八百比丘尼の伝説
昔、この峠にたいそう美しい尼様が住んでいた。不思議なことにこの尼様は、何百年たっても少しも年をとらず、髪もつやつやと黒く、常に17、18歳としか見えなかった。それで八百比丘尼と呼ぶようになったという。
この尼様は美しいだけでなく、愛嬌が良くて餅を作ることが上手で、毎日道端の店で売っていた。この峠を通る旅人はその餅の味の良さと、尼様の愛嬌の良さに引かれて店で休み、旅の疲れを忘れたのである。後、訳があってこの尼様は長い間住み慣れた峠の茶屋を捨て、若狭へ移って行った。その時、長い間世話になった村人たちに何かお礼の気持ちを残したいと思い、「私のか弱い力では何もできませんが、もし日照りが続いて難儀するような時には、この山に登って雨乞いをして下さい。きっと雨を降らせます。」と言い残してこの山から姿を消した。
村人はこの尼様のいた所を比丘尼屋敷といい、餅を売った所を餅売場と呼ぶ。また峠に「雨乞平」と呼ぶ所があって、日照りの時には村人がここに集まり、1晩中焚火をし、鉦を打ち鳴らして雨乞いをすると、八百比丘尼の言った通り雨が降るといわれる。
江戸街道入口
荒神社
鎮座地 江名子町大谷4946番地 白幣社 (旧社格 無格社)
一、祭神
火結神(ほむすびの)(斎火武主比神)
火之夜芸速男神(ひのやぎはやおの)
奥津日子神(おきつひこの)
奥津日売神(おきつひめの)
一、由緒
延元3年(皇紀1998・西暦1338)越前において新田義貞戦死の際、その勇将畑六郎左衛門時能が、兵と食糧を求めて飛騨に入り、この地で墾田開拓したが、このときの京都の上賀茂と御所内の荒神の御分霊を祀り、田畑の守護神としたことに始まると伝えられる。いまも寒中に「裸足参り」などの風習が残っている。
古昔は女人禁制で、婦女の社地を踏むのを忌み、また、境内樹木の枝葉を採ることさえ禁じたが、またこれを犯す者も無かった。
五穀・養蚕をはじめ、殖産興業に霊験があり、ために多くの信仰をあつめ、氏子組織とは別に、「荒神講社」をもち、飛騨一円にわたって熱心な信者がある。
俗に言う「荒神さまの甘酒祭り」で世に知られる。元禄検地による除地帳に、荒神社の社名のみ見える。昭和21年神社庁の創立とともに、これに所属し、岐阜県神社庁より白幣社の指定を受けた。
同24年国有境内地911坪の無償譲与を受けた。社地は市の保存林に指定され、「夫婦杉」はまた、市指定天然記念木となっている。
一、祭祀
例祭日は陰暦の閏年11月8日(制定日11月18日)。その日五穀餅と醴酒を一般参詣者に供する。
祭日には里長の屋敷前で、その前夕祓いをして身を浄めた若者は、屋外積雪の中で醸した醴酒と、米・大豆・小豆・粟・稗を材料として搗いたいわゆる「五穀餠」、110膳(75と35にして柏の葉に盛分け箸を添える。)を神前に供えて、豊凶を占った神事の後、一般参拝者に供饌を頒布する。
一、建造物
本殿(流造 1坪)・拝殿(平棟造 6坪)・手水舎(1坪)・鳥居(木、石各1個)。
一、境内地 42坪。 境外地 山林2反8畝2歩。原野1畝9歩。
一、氏子 50戸。上江名子の賀茂神社の氏子と同区内である。
『飛騨の神社』より
関連資料
3-6-1 江戸街道
3-6-2 旧江戸街道
3-6-3 江名子から久々野の道・地図
3-6-4 荒神社
資料集