御嶽山
<山容が語る生い立ち>
御嶽山は、信仰の山として知られ、昭和54年(1979)10月28日未明には突然長い眠りからさめて水蒸気爆発を起こし、有史以来の活動として多くの人を驚かせた火山である。
御嶽火山の活動は30万~20万年前に始まり、数万年の期間をもつ活動期と静穏期を2回ずつ繰り返している。2回の活動期でできた火山をそれぞれ古期御嶽火山、新期御嶽火山と呼ぶ。
古期御嶽火山の活動は、安山岩質や玄武岩質の浴岩と火山灰などを大量に噴出し、現在の御嶽山よりも大きな成層火山を形成した。この火山体には、その後の静穏期に深い谷が刻まれた。
新期御嶽火山の活動は、約8万年前に始まり、約5万年にわたり断続的に続いた。活動の初期に大量の軽石を噴出してカルデラをつくり、このときの噴出物は約250㎞離れた関東平野まで飛んだ。このカルデラは引き続き噴出した火山岩類によって埋められた。その後は南北方向に火口の位置を移動させながら安山岩質の火山岩類を噴出させ、成層火山が南北に重なりあう現在に近い火山体になった。
<引用文献>
岐阜県高等学校地学教育研究会編著『アース ウオッチング イン 岐阜』85頁 岐阜新聞社 出版局発行 平成7年
関連資料
4-3 御嶽山
資料集
112_321_御嶽
乗鞍山麓 五色ヶ原の森
高山市乗鞍山麓五色ヶ原の森は、北アルプス乗鞍岳の北西山麓に広がる、中部山岳国立公園の南端にある約3,000㏊の広大な森林地帯で、山地帯から亜高山帯にわたる植生は、ブナ・ミズナラ・サワグルミなどの広葉樹林や、シラビソ・オオシラビソ・コメツガなどの針葉樹林が主体となり、可憐な花を咲かせる希少な山野草も多数確認されている。
また、乗鞍岳を源とする多くの渓流と滝・池・湿原、さらに多種の獣・野鳥・昆虫などの野生生物が生息し、四季折々、自然の多彩な表情を見ることができる。ひとたび足を踏み入れたら何度でも訪れたくなる偉大な自然の営みを感じることができる。
五色ヶ原は、「自然と人間の共存ゾーン」である。自然環境の保全と自然生態系の質的向上を基調として、自然環境に無理のない最低限の自然歩道と休憩・避難施設を整備し、自然探勝の聖地として公開している。
雄大な乗鞍岳の裾野に広がる神秘的な自然景観を巡る3つの体感コースがある。
① カモシカコース
② シラビソコース
③ ゴスワラコース
五色ヶ原の森案内センター
〒506-2252 岐阜県高山市丹生川町久手471-3
リーフレットより
関連資料
4-2 乗鞍山麓 五色ヶ原の森
資料集
111_320_五色ヶ原
乗鞍岳
<雄大な火山地形をみせる複成火山>
標高2,700ⅿ付近まで自動車で登れる乗鞍岳は、三つの火山体が重なりあってできている山の総称で、23個にもなる標高2,500ⅿを越える高峰が南北に延々数㎞も連なっている。
乗鞍火山の噴出物は、標高2,400ⅿ付近まで分布する基盤岩類の上にわずか500~600ⅿの厚さで載っている。また凝灰岩などの火砕岩類が少なく、おもに安山岩質~デイサイト質の溶岩からできていることを特徴としている。
火山活動は、第四紀中期の30万年ほど前から始まり、北から烏帽子、鶴ヶ池、権現池の三つの火山体がつくられた。それぞれの火山体は、古い成層火山体と新期の噴出物からなる。最も大きくて新しい権現池火山体は、乗鞍火山体の南半分を占め、主峰剣ヶ峰(標高3,026ⅿ)もこの火山体の一部にあたる。
標高が高い乗鞍岳の頂上付近には、地面の凍結と融解により砂れきが亀の甲羅状にならぶ構造土と呼ばれるものがみられる。ここは日本で最初に構造土が発見された場所である。
<引用文献>
岐阜県高等学校地学教育研究会編著『アース ウオッチング イン 岐阜』90頁 岐阜新聞社 出版局発行 平成7年
関連資料
4-1 乗鞍岳
資料集
110_319_乗鞍岳
江戸街道
飛騨から野麦峠を越えて江戸へ通ずるこの街道は、江戸まで43次85里(約337キロメートル)で、山口は最初の宿場になっていた。このうち山口町森下から水呑洞までの約6キロメートルは古い街道の姿をよく残し、史跡に指定されている。
高山を出て最初の山越の美女峠は、もと益田郡と大野郡の堺で郡上堺(ぐじょうげ)といわれ、それが「びじょうげ」から美女峠と変わったと言われ、また、この峠に伝わる八百比丘尼(やおよびくに)の伝説からこう呼ばれるようになったのかもしれない。今この道は、車も通らず昔のままの静かな道で、四季の美しい眺望が楽しめる。
江戸街道は飛騨と信濃を結び、さらに鎌倉・江戸へ続く道として、国鉄高山本線が開通するまで、飛騨で最も重要な道の1つであった。また、山口町周辺には、鎌倉時代の古道があったらしく、「鎌倉街道」の地名が残っている。戦国時代、甲斐の武田氏が飛騨へ攻めに入ったときも、この道が使われた。
江戸時代は、この街道が歴史の上で、最も価値を持ったときだった。金森氏、代官、郡代、そのほか公用の役人の往来のために、道の改修がおこなわれ、宿場には伝馬が置かれた。一般の人々の旅もようやく盛んになり、善光寺参りの通り道になった。江名子の荏名神社前にある「道分灯籠みちわけどうろう)」に「左、江戸、ぜんかうじ」とあるのは、飛騨人がこの道に感じていたイメージをよく示している。物の移動も盛んだった。日本海でとれた魚は、塩漬けにして高山へ送られて来る。それから信州へ運ばれ、「飛騨ぶり」と呼ばれたのである。
明治になって飛騨は岐阜県に編入され、それまで江戸街道がもっていた「政治の中心につながる道」という性格は、ほとんどなくなってしまったが、しかし、糸挽女工が岡谷へ行くために通ったことがよく知られ、高山線開通まではやはり大切な道だった。そして今、この道の近くを通る国道361号線は整備され、高山から木曽谷へ出る道筋として再び価値が見直されている。
旧江戸街道
<市指定> 昭和32年8月2日
<所有者> 高山市(市道)
管理者 山口史跡保存会
<所在地> 山口町森下より水呑(のみ)洞
<時 代> 江戸時代~明治時代(17~19世紀)
<員 数> 約6㎞
街道(1箇所)指定区域内に高札場・橋場・差手観音・雨乞平・幕の内・接待所跡・南無阿弥陀仏石・餅売場・比丘尼(びくに)屋敷・峠観音等の旧跡がある。
飛騨から野麦峠を越えて江戸へ通ずるこの街道は、江戸まで43次85里(約337㎞)で、山口は最初の宿場になっていた。このうち山口町森下から水呑洞までの約6㎞は古い街道の姿をよく残し、史跡に指定されている。
高山を出て最初の山越の美女峠は、もと益田郡と大野郡の堺で郡(ぐ)上(じょう)堺(げ)といわれ、それが「びじょうげ」→美女峠と変わったと言われ、また、この峠に伝わる八百比丘尼(やおびくに)の伝説からこう呼ばれるようになったのかもしれない。今この道は、車も通らず昔のままの静かな道で、四季の美しい眺望が楽しめる。
江戸街道は飛騨と信濃を結び、さらに鎌倉・江戸へ続く道として、国鉄高山本線が開通するまで、飛騨で最も重要な道の1つであった。また、山口町周辺には、鎌倉時代の古道があったらしく、「鎌倉街道」の地名が残っている。戦国時代、甲斐の武田氏が飛騨へ攻めに入ったときも、この道が使われた。
江戸時代は、この街道が歴史の上で、最も価値を持ったときだった。金森氏、代官、郡代、そのほか公用の役人の往来のために、道の改修が行なわれ、宿場には伝馬が置かれた。一般の人々の旅もようやく盛んになり、善光寺参りの通り道になった。江名子の荏名神社前にある「道分灯籠(みちわけどうろう)」に「左、江戸、ぜんかうじ」とあるのは、飛騨人がこの道に感じていたイメージをよく示している。物の移動も盛んだった。日本海でとれた魚は、塩漬けにして高山へ送られて来る。それから信州へ運ばれ、「飛騨ぶり」と呼ばれたのである。
明治になって飛騨は岐阜県に編入され、それまで江戸街道が持っていた「政治の中心につながる道」という性格は、ほとんどなくなってしまった。しかし、糸挽女工が岡谷へ行くために通ったことがよく知られ、高山線開通まではやはり大切な道だった。そして今、この道の近くを通る国道361号線は整備され、高山から木曽谷へ出る道筋として再び価値が見直されている。
『高山の文化財』より
江戸街道の史跡
この旧江戸街道は尾根道が多く、随所で高山市街地の眺望が良い。健康づくりに、そして、歴史を感じながらハイキングをするには良いコースであろう。
江戸まで43次85里(337㎞)
山口が最初の宿場で、金森長近が道普請をして本道往還筋とした飛騨唯一の公道。
①了心寺 山号を松(しょう)生(ぶ)山(さん)、浄土真宗大谷派、開基永正15年(1518)
②高札場 もともと現地より100m先の山手にあった。現在の公示、告示掲示板。
姉小路歌碑 おくふかく 華をたつぬる あけほのに 山口しるく 雲も かほれる
楠神社 明治36年頃、現高山病院地内で「嗚呼忠臣楠正成」と刻字された石碑を発見。桜ヶ岡八幡神社の末社
③橋場 山口谷川にかかる重要な橋、長さ8間
④関屋跡 関所の門番所があった場所
⑤梅村用水 梅村速水は、大島から山口へ水を引こうとしたが、もう少しのところで完成をみなかった。1,000分の1勾配
⑥のぞき城 のぞき新蔵という武士が在城したという。山頂に平地がある。
⑦蛇ぬけ 安永2年(1773)の山崩れ。大原騒動の年でもある。
⑧雨乞平 昭和中頃まで行なわれた。昭和43年の畑かん施設により山口の水不足はようやく解消。
⑨幕の内 永禄7年(1564)武田が飛騨を攻めた際の陣跡といわれる。
➉接待所跡 昭和の初めまで茶屋があった。
⑪南無阿弥陀仏の石 新八郎という若者がこれを刻んで自害したと伝わる。
⑫餅売場 八百比丘尼がこの辺りに茶屋を開いて餅を売ったという。
⑬比丘尼屋敷 伝説の八百比丘尼が住んでいたという。
⑭三角点 標高984.9m
⑮峠の観音 水呑洞にある。
⑯神力不動 以前清涼な水が湧き出ていた。高根にあった石仏不動尊をここに移して祀る。
菊(きく)田(た)秋宜(あきよし)建立 天保3年(1832)
「献燈荏名神社大前
左江戸 みのぶさんぜんこうじ 道
行列の見事乗鞍かさが岳
やりさへ高くふれるしら雪 秋宜
天保壬辰春3月 菊田秋宜」
<明治時代飛騨地図から>
明治8年、筑摩県時代には飛騨往還(松本、野麦、高山)と飛州往還(木曽福島西野、日和田、高山)を3等とし、道幅を9尺以上としたが、改修をされたところはあまりなかった。依然として江戸時代のままが続いたが、明治28年日清戦争が済んでから野麦街道が整備され、美女峠もその頃にようやく改修されたのである。
別紙「江名子~久々野の道図」は明治時代初期の地図で、山口から辻へ太い線で表されているが、これは旧江戸街道であり、山口谷川沿いの道ではない。
山口谷川沿いの道は、明治30~40年代頃に新しくつけられ(図の⑤)、馬車が野麦まで通れるようになった。ここに人馬から荷馬車へと交通形態が変遷したのである。しかし、荷馬車がすべて山口谷川沿いの道へと移ったのでもなさそうで、昭和初期に旧江戸街道を荷馬車がカラカラと通っていったのを記憶している里人がいる。さらに、旧江戸街道の山路は荷馬車が通るつづらおりの坂道と、人が通る直線的な近道があったという。その通り、現在も旧江戸街道の遊歩道を1歩はずれて山へ入ると随所に別の旧道が何本も遺存している。
<伝説等>
①八百比丘尼の伝説
昔、この峠にたいそう美しい尼様が住んでいた。不思議なことにこの尼様は、何百年たっても少しも年をとらず、髪もつやつやと黒く、常に17、18歳としか見えなかった。それで八百比丘尼と呼ぶようになったという。
この尼様は美しいだけでなく、愛嬌が良くて餅を作ることが上手で、毎日道端の店で売っていた。この峠を通る旅人はその餅の味の良さと、尼様の愛嬌の良さに引かれて店で休み、旅の疲れを忘れたのである。後、訳があってこの尼様は長い間住み慣れた峠の茶屋を捨て、若狭へ移って行った。その時、長い間世話になった村人たちに何かお礼の気持ちを残したいと思い、「私のか弱い力では何もできませんが、もし日照りが続いて難儀するような時には、この山に登って雨乞いをして下さい。きっと雨を降らせます。」と言い残してこの山から姿を消した。
村人はこの尼様のいた所を比丘尼屋敷といい、餅を売った所を餅売場と呼ぶ。また峠に「雨乞平」と呼ぶ所があって、日照りの時には村人がここに集まり、1晩中焚火をし、鉦を打ち鳴らして雨乞いをすると、八百比丘尼の言った通り雨が降るといわれる。
江戸街道入口
荒神社
鎮座地 江名子町大谷4946番地 白幣社 (旧社格 無格社)
一、祭神
火結神(ほむすびの)(斎火武主比神)
火之夜芸速男神(ひのやぎはやおの)
奥津日子神(おきつひこの)
奥津日売神(おきつひめの)
一、由緒
延元3年(皇紀1998・西暦1338)越前において新田義貞戦死の際、その勇将畑六郎左衛門時能が、兵と食糧を求めて飛騨に入り、この地で墾田開拓したが、このときの京都の上賀茂と御所内の荒神の御分霊を祀り、田畑の守護神としたことに始まると伝えられる。いまも寒中に「裸足参り」などの風習が残っている。
古昔は女人禁制で、婦女の社地を踏むのを忌み、また、境内樹木の枝葉を採ることさえ禁じたが、またこれを犯す者も無かった。
五穀・養蚕をはじめ、殖産興業に霊験があり、ために多くの信仰をあつめ、氏子組織とは別に、「荒神講社」をもち、飛騨一円にわたって熱心な信者がある。
俗に言う「荒神さまの甘酒祭り」で世に知られる。元禄検地による除地帳に、荒神社の社名のみ見える。昭和21年神社庁の創立とともに、これに所属し、岐阜県神社庁より白幣社の指定を受けた。
同24年国有境内地911坪の無償譲与を受けた。社地は市の保存林に指定され、「夫婦杉」はまた、市指定天然記念木となっている。
一、祭祀
例祭日は陰暦の閏年11月8日(制定日11月18日)。その日五穀餅と醴酒を一般参詣者に供する。
祭日には里長の屋敷前で、その前夕祓いをして身を浄めた若者は、屋外積雪の中で醸した醴酒と、米・大豆・小豆・粟・稗を材料として搗いたいわゆる「五穀餠」、110膳(75と35にして柏の葉に盛分け箸を添える。)を神前に供えて、豊凶を占った神事の後、一般参拝者に供饌を頒布する。
一、建造物
本殿(流造 1坪)・拝殿(平棟造 6坪)・手水舎(1坪)・鳥居(木、石各1個)。
一、境内地 42坪。 境外地 山林2反8畝2歩。原野1畝9歩。
一、氏子 50戸。上江名子の賀茂神社の氏子と同区内である。
『飛騨の神社』より
関連資料
3-6-1 江戸街道
3-6-2 旧江戸街道
3-6-3 江名子から久々野の道・地図
3-6-4 荒神社
資料集
郡上白川街道
向牧戸城跡
向牧戸城は、寛正の初め(1460)、将軍足利義政の命を奉じた内ヶ島上野介為氏が、信濃国松代から白川郷に入り、当地に城を築き、白川郷はもとより川上郷、小鳥郷、さらには越中国砺波までを領する勢力の拠点となったところである。
寛正5年(1464)、内ヶ島氏は、保木脇(現・白川村)に帰雲城を築いて、これに移り、向牧戸城は家臣の川尻備中守氏信が城主となり、郡上及び高山方面からの侵入に対する備えであった。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の命により、飛騨攻略に向かった越前大野城主金森長近が、飛騨に入り、最初に攻めたのが向牧戸城で、天正13年(1585)8月10日、落城した。
築城以来120数年間にわたり、白川郷の守りの要であった向牧戸城跡である。
平成21年3月
高山市教育委員会
説明板より
関連資料
3-5 向牧戸城跡
資料集
108_317_郡上白川街道
岐阜、尾張、京都街道、東海道
① 尾張街道の概要
尾張街道は、その名の通り尾張方面へ行く道で、金森時代になって整備されたが、時代によって、また、古絵図、地図によって街道名が違っている。高山が所属する郡は大野郡であったが、南隣の郡は益田郡といったので益田街道とも呼称する。また、川に並行して進む道を筋といい、益田筋ともいった。
この道は高山から名古屋へ通じ、宿駅は十一、里程は三十八里である。急げば四日、普通五日である。名古屋からは、東海道に乗り、名古屋から京都まで三十八里の道程となる。また、名古屋から東海道を宮(熱田神宮)に出て桑名に舟で渡り、桑名から南へ下がると伊勢へと通ずる。飛騨の人たちは、この道を通って伊勢参りにと通ったのである。
この街道の重要な役割は、運材の管理に関わる道路である。四百年前に金森氏が飛騨の国主になってから、飛騨の山林資源を世に出し、米の石高は三万八千石が表高であったが、実際は山林資源や鉱山資源を含めると十万石を楽に越えたという。秀吉の伏見城下整備、大坂城下整備、家康の江戸城下整備など、高級柱材の需要に合わせて木曽や飛騨の良材が川流しで運ばれた。飛騨川を流すにあたり、木材は各所で滞留した。それを流すため、また、谷から材を出して本川の集積地点・土場への連絡等、金森氏が飛騨川両岸に街道を整備したのは必然性がある。金森氏転封後、幕府直轄地時代になってもその街道は継続した。
尾張街道は、何と言っても飛騨の良材を名古屋まで川流しするための管理道路であった。その街道の難所を改修する為には、運材により利益を得る飛騨の豪商が関わっている。
金森氏が飛騨の国主になったとき、運材を請け負った最初の商人は、一番町(上一、下一之町)の町年寄矢嶋氏(飛騨高山まちの博物館の場所)であった。しかし、材木稼ぎにある時期、つまずき、塩商いに転換している。その後、材木商いは田中半十郎、武川久兵衛(下呂)が請け負うことになる。
大正時代になると飛騨川に水力発電計画が進み、大正九年から運材業者との紛争があった。ダムに木材を流す木道を作ること、運材がダムの施設を破損しても損害賠償を求めないこと、などを条件とした覚書を結んで大正十三年にようやく和解した。これを「益田川事件」という。しかし、昭和九年、高山線開通により機関車貨物輸送が始まると、飛騨川の運材は終焉を迎えることになる。四百年近く続いた飛騨川の運材はあっという間に終わり、そのようなことがあったのかと知る人も少なくなってしまった。
今、尾張街道筋には高山線と国道41号が尾張街道筋を継承し、風光明媚な観光道路、冬季の安全道路として利用がなされている。近年、41号は防災上からトンネル化が進み、ショートカットが多くなったが、それでも金山までの点在する在所(集落)前後には旧街道が現存し、飛騨川は静かに青い水を緩やかに流している。
② 尾張街道の道筋
東山道飛騨支路と尾張街道は、上呂から下呂までが同じである。東山道飛騨支路は、一之宮から苅安峠を越え、また、下呂からは初矢峠を越えて金山へ出、関方面へと向かう。尾張街道は、飛騨川沿いに名古屋まで南下してゆく街道である。
〈街道沿いにのこる見所〉
高山城下町 →
ア 水無(みなし)神社 → イ 宮峠 → ウ 河内路 →
エ 堂の上遺跡 → オ 小坊、大坊 → カ 有道 →
キ 長瀞(ながとろ) → ク 阿多粕番所跡 →
ケ 小坂~下呂 → コ 中山七里 → サ 金山
宮峠(一之宮町、久々野町山梨)
一之宮町と久々野山梨の間にあり、太平洋と日本海の分水嶺である。標高七八二メートル、名前の由来は一之宮町に水無神社があることによる。金森氏によって開かれた峠である。
河内路(こうちじ)
河内路は引下、木賊洞、長淀、渚間の約六キロメートルをいう。左岸では大坊山(一三四六メートル)、桧ヶ尾(一〇八四メートル)が、右岸では大沢山(一一一二メートル)の岩壁が迫っていて、交通の難所であった。金森氏が飛騨侵攻の際、益田川を北上するなかで、阿多粕(あたがす)ルートから鍋山城に向かったとされる。国主となった金森長近は、難所であった河内路を大工事により開いた。河内路は幕府直轄地時代になっても大改修が続いてゆく。
文化五年(一八〇八)、第十六代の田口五郎左衛門郡代の時に、木賊洞(とくさぼら)の最難カ所約千メートルの大改修工事が行なわれた。高山の二木俊恭、田中英積、田中景逸、下原村の加藤道和等が発起施工者となり、郡代、豪商らが経費を工面した。
「木賊洞難路改修碑」を文化五年に二木俊恭が建てて現存する。
小坊、大坊(こぼう、おおぼう・久々野町小坊、大坊)
江戸時代に小坊村があり、大坊は小坊の支村であった。昔は小坊から口有道、さらにその奥の奥有道へと道があり、炭や有道杓子の特産が小坊へと運ばれた。
現在、口有道周辺、久々野町畜産センターを通り、朝日町万石へと通ずる広域農道が開通し、大坊から国道41号への取付道路が工事中である。
小坊はハエやウグイなどの川魚を多く産出した。
長淀(ながとろ・久々野町長淀)
長淀村があったところで、『後風土記』によれば、村の家数六軒であった。
天保八年、高山の永田吉右衛門の私費により欄干橋が設けられた。「淀」は「瀞」の義で、長く青くよどんだ淵があることによる。
阿多粕(あたがす)番所跡(久々野町阿多粕)
金森時代から口留番所が設けられていたが、通行量が少ないことから、寛政二年に廃止された。国道41号から朝日町方面の山手に少し入ったところに番所跡がある。
小坂~下呂
小坂から下呂間の国道41号はトンネル化など、整備が進んでいる。旧街道と国道と重なる部分はほとんどなくなり、国道から集落へ入ると、街道沿いの集落が今も存在する。 小坂、萩原、上呂、桜洞、下呂と、在所が南方向につながる。
中山七里
下呂市下呂町から下呂市金山町に至る間の約二十六キロメートルの飛騨川上流の峡谷で、飛騨木曽川国定公園の一部である。
岩盤が節理に従って割れ、断崖、屏風をなし、風光明媚な峡谷である。
金山
濃飛両国の境で、飛騨国益田郡、美濃国の郡上郡、加茂郡、武儀郡の四郡が接する。地名の由来は金が採掘されたことにより、古くから金山の渡しとして栄えてきた。
金山湊では、飛騨川と郡上川が合流し、綱場が設けられていた。飛騨の南方山の良材はこの綱場で数量検査がなされた。
『高山市史・街道編』高山市教育委員会 平成27年発行より
史跡 阿多粕口留番所跡
所在地 久々野町大字阿多粕34番地1
史跡指定 昭和37年8月25日
「天正年中、金森氏国境国内枢要の地に、関所を置く」と『大野郡史』にあるように、飛騨に31ヵ所、そのうち大野郡内には10ヵ所を設けた。このなかには中関7ヵ所が置かれ、阿多粕と渚は中関であった。中関とは高山との中間の関所のことを言う。阿多粕口留番所には3間に6間の建物があり、近くに住む役人が交代で任務にあたった。これらの中関は、寛政2年(1790)に廃止されたが、信州街道へ通じ、朝日村へ出入りする旅人や物資に対して税金を課した。船津村名主平治郎が富山へ行った文書や、番所が廃止された時の道具帳が残っている。石垣は当時のままで、道はこれより少し上にあったとされる。阿多粕地区に残る歴史遺産として後世に伝えようという区民の尽力により整備を行なった。
平成14年秋 阿多粕区
説明板より
林羅山と下呂温泉
江戸時代の儒学者 林羅山(1583~1657)の詩文集巻第3に「我國諸州多有温泉 其最著者 摂津之有間下野之草津 飛騨之湯嶋是三處也」とあり、現在の有馬・草津・下呂を三名泉とする由来である。羅山は京都に生まれ、和漢の博識をもって、徳川家康より秀忠・家光・家綱に至る4代の将軍に仕え、幕府の学問と政治に参画し、数多くの書物を著わして、朱子学をはじめ孔孟の教えを講じた。
下呂温泉に泊まり、入湯されるお客様が、平成元年(1989)に150万人を超え、今日の発展をみたのも、この詩文集「天下三名泉」のおかげと言える。ここに、山間の湯に猿と遊ぶ羅山先生像を建立し、その遺徳を顕彰した。
平成壬申4年3月
説明板より
関連資料
3-4-1 岐阜、尾張、京都街道、東海道
3-4-2 史跡 阿多粕口留番所跡
3-4-3 林羅山と下呂温泉
資料集
平湯~高原道、中尾峠、安房峠
平湯街道
① 平湯街道の概要
江戸時代における飛騨国の国境は、標高が三千メートルもある山脈の屋根上にある。厳しい山脈に四方を囲われている飛騨だが、東の江戸へ、南の尾張へ、西の越前へ、北の越中へと、物資運搬や人の移動には街道が必要であった。
丹生川地域にも信州へと通じる街道があり、「平湯街道」また、ある時期には「信州への道」として大きな役割を果たして来た。その道筋は町方、坊方、大谷、小野、平湯、安房峠へと進むが、坊方から小八賀川を渡って日当たりのよい北方、法力、瓜田を通る道もあった。
② 平湯街道の道筋
毎年、十二~三月まで、平湯峠は冬期通行止めであったが、昭和五十三年に平湯トンネルが開通してからは通年の通行ができるようになった。それまでは、高山から冬期に平湯温泉へ行くには十三墓峠、あるいは神岡回りであった。
高山城下町 →
ア 宝橋 → イ 長坂 → ウ くぬぎ峠 →
エ 七夕岩 → オ 車田 →
カ 史跡平湯街道、馬頭観音 → キ 尾崎城 →
ク 森ヶ城 → ケ 荒川家 →
コ 小野 上野用水取水口 →
サ 川尻治助が建てた田上家 → シ 飛騨大鍾乳洞 →
ス 伊太祁曽神社 → セ 岩井谷、池之俣 →
ソ 朴ノ木平スキー場 →
タ 乗鞍山麓五色ヶ原の登山口 → チ 久手牧場 →
ツ 平湯峠 → テ 乗鞍岳 → ト 平湯温泉 →
ナ 平湯峠をゆくニッサン90型バス → ニ 平湯大滝 →
ヌ 安房峠 → ネ 中之湯温泉 → ノ 白骨温泉 →
ハ 道の駅 風穴の里 → ヒ 島々 → フ 松本へ
③ 街道沿いにのこる史跡
ア 宝橋
昔の宝橋は城下町高山から平湯へ向かう街道中、最初の橋であった。西側に架橋の跡が残るのみで、今は国道158号に新しい宝橋が架かっている。
イ 長坂(愛宕町、東山町)
素玄寺と大雄寺の間を抜けてゆく坂で、長い坂である。東へ進んでゆくと、くぬぎ峠の上がり口に至る。
ウ くぬぎ峠(三福寺町、松之木町、曙町)
この峠はかなり急坂で、途中にくぬぎ公園が整備されていて、松之木町側に下ると景色が良い。東小学校の西側に降り、松之木集落を通って旧大八賀村役場建物の前を通過してゆく。
エ 七夕岩(松之木町)
松之木の七夕は、松之木町にある七夕岩で行なわれる行事を中心としている。七夕岩は、大八賀川の両岸に立つ、男岩と女岩の二つの大岩からなる。毎年八月六日(古くは七月六日)に、男岩(左岸)と女岩(右岸、漆垣内側)の両岩に大しめ縄を張り渡し、飾り提灯や、その年男の子の生まれた家では藁の馬を、女の子の生まれた家では糸巻きを吊るし、牽牛織女の二星をまつり、五穀豊穣を祈る。平成二十六年八月六日の七夕には馬五頭、糸巻き三基、行燈八十個が吊るされた。
この行事は元禄時代以前から行なわれていたといわれ、「飛州志」や「飛騨国中案内」、「斐太後風土記」の中でも紹介されており、古くから遠近に知られていた。
国道を横断して張られ、危険なために、一時中断したこともあったが、当局との折衝の末、復活をした。
歴史もあり、他では見られない貴重な民俗行事である。
オ 車田(松之木町)
金森重頼は、鷹狩(たかがり)の帰途、車田に立ち寄り、当座の一首を詠んでいる。
見るもうし植うるも苦し車田のめぐりめぐりて早苗取るかな
現在の植え方は、他の中心に杭を打ち、中心から七本の線を出す。一株の苗を三本ずつとし、一本の線に五株植え、あとはその外側に同心円状に植える。下肥は決して使わない。 古い車田形式の植え方をなお保存しているのは、ここと佐渡だけである。
カ 史跡「旧平湯街道附馬頭観音、一里杭」(松之木町)
史跡指定は五六七・九メートルで、国道158号線入口から丹生川村境までである。途中の馬頭観音、一里杭を含める。
江戸時代においては、高山から平湯方面に至る重要な街道であったが、都市化により旧街道の残る地域はここだけになってしまった。道行く人に里数(りすう)を知らせる里杭(りぐい・石標)がここには残存し、欠損してはいるが「従高山□」の文字が読める。また「まこも坂」の登り口には大岩に彫られた二体の馬頭観音がある。向かって左側の馬頭観音は高さ一六〇センチメートル、幅一九〇センチメートルの大岩露出部に、高さ六八センチメートル、幅九三センチメートルの長方形区画を彫り、その中に馬頭観音ほか二体の仏像を浮彫りにし、左端枠外に延享二年(一七四五)の刻銘がある。
大岩は二個のように見えるが根の方でつながっている。昔ここで駄馬が遭難したので、供養のために造像したという。
キ 尾崎城(丹生川町坊方・ぼうかた)
〈金の鶏が生まれる城〉
尾崎城は、またの名を「金鶏城」という。黄金の鶏が地下に埋まっている、埋蔵金が埋まっているという言い伝えが地元にあり、何時か掘り当てようという人たちがずっと狙っていた城跡である。この金鶏伝説は全国各地にある。山中や長者屋敷、塚の中に金の鶏が埋められていて、中から鶏の鳴き声が聞こえてくるというものが多い。また、欲深爺さんに殺された鶏を、正直爺さんが悲しんで埋めて塚を作ったら、次の朝に金の鶏になって生きかえったという話の掛け軸もある。金が儲かる、長者になるという縁起の良い金鶏としてその軸は床の間に飾られる。
明治三十九年、尾崎城二ノ丸から備蓄銭が大量に発掘された。宋銭などおびただしい量が出土し、村の人たちで分配したという。その一部は丹生川村の文化財に指定された。
ところで、尾崎城には誰が在城していたのか。天文年間(一五三二)、宮川筋の北飛騨と越中方面に支配権を持っていた「塩屋秋貞」がいた。秋貞は古川城(古川町)、塩屋城(飛騨市宮川町)、猿倉城(富山県大沢野)などを拠点にしていたが、永禄七年(一五六四)、信州武田側の武将「飯富昌景」らの飛騨攻めにあい、富山に退いている。天文十三年(一五四四)の飛騨兵乱には三木側についていた。天正十一年(一五八三)大沢野で討死している。
平成六~十年にかけて、丹生川村により城跡の発掘調査がなされ、平坦部の遺構が明らかになった。また石臼、砥石、石製品、陶器が出土し、陶磁器は十五世紀代に製造されたものが中心で、青磁や白磁の高級品が見られる。出土遺物の時期から考えて、塩屋氏の時代より古くから、この尾崎城の場所が舘などに使用されていたと考えられている。六百年も前から尾崎城を中心に政治経済が町方地区で発展してきたのは、飛騨の国の中での大きな地形的利得があったからに違いない。
ク 森ヶ城(丹生川町大谷・おおたに)
室町時代(天文~永禄)の頃に築城され、城主は森大隅守といわれている。
遺構は、一アール程の山頂に本丸と袖曲輪があり、丘壇状の平地に空掘りなどがあった。ふもとには小屋の跡、天神の祠もある。尾崎城とほぼ同じ時代で、塩屋秋貞について武田信玄の上洛を阻止する役目をしていたという。三木氏との関係から上杉謙信方につき上洛の道すじを守ったものである。尾崎城の副城的役割をもったのではと考えられ、永禄七年、武田軍の乱入で千光寺や尾崎城が焼打ちされた時、同じ運命をたどったのではといわれている。
ケ 荒川家
この平湯街道沿いの大谷集落に、国指定重要文化財の名建築旧荒川家住宅がある。大谷という所は戦国時代から戦略上の重要な場所で、「森ヶ城」という戦国時代の山城が大谷にある。また、朝日、岩井町方面から信州方面への道筋上にあって、重要拠点に荒川氏が配置されたのであろう。
荒川家は四百年前に金森氏が国主になった頃から肝煎りを務め、元禄時代(幕府直轄地時代)には大谷、小野、根方、白井、芦谷、板殿の六カ村兼帯名主を務めていた。
間口十一間、梁間八間半の大型農家で、寛政八年(一七九六)建の棟札が残る。裏手にある土蔵も古く、延享四年(一七四七)の普請帳が伝わっている。内部の間取りは四ツ出居が一段高く造られ、慶弔行事、村方寄り合いに都合がよい大広間として利用された。気持のよい巨大空間の贅沢な大広間である。
農家なので向かって左手に馬屋がある。二階はイロリの煙が上がりやすいスノコ天井で、広大な養蚕作業場が確保されている。
コ 小野 上野用水取水口(丹生川町小野・この)
上野平に水を引いている上野用水は小野地区小八賀川から取水している。延長○○キロメートルで、昭和二十六年に開通した。
カ 伊太祁曽神社(丹生川町旗鉾・はたほこ)
「伊太祁曽」は乗鞍の別称で、丹生川地域に伊太祁曽神社は、日面、瓜田、根方、小野、日影、板殿、旗鉾、池之俣の八社がある。乗鞍本宮の里宮とされ、乗鞍岳を神体山と仰ぐ。いずれの神社も祭神は、林業の神である五十猛(いそたける)で、山林業振興が託される。乗鞍岳、小八賀川は地域住民の、文化と記憶の基底を、構成し続けている。
本社は元、乗鞍の恵比寿岳に鎮座されていたが、元中七年(一三九〇)に久手に遷し、さらに明徳年間(一三九〇~一三九四)に旗鉾字東森に遷座、寛永年間(一六二四~一六四四)になって現在地に奉遷したという。
現在の建物(市指定文化財)は文化十年(一八一三)に建てられた。流れ造りで斗栱の彫刻も優れている。
この神社でよく知られている「くだがい神事」は高山市の無形文化財に指定されている。正月十四日に執り行なわれ、六百年前頃から続いている伝統行事である。
神事は、占い事を書き記したサワラの札(木札)と麻がらを麻皮でしばり、米、小豆、大豆と一緒に粥として釜で炊き上げ、麻の管に入ったそれらの穀物の量により、その年の吉凶を占うものである。その結果は「くだがい帳」に記される。
キ 朴ノ木平スキー場(丹生川町久手)
昭和四十六年にオープンしたスキー場で、夏はコスモス園が開園する。乗鞍登山バスは、このスキー場の駐車場に自家用車を駐めて乗鞍岳畳平に行く。
ク 久手牧場(丹生川町久手)
久手牧場は公共の牧場で、面積は約一〇〇ヘクタール、久手牧場管理組合が管理している。
ケ 平湯峠(奥飛騨温泉郷平湯)
峠は標高一六八四メートル、頂上から丹生川方面を見て、白山が遠望できる。少し上に乗鞍スカイラインのゲートがあり、一般の車は登れない。自転車は登れる。
平湯トンネルは昭和四十六年に着工し、昭和五十三年に開通、総延長は二四三〇メートルである。冬期にも最短で平湯温泉に行くことができ、安房トンネルも出来てずいぶん便利になった。
コ 乗鞍岳
高山市上宝町、丹生川町、朝日町、高根町、長野県松本市安曇にまたがる山岳。標高三〇二六メートル、頂上に乗鞍神社が鎮座している。畳平までの乗鞍スカイラインは昭和四十八年に開通した。
ケ 平湯温泉
湧出量が豊富で、泉温は46~96度。永禄七年(一五六四)に飛騨へ侵入した武田勢が発見したという伝説をもつ古い温泉。
コ 平湯大滝(奥飛騨温泉郷平湯)
乗鞍岳の四ツ嶽南端の平湯川(高原川の源流)が落ちる滝で、高さ四五メートルある。冬は氷結して青色となり、訪れる人が多い。
サ 安房峠(奥飛騨温泉郷平湯・長野県松本市安曇)
平湯と長野県上高地を結ぶ峠で、峠の標高は一八一一メートル、古くから信州と飛騨を結ぶ重要な街道であった。
永禄二年(一五五九)に武田軍の武将飯富三郎兵衛らは飛騨東部を攻めたが、江馬氏の高原郷、塩屋筑前守の小八賀郷へと通ずる乗鞍の北を越えてきたというので、安房峠を越えたと考えられている。
峠のある山は「安房山」で、標高は二二一九・四メートルである。
『高山市史・街道編』高山市教育委員会 平成27年発行 より
高原道、中尾峠
① 高原道の概要
高山から平湯へは平湯街道だが、平湯で安房峠を越えて信州への道と、北方向に折れて神岡方面に向かう高原道があった。現在、旧街道沿いに国道471号が走っている。
この街道は金森時代以前の街道で、信州―安房峠(または中尾峠)―高原道―神岡―越中の道程が知られる。沿線集落の寺院は曹洞宗が多く、神岡の江馬氏ゆかりの寺が並ぶ。北方向に進んで福地の先、栃尾で東に進むと蒲田、中尾、中尾峠、上高地、嶋々へとつながってゆく。
また、北方向に進んで、見座集落で西方向に折れると本郷平を経て蔵柱、荒原に至る。荒原で越中東街道に接続する。
さらに高原道をもう少し北方向に進んで、中山に至り、東に折れて双六を経て山吹峠を越え、神岡の山之村へとつながる。
② 中尾峠へ
江戸時代の中尾峠への道は福地を過ぎて栃尾で東へ折れ、蒲田を経て中尾の川原沿いに着く。現在の道路は県道475号で、おおむね旧街道に沿っている。県道475号からかなり下に降りたところで、わかりにくいところだが、かつて中尾口留番所の跡がある。
現在の道路は奥飛騨砂防資料館の三差路で東南方向に坂を上がり中尾集落(温泉)に着き、そこから焼岳方面へ上がると中尾峠に至る。中尾峠への道は急坂な登山道で、江戸時代に中尾峠を越えて上高地へ降りた厳しい道のりが知られる。
中尾峠には現在焼岳小屋があり、南西方向に登山道を登ると焼岳頂上に至る。
③ 見座から国府八日町への道
高原道の見座から西へ折れ、河岸段丘の宮原、本郷へと進み、蔵柱、荒原へ西進して荒原の西側で越中東街道に合流、南下すると国府町の八日町集落へとつながる。
国府~見座までの現在の道路は、県道76号になっていて、道路改良工事が進んでいる。高山市街地から上宝支所へ行くにはこの県道が使われる。
④ 中山から山之村への道
高原道上、中山から北へ折れて双六、金木戸、森茂(山之村)に至り、下之本、打保、有峰へとつながる。有峰方面には鎌倉街道といわれる古道が伝承されている。
⑤ 高原道と枝道の道筋と見所
平湯 ― ア 一重ヶ根 ― イ 福地 ― ウ 栃尾 ―
(エ 中尾峠へ) ― オ 今見 ― カ 田頃家 ―
キ 笹嶋 ― ク 長倉 ― ケ 岩井戸「杓子の岩屋」 ― コ 見座 ― サ 中山、双六 ― シ 神岡東町
(越中東街道に接続)
⑥ 高原道の集落
ア 一重ヶ根(ひとえがね・奥飛騨温泉郷一重ケ根)
『後風土記』によると家数三十九軒、黍(きび)やガマハバキなども産出した。一重ヶ根温泉として古くから開かれ、元禄三年には円空が訪れたと伝わる。現在は新平湯温泉という。臨済宗妙心寺派の禅通寺がある。
イ 福地(ふくぢ・奥飛騨温泉郷福地)
国道471号から西に折れて進むと福地に至る。
地名の由来は『後風土記』によると、正月に耕地の根雪の上に平湯川の水を引いて雪を溶かすと、その温気で麦が豊かに実ることによるという。
現在福地温泉があり、温泉旅館が営まれている。
ウ 栃尾(とちお・奥飛騨温泉郷栃尾)
一重ヶ根を過ぎて、高原川の手前が村上集落で、蒲田川の「たからはし」を渡ると栃尾集落に至る。栃尾小学校があり、右に折れると県道475号で、中尾、新穂高温泉に至る。
地名の由来は、当地の山の尾に栃の大木があったことによるという(『後風土記』)。『国中案内』によると家数は七軒。
エ 中尾峠へ
栃尾から県道475号を東へ進むと栃尾温泉、神坂(かんさか)、中尾に至る。途中、神坂には「中尾口留番所」の跡があり、高山市の文化財(史跡)に指定されている。そこから東南方向に進んで高台の中尾温泉に着く。江戸時代の中尾峠へは、中尾温泉地区を通って、東南方向に登山道をどんどん登り、中尾峠へと通ずる。現在の登山道と江戸時代の街道は、何カ所かで切り替わっているところも見られる。『国中案内』によると中尾村の家数は十四軒である。
〈中尾峠〉(上宝町中尾、長野県松本市安曇)
標高二一五〇メートル、松倉城主三木秀綱と奥方は信濃に落ちのびるとき、この峠を越えて上高地へ降りて、奥方は徳本(とくごう)峠方面へ、秀綱は角ヶ平方面へと分かれたという。 また、弘化三年(一八四六)八月に高山の僧侶が女性と密通して信州へ逃げてゆくとき、左官の江戸屋万蔵外三人が、あとから追いかけた。中尾村新道で話がこじれて、江戸万が打ち殺されてしまう事件があった。「『上宝村史上巻』平成十七年上宝村村史刊行委員会発行 四一八頁」より
オ 今見(いまみ・奥飛騨温泉郷今見)
南向きの斜面に集落があり、江戸時代には煙草を栽培していた。また、サンショウの産地で「今見山椒」といわれて著名であった。現在も特産となっている。
旧家今見右衛門の姓が村名になった。
カ 田頃家(たごろけ・奥飛騨温泉郷田頃家)
『後風土記』によると、村名の由来は、古来より桶を作って売っており、「たがの桶」がなまって「たごろけ」になったという。
『国中案内』によると家数は二十四軒である。
煙草や藍など多種の特産品が産出されていた。
キ 笹島(ささじま・奥飛騨温泉郷笹島)
村名は笹が生い茂って島をなしている地を開いて村としたことによる。文政六年(一八二三)播隆上人が笹島の観音堂を起点に村民とともに笠ヶ岳登拝を再興し、登山道を開いた。
ク 長倉(ながくら・上宝町長倉)
村名の由来は長い「くら(谷の意)」にちなむ。南向きの斜面に集落が立地し、日当たりが良い。板倉があり、集落の上方には棚田が広がる。
集落上部に臨済宗の桂峰寺があり、多くの文化財を所蔵する。桂峰寺から見る景色はすばらしく、また、棚田からは焼岳がよく眺望される。
ケ 岩井戸「杓子の岩屋」
(いわいど、しゃくしのいわや・上宝町岩井戸)
播隆上人が修業をした「杓子の岩屋」が集落後ろの山中にある。岩井戸集落から三~四十分の距離で、けわしい山道が途中にある。岩屋からは眺望がよく、本郷平が見える。
コ 見座(みざ・上宝町見座)
『後風土記』によると、村名は、集落の大橋が流れては困るので罔象女神(みずはのめのかみ)をまつり、「美豆波村」といったが、そのうち「見座」と書くようになったという。後風土記によれば、家数三十七軒、上宝村役場は見座にあった。交通の要衝でもあった。
サ 中山、双六(なかやま、すごろく・上宝町中山、双六)
高原川に合流する双六川の右岸が双六、左岸が中山集落である。双六を双六川に沿って北に進むと金木戸に至り、さらに北西へ進むと山吹峠を経て神岡の山之村(飛騨市神岡町森茂)に至る。
シ 東町
中山から県道471号を西方向に進むと、神岡町麻生野、殿、東町に至る。県道471号は、ほぼ旧街道沿いに、旧集落をつないで平湯から神岡へとつながっている。
『高山市史・街道編』高山市教育委員会 平成27年発行より
史跡 石碑「無盡秀全 三十六童供養塔」
明治初期、木喰行書「無盡秀全」が乗鞍岳への登山道を開き、沢上集落から乗鞍岳頂上までに、36本の石製道標を設置した。
この道標は1本約200キロで、童子が刻まれている。現在は肩の小屋から頂上までに3体の像が現存している。
丹生川町地内には、この行書が木っ端により書いた掛け軸が多く残っている。
平成14年7月24日指定
高山市教育委員会
説明板より
中尾峠
飛騨と信州を結ぶ中尾峠の起点 ―鎌倉街道から飛騨新道へ―
中尾峠は科乃峠とも称され、古くから飛騨と信濃を結ぶ要衝であった。鎌倉と各地を結ぶ「鎌倉街道」も、また長野の善光寺参りの道もこの峠を通ったと言われる。
この峠は、焼岳の爆発、その他で通行できない時期もあったが、江戸時代末には、北陸・飛騨と信州を結ぶ最短の街道として「飛騨新道」が切り開かれ、中尾村の麓の蒲田に中尾口留番所を設置、口役銀の徴収と交通の便を図った。
このお堂の石仏は、江戸時代前期の作で、道中の安全や村人の生活の支えとして、厚い信仰と歴史が刻み込まれている仏像である。
中尾区
上宝村教育委員会
説明板より
高山市指定天然記念物 村上神社のスギ
指定年月日 昭和49年7月3日
所在地 奥飛騨温泉郷村上29番地
所有者・管理者 村上神社
本殿・手洗場・灯籠・狛犬等に囲まれた神社境内のほぼ中央にある。
樹勢は盛んで、枝葉を大きく四方に広げ、比較的均整のとれた樹冠をなしている。
目通りは5.55メートルで、樹高は37.1メートル、樹齢は約600年と言われている。
説明板より
関連資料
3-3-1 平湯街道
3-3-2 高原道
3-3-3 史跡 石碑「無盡秀全 三十六童供養塔」
3-3-4 中尾峠
3-3-5 高山市指定天然記念物 村上神社のスギ
資料集
飛騨鰤
越中からのブリ
1,ぶりで年取りをする行事
高山では毎年、12月31日の大みそかの夜に「年取り」という行事をする。12月31日に一つ年を取るということを祝う行事である。昭和30年代までは、「数え年」で年齢を数え、生まれたその年にまず1歳、その年の12月31日に1つ年を取って2歳と数えた。12月30日に生まれた赤ちゃんは翌年1月1日には「数え」で2歳ということになった。12月31日に年を1つ取ったのである。それで12月31日には年を取る祝いを盛大に行い、その時に出世魚であるぶりをおいしく食べる。しかし、年取りでぶりを食べることができる家庭は少なく、多くは煮イカであった。高山の豪商の中には、年取りのぶりを食べる専用の皿を用意している家もあった。今のようにぶりを皆が食べるようになったのは、昭和40年代後半くらいからであろう。
年取りに、家族揃って脂の乗ったおいしいぶりを食べることは、1年の総決算と、新年を迎える一大行事であり、普段食べるぶりとは味が違っているのである。
ぶりは名前を変えるのだが、当歳ではツバエソ、フクラギ、二歳ではニマイズル(ガンド)、三歳ではコブリ、四歳ではアオブリ(70㎝程)、五歳以上をオオブリと富山ではいうそうだ。
2,ぶりが運ばれた越中街道
魚の消費地高山では、江戸時代から街道を開いて越中の塩や魚を輸入した。魚は塩干が中心で肥料にも使われたが、酢でしめた肴も高級仕出し料理で使われたといわれ、高山の豪商の家では池にカレイが泳いでいたという。
越中から富山へ通ずる道は飛騨に向けては「飛騨街道」、越中に向けては越中街道といった。この街道は、基本的に3本あって、宮川沿いに国府、古川、宮川、猪谷へと北進するのが「越中西街道」。国府の上広瀬から今村峠へと山地に入り、神岡の船津に入って橋を渡り、高原川の右岸を通るのが「越中東街道」。高原川を渡らずに左岸を通るのが「越中中街道」といった。年末の年取り用のぶりはこの越中街道を主に通って高山に運ばれている。
富山湾でとれたぶりは4匹ずつの塩鰤が入れられ、牛の背又は歩荷により高山まで運ばれた。
この越中東街道は文禄(1592~)~慶長(1596~)年間にかけては、飛騨への主要路であり、寛永16(1639)年からは加賀藩領としての街道に継続している。岩瀬浜の東岩瀬→東笹津→神通川右岸→船津→藤橋(渡)→朝浦→高山というコースである。
一方、寛永16年(1639)、富山藩が加賀藩から分藩したことにより、「富山藩コース」に「越中中街道」がなり、肴はこの中街道を通るようになってゆく。西岩瀬→富山→大久保→西笹津→西猪谷→蟹寺→谷村→茂住→船津→山田→巣山→八日町→高山というコースである。
この蟹寺(富山)から谷村(飛騨)へ渡るとき、籠の渡しを通るが、安藤広重は「六十余州名所図会」で版画に残している。また、猪谷の関所では、富山の魚商人が口役銀を払えず、念書を書いて帰りに払った商人もいた。口銭帳には役銭不足書上で通過している。12~160文であった。富山藩は魚方役所及び中野口、青柳口で発行した魚送り状をつけ、西猪谷関所で受け取り、改めて、魚問屋役所に送り返して魚の流通を確認している。
3,ぶりを集めた肴問屋の「川上」
江戸時代、ブリは高山の肴問屋を通じて美濃や信州に流通した。富山県の氷見港などでとれたブリは、「佐平鰤」、「かね松鰤」などと網持ち荷主の名で呼ばれ、越中街道を通って飛騨の問屋に入る。高山の問屋から、改めて出荷するときには「飛騨鰤」という名前に変わり、野麦峠を越えて信州へと旅をしていった。信州の人は、鰤が飛騨で獲れるものと思っている人もいたほどである。
越中に、江戸時代から飛騨へブリを送った網元魚屋がいて、この人たちが絵馬額を寄進している。この絵馬額は飛騨国藩主金森4代頼直の武運長久、病気平癒を祈願して寛文5年(1665)、越中肴屋連中らが山王宮に奉納したもの。これにより飛騨と越中、加賀との魚、物産交流を知ることができる。
絵馬額・奉懸絵馬 寛文五暦六月吉日敬白・越中肴屋三衛門ほか24名、同塗師屋仁右衛門、同針田屋治郎兵衛ほか1名、加州大工梅口四郎兵衛・小田原五兵衛
また、信州から飛騨鰤の買い付けに商人が来ている。直接市場で買うことができないので仲介を通したが、よい鰤が出るまで高山の宿に泊まり、それを松本、高遠へと運送した。宿帳に名前が記録されている。
年取り行事
飛騨では今でも大晦日に盛大な祝いをする。それは、年をとる祝いであり、帰省した兄弟や子息を加えて、家族水いらずで、厳かにとり行なう神聖な儀式である。皆、順に風呂へ入り、仏壇にまいり、それから一同席について今年の事を感謝し、また来年も良き年であらん事を祈る。
この行事の膳には、必ずブリが乗る。十二月中頃から氷見港に回遊してくる油の乗り切ったおいしいブリが、飛騨へ入ってくる。ブリは小さい頃にハマチ、フクラギといい、大きくなるごとに名前が変わってゆくという、出世縁起を託して食べた。ブリが買えない年には煮イカで代用し、子どもも大人と同じようにブリや煮イカを膳に乗せてもらった。
正月の朝は、ゾウニを食べるぐらいで、ごちそうを食べなかった。この年取り行事は全国的にまだまだ残っている。一日の始りは夜から始まるという日本古来の民俗や、正月三カ日の儒教の影響による若水迎え、雨戸を開けるのは家長が、とかの慣習を含んだ年中行事として、飛騨の「年取り」は特筆すべきものである。
関連資料
3-2-1 飛騨鰤
3-2-2 ぶりの年取り行事
資料集
105_314_越中からのブリ
桐生町万人講
桐生町1,456番地
昭和30年11月7日 高山市指定文化財
延宝3年(1675)、数万の餓死者をここに埋めたもので、万人坑と呼び、後万人講と書くようになった。元和元年(1681)、盲人色都が餓死者の供養塔を建てた。
笠のある大きな石塔は、水難除けの祈りを込めて、文化14年(1817)、法華寺日在が再建したもの。「南無三世諸仏」とある石塔は、寛政8年(1796)、小八賀郷大谷村荒川久治と雲龍寺存妙が大原騒動刑死者の霊を慰めるために建立した。
その他お六地蔵釈尼悪照の墓(通称悪女の墓)喚応是誰の墓もある。石塔の並んでいるすぐ下手付近が刑場であった。また、旧越中街道が万人講の前を通っている。
桐生町万人講史跡保存会
高山市教育委員会
説明板より
猪谷関跡(富山藩西猪谷関所跡)
神通峡には、越中と飛騨を結ぶ道は早くから交通路が開け、多くの旅人や荷物が行き交っていた。こうした動きを監視するために、番所が置かれ、江戸時代になると、神通川上流の西猪谷関所と東猪谷関所、室牧川上流の切詰関所などが富山藩及び加賀藩の関所として重要な役割を担っていた。
西猪谷関所は、天正14年(1586)頃から、明治4年(1871)までの約280年間置かれ、特に富山藩が立藩した寛永18年(1641)からは地元の橋本家と吉村家が代々番人を務め、人や物の監視などの国境の警備にあたっていた。
番人は関所内の建物で生活し、その建物には川手方へ14間、山手方へ38間の矢(や)来(らい)垣(がき)があり、番所には常時鉄砲2挺等が備えてあった。飛騨の大原騒動(特に安永2年・1773の騒動)、幕末のロシア船来航(文化2年・1805)、水戸で起こった天狗党の乱(元治元年・1864)など、物情騒然とした時には、相当数の侍が交代で国境を守っていた。
関所の通行については、出入りの時、原則として関所手形が必要であったが、近郷の村民には小さな焼印札が交付され、生活の便宜が図られていた。一方、物の移動については監視が厳しく、なかでも米や塩、魚類などの重要な品物には送り切手が必要であった。また、関所で税金として徴収する口役銀は、塩の場合、1斗につきわずか1分5厘程度であったことから、収益金は関所を維持する程度のものと推測される。
これらの記録は「橋本家文書」と呼ばれる古文書に残されている。
平成20年3月 富山県教育委員会
富山市教育委員会
説明板より
関連資料
3-1-1 桐生町万人講
3-1-2 猪谷関跡(富山藩西猪谷関所跡)
資料集
金閣寺・夕佳亭(宗和の茶室)
金閣寺
鹿苑寺は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録された。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、特に優れて普遍的価値を持っていることを国際的に認められたことになる。
鹿苑寺は、鎌倉時代に造られた貴族の別荘を、足利義満が応永4年(1397)に譲り受けて粋を尽くした別邸北山殿に造り替え、さらに義満の死後応永29年(1422)に、夢窓疎石を開山とする禅寺とされたことに始まる。その後衰微したが、江戸時代に金閣及び庭園の修理がなされた。
庭園は、衣笠山を借景に、既存の池にさまざまの名石を据え、池に向かって3層の豪華な舎利殿金閣を建て、山上に展望所を建てている。金閣は、屋根をこけら葺とし、第2・3層全面に金箔を押すという、北山文化の象徴となる華麗な建築で、義満の権威と王朝への憧れが示されている。なお、金閣は昭和25年(1950)に火災により焼失したが、昭和30年(1955)に復原的に再建された。
登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
京都市
説明板より
茶席「夕佳亭」
金森飛騨守宗和侯の好みで、後水尾天皇献茶の聖跡。現代のものは明治7年(1874)の再建。中央床柱に南天の古木を用い、右手に萩の違い棚(萩の木の根の方と枝先とを交互に組み合わせて中央に鶯宿梅を配す)を設ける。古今の名席と言われる。茶室の手洗鉢は、義満公伝来。
北山 鹿苑寺
説明板より
古来宗和好みとして伝わり、明治初年に焼け、同8年(1875)に再建された。名は夕日に映える金閣が殊に佳いということから名付けられたという。上段の間は後水尾院来臨の折、増築したもの。
リーフレットより
銀閣寺
正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれる。
室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘「東山殿」を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。
九歳で家督を、十五歳で将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げた。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えている。
銀閣寺は金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)という。京都の東に連なる山々は東山と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いている。この山なみは古来女性のやさしさにたとえられ、数々の歌にもうたわれ、人々に親しまれてきた。なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、お盆の八月十六日の夜に点火される送り火で知られている。銀閣寺はこの大文字山の麓にある。門前には哲学者西田幾多郎が思索の場として散策した哲学の道があり、桜や蛍の名所として散策路になっている。
このあたりは古くから歴史の中に現れたところで、白川の清流が流れており、流域には早くから人が住みつき、縄文遺跡や、奈良朝の北白川廃寺跡も発見されている。またこの一帯には、東に法然院、霊鑑寺、南に黒谷金戒光明寺、真如堂など古くから寺院が営まれてきた。平安時代には、北山と同じく、天皇の御陵、火葬場があり、菩提を供養する寺院が多くあった。平安時代の中期に浄土寺が創建され、この浄土寺跡に東山殿が造営され後に慈照寺となるのである。
<臨済宗相国寺派>
相国寺は臨済宗相国寺派の禅寺。初祖達磨大師が中国に伝えた、いわゆる禅宗を起源とする一派で、日本に伝わったものは臨済宗をはじめ曹洞宗、黄檗宗などがある。
臨済宗は、正法とされる釈迦の正しい教えを受け継ぎ、宗祖臨済禅師をはじめ、禅を日本に伝来した祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師から今日にいたるまで、師から弟子へ連綿と伝法された一流の正法を教えとしている。そして本来備わる純粋な人間性を、坐禅を通して自覚し悟ることを宗旨とする宗派である。
宗祖である臨済禅師の言葉に「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」というのがある。人々に本来備わる、この一無位の真人を自覚することが臨済宗の宗旨である。
金閣寺、銀閣寺がともに相国寺の塔頭寺院であることは、あまり一般に知られていない。相国寺は室町幕府三代将軍 足利義満により創建され、金閣寺もほぼ時を同じくして義満により創建された。銀閣寺はその後年、同じく室町幕府八代将軍である足利義政により創建されている。足利歴代将軍が創建した禅宗寺院として、本山である相国寺の塔頭寺院となり、今に至る。
現在、相国寺の山外塔頭として相国寺僧侶が任期制をもって相国寺とともに金閣寺、銀閣寺の運営と後世への継承にあたっている。
関連資料
2-35-1 金閣寺
2-35-2 茶席「夕佳亭」
2-35-3 夕佳亭(京都金閣寺)
2-35-4 金閣寺・夕佳亭案内地図
2-35-5 銀閣寺
資料集
103_312_金閣寺・夕佳亭(宗和の茶室)
武野紹鴎から千利休、宗和へとつながる遺構
武野紹鷗
文亀2年(1502)~弘治元年(1555)
大和出身の茶人・豪商。のちに堺に移り住んだ。上洛して三条西実隆に和歌を十四屋宗陳・宗悟らに茶の湯を学ぶ。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許された。茶道においては、わび茶を好み、利休を初めとする多くの門人に大きな影響を与えた。
説明板より
南宗寺
南宗寺は、臨済宗大徳寺派の禅寺で、戦国時代、堺を支配した武将、三好長慶が父元長の霊を弔うため弘治3年(1557)に大林宗套を迎え、今日の宿院あたりに寺を開いた。その後大坂夏の陣(1615)にて他の寺院とともに焼失したが、当時の住職澤庵によって現在地に再建された。境内には茶道を完成させた千利休や師武(たけ)野(の)紹(じょう)鷗(おう)の供養塔などがある。また国名勝の枯山水(かれさんすい)の庭、八方睨(にら)みの龍の描かれた仏殿、山門・唐門は国の重要文化財に指定されている。
千利休と茶道
南宗寺には、利休一門とその師武野紹鷗の供養塔がある。利休の「茶禅一味」の精神基盤は大林宗套ら歴代の和尚のもとで禅の修行をし、確立されたと言われている。
境内の奥には、利休好みの茶室「実相庵(じっそうあん)」があり、師紹鷗遺愛の「六地蔵石燈籠」、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟(けさ)形(がたち)手水(ちょうず)鉢(ばち)」がある。
説明板より
宇治御茶師
宇治にあって碾茶の生産に携わっていた家を茶師と称していたが、江戸時代になって、将軍家御用をつとめる特定の家を御茶師と呼び、それが制度化された。
御茶師の人数は時期によりかなりの変動があったが、18世紀頃の記録では御物御壺を預かる上林家が茶頭取(代官家)に任じられその支配下で朝廷および将軍家直用の茶を調達する御物(ごもつ)御茶師11家、将軍が東照宮へ献上する袋茶を詰める御袋(おふくろ)御茶師9家、将軍家が一般に用いる茶を納入する御通(おとおり)御茶師13家が数えられ、それぞれが仲間を組織して、各々毎年2名ずつが交替でつとめる「年行事」を中心に茶壺道中に対応して茶の調達にあたり、相互扶助・独善的行為の阻止などにつとめた。これを「宇治茶師三仲ケ間」と言った。
茶師は自家の相続や将軍家の交替の際には、誓詞起請文や由緒書を提出して幕府の認可を受けなければならなかった。
茶師の身分支配は京都町奉行があたり、茶の納入に関しては幕府勘定奉行支配下にある上林家の指示を受けた。
また、宇治茶師の各家は、家格や幕府との取引の多寡にかかわりなく、諸国大名のお抱え茶師として御用達をつとめ、大名から扶持米(ふちまい)、その他の特権を与えられていた茶師も多かった。
明治維新に際して、幕府、諸大名という積年の顧客を失った茶師の痛手は大きく、茶業から離れるものが続出し、茶師仲ケ間の組織は瓦礫した。
説明板より
宇治上神社
宇治上神社は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録された。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、特に優れて普遍的価値を持っていることを国際的に認められたことになる。
宇治上神社の創建は古くさかのぼるが、平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の崇敬を集めて、社殿が維持されてきた。
本殿は、正面1間の流造の内殿3棟を並立させ、それを流造の覆屋で覆った特殊な形式となっている。建立年代については、蟇(かえる)股(また)の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代の後期に造営されたものとみられ、現存する神社本殿としては最古の建築である。
また拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので、現存する最古の拝殿である。意匠的には切妻造の母屋(もや)の左右に庇(ひさし)をつけた形であり、屋根はその部分が縋(すがる)破風(はふ)となっていることなど住宅風となっている点に特色がみられる。
神のための本殿に対し、人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く、ここでは、拝殿が初めて建てられた頃の住宅建築の様式である寝殿造の軽快な手法が、鎌倉時代の再建にも受け継がれたと考えられる。
本殿の後方は広大な森林が広がっており、こうした環境は緩衝地帯の一部となっている。
登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
宇治市
説明板より
源三位頼政公の墓 宝篋印塔
平等院境内
源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せられた。
歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残している。
治承4年(1180)5月26日平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追擊を受け、平等院境内にて自刃した(齢76歳)。
辞世
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける
説明板より
仁和寺 名勝 御室桜
御室桜は、遅咲きの桜として知られているが、その数約200本で、江戸初期にはすでに現在の場所に植えられていたようである。また江戸時代中期には観桜の名所としても知られており、丈が低く根元から枝を張る御室桜と、その満開の花を愛でる人々の風景が『都(みやこ)名所(めいしょ)図会(ずえ)』にも紹介されている。
大正13年(1924)、国の名勝に指定された。
※都名所図会=安永9年(1780)、秋里(あきさと)籬(り)島(とう)、竹原(たけはら)春(しゅん)朝(ちょう)斎(さい)により刊行された本。多数の挿絵が庶民の心を捉え人気となる。
仁和寺の説明板より
仁和寺 重要文化財 御影堂
建立/江戸初期 寛永年間(1624~1644)
本尊/弘法大師
真言宗の祖師である弘法大師空海、仁和寺開山寛(かん)平(ぴょう)法皇(ほうおう)、第2世性(しょう)信(しん)親王(しんのう)を安置する。
現在の御影堂は、慶長年間(1596~1615)造営の内(だい)裏(り)清(せい)涼(りょう)殿(でん)の一部を賜り、寛永年間(1624~1644)に再建されたもの。蔀(しとみ)戸(ど)の金具なども清涼殿のものを利用するが、檜(ひわ)皮(だ)葺(ぶき)を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂の印象を与えている。
※清涼殿=内裏の殿舎(でんしゃ)の一つであり、天皇の日常生活の居所。
仁和寺の説明板より
仁和寺 重要文化財 観音堂
建立/江戸初期 寛永18年(1641)~正保元年(1644)
本尊/千手観音菩薩
現在の建物は寛永18年から正保元年にかけて建立。
千手観音菩薩を本尊とし、脇(きょう)侍(じ)として不動明王・降(ごう)三(ざん)世(ぜ)明(みょう)王(おう)、そのまわりには二十八部衆を安置する。また須(しゅ)弥(み)壇(だん)の背後や壁面、柱などには、極彩色で仏・高僧が描かれる。
現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用される。
※須弥壇=本尊等の仏像を安置するために1段高く設けた場所。須(しゅ)弥(み)山(せん)に由来する。
仁和寺の説明板より
三千院
天台宗5箇室門跡の一つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東搭南谷に1堂を建立したのが起こり。
本堂往生極楽院(重要文化財)は、江戸時代に大修理を行なったが、内陣は、比較的古形を保つ。殊に山形に板を貼り、25菩薩の来迎図を描いた船底天井は有名で、堂内に阿弥陀如来両脇士坐像(3体・重要文化財)が安置される。
大正初年に修補された客殿内部各室の襖は竹内栖鳳等、当時の京都画壇を代表する5氏の筆により飾られている。
京都市
説明板より
桂春院
慶長3年(1558)に美濃の豪族石(いし)河(こ)壹岐(いき)守(のかみ)貞政(さだまさ)が桂南(けいなん)和尚を講じて創建した妙心寺の塔頭の一つで、東海派に属している。
庭園は方丈の南、東及び前庭の三つに分かれる。方丈南庭は、北側の崖を躑躅(つつじ)の大刈り込みで蔽(おお)い、その下に東より椿、紅葉等を植え、庭石を七五三風に低地を利用した飛石本位のもので茶庭の観をそなえている。
茶室は草庵風の3畳の席で、藤村庸軒(ふじむらようけん)の好みと伝えている。宗和型の灯篭がある。
京都市
説明板より
関連資料
2-34-1 武野紹鷗
2-34-2 南宗寺
2-34-3 宇治御茶師
2-34-4 宇治上神社
2-34-5 源三位頼政公の墓 宝篋印塔
2-34-6 仁和寺 名勝 御室桜
2-34-7 仁和寺 重要文化財 御影堂
2-34-8 仁和寺 重要文化財 観音堂
2-34-9 三千院
2-34-10 桂春院
資料集