東山神明神社
東山神明神社は岐阜県高山市天性寺町に鎮座している神社です。東山神明神社の創建は不詳ですが、古くから飛騨国主や歴代領主から崇敬庇護され、錦山神社、東山白山神社と共に東山三社に数えられました。絵馬殿は元々高山城の月見殿だったと伝わる建物です。月見殿は元禄5年(1692)、高山藩6代藩主金森頼時が出羽国上山藩(現山形県上山市)に移封に伴い元禄8年(1685)に高山城が取り壊しとなり東山神明神社境内に絵馬殿として移築されたそうです。絵馬殿は17世紀に建てられたもので寄棟、銅板葺、吹抜け、高欄付、桁行6.32m、梁間4.25m、絵馬4面(正保2年:1645年・明暦元年:1655年・延宝2年:1674年・天和2年:1682年)と共に昭和39年(1964)に岐阜県指定重要文化財に指定されています。社宝として円空上人が彫刻した柿本人麿坐像(製作年:17世紀、像高50.2cm)を所有しています。祭神:天照大神。
(引用:https://www.gifureki.com/takayama/higasiyama.html)
資料集
073_080_東山神明神社
田上家住宅
高山市丹生川町根方(ごんぼ)にある農家建築で、田上家当主田上太郎四郎が、明治12年に高山の日下部邸(国指定重要文化財)を完成させた棟梁川尻治助に依頼して建てさせたものである。着工は明治15年(1882年)で、完成までに12年の歳月を要したといわれる。明治15年の年号入りの板図や、川尻治助が使用した大工道具も残されており、建設当初の事情が明らかである。
主屋は桁行12間半(23.30メートル)、梁間7.5間(13.72メートル)と大規模な農家である。建物は、木造二階建、切妻造、平入、屋根は現在瓦葺きであるが、当初は榑板葺きであったと思われる。主屋正面は真壁のデザインを基調としつつも隅切り窓を入れるなど、近代に入ってからの様式も取り入れているほか、大きく屋根と小庇がせり出し、屋根の軒はせがい造りとしている。出桁を受ける腕木は「雲」と呼ばれる意匠を施した持ち送りが支えているが、これは昭和初期に活躍した、大工稲尾三郎の仕事である。
玄関を入り土間に立つと、一尺角の大黒柱と、四間ものと呼ばれる松の巨木を使った豪快な梁に圧倒される。右手に「マヤ」、左手には囲炉裏のある「オエ」があり、「オエ」の奥には仏間、そして本座敷という構成になっている。囲炉裏の上は根太天井が設けられている。本座敷からは庭が眺められるようになっており、座敷の上には二階が設けられていない。座敷を最も格上の部屋とする配慮からであろう。本座敷には付書院を持った本式の床の間があり、黒漆塗りの床框、違い棚といった設(しつら)えがしてある。その他にも欄間の透かし彫りや襖絵など、山間の農家とは思えない贅を凝らした造りとなっている。
主屋東側に隣接して建つ土蔵は、安政6年(1859年)銘の棟札が残されており、屋根葺材はやはり榑板から瓦に改められてはいるが、蔵前の空間を持ち、3間四方の比較的こじんまりとした大きさなどが、当地方の古い様式の土蔵であることを感じさせる。
当建物は、施主の豊富な経済力を背景に近代までに蓄積された高度な建築技術が十二分に発揮されて作られた建物である。国指定重文「日下部家住宅」とほぼ同じ時期に同じ棟梁によって建築されたものであり、改造も少なく、文化財としての価値は高い。
(引用:http://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1000848/1000898.html)
越中五箇山(菅沼集落)
富山県の南西端にある南砺市・五箇山には、9戸の合掌造り家屋を今に伝える菅沼合掌造り集落があります。その家屋は、いくつもの歳月を重ねて、冬の豪雪に耐えうる強さと、生活の場と養蚕などを生産する仕事場を兼ね備えた合理性を持つ建物です。
そのたくましく美しいたたずまいを筆頭に、日本の原風景ともいうべき山村の景観も含めて、1995年12月に岐阜県白川郷、五箇山相倉とともにユネスコの世界文化遺産に登録されました 周辺の山林をも含めた地域が世界文化遺産に指定されているため、観光地化されていない、ありのままの自然を残しているところが魅力。
遙か昔にタイムスリップしたかのような不思議な感覚を味わえます。また、集落内には江戸時代の主産業を今に伝える「塩硝の館」や「五箇山民俗館」があり、五箇山の歴史と伝統にふれることもできます。
(引用:http://suganuma.info/about)
資料集
029_032_越中五箇山(菅沼集落)
映像資料
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朝日観音福通寺
泰澄が717年に開いた古刹。泰澄は無病息災のために正観世音菩薩を、災難厄除けのために千手観音菩薩を作り、そして五穀豊穣・万民快楽のために稲荷・八幡の両鎮守神を安置されました。観音堂からは一年を通して白山を見ることができ、泰澄も修行の折り、この場所から白山を遥拝したことでしょう。
(引用:http://www.town-echizen.jp/feature/Vol-1/page02.php)
資料集
028_031_朝日観音・福通寺
八坂神社
社伝によると、八坂神社は約1800年前に開かれたとされ、安置されている十一面女神坐像は、頭部は十一面観音、体部は女神という珍しいお姿です。同じく収蔵殿には、国の重要文化財に指定されている平安仏像群五躯も安置されています。7月には八坂神社独自の祭り、獅子渡御・祇園祭・水無月祓が催されます。
(引用:http://www.town-echizen.jp/feature/Vol-1/page02.php)
資料集
027_030_八坂神社
越知山大谷寺
泰澄がまだ「越の大徳」と呼ばれていた11歳(692)のときに創建したといわれる元越知山のふもとに位置する北陸屈指の古寺です。本尊は、白山信仰諸仏で最古の十一面観音菩薩・聖観音菩薩・阿弥陀如来の三所権現本地仏です。毎年11月3日には明かりを灯して仏や菩薩を供養する万灯会が開かれます。
(引用:http://www.town-echizen.jp/feature/Vol-1/page02.php)
資料集
026_029_越知山大谷寺
紫香楽宮
紫香楽宮<信楽町>
〔古代〕古代の宮名。甲賀郡紫香楽(現甲賀郡信楽町)にあったことから甲賀宮ともいわれた。天平14年8月、聖武天皇は近江国甲賀郡紫香楽村に行幸の詔を発し、同時に造離宮司が補任され、以後しばしば行幸があった。またすでに天平12年に甲賀宮の仕丁に月粮を請うたことがあるので(正倉院文書)、本格的な造営に先立って離宮が営まれたと考えられる。この頃、都は山背(やましろ)国の恭仁(くにの)京であったが、同15年10月には東海・東山・北陸3道25か国の当年の調庸物を、すべて紫香楽宮に貢進せしめ、また盧舎那仏像を造るための寺地を開き(甲賀寺)、あたかも事実上の遷都がなされたかのようであった。天平16年3月には紫香楽宮に朱雀門と大安殿があったが、翌4月になっても「百官いまだ成ら」ざる状態であったという。この間の相次ぐ遷都の事情については不明な点が多く、天平17年5月には再び平城京に帰ることとなり、紫香楽宮は無人の地となった(続日本紀)。その後、宮域および甲賀寺は国分寺とされたらしく、天平勝宝3年12月の「東大寺奴婢見来帳」には、奴忍人が「甲賀宮国分寺大工家」で捕えられた記事が見える(寧遺770)。現在の信楽町大字黄瀬(きせの)には、その遺構が現存し、多数の礎石や古瓦などが出土し、内裡野(だいりの)・寺野の字名が残っている。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』359頁 角川春樹発行 昭和54年
紫香楽宮跡(甲賀寺跡)国史跡 所在地 滋賀県甲賀市信楽町黄瀬・牧
紫香楽宮は、聖武天皇の時代に造営された宮都である。
天平12年(740)の「藤原広嗣の乱」を契機に平城宮を離れた天皇は、天平14年(742)に信楽の地で離宮建設を開始し、天平15年(743)10月には、「大仏建立の詔」がこの地で発布された。
翌年11月の体骨柱(大仏鋳造の内型の芯柱)を立てる式典に際して、天皇自らが綱を引いたと記録されていることから、紫香楽宮での大仏建立は、順調に進んでいたことが推測されるが、天平17年(745)の紫香楽宮廃都とともに中断され、東大寺(奈良市)で新たな大仏が建立され現在に至っている。
この丘陵の遺跡は、大正15年(1926)に国史跡「紫香楽宮跡」として指定されたが、その後の発掘調査で、宮殿跡とされた礎石遺構が東大寺の建物配置に類似することや、山城国分寺跡と同笵瓦が出土することから寺院跡であることが判明し、甲賀寺跡と推測されている。(平成14年(2000)には、宮町遺跡で紫香楽宮の中心区画が発見されている。)
しかし、現存する礎石遺構が大仏建立のために建立された甲賀寺と仮定すると、東大寺の規模と比較して面積で3割弱に過ぎず、丘陵全体では東大寺に匹敵するほどの面積が確保できるにもかかわらず、「国中の銅を尽くし、大山を崩す」という大仏建立の詔の表現に対して、その規模は狭小である。
さらに紫香楽宮廃都後も、文献には「甲賀宮国分寺」と称される寺院が存在していることが確認されることから、現状の遺跡をどのように解釈するかが、今後の検討課題になっている。
※説明板より
紫香楽宮
天平14年(742)、恭仁(くに)の宮(みや)の造営中であった聖武天皇は、恭仁(京都府相楽郡)より東北の道を開き信楽に離宮の造営を始めた。たびたびの行幸の後、天平17年(745)の正月にはここを新京として百官朝賀の新年儀式を執り行なうに至ったのであった。朱雀門や大安殿・朝堂などが建ち役所も大部分この地に移って都の造営が続けられようとしたのであるが、同年4月ごろから周辺の山々に大火災が相次ぎ、その上、地震などの災害も起こって人心の不安が募ったために、ついにこの年の5月、都は奈良の平城宮へと戻されていったのである。
この遺跡は紫香楽宮造営の一環として建てられた寺院の遺跡であって、後に甲賀宮国分寺となったと推定されている甲賀寺の遺構とみられ、東大寺に先立つ寺院の遺跡としても貴重である。
なお、聖武天皇はこの間の天平15年に、大仏造立の詔勅を発し、この地にその造仏を開始したのであるが、遷都によってここでは完成に至らず、後に東大寺としてそれが完成したのである。
※説明板より
金堂(こんどう)
金堂は、本尊を安置する堂で、7堂伽(が)藍(らん)中、最も重要な建物である。周囲より一段と高い基壇上に、1.5m前後の大きな礎石をすえて、金堂の威厳を示している。正面7間、奥行4間の建物で、現在神社の立つ中央部が本尊を配した内陣と思われる。金堂の東西に、中門からまわった回廊が取り付いたらしい。おそらく盧(る)舎(しゃ)那(な)仏(ぶつ)はこの堂宇の本尊として造顕計画されたのであろう。
※説明板より
鐘楼(しょうろう)
鐘楼は、大鐘を装置した楼である。金堂、講堂の間、東の平地にあり、3間4面の礎石が完全に残っている。中間からのびてきた回廊が、東側では鐘楼に接続している。礎石からみて規模の小さい重層の建物であるが、寺院としてはなくてはならない堂宇である。奈良時代の遺構としては数少ない遺例であり、重要な資料である。
※説明板より
塔院(とういん)≪塔、塔院中門、回廊≫
塔は、仏舎利を奉安する建物である。飛鳥時代、主要伽(が)藍(らん)内に1基の塔を建てていたが、奈良時代になると、伽藍内で東西に塔を設けたり、本遺跡のように伽藍に接して塔院を作るようになった。おそらく五重塔であろう。塔を囲んで回廊をまわし、別区を作っており、南に出入口となる塔院中門がみられる。
※説明板より
経楼(きょうろう)
経楼は、経論を納置する庫蔵(くら)である。金堂、講堂の西にあり、3間4面の礎石が完全に残っている。鐘楼と同規模、同構造と思われ、経典を中心とするこの時代の寺院にあっては重要な建物である。現在発見されている例が少ないだけ重要な遺構である。ここに大般若経やその他経論が収蔵されていたことは正倉院文書などからも知られる。
※説明板より
紫香楽宮は、今からおよそ1,250年前の奈良時代中頃、滋賀県甲賀市信楽町の北部に聖武天皇が造営した都です。
天皇は奈良の都(平城京)で政治を行なっていましたが、天平12(740)年10月末に奈良の都を離れ、年末には奈良の北(今の京都府木津川市加茂町)とその周辺に新しい都を造り始めました。この都が恭仁京です。
恭仁京の建設が進められている間、恭仁京から甲賀郡紫香楽村に通じる道(恭仁東北道)が開通し、天皇は紫香楽村に離宮を造り始めました。
天皇は、天平14(742)年8月~9月、同年12月~翌15年正月、15年4月、同年7月~11月初め、というように、この離宮へたびたび出かけ(行幸)、離宮の建設を励ましています。
離宮というのは都とは異なり、天皇が保養などのため一時的に滞在する宮殿的施設で、紫香楽宮は離宮として造られ始めたのです。
このように、一方では恭仁京を造りながら、同時にもう一つの離宮・紫香楽宮の建設を進めたものですから、国家財政はたまりません。
天平15(743)年の年末には、遂に、それまで足掛け4年間続いてきた恭仁京の建設事業が停止されることになりました。
明けて天平16(744)年になると、朝廷では難波宮を都にする準備を進め、早くも2月末には正式に難波を都と宣言しました。
ところが、紫香楽宮の建設は引き続き進められていたのです。
天平15(743)年10月に天皇は紫香楽宮で「大仏造顕の詔」を発し、甲賀寺の建設と大仏造りに着手します。
そして天平16(744)年11月には甲賀寺で大仏の骨組みとなる体骨柱(中心柱)を建てる儀式が行なわれ、太上天皇(前天皇)も難波宮から紫香楽宮へ到着するなど、紫香楽は活気に満ちていきました。
その勢いが持ち越された天平17(745)年正月元旦、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に立てるのが習わしの大きな楯と槍が立てられました。
ようやく、紫香楽宮は正式な都になったのです。
しかし、4月になると、紫香楽宮や甲賀寺周辺の山々でしきりに火災が起こりました。
火災がおさまると、今度は美濃国(岐阜県)で起きた大地震の余震と思われる地震が相次ぎました。
これらが原因となって、5月には早くも都が奈良(平城京)へもどってしまいました。
紫香楽宮は、このように数年間めまぐるしく平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と
都が移り変わった時期に、極く短期間ですが光を放って存在した都であったのです。
(引用:http://www.geocities.jp/tenpyounomiyako/history/h_text.html)
資料集
071_078_紫香楽宮
恭仁京
史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)
恭仁京は、奈良時代に聖(しょう)武(む)天皇によって造られた都である。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平(へい)城(じょう)京を離れ、各地を転々とした後、天(てん)平(ぴょう)12年(740)に現在の加茂町瓶原(みかのはら)の地を中心に新都を定めた。しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃(はい)都(と)されてしまう。
その後、宮域は大極殿(だいごくでん)を中心に、山城国分寺として再利用されることになる。山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂(こんどう)跡を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域を持つ寺であった。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基(き)壇(だん)と塔(とう)跡基壇が地表に残されている。周囲を塀に囲まれた踏は、残されている基壇跡や礎(そ)石(せき)跡から考えて七重塔であったと推定される。
※説明板より
恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。
遷都後、748年(天平18年)恭仁宮大極殿は山背国分寺に施入されている。
宮は平城宮を簡略化した程度で、南北750メートル、東西560メートルの南北に長い長方形であった。朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。西側は狭い谷間、東側は木津川の氾濫原によって宮や京の造営が制約され、全体的に小規模であったとみられ、条坊制を示す遺構も確認されていない。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AD%E4%BB%81%E4%BA%AC)
資料集
072_079_恭仁京
石山寺
滋賀県大津市石山寺辺町にある真言宗御室派の寺院。西国観音霊場三十三所第 13番の札所。山号は石光山。天平勝宝年間 (749~757) ,聖武天皇の勅願による良弁僧正の開基と伝える。しかし実際は大仏殿建立の用材採集の事務を司る石山院を建てたのが始りという説が有力。平安時代に醍醐寺の聖宝,観賢,淳祐らが再興し,公家貴族の崇敬を集め,石山寺詣が盛大に行われた。平安時代の古式を残す本堂,鎌倉時代の多宝塔 (ともに国宝) などの建造物,仏像仏画,聖教類,『石山寺縁起絵巻』など多くの文化財を所蔵している。(引用:https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%AF%BA-30662)
資料集
069_076_石山寺
【報告書】準デジタルアーキビスト資格取得講座報告
第1回 |
会場:郡上市歴史資料館 時間:19:00~21:00 |
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12月18日(火) |
地域課題解決とデジタルアーカイブ白山文化遺産とデジタルアーカイブ |
久世 均氏(岐阜女子大学・教授)曽我孝司氏(郡上市文化財保護審議会委員) |
第2回 |
会場:郡上市歴史資料館 |
時間:19:00~21:00 |
1月15日(火) |
デジタルアーカイブ社会の実現と国の動向郡上白山文化遺産のアーカイブの方法 |
井上 透氏(岐阜女子大学・教授)曽我隆行氏(郡上市景観保全審議会委員) |
第3回 |
会場:郡上市産業プラザ |
時間:19:00~21:00 |
1月29日(火) |
郡上デジタルアーカイブの実践とその活用郡上によるデジタルアーカイブの試み |
稲葉秀章氏(郡上ケーブルテレビ・社長)稲葉光紀氏(郡上ケーブルテレビ) |