久高島
久高島
久高島は沖縄本島の知念岬の東の海上5.3kmにある、周囲約8.0kmの小さな島。沖縄では琉球王国の時代から特別な島で、島自体が沖縄最高峰の聖地です。
琉球開びゃく始祖・アマミキヨが降り立った島として、琉球の神話や神事が今も息づく島で、島民はその歴史や神事を大切に守り継いでいます。
久高島(くだかじま)は、沖縄本島東南端に位置する知念岬の東海上5.3kmにある、周囲8.0km[1]の細長い島である。全域が沖縄県南城市知念に属する。人口は238人、世帯数は153世帯(2020年4月末現在)
地理
北東から南西方向にかけて細長く、最高地点でも標高17m[3]と平坦な島である。将来懸念される津波襲来に備えて、300人を収容できる避難施設(上部は海抜21.35m)が設けられている[4]。土質は島尻マージと呼ばれる赤土で保水力には乏しい。河沼はなく、水源は雨水と湧き水を貯める井泉(カー)に依存している。海岸沿いには珊瑚礁で出来た礁湖(イノー)が広がっている。
北東約2.1km沖にウガン岩がある。
歴史
琉球王国時代には国王が聞得大君を伴って久高島に渡り、礼拝を行っていた。後に本島の斎場御嶽(せいふぁうたき)から久高島を遙拝する形に変わり、1673年(延宝元年)からは、国王代理の役人が遙拝を務めるようになった。
近世・近代には鰹節の産地として知られ、徐葆光の『中山伝信録』でも「鰹節は久高島産のものが良質」と述べられている。
1945年1月7日に日本軍から強制立ち退き命令がだされ、金武町屋嘉の集落に身を寄せた[6] (久高島住民強制疎開の碑)。そのためやんばるでの避難生活や収容所での栄養失調やマラリアで亡くなった住民が多いといわれ、沖縄戦での犠牲者は男性が13名、女性が24名、子どもが27名の計64名である。1946年5月に帰島が許された。
行政区域上は1908年(明治41年)の島嶼町村制施行時に島尻郡知念村久高となり、2006年(平成18年)に知念村が佐敷町、玉城村、大里村と合併したため、南城市知念字久高となった。
2021年(令和3年)11月、福徳岡の場の噴火から生じた大量の軽石が沖縄の海域に移動。安座真港と久高島をつなぐフェリーが欠航するなどの影響が出た。
社会
公有地や電力会社所有地などを除き、土地を自治会である字(あざ)名義で登記して「総有」する、琉球王朝時代の地割制度が唯一残っている。家を建てる時は字総会の許可を得て、普段は土地を自宅や畑として使うものの、島を出る際には字へ返す。島の約3分の2を占めるリゾート開発の計画が持ち上がったことをきっかけに、1988年、「久高島土地憲章」として明文化された[9]。
リゾート計画は立ち消えとなり、 島内は観光開発がほとんどされず、集落は昔ながらの静かな雰囲気を残している。後述する各聖地を回るにも標識がないため、詳細な地図をあたるか、地元の人に聞かないと探すのは難しい。