五箇山麦屋まつり
五箇山麦屋まつり
麦屋節(むぎやぶし)は、富山県南砺市五箇山地方(旧 東礪波郡平村、上平村、利賀村)に伝わる民謡。石川県能登地方に「能登麦屋節(石川県指定無形文化財)」があるため、越中麦屋節(えっちゅうむぎやぶし)とも云われる。こきりこ節とともに五箇山地方を代表する五箇山民謡で、富山県の三大民謡(越中おわら節、こきりこ節)のひとつ[1]。1952年(昭和27年)、麦屋踊が 文化財保護委員会(現 文化庁)によって、国の助成の措置を講ずべき無形文化財に選定され[2]、1973年(昭和48年)11月5日には「五箇山の歌と踊」の中の一曲として、国の選択無形民俗文化財に選択された。なお現在も保存伝承団体が複数あり、「越中五箇山民謡民舞保存団体連合会」も結成され、各保存団体が協力し保存・育成に努めている。
唄の歌詞には「波の屋島を遠くのがれ来て」、「烏帽子狩衣脱ぎうちすてて」、「心淋しや落ち行く道は」など落ち行く平家一門の姿を唄っているため、砺波山(倶利伽羅峠)での源平の合戦(倶利伽羅峠の戦い)に敗北した平家一門が落ちのびて庄川上流の五箇山に隠れ住み、絶望的な生活から刀や弓矢を持つ手を鍬や鋤(すき)に持ち替え、麦や菜種を育て安住の地とし、在りし日の栄華を偲んで農耕の際に唄ったのが麦屋節の発祥と伝えられ[3]、平紋弥(もんや)が伝え教えた「もんや節」と呼ばれたものが、唄の出だしが「麦や菜種は」と唄われるため、麦屋節に変化したといわれているが、能登の「能登麦屋節」や祝儀唄である「まだら」が元唄で、商人や五箇山民謡の一つである「お小夜節」の主人公お小夜が伝えた説など諸説ある。なお毎年9月下旬に「五箇山麦屋まつり」が行われている。
麦屋節には、長麦屋節、麦屋節、早麦屋節の3種類があり、麦屋節が一般に良く知られているが元々は長麦屋節が元唄とされる。曲のテンポは長麦屋節は大変遅く、麦屋節、早麦屋節の順に早くなる。また小谷(おたに)地区には、早麦屋節の元唄とされる小谷麦屋節が伝承されている。楽器は胡弓、三味線、締太鼓、尺八または横笛、四つ竹といわれる4枚に竹を切ったものが使用されるが、必ずしも尺八や横笛は使用されるわけではない。
また南砺市城端地区(旧 東礪波郡城端町)にも麦屋節が伝承されているが、こちらは1926年(大正15年)に越中五箇山麦屋節保存会より伝授されたもので[4]、こきりこ節、といちんさ節、四つ竹節などいくつかの五箇山民謡も五箇山地区より伝承されており、毎年9月中旬に「城端むぎや祭」が行われている。城端はかつて陸の孤島と言われていた五箇山から最も近いふもとの町で、細くいくつもの峠を超える旧五箇山街道が主な道だった。城端へは五箇山の主要産業だった蚕から採る生糸、和紙、炭などを運び、米や生活物資を手に入れるなど、もっとも交流が深い町であった。
1925年(大正14年)10月に、東京の日本青年館オープン記念の全国郷土芸能大会に、日本の七大民謡の一つとして麦屋節が選ばれ、五箇山の麦屋節保存会(現 越中五箇山麦屋節保存会)が出演。その一行が帰途に就く際、城端の「吾妻座」で公演し、それを見分した城端の新町若連中が麦屋節新声会(現 越中城端麦屋節保存会新声会)を起こし、翌1926年(大正15年)10月に麦屋節保存会(越中五箇山麦屋節保存会)より伝えられたものである。