史跡-2 荏野文庫と田中大秀墓
史跡-2 荏野文庫と田中大秀墓
荏(え)野(な)文庫土蔵は国学者田中大秀の文庫蔵で、荏名(えな)神社の境内にあり、弘化2年(1845)、火災と鼠(そ)害(がい)に備え池の中に建てられている。天保15年(1844)6月29日釿(ちょうな)始(はじめ)。京都神楽が岡の土を運び、飛騨国内各社の注連縄を集めて苆(すさ)(つた、すたともいう)に使ったと伝えられる。上階の前面に明り窓をつけ、窓の上に大秀自ら「荏野文庫 弘化乙巳秋」としたためた木額が掲げてあった。
階下の正面に大秀の木像を安置する。木像は高さ45㎝、膝幅36㎝の坐像で左の背銘がある。
荏名神社再興斎主六十三翁田中大秀之像
天保十年己亥五月 京都田中松慶刻
田中大秀の墓は荏名(えな)神社から1㎞南方の小丘にある。大秀が生前松室岡(まつむろおか)と名づけ、墓所と定めた。3段の石段をのぼり、切石道を進と左右に春日燈籠1対があり、正面に大秀好みの、雅た標碑が立っている。「田中大秀之奥城」と刻まれた文字は、大秀の筆跡である。大秀の遺体は、標碑の後ろの小円墳に葬られている。
右側面には
齢六十二に成ける天保九年戊戌九月十日ここを墓所にさだめ松室岡と名づけて今日よりは我まつむろに蔭しめてちよのみどりを友とたのまむ
左側面には
大人の歌を聞て言ほぎけらく
いまよりは千代のあるじと松枝のあせぬ翠の色にあえませ
又後世人にいはまほしくてよめる
こころあらば植はそふとも我大人のしめいます木立きりなあらしそ
山崎弘泰
背面には
弘化四年丁未九月十六日歿
嘉永三年庚戌九月 田中弥兵衛寿豊建
大秀は、安永6年(1777)8月15日高山一之町薬種商弥兵衛博道の2男に生まれた。初名紀文、粟田知周・伴蒿蹊(こうけい)・本居宣長等に師事し、家号を湯津(ゆつ)香木(かつら)園と名づけた。弘化4年(1847)9月16日没、享年71、法号松室了郭居士。「養老美泉弁註」「竹取翁物語解」「落窪物語解」「土佐日記解」「蜻蛉日記紀行解」「荏野冊子」等の著述がある。
荏名神社の前、江戸街道と村道との分岐点に、大井帯刀郡代の元締手代菊田秋宜(あきよし)の建立(こんりゅう)した道分灯籠(みちわけどうろう)がある。風流な灯籠で、「左・江戸・みのぶさん ぜんこうじ」とある。
資料
④史跡-2 荏野文庫と田中大秀墓