城郭-6 向牧戸城(荘川町)岐阜県私立大学地方創生推進事業, 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ, デジタルアーカイブ城郭-6 向牧戸城(荘川町)向牧戸城の戦い 寛正の初め(1460~)、室町幕府第8代将軍足利義政の命を受けて内ヶ島上野介為氏が信濃国松代から白川郷に入って向牧戸城を築いた。白川郷はもとより川上郷、小鳥郷、さらには越中国砺波までを所領とする勢力の拠点とした。 寛正5年(1464)内ヶ島氏は、保木脇(現・白川村)に帰雲城を築いてこれに移り、向牧戸城は家臣の川尻備中守氏信が城主となり、郡上及び高山方面からの侵入に対して備えていた。その後、川尻氏信と息子勘平は、主家を離れて越前大野の金森氏に投じている。 天正13年(1585)豊臣秀吉は越中国の佐々成政を討つため、自ら軍を率いて同年8月8日京都を発った。 飛騨では三木自綱が飛騨国内を統一していたが、越中の佐々成政と結んで、秀吉の命に従わなかったので、秀吉は越前大野城主金森長近に三木氏を討つよう命令した。 白川郷帰雲城城主内ヶ島氏理は三木自綱の配下であったが、飛騨西半を領し中野御坊照蓮寺と結んで、勢力を持っていた。長近はまず内ヶ島氏を討って三木氏の背後を断つため、越前大野を出発した。このとき内ヶ島氏理は越中の一向一揆討伐のため出陣中であった。金森軍は大野出発に際し、石徹白(郡上市白鳥町)の白山中居神社に参拝して戦勝を祈願した。長近の養子可重は、別動隊としてここより美濃白鳥へ討って出て、本道を北上し、鷲見ヶ上野(郡上市高鷲町)から白川郷野々俣村へ軍を進めた。また長近は本隊を率いて別山の裾の峰を越えて、尾上郷(荘川町)へ討って出た。そこから同郷海上・中野・岩瀬村を攻めて向牧戸城に迫った。岩瀬橋にかかった時、内ヶ島氏の武将「尾神備前守氏綱」の激しい迎撃にあって苦戦した。 これより先、三木自綱は吉城郡広瀬郷高堂城にいたが、金森氏侵入の報に接し、急遽精鋭を選んで向牧戸城に送り、その防御を固めた。 向牧戸城の攻防戦は激しく、金森方の遠藤慶直(金森可重の妻の父・遠藤慶隆の弟)および重臣鷲見弥五右衛門が戦死し、遠藤胤安をはじめ多くの将兵が戦傷を負った。8月10日、金森軍は大野出陣以来9日目にしてようやく向牧戸城を攻略している。帰雲城の出城にすぎない向牧戸城の攻略に手間取ったのは、三木勢の強力な援護があったためであろう。三木軍が向牧戸城に布陣していたのだが、誰が総大将になっていたのかはわからない。その後、金森軍は破竹の勢いで飛騨各地を攻略していった。 川尻備中守氏信 向牧戸城城主川尻備中守氏信は、内ヶ島氏の家臣の中でも武勇の武将であった。先祖は近江国の佐々木京極氏の一族多賀氏といわれている。 備中守氏信の子を勘平といい、金森軍の向牧戸城攻略に戦功があったので、長近から101石6斗余の恩賞を賜わっている。 川尻家の墓は向牧戸城跡の麓に4基あり、年号の読み取れるものの中、最も古いものが正徳5年(1715)である。そのうち無名墓1基があって、先祖墓と考えられている。備中守氏信の子孫は帰農して牧戸村に住し、代々名主等を務めていた。明治37年(1904)8代目久三郎の時、北海道に渡った。 川尻備中守と願生寺 荘川村海上(御母衣ダム建設により水没)は白川郷海塩村と称し、嘉念坊善俊の門弟「浄正」隠棲の地といわれる。浄正は、下総千葉介常胤の孫小太郎成胤の次子で、千葉小二郎成正と称していた。 浄正第9世の孫「願誓」の時、向牧戸城城主川尻備中守氏信は、願誓のために海塩村に1宇を建立しこれを聖殿と称した。天正16年(1588)金森長近が高山城を築くにあたり、城北の地に中野村(高山市荘川町中野)の照蓮寺を移したが、この時願誓の子「善恵坊道智」は父と共に高山へ聖殿を移すことにした。長近より灘郷下岡本村(高山市下岡本町)太子堂旧地を賜わり、同17年(1589)7月下岡本村に移った。これを井端道場と称し、現在の願生寺の始めである(『願生寺由来記』)。 資料 ⑦城郭-6 向牧戸城(荘川町) 2023年1月27日 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/01/DSCN1011_R-1.jpg 768 1024 dapro https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/02/logo.jpg dapro2023-01-27 16:04:092023-01-27 16:04:09城郭-6 向牧戸城(荘川町)