小出城跡
小出城跡
【案内】 市立西春近北保育園(表記番地)の西約180mより細い道を南に200mほど行くと、城跡碑が建てられている。その手前の空家の前に駐車できる[マップコード171 247 069*78]。
西側の西城との間に堀跡の道路が続いている。主郭には城跡標柱、説明板が建てられている。南と東側に低い土塁があり、北側に空堀があり、東側下段には二重の深い空堀が残っている。
平成二年(1990年)11月1日、伊那市の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代前期、藤原鎌足の流れを汲む工藤氏の一族小井弖(こいで)氏により築城されたと云われる。
工藤氏は源氏派の有力御家人で『住 信濃国 号林二郎、子孫遂信濃人』の記述があり、早くに信濃国に住み着き、治承四年(1180年)源頼朝挙兵の折り甲斐源氏武田信義親子と共に、平家方大田切城を攻め、勝利の勲功により西春近を安堵されたと伝わっている。
工藤氏は、能綱の時、建長三年(1251年)嫡子師能と庶子宮熊わうい間に起きた所領譲りの係争や、正応元年(1288年)課役係争について鎌倉幕府の裁定を仰いだいわゆる工藤文書が5通現存している。
また建武二年(1335年)に起きた中先代の乱、暦応三年(1340年)に起きた大徳王寺城合戦、応永七年(1400年)の大塔合戦、永享十二年(1440年)結城合戦に参戦した記録がある。
享徳二年(1453年)頃、師能系の弾正忠朝能とその兄は、妹が神氏(みわし:後の諏訪氏)に嫁いだ縁で諏訪氏の依頼を受け諏訪に移住したと云われている。
戦国末期に、高遠城家来に6人の所領を得た工藤と名乗る武士がいるが、いずれも小出氏の末流と見られている。
また、尾張の国中村から出て、但馬国出石藩主となった小出甚左衛門秀政やその長子小出吉英(岸和田藩主)・次子親(園部藩主)も、ここの小出氏の末流と考えられている。『現地説明板』より(年号一部追加)。