護国之寺
護国之寺
護国之寺(ごこくしじ)は、岐阜県岐阜市にある高野山真言宗の寺院である。
山号は雄総山(ゆうそうさん)。
本尊は十一面千手観世音菩薩。
美濃三十三観音霊場第十七番札所。美濃四国札所八十八番。美濃七福神(布袋尊)。国宝の金銅獅子唐草文鉢をはじめ、数多くの岐阜県、岐阜市指定重要文化財がある。
伝承によれば、746年(天平18年)、聖武天皇の勅命により行基が開山したという。この寺の開山に関しては、奈良の大仏造立に関わった「日野金丸」(ひのきんまろ)の伝説がある(後述)。
1590年(天正18年)、兵火により焼失する。江戸時代、再建が順次行われた。現在の建物は元文 – 宝暦年間の建立である。
上記の鉢に関して次のような伝承がある。聖武天皇は東大寺の大仏を造立するため、優れた仏師を探すための使者を日本各地に派遣する。その中で、美濃国に派遣された使者が芥見(現在の岐阜市)の願成寺に滞在した時、夢の中で、「明日の朝、最初に出会った人物が探している人物である」とのお告げを聞く。翌朝、美濃国雄総(現在の岐阜市)で使者が出会ったのは、川で牛を洗っていた日野金丸(ひのかねまろ)という童子であった。使者の前で、金丸はその場で粘土で仏像を作る。その出来の良さから使者は金丸を奈良へ連れて行く。金丸は大仏建立の責任者として活躍する。
大仏落慶法要の最中、突然、紫雲が現れ、空から音楽が流れ出した。そして空中から鉢が現れた。空から「釈尊がこの大仏造立の功績をたたえ、釈尊由来の鉢を授けることとなった」という言葉が聞こえてきた。聖武天皇は功績のあった日野金丸にこの鉢を授けた。金丸はこの鉢を納めるために、故郷に護国之寺を建立したという。日野金丸は死後、十一面千手観世音菩薩像となり、護国之寺の本尊となったとも伝えられている。
金丸については、次のような言い伝えもある。1970年代、この辺り(岐阜市日野)の郷土史について研究していた教師(山田)の話によると、金丸(金王丸)は護国之寺と長良川をはさんだ南(左岸)側にある日野(昭和初期までは右岸側の一部も日野村であった)の童子(故に日野金丸)で、お坊様(使者)が来た時に作った仏像は田んぼの土で作ったということである。大仏建立に貢献し授かった鉢を、初めは地元に建てたお堂に納めていたが、長良川の出水時に流されそうになったことから、対岸の高台に移したという。また、お堂があったとされる地区は、今でもその時の名残から堂後(どううしろ)と呼ばれている。
【県】護国之寺宝篋印塔
雄総山護国之寺は、天平時代に創建されたと伝えている古刹である。
この塔は、自然石の上面を平らにした台石上に置かれ、基礎・台座・塔身・笠・相輪の五石からなる。銘文から、この塔が願主の近縁者供養のために建立されたことが伺える。台座や塔身の高さと幅との比率や笠の構造、また方立ての型式や外傾の度合などから、銘文の嘉元2年(1304)、14世紀初めごろの建立とみられる。
美濃地方に現存する在銘の宝篋印塔としては、最も古いもののひとつであり、また大型の塔として、その保存状態も比較的良好で、貴重なものである。